4 同類
成人式の日からしばらく経ったある日、ユキは街に観劇をしに来ていた。
ユキは普段、街で過ごすときには人間に擬態しているのだが、その際、肩まで伸びた髪をひとまとめにして結んでいる。こうすることで、髪で頭が固定され、人狼の特徴的な耳が飛び出さないように感じられるため、安心感を覚えるのだ。
彼は視力が良いため、後方の安い席で全体を俯瞰しながら観劇することが多い。今日もユキは劇に大感動し、後方座席で腕組みしながら小さくうなずきつつ、号泣していた。
ユキが初めて街の劇場に足を踏み入れたのは、七歳のときだった。サナと街に買い出しに出かけた際、偶然にも劇場の前を通りかかり、二人で舞台を観ることになったのがきっかけである。
「ねぇ、ユキ。せっかくだし劇、観ていく?」
「劇ってなに?」
百聞は一見に如かずということで、サナはユキを連れて劇場内へ足を踏み入れた。幼いユキにとって劇場は未知の世界だった。ユキは舞台の美しさや、役者たちの迫真の演技に心を奪われた。物語に引き込まれ、舞台が終わる頃には深い感動が心に刻まれていた。
それからユキが一人で街を歩ける年齢になると、サナから貰ったお小遣いを使って、たまに劇場に通うようになった。ユキは毎回、劇場で感じる世界の美しさとその非日常的な感覚に心を踊らせ、少しずつその魅力に夢中になっていった。
そして十六歳のとき、ユキはアルバイトを始め、自分で稼いだお金でさらに劇を観に行く機会を増やした。劇場はユキにとって特別な場所であり、いつしか彼の趣味の中心となっていた。
「やっぱり舞台ってすごいな……」
ユキが十七歳のときのこと。劇が終わり、劇場の観客たちがぞろぞろと出口へ向かう中、ユキの前を歩いていた同年代の女の子が、カバンからその劇のグッズをポトリと落としてしまった。それに気づいたユキは慌ててグッズを拾い上げ、彼女に声をかけた。
「あ、そこの黒いリボンつけてるあなた、何か落としましたよ!」
女の子が驚いて振り向き、ユキからグッズを受け取ると、ぱっと顔を赤らめて小さな声で「ありがとう」と言い、そそくさと立ち去ろうとした。
だが、ユキはそのグッズに目を留めて気づいてしまう。
「えっ、それってもしかして……十周年記念のグッズじゃないですか⁉ 今じゃ絶対手に入らない激レア品ですよね⁉」
女の子は一瞬目を見開いてユキを見たが、再び目を伏せて足早に去ろうとした。しかし、ユキは感激してさらに続けた。
「俺もこの三人の絡みめちゃくちゃ好きなんですよ! 第一幕終盤のシーンとか、すっごく熱いし、だからこのグッズめちゃくちゃ羨ましいです!」
ユキが止まらないまま熱を込めて話す様子に、彼女はふと足を止め、ユキをじっと見た。そして、理解した。
「……こ、こいつ……同類だ!」
二人はその後意気投合し、気づけば劇場のエントランスで熱い握手を交わし、劇の解釈や好きなキャラクターについて語り合いが始まった。彼女の名前はアリーシャといった。
普段は引っ込み思案なアリーシャも、話が進むにつれて表情が生き生きとし、夢中になってユキと話し続けた。
「このシーン、すごく感動したよね! ヒロインの役者の表情が……」
「そうそう! あの瞬間、もう感動で大号泣したね!」
劇のどこが良かったか、物語の解釈など、二人は話し始めると止まらなかった。ユキは、趣味を共有できる仲間ができたことに喜びを感じ、アリーシャとの会話は楽しくて仕方なかった。だが、そんなある日、彼女はユキにあることを打ち明けた。
「実はね、私、劇団員の人と付き合っちゃったの」
「はぁ⁉ 劇団員と? 本当に?」
ユキは驚いた。まさか自分の劇オタク仲間が、あの舞台の裏側にいる人物と恋仲になるなんて想像もしていなかった。アリーシャが言うには、その劇団員とは劇団の交流会で出会って意気投合し、恋に落ちたのだという。ユキは戸惑いながらも祝福した。だが、数か月後、彼女から再び連絡が来たとき、不安げな声でこう言った。
「その、最近、彼と連絡が取れないの。急に音信不通になっちゃって」
ユキは何とも言えない不安を感じた。彼女の声には明らかな焦りが滲んでいたが、ユキは励ます以外、どうすることもできなかった。そして、それ以来、アリーシャとも連絡が途絶え、劇場に通っても、彼女に会うことはなくなった。
