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32 高級磁器

 ユキの手は普段以上に丁寧で、まるで命がかかっているかのように慎重だった。周りのスタッフも慌ただしく動き回っているが、ユキはその雑音に耳を貸さず、ただ目の前の皿に集中していた。すると、


「洗い物? これもよろしく!」


 という声と共に、誰かが無造作にお茶碗を洗い場に入れた。ユキは背後から不意に聞こえた声に驚いて、そのお茶碗を別の場所に移そうとした。しかしその瞬間、手を滑らせてしまった。まさかのミスで、例の高級磁器の上にお茶碗を重ねてしまったのだ。


 カチャッ


 聞いたことのない音が皿から聞こえた。


「あっ……!」


 ユキは急いでお茶碗を取り除こうと手を伸ばしたが、そこで大問題が発生した。


「と、取れない……だと?」


 お茶碗と高級磁器が、奇妙にもぴったりと重なり合い、固くくっついてしまったのだ。何度か軽く動かしてみるものの、まるで一体化したかのようにびくともしない。


「やばい、やばいやばいやばい……」


 心臓の鼓動が速くなり、冷や汗が背中を伝う。これが取れなければ、VIP客への料理のメインディッシュが台無しになるどころか、自分の失態が全スタッフに迷惑をかけることになる。ユキは一人でどうにかしようと、必死に食器を外そうとするが、事態は悪化するばかりだった。


「どうしよう……誰かに言うべきか、それとももう少し頑張るべきか……」


 頭の中が混乱し、焦りがさらに募る。


 ユキはとにかく、いろいろなことを試した。まずは力ずくで磁器とお茶碗を引き剥がそうとしたが、全く取れなかった。次にお茶碗と磁器の間に洗剤を流し込み、泡でヌルヌルにして取ろうとしたが、これも駄目だった。

 ユキはしばらく頭をひねり、あることを思いだした。以前何かの本に、「物は温めると膨張し、冷やすと収縮される」と書いてあった。


 まずは内側のお茶碗に氷をいくつか入れ、外側の高級磁器を慎重にお湯に浸した。これで外側の磁器が膨張し、内側のお茶碗が収縮して外しやすくなるはずだ。

 ユキはお湯と氷の温度差が効果を発揮するのを期待し、しばらく待つことにした。


「頼む、これでうまくいってくれ……」


 するとその様子がルイーネとカルロに見つかった。


「シェフ! なんかユキ君が謎の儀式始めたんだけど⁉」

「えぇ⁉ ほ、本当だ……どうしたユキ君!」

「ル、ルイさん、カルロさん……!」


 ユキは涙目になりながら、正直に自分の状況を伝え、二人に助けを求めた。


「ルイさん、カルロさん、すみません、やっちゃいました……あの、お客様の高級そうな磁器にお茶碗を重ねてしまって、取れなくなって……いろいろ試したんですけど、それでも取れなくて」


 ユキは焦りと後悔の入り混じった声で状況を語り、二人の助けを求めた。ルイーネは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにユキを慰めるように笑顔で言った。


「大丈夫、ユキ君! 誰でもミスすることはあるよ。とにかく落ち着いてね。何やってるのかと思ったら、温度差を使って外そうとしてたのね? うん、悪くない方法だと思うよ!」


 カルロも腕組みしながら頷いた。


「温度差か。面白い発想だな。俺も昔似たようなことやったことあるけど、うまくいくこともあるんだよな。俺たちも手伝うから、落ち着いてやろうぜ!」


「ありがとう、二人とも……!」


 ユキは少し気が楽になり、三人で協力してもう一度、慎重に磁器とお茶碗を分離しようと試みた。

 温度差作戦を実行してしばらく経った頃、ユキはそろそろ効果が出たはずだと期待しながら、重なり合った皿の様子を確認した。


「だ……駄目なのか」


 それでも皿は分離しなかった。


「うーん、なかなか上手くいかないね。次はどうしようか!」


 ルイーネは苦笑しながらも、ユキの気持ちを切り替えようと明るく声をかけた。


「うーん、もう本当に色々試したんだけどなぁ……あ、そうだ! カルロさん、名刺とか持ってませんか? 名刺じゃなくても、何かカード的な物を隙間にねじ込んだら、分離できるんじゃないかな?」


「おうよ! あるぜ、名刺!」

「ありがとうございます!」


 ユキはカルロから受け取った名刺を、お茶碗と磁器の隙間にねじ込もうとした。すると、ぐしゃっと名刺の方が負けてしまい、ちょうどカルロの顔写真の部分が歪んで、面白い顔になってしまった。


