3 成人式
月日は経ち、ユキが十歳になったある日、二人はとても些細なことで大げんかをしてしまった。原因は、サナが大事に取っておいたお菓子の最後の一個を、ユキが勝手に食べたことだった。
「え⁉ ちょっとユキ! 戸棚に入れておいたお菓子が無いんだけど、勝手に食べた⁉」
サナは街で評判だったお菓子を六個買い、その最後の一個を大切に戸棚に取っておいていたのだ。サナにとってそれはただのお菓子ではなく、努力して並び購入した思い出の品でもあった。
「え~! だってサナいつまで経っても食べないじゃん最後の一個。気になるんだよ! それに、そのまま置いといたら腐るよ!」
ユキは悪びれる様子もなく言い返した。その顔にはどこか無邪気さが残っていたが、サナの怒りをかき立てるには十分だった。
「私は楽しみを最後まで取っておくタイプなの! いやさ、もうユキ三つ食べたよね?食い意地張りすぎなんだよ! あと腐らせない魔法かけたから、腐らないの! 舐めんなよ!」
サナは少し誇らしげに言い返すが、ユキも引き下がらなかった。
「そんなに魔法が得意なら、お菓子くらい自分で作ればいいじゃん!」
(こ、こいつ……小さい頃は素直で可愛かったのに、最近やけに小生意気になってきたな!)
サナはだんだんイライラしてきた。
そしてついに、勢いのまま言い放ってしまった。
「自分で作るのと街で買うのとでは、全然気分が違うでしょ! 情緒とか知らないの?……ユキはペットなんだからさぁ、もう少し私に対して遠慮とか無いの?」
ユキはその一言に言葉を失った。そして次の瞬間、屋敷を飛び出していってしまった。サナは「あ! ちょっと、逃げんな!」と言ったが、しばらく経って、
「これは人として、言ってはいけないことを言ってしまったのでは……?」と猛省する。
「冷静に考えて、『ペットなんだから』とか、ガチのペットにすら言わないじゃん普通!」
サナは魔法で強制的にユキを召喚することもできたが、それでは余計に関係がこじれると思い、ひとりで悶々と悩み続けた。気を紛らわせようとふと目に留まった本を開くと、「モラルハラスメント」という項目に目が留まる。
そこにはこう書かれていた。
「モラハラをする者は、他者からの承認欲求が満たされておらず、自信過剰で相手を支配しようとする。もしくは、自分の自信のなさを相手に優位に立つことでごまかしている。そして相手に依存している!」
サナは心当たりがありすぎて、その場でぶっ倒れてしまった。
ユキは屋敷を飛び出すと、森の中をひとりで歩き続けた。冷静になってみると、勝手にサナのお菓子を食べた自分が全面的に悪いのかもしれない。しかし、サナの発した
「ユキはペットなんだから」
という、あまりにも心ない言葉が頭から離れなかった。
たしかに当初、サナが自分を引き取ってくれたのは、「隷属紋を刻む」という条件付きの契約に過ぎなかった。それでも、サナは心の冷え切った自分に、実の家族のように愛情を注いでくれた。
自分も、四年近く一緒に暮らしてきた彼女を、本当の家族だと信じて疑わなかった。それなのに、あんなことを言われるなんて……
ユキは、自分の心の大切な柱がぽっきりと折れてしまったような気がしていた。
気づけばあたりはすっかり暗くなっていた。夜になると、森には魔獣がうろつく。どうしてサナは自分を探しに来てくれないんだろう。自分から屋敷を出ておいてこんなことを思うのはおかしいかもしれない。しかし、隷属紋をつけられた者の位置は、主人に筒抜けのはずなのだ。それなのに、一向に迎えは来ない。やはり、サナにとって自分は、ただ渋々引き取っただけのペットに過ぎなかったのだろうか。
しばらくして、ユキが屋敷に戻ってきた。彼の表情は沈んだままだ。
「……寝てたの?」
ユキがそっとサナを覗き込むと、サナは驚いて目を覚ました。彼女はユキが戻ってきたことに心の底から安堵した。
「よかった、戻ってきてくれて」
しかしユキの表情は依然、暗いままだった。
「仕方ないよ……言われたことはショックだったけど、サナにどう思われていたとしても、僕にはここしか帰る場所が無いんだから」
サナはユキが帰ってきたことに安堵したものの、彼が沈んだ表情でそう話すのを見て、気づいてしまった。自分がどんな態度を取ろうとも、ユキにとっては自分しか頼れる存在がいないのだ。それを理解した瞬間、サナは胸が締めつけられるような気持ちになった。
「そっか……ユキ、本当にごめんなさい。ユキは一番大切な家族なのに、私、その場の勢いで心にも無いこと言っちゃったの。私は、ユキに甘えてた」
その言葉を聞いて、ユキは少しだけ顔を上げた。
