41 if あるいは──
もしユキが雪山で助からなかったら──という話です
季節は春から初夏へ移ろう頃。山奥の屋敷は、新緑の匂いに包まれていた。
ユキは今日も、サナから任された「家庭菜園の水やり」に精を出していた。まだ7歳にも満たないユキにとって、屋敷の広い庭を巡るのは、ちょっとした大冒険だ。
「よいしょ、よいしょ!」
重たいジョウロを両手で持ち上げ、ふらふらしながら一生懸命に野菜の苗に水をかけていく。
サナはというと、縁側で分厚い魔道書を広げ、何やら難しい研究に没頭している。彼女は「魔法を使ったほうが絶対に早い」と思っているが、ユキの「お手伝いする!」という熱意を尊重し、あえて非効率な仕事を与えていた。
ユキが最後のトマトの苗に水をかけ終え、へたり込んでいると、サナが顔を上げて言った。
「ユキ、お疲れ様。あ、そうだ。ちょっと実験に付き合ってくれない?」
サナは、手の中にある小さな光る石をユキに見せた。
「これね、魔力を込めると、近くの生き物の『幸福度』を測れる魔法道具の試作品なの。ちょっと手に持ってごらん?」
ユキが素直にその石を受け取ると、サナはにやりと笑い、魔力を込めた。石はパッと光り、すぐに消えた。
「えーと、結果は……うん、普通だね」
「ふつう?」
「うん。でも、ユキ、これを持って、庭の生き物たちに何かやってみてくれない? 幸福度が上がったら、この石がピカピカ光るはずなんだ」
ユキは目を丸くして、ワクワクしながら頷いた。
「わかった! ぼく、頑張るね!」
彼はまず、庭で日向ぼっこをしている大きな野良猫に石を見せた。
「猫さん、猫さん。これで幸福度が上がるかな?」
ユキは猫の頭をなでなでし、優しく声をかけた。しかし、石は光らない。猫は一瞬目を細めたが、すぐにまた眠ってしまった。
「うーん、失敗」
次に、ユキは花畑に向かった。
「お花さんたち、いつも綺麗に咲いてくれてありがとう!」
彼は花たちに向かって、自分が一生懸命作ったよくわからない形のクッキーを、お供えするかのようにそっと置いた。もちろん、花たちは動かないし、石も光らない。
「難しいな……」
ユキががっかりして、屋敷に戻ろうとしたその時、庭の隅にある、誰も気にしないような小さな雑草が目に入った。それは、他の草に埋もれて、なんだか元気がないように見えた。
ユキはしゃがみ込み、その雑草を両手でそっと包み込んだ。
「ねぇ、きみ。大変そうだね。でも、一人じゃないよ」
そう言うと、彼は雑草の周りの石を取り除き、そっと水を注いだ。そして、持っていた光る石をその小さな根元に置いた。
その瞬間、ピカッ!
光る石は、まるで夜空の星のように眩しく、強く光り輝いた。サナは魔道書から顔を上げ、驚きの声を上げた。
「え、ちょっと待って! 測り間違いじゃないわよね? ユキ、今、何したの?」
ユキはきょとんとした顔で答えた。
「えっと……この草さんが、ちょっと寂しそうだったから、元気だしてねって、言っただけだよ」
サナは実験結果のデータと、ピカピカと光り続ける石を交互に見た。
「ふ、ふむ……。『幸福度を測る魔法』は、単なる物理的な充足ではなく、『純粋な共感』が最大のトリガーになる、と……?」
難解な魔道書の解析よりも難しい結果に、サナは頭を抱えた。
一方、ユキはといえば。
「わーい! 雑草さん、幸せになったって!」
光る石に大喜びし、その小さな雑草に「よかったね!」と笑顔を向けていた。
ユキの、人狼としての強大なポテンシャルとは全く別のところにある、その純粋で温かい心こそが、サナの魔法さえも凌駕する、彼だけの「小さな奇跡の力」なのだった。
その日、サナは研究そっちのけで、なぜユキの「共感」が魔法に影響を与えるのかという、新たな難題に没頭することになった。そして、ユキはというと、幸せになった雑草さんの横で、お気に入りの絵本を読んであげる、という幸せな時間を過ごしたのでした。
雑草さんに絵本を読んであげた後、ユキはなんとなく胸の奥があたたかいのと同時に、くすぐったいような、不思議な疲れを感じていた。
「……なんだろう。ちょっと、ねむい……」
サナは気づかず、いつものように魔道書を読みながら実験結果を書き留めている。
ユキは庭の真ん中であくびをして、ふらふらと屋敷に戻ろうとした。
けれど、一歩進んだところで、足が止まった。