「グフッ……」

 ユキは思わず吹き出してしまった。


 それに気づいたルイーネも思わず吹き出してしまった。カルロは、そんな二人を見て一瞬呆れたような顔をしていたが、彼は寛大な男なので、すぐに大きな声で笑い出した。


「おいおい! お前ら、俺の顔でそんなに笑うなって! でも、まぁ、こういう時は笑った方が良いよな! 気楽にいこうぜ!」


 カルロが明るく声をかけた次の瞬間


「シェフ、メインディッシュお願いします!」


 と、他のスタッフから声がかかった。名刺のカルロの面白い顔に、少し気が緩んだのも束の間、ユキはとても焦ってしまった。そしてなんと、再び力ずく作戦に出たのだった。


「えぇ⁉ ユキ君⁉」

「うおー! 頼む、取れてくれ!」


 すると次の瞬間


 バリッ


「え」


 ガシャァアアン



 気づくと、パラパラと、さっきまで最高級磁器だった物が床に散乱していた。


「あぁ! ユキ君、手から血が!」



 ルイーネとカルロが、自分の手の心配をしてくれている声が遠くから聞こえる。

 ──なんと自分は、あまりに力を込めすぎて、お客様の私物である最高級磁器を壊してしまったらしい。


 ユキは、手から滴る血をぼんやりと見つめながら、まるで走馬灯のように過去の出来事を思い出していた。幼い頃、サナに絵本を読んでもらったことがあった。それは遠い国の物語だった。




 あるおやしきに、「おきく」という十六さいの女の子がはたらきにきました。

 あるお正月のこと。「おきく」は、おやしきのとても大切な十まいのおさらのうち、うっかり一まいをわってしまいました。


「どうしよう……」


 おきくは心配でいっぱいです。そして、このことをしったおやしきの人たちは、とてもおこって「おきく」をきびしくしかりました。

 おきくはおしおきがつらく、泣いてしまいました。しまいには、右手の中ゆびを切られてしまったのです。

 そのあと、「おきく」はなわでしばられ、くらいせまいへやにとじこめられてしまいました。


「もう、たえられない……」


 おきくは、夜中にこっそりへやをぬけ出し、おやしきのうらにある古い“いど”にとびこんでしまいました。

「おきく」がいどにとびこんでから、おやしきではふしぎなことがつぎつぎにおこりはじめました。夜になると、いどから「おきく」のゆうれいがあらわれ、

「一まい……二まい……」と、少しこわい声でおさらをかぞえるのです。

 そして九まい目をかぞえおわると、いつも

「一まいたりない……」と、さみしそうに泣いてしまうのでした。




 絵本を読み終わったサナは怪訝そうな顔を浮かべながら、


「なんだこの話……屋敷のやつら、クズだな。結局、一番怖いのは幽霊じゃなくて人間ってことね」


 と呟いた。ユキも、


「こわい……おきくさん、かわいそうだね」


 としみじみ話した。子供だったユキにとって、この話は衝撃的で、深く心に残っていた。






 あれ、俺、どうなるんだろ。井戸に捨てられて最終的に怨霊になっちゃうのかな……


 ユキは放心状態で、最悪の想像をしてしまった。


 ユキの頭の中は完全に混乱していた。手から流れる血と床に散らばる磁器の破片を見つめ、絶望感が押し寄せる。絵本の「おきくさん」の話が頭の中をぐるぐると回り、まるで呪われているかのような気分になった。


 思い返してみると、今日は本当にろくな事がない。深夜にゴキブリが現れ、それが原因でサナと喧嘩し、グレンに正体がばれていたことが発覚し、ついにはVIP客の私物を壊してしまった。


「なんて日だ!」


 ユキはやけくそになり、そう叫んだ。しかし、それで状況が好転するわけもない。ただ、声を上げたことで少しだけ心が軽くなった。

 そのとき、ルイーネが素早く駆け寄り、ユキの手をそっと取り優しく声をかけた。


「ユキ君、大丈夫だよ、手当てしよう」


 カルロも慌てて医療セットを取りに行きながら


「ユキ君、落ち着け! ミスは誰にでもある、だから一旦手を見せろ」と、ユキを安心させようとした。


「でも……お客様のものを……」ユキは自分を責める気持ちを押し殺せず、泣きそうな顔をしていた。

 ルイーネは真剣なまなざしで、ユキを庇った。


「確かに大変なことだけど、今は君の手が心配だよ。それに、シェフや私たちみんなで何とかするから、一人で全部背負い込まないで」


 カルロも戻ってきて

「大事なのは今、どう対応するかだ。お前は責任感が強いけど、こんな時は仲間を頼るんだ。まずはその手を治そう」と言いながら、ユキの手に手早く包帯を巻き始めた。


 ユキは二人の励ましを受け、少しずつ冷静さを取り戻しながら

「ありがとう……本当に、ありがとう」と震える声で感謝を伝えた。



 ユキは二人の言葉で少しずつ落ち着きを取り戻し、覚悟を決めた。


「ありがとう、ルイさん、カルロさん……俺、ちゃんとお客様に謝ってくるよ」

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