「本当? 僕もごめんなさい。勝手にお菓子食べちゃって……」
「もうお菓子はいいよ。また見つけたら買ってくるから。ユキが帰ってきてくれたら、それで十分だって分かった」
二人は仲直りをしたが、サナはこの出来事をきっかけに、「私がこのままユキをずっと山奥に閉じ込めておくのはよくないな」と考えるようになり、ユキを街へ連れて行く頻度を増やした。サナは新しく開発したワープ魔法で、街まで簡単に行ける秘密のルートを作り、ユキに街の文化や生活に触れる機会を与えた。
ただし、その際、ユキには人間の姿に擬態するよう指示していた。表向きの理由は、人狼がいまだに被差別身分であるためだった。しかし、実際には別の理由もあった。サナは、ユキが人狼として街で同族に出会い、自分の元を離れて生きていくことを選んだらどうしようという不安に駆られていた。彼が自分の元を離れてしまうことを想像するだけで、サナは寂しさに耐えられなかった。気づけばサナにとって、ユキの存在は必要不可欠なものになっていたのだ。
ユキは街の人間達と交流することで、徐々に人狼が怖がられ嫌われているということが分かるようになった。しかし、ユキは人間の色々な文化を楽しみ、特に、街の劇場へ観劇に行くことが趣味になった。
そうして過ごすうちに月日は経ち、ユキは十五歳の青年になり、かなり立派に成長していた。身長もサナを追い越していたし、体格は出会った当初からは想像もつかないほど良くなった。サナはユキの成長ぶりに喜んでいた。また、ユキは長い間一緒に暮らした安心感から図太くなった。人狼嫌いのサナの祖母にも、気にせずに「おばあちゃん」と呼びかけ、祖母に
「あんたの祖母にまでなった覚えはないよ!」
と怒られるのにも、ヘラヘラ笑いながら対応できるようになっていた。
ユキが十六歳になると、観劇代を稼ぐ目的で、街の食堂でアルバイトを始めた。サナは、ユキが立派に自立していく過程がうれしい反面、いつか自分の元を去る日も近いのではないかと不安を感じるようにもなっていった。
それから更に二年経ち、サナの祖母は老衰で亡くなる。年が明け、ユキが街の成人式の集まりから帰ってきた。サナが用意していたごちそうを食べ終わる頃には、外はすっかり暗くなり、静かな夜が訪れていた。その日は雪が深く積もり、空には満月が輝いていた。窓の外の景色を眺めていたサナは、ユキと出会った日のことを思い出した。ユキを引き取ってから早十二年、本当にいろいろな思い出がある。
「もうユキも一人前だし、胸元の隷属紋、流石に取らないとね……」
サナはそうつぶやき、覚悟を決めた。ユキは成人式でもらったお菓子を食べながら「えぇ~、別にいいよ。今さら」と言ったが、サナはこのままずっと上下関係があるのは駄目だと、気づいてはいたのだ。
ただ、長い間隷属紋をつけて関係を築いてきたため、取ったら関係がどう変わるのか、ユキが今までと同じように接してくれるのか、という不安も抱えていた。
意を決して、サナは隷属紋を消す魔法をユキの胸元に手をかざして行った。
サナもユキも、人狼が満月の夜に本来どうなるのかをすっかり忘れていた。ユキに隷属紋をつけている間は、そのことを気にする必要がなかったからだ。
気がつくと、ユキはサナの首元に噛みつこうとしていた。
「えっ⁉」
サナは驚いて咄嗟に身をかわしたが、暴走するユキの姿を目の当たりにした瞬間、心がざわついた。ユキは内心では、隷属紋を付けてくるような自分のことなど、嫌いだったのだろうか。
しかし、窓から差し込む月明かりを見て、今日が満月であることに気づき、ようやく諸々の情報を思い出した。
「やば、完全に忘れてた……!」
サナは慌てて、相手の動きを封じる魔法を繰り出した。魔法の力でユキの身体は一時的に拘束され、サナは必死に語りかけた。
「ユキ、落ち着いて! あなたは私を傷つけたりしないって、信じてるから!」
虚ろだったユキの目に少しずつ光が戻っていく。サナの声は、しっかりユキの心に届いていた。
そして、ユキは無事に錯乱状態から正気を取り戻した。しかし、自分がサナに危害を加えそうになったことに気づくと、ショックを受けて震え出した。
「ごめんなさい、サナ……僕、怖かった……君を傷つけるところだった」
サナは震えるユキをそっと抱き寄せた。
「大丈夫、ユキ。私が色々忘れていたのが悪かったの。無事に戻ってきてくれて本当に嬉しい。もう隷属紋もないし、これで本当に対等な家族になれたよね……?」
ユキは肩に顔を埋めたまま、静かに涙をこぼした。その体はまだ小刻みに震えていたが、やがて呼吸が整い、少しずつ落ち着きを取り戻していった。