後日ユキは、例の劇団員が若い女性客を次々に誘惑していたという噂を耳にした。その劇団員は、ある劇で一途に一人の人を愛し、その生涯を捧げる役を演じたことで有名な役者だった。ユキもその役者の演技に感動し、涙を流したことがあった。だが、現実はその舞台とは全く異なるものだったのだ。
ユキは、ふと呟いた。
「結局、舞台の上の物語は嘘なんだよな……」
ユキは遠い目をしながら、まるで悟ったかのようにそう言った。そしてやけくそになり、街のカラオケに行って思い切り歌いまくった。
劇は美しい嘘だ。その嘘は舞台の上で観ている分には、心地よいものだった。だからこそ、劇団員の内面にまで深く触れようとしてはいけないのだ。
「嘘は嘘のまま、綺麗なままで観ているのがちょうどいいんだな」
それ以来、ユキは心情的にも物理的にも、役者とは距離を置いて観劇するよう意識している。舞台は舞台、現実とは別の世界。自分の中で、その境界をはっきりと引くようになったのだ。
ただ、以前バイト代を奮発して前方の良い席を取ると、役者の細やかな表情や、息づかい、メイクの細部まで見えて大感激したので、ユキは結局、役者個人への興味からも完全には抜け出せずにいる。
話は現在に戻り、ユキは観劇後、同い年くらいの青年に話しかけられていた。
「あの、あなた前回の公演のときもいましたよね! この劇、好きなんですか?」
話しているうちに、この青年──クロードも劇のファンだということが分かった。ユキは、久しぶりに劇について話せる人と出会えたことに喜びを感じ、二人は話を弾ませた。
「ヨシツネ役の人、着物似合いすぎでしたよね?」
「本当にそれ! マジで太陽の女神の国にワープしたかと思っちゃうレベル」
「……そうなんだよ~! ベンケイが最期までヨシツネを守ろうとしてたのがさ……」
「あそこはヤバかったよ、こっちまで泣きそうになった」
二人は劇の内容で盛り上がっていると、自然と役者の話になった。
「カテコの雰囲気からして、ヨシツネとベンケイって、劇だけじゃなく、役者さん同士も仲よさそうだよな!」
クロードは、期待のこもった目でそう話した。この発言に対してユキは、過去の出来事を思い出しながらも、彼の期待を壊さないよう答えた。
「……もしそうならファンとしては最高だよね! 役者さんはプロだからね。本当に最高の相棒同士に見えてくるよな。あと、アクションシーン凄かったよねベンケイの役者さん。何者なんだろう?」
すると、クロードは声を潜めて言った。
「ここだけの話、あの動きは普通の人間じゃ無理だと思うんだ。公表してないけど、ワンチャン魔法使い? もしかしたら人狼の可能性もあるかもな!」
ここでユキはギクッとした。そして、自分以外にも素性を隠しつつ街で暮らしている人狼がいるのかもしれないということに気がついた。
ユキは以前、ごく少数存在する、街で普通に人狼として暮らしている人々と交流を試みたことがある。すると、街の人からこう言われた。
「満月の日も近いし、危ないからわざわざ積極的に交流するもんじゃないよ」
人々が公然と人狼を差別することは、今ではほとんどなくなっていた。しかし、人狼という種族は、女性でも普通の成人男性の倍以上の身体能力を持ち、満月の夜には錯乱する危険性もある。そのため、人間たちの根底にある人狼への恐れは、完全には消え去っていなかった。
ベンケイの役者は明るく人懐こい印象だった。彼が仮に人狼だとしたら、人と関わりたくて自分の正体を隠すこともあるかもしれないとユキは感じた。その後も彼の動きを注意深く観察していると、以前、街の図書館で読んだ本に「人狼特有の動き」と書かれていた仕草を目にした。
「まさか、本当にそうなのか?」
ユキは徐々に、彼が人狼であるという仮説に真実味を感じるようになっていった。ユキは単にベンケイのファンだったこともあり、激レアな役者との交流会のチケットを手に入れることを決意し、ベンケイの役者との接触を試みた。
また、ユキは何となく自分を捨てた故郷のことが気になっていた。恨みはそれほどなかった。街の人によると、あの時代は特に人狼への扱いが悪く、皆がギリギリの生活を強いられていたらしい。
自分がサナに引き取られて以降、故郷がどうなったのか気がかりだった。もしベンケイの役者、アランが人狼だという仮説が正しいとしたら、何か手がかりを掴めるかもしれない。