いや、“止まった”というより——世界の動きのほうが止まった。
風が止まり、葉の揺れが止まり、雲が空に貼り付いたまま動かない。
まるで、時間そのものが息を潜めたみたいだった。
「……あれ?」
そのとき。
誰もいないはずの雪山の匂いがした。冷たい。痛いほど静か。
胸の奥で、なにかを“思い出し始める”。
——ユキは気づき始めた。
「ここ……ぼく、知ってる……」
足元に広がるのは雪原。
吹雪。
白すぎる世界。
泣き疲れて倒れたときの、あの冷たさ。
名前もない“自分”だった頃の、最後の感覚。
そして、サナに抱き上げられた感覚——
……実は、一度もなかった。
ユキの呼吸が震える。
でも不思議と怖くはなかった。
胸の中心で、誰かの声が優しく囁いた。
——「これはね、ユキが『欲しかった世界』なんだよ」
ユキが振り返ると、そこにいたのは“サナの姿をした誰か”だった。
けれど、その瞳はサナよりもっと、あたたかかった。
もっと、残酷なほど優しかった。
「ぼくの……ほしかった……?」
「うん。もし助かっていたら、もし名前がもらえていたら、もし誰かの役に立てていたら、って。君が最後に見たかった未来だよ」
ユキはぎゅっと拳を握る。
「じゃあ……サナは……本当はいないの?」
サナのような存在は、ふっと微笑んだ。
悲しそうにも、嬉しそうにも見える笑みで。
「サナも、猫さんも、お花さんも。ユキの“優しさ”が見せてくれた世界。でも——本物じゃないからって、意味がないわけじゃないよ」
世界が少しずつ白く染まっていく。
庭の色も、屋敷も、雑草さんも、全部雪に溶けていく。
「ユキは、ひとりじゃなかったよ。たとえ現実で誰も気づけなくても……ユキの心の中には、こんなにも優しい世界があったんだもの」
ユキは涙をこぼした。
でも、その涙は雪山の冷たさではなく、春の陽だまりみたいにあたたかかった。
「……そっか。じゃあ……ぼく、幸せだったんだね」
「うん。とても」
最後に残ったのは、あの雑草だけだった。
雪の中でもしっかり立って、光る石の残滓のような輝きを、ほんの少しだけまとっている。
ユキはしゃがみ込んで、優しく言った。
「ありがとう。ぼくを照らしてくれて」
雑草は、風も吹いていないのに、小さく揺れた。
そして——
ユキの世界は、静かに閉じた。
白い光の中で、ただ一つのあたたかさだけを胸に抱いたまま。
◇ ◇ ◇
サナは実在している。
この頃のサナは、まだ未熟で、自分の膨大な魔力の残滓を森中に残してしまっていた。
その影響で偶然通りかかった人狼の子供──ユキの走馬灯に紛れ込んでしまったのだ。
森の雪が解け、柔らかい春の光が差し込む頃だった。サナはいつものように屋敷に籠もり、難解な魔道書と向き合っていた。祖母が街へ引っ越して以来、彼女の生活は魔法研究と、たまの買い出しの繰り返しだった。
その日は珍しく、新鮮な薬草を採るために、屋敷の周囲をゆっくりと散策していた。春の湿った土の匂いに、少し気分が和らぐ。
「……ん?」
屋敷から少し離れた、まだ雪が残る木々の根元。そこでサナは、自身の魔力の残滓が異常な乱れ方をしているのを感知した。
サナは立ち止まり、その場に魔力を集中させた。その中心には、凍りついた小さな体が横たわっていた。
「子ども……?」
サナは息を呑んだ。人狼の、寒さで硬直した、まだ幼い男の子の遺体。
しかし、なぜ自分の魔力痕がこんなに乱れているのか? サナは、純粋な探究心から、その「渦」に深く触れた。
その瞬間、彼女の意識は、その幼い命が尽きる瞬間に放った「走馬灯」の残滓へと引き込まれた。
サナの目の前に、ユキの最期の記憶が展開された。
そこには、ユキが水やりをする庭、笑いかける自分、幸福度を測る光る石、そしてユキに優しく包まれた雑草が映し出されていた。
「ねぇ、きみ。大変そうだね。でも、一人じゃないよ」
ユキの走馬灯に現れた「サナの姿をした誰か」が、優しく語りかけていた。そして、サナ自身の姿が、何度もユキに「助けの手」を差し伸べている。笑い、世話を焼き、時に呆れながらも温かい視線を向ける、自分の姿。
「……そっか。じゃあ……ぼく、幸せだったんだね」
ユキは最後にそう呟き、静かに光に消えた。
サナの意識が現実に戻ったとき、彼女は膝から崩れ落ち、雪解けの泥に手をついていた。
「……ああ」
脳裏を灼いたのは、一つの真実だった。
