26 ある平凡な魔法使いの回想
暖炉の炎がゆらめく部屋の中で、私は黙々と古い魔道書を整理していた。この家には、今は亡き娘のソフィアや、夫が残した魔道書やノートが山のようにある。それらには、異様な記号や難解な式がびっしり記されており、読み進めるたびに頭が痛くなるようなものばかりだ。
夫は平凡な魔法使いのはずだった。魔力量だって、私とそう変わらなかったはずだ。それなのに、彼の瞳には、初めて会った時から強い意思が宿っていた。その輝きに、私は惹きつけられた。彼は限られた魔力量や知識に縛られることなく、魔法の本質に触れようとひたむきに努力していた。
私たちは恋をして、結婚した。そして私は彼についていく形で、森の奥深くに移り住んだ。当時この森には、十数人ほどの魔法使いたちが小さな共同体を作って暮らしていた。
最初は、その探究心に惹かれた。けれど次第に、彼の瞳を見ていると胸の奥がざわつくことが増えていった。夫には、周囲をぐるりと巻き込んで、中心に立ってしまうような力があった。何人もの魔法使いが彼の話に引き寄せられ、気づけば一緒に何かを探求していた。あの輝きに魅入られた人間が巻き込まれ、気づけば彼の目的を手伝ってしまう。そんな夫の目は、時に私にとっても重たく、そして少し怖かった。
しかし、年月が経つにつれ、その共同体は徐々に消えていった。外界との接点を求めて森を出る者、研究が行き詰まり孤立していく者、魔獣に襲われて命を落とした者もいた。気づけば、私たち家族だけが森の中に取り残されていた。
私と夫の間に生まれたソフィアも、その異質な瞳を受け継いでいた。
ソフィアもまた、魔力量自体は私と変わらない。むしろ強力な魔法など使えないのに、その小さな魔力を無駄なく駆使し、難解な魔法の理論を独自に解き明かしていく、そんな子だった。
「お母さん、この浮遊魔法さ、こうするともっと効率よくなるの知ってる? ほらお母さんもやってみてよ!」
彼女が興奮気味に目を輝かせ、私に魔法を教えようとするたびに、私は少し引いてしまっていた。私には到底理解できない話ばかりだったからだ。それに、彼女の瞳を見ると、どうしても夫を思い起こしてしまう。そのことが苦しくて、「ふーん、すごいわね」と適当にあしらってしまうことが多かった。
今にして思えば、それがソフィアを寂しがらせていたのだろう。けれど私は、彼女に向き合うことができなかった。
ソフィアが十七歳のとき、夫は森で獣に襲われて、呆気なく亡くなった。そのとき私は、絶望とともに、どこかほっとしてしまった。ああ、彼も、何かあれば簡単に死んでしまう、人間だったんだな。それがあまりに情けなく、彼に申し訳なくて、ただひたすら涙を流した。
それから数年後、夫に続いて娘のソフィアもこの世を去ってしまった。ソフィアが命を落とし、彼女の忘れ形見である孫のサナを育てることになったとき、私は心のどこかで「またか」と思った。サナもまた、夫やソフィアと同じあの瞳をしていた。
生まれたばかりのサナは可愛らしい普通の子だった。けれど彼女が成長するにつれて、私はその異様さをすぐに理解した。魔力量は祖父や母親をはるかに凌駕していて、私の手に負えないほどだった。難しい魔法を簡単そうに使う彼女を見ていると、もはや「孫」としてだけではなく、一種の畏怖を抱かずにはいられなかった。
サナもまた、私が自分をただの孫として見ていないことを薄々察しているのだろう。彼女が時折寂しそうな目をすることがあったけれど、それでも私にはどうしても、その瞳を正面から見つめることができなかった。
私は年老いたこともあり、森での暮らしが次第に不便に感じるようになっていた。最近では、サナの魔法に随分と頼りきりになってしまっている。それを口実に、街へ引っ越すことを決めた。
「私はもう、街に引っ越そうと思うよ……」
ある日、そう告げたとき、サナは驚いた顔をしていた。
「えー、嫌だよ! 街だと好き勝手に魔法使えないじゃん!」
無邪気な言葉に、私は胸が痛んだ。
「だから私だけが街へ行くわ。あなたはここで暮らしていていいから」
彼女が困惑した表情を見せるのを見て、心が締め付けられた。私が彼女を見ていると感じる恐れや戸惑い。それを彼女に気づかれたくなくて、私は森を去る決意をしたのだ。
それでも週に一度、サナの様子を見に森へ通うようにはしている。遠く離れても、サナの力は私には理解できないままだ。それでも、彼女のそばにいると、その瞳が私を何かの中心へと巻き込もうとしているような感覚に陥る。私にはそれが怖いのだ。サナが「中心」となり、周囲を巻き込む存在である未来を思うと、私は平凡な老女として、どうしてもその運命から逃れたくなってしまう。
その日、私はいつものようにサナの様子を見に森の屋敷を訪れた。街で買った食材や、お菓子を紙袋に詰めて運んでいる途中、玄関先で待ち構えていたサナが開口一番、こう言った。
「おばあちゃん、人狼拾った!」
その瞬間、私の心臓は跳ね上がった。「人狼」という言葉に、嫌な記憶が蘇る。十三年前のあの日、娘ソフィアの部屋で目にした魔道書の数々と、書きつけられた実験記録──。ソフィアの実験は、取り返しのつかない結果を生んだ。
(まさか、サナまで……いや、そんなはずはない!)