あの温かい時間、あの穏やかな日常、ユキの笑顔、焦げたパンの記憶、そしてユキが抱いた幸福感の全てが、自分が助け損ねた子どもが見た、死の瞬間の「幻」であったということ。
サナは天才だった。だが、彼女は孤独だった。彼女の人生は、魔法の研究と、静かな虚無だけだった。
「ユキと一緒にいたかったのは、私の方だったのに」
彼女の、孤独で渇いた心に、ユキの走馬灯の「温かい嘘」は、現実の何倍も深く突き刺さった。ユキが最後に願った「サナ」は、ユキの純粋な優しさによって生み出された、理想の自分の姿だったのだ。
サナの瞳に、亡き母と同じ、しかし遥かに強い狂気の光が宿った。
「はじめて私が、誰かに、一緒にいる未来を望まれたのに……!」
彼女の天才的な知性は、瞬時に一つの結論に到達した。
ユキの走馬灯という形で「観測」されてしまった世界は、もはや、「叶わなくなった“もしも”の世界」ではない。それは、「達成可能な可能性」として、彼女の目の前に示されたのだ。
サナは震える手で、自身の強力な魔力を握りしめた。
「時間を……。時間を逆行させる。この幻を、真実にする」
それは、一族の誰もが成し得なかった、そして誰もが触れることを恐れた時間逆行魔法。自身の魔力と存在の全てを対価にしても、成功確率が限りなく低い、禁忌の探究だった。
サナの天才的な知性と、異質な魔力。そして何よりも、「この温かい嘘を現実に変えたい」という、初めて抱いた他者への強烈な情愛と執念が、彼女を動かした。
数ヶ月後、森の夜は静かだった。
けれど、サナの部屋は、荒れていた。
机の上には計算式の紙束。
床には魔法陣の試行錯誤の痕跡。
指先にはインクと焦げ跡。
唇はかすかに血が滲んでいる。
サナは気づかぬまま噛みしめていたからだ。
もう何日眠っていないだろう。
頬はこけ、目の下には深い影。
けれど瞳だけは冴えすぎていて、まるで眠り方を忘れたみたいだった。
机の上にはひとつの魔晶石が置かれている。
淡く震えるような光が、サナの魔力を吸い上げながら、
“あの子の最期の走馬灯” を再生していた。
ユキの優しい声。
小さな手。
雑草に話しかける姿。
あたたかい笑顔。
「ねぇ、きみ。大変そうだね。でも、一人じゃないよ」
サナは何度も目をそらそうとした。
でも、見続けるしかなかった。
“もし自分が、あの時あの雪山にいたなら——”
そんな“ありえたかもしれないもしもの世界”が、何度も何度も脳裏をよぎった。
けれど現実のサナは、あの時、誰も助けなかった。
痛みも、涙も、名前すら知られないまま、あの子は雪に閉じ込められて死んだ。
「……ごめんね」
サナは小さく呟いた。
「あなたは……こんなにも優しい子なのに。こんなにも救われる価値がある子なのに。どうして……どうして私は救えなかったの……?」
その瞬間、サナの崩れかけていた心に、ある感情が堰を切ったように溢れた。
悔しさでも、罪悪感でもない。
“出会いたかった”という、どうしようもない渇き。
「……あなたを助けたい。もう一度……いや、“初めて”でいい。あなたに……会いたい」
成功率は低い。時間を巻き戻した期間の記憶は、因果律によって完全に消滅する。
ユキを見つけ、研究に没頭したここ数ヶ月間の記憶を、サナは失うことになる。それは、ユキの笑顔、走馬灯の温かさ、そしてユキを救いたいと願った自分自身の「動機」すらも消えることを意味した。
けれど。
時空を歪めた力で、ユキを救うことだけは確実にできる。
サナの指が震えながら魔法陣に触れた。
魔力の光が走り、周囲の空気が震え、世界が軋む。
「記憶なんて、いらないわ」
小さく、でも強く。
紙のように薄い声なのに、世界を貫くほど固い意思だった。
「あなたが生きてくれるなら……それだけでいい。私は、初対面でかまわない。あなたの名前も知らずに始めていい。その時の私は、きっとまた……あなたを大切に思うから」
涙を拭う暇もなく、サナは魔法陣の中心に立つ。
光が全身を飲み込む直前、彼女はほとんど無意識に呟いた。
「……行くね、ユキ。今度こそ……あなたを、一人になんてしない」
轟音と共に屋敷の周辺の時間が捻じ曲がり、静かに元に戻った。
そして、雪原に倒れる幼い人狼のそばに、すべてを忘れた「初対面のサナ」が現れる。
——それが、ユキとサナの物語の始まりだった。