「人狼⁉ 危ないからさっさと帰しなさい」
けれど、私の怒声を遮るように、玄関からそっと顔を出したのは、まだ幼い子供だった。その姿に私は一瞬、息を呑んだ。黒い髪に大きな瞳、あどけない顔立ち──どことなく、ソフィアに似ている。記憶の底から、娘の面影が浮かび上がるようで、言葉を失った。
(人狼なんて、私にとっては、娘を奪った憎い存在だ)
そう思っていた私の前に、亡き娘の面影を持つ、人狼の子供が現れたのだ。
「この子、どうしてここに?」
「雪の中で倒れてたの。死にそうだったからから拾って助けたんだよ」
サナは悪びれる様子もなく言い放つ。その様子に呆れながらも、私は目の前の子供に視線を戻した。彼は怯えたような目で私を見つめ、どうか置いていかないで欲しいと訴えていた。その姿に、なんともいえない感情が込み上げる。危険だと思いつつも、この子をそのまま追い出すことが、私にはできなかった。
「……隷属紋を押した上でなら飼っていいわよ」
自分でも冷たい言葉だと分かっていたが、そう言うことでしか気持ちを整理できなかった。もし、何か問題が起きたとき、サナやこの子に責任を持てるほど、私には余裕も自信もなかったのだ。
それからも、私は週に一度サナの屋敷を訪れ続けた。最初は「人狼なんて厄介なだけよ」と思っていた。実際、ユキの世話をするサナを見ていると、何度も「だから言ったじゃない」と口に出したくなったこともあった。
けれど、ユキは私が想像していたよりもずっと素直で、よく気の利く子だった。初めて会ったときは怯えてばかりだった彼も、いつの間にかサナにすっかり懐き、私にも時折、笑顔を向けるようになった。
「おばあちゃん、これ持っていって!」
彼が一生懸命に焼いたパンを私に差し出してきたとき、私は驚いた。どうやら初めて作ったらしく、それはよく分からない形をしている上、所々焦げていて、とても食べられるものではなかった。それでも、彼がサナに教わりながら一生懸命に作ったことを知ると、思わず胸が温かくなった。
「ありがとう。でも、あんたの祖母にまでなった覚えはないよ」
そう言った私に、ユキはちょっと寂しそうな顔をしたが、次の週も「おばあちゃん」と言って笑顔で迎えてくれた。私はため息をつきながらも、心のどこかで少し嬉しかった。
ユキが十歳を超えた頃から、サナとの関係は完全に姉弟のようになっていた。サナは面倒臭がりながらも、ユキに読み書きや算数を教え、ユキはそれを真面目に頑張っていた。サナが時折困ったように言う。
「ユキ、本当になんでも私の真似するんだよ。というか狩りも家庭菜園も、私よりちゃんとやってるし」
そう言いながら、彼女の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。
正直に言えば、私は最初、あの子が人狼の子供を育てるなんて無理だと思っていた。もう、どうにでもなれと、やけくそになってサナにユキを押し付けたのだ。自分でもどうしようもない人間だと思う。けれど、あの二人が仲良く笑い合う姿を見ていると、「これで良かったのかもしれない」と思うようになっていた。
ユキは成長するにつれ、さすがにソフィアには似ても似つかなくなっていった。顔立ちや髪色こそソフィアを思わせる部分があったものの、成長したユキの体格はがっしりとし、声も低くなり、その話し方や動作には幼い頃のあどけなさはすっかり影を潜めていた。
私が最初にユキと出会ったとき、彼が人狼であることに対して強い不安を抱いていた。ソフィアを失った記憶が頭をよぎり、彼を完全に受け入れることなど到底できないと思っていたのだ。
けれど、十数年、彼の真っ直ぐな優しさに触れるうちに、私は少しずつ気づいていった。ユキは、かつての娘の失敗と重ねるべき存在でもなければ、ソフィアの面影を追い続けるための存在でもない。ただの「ユキ」という、一人の個性を持つ人間なのだと。それを理解していく内に、私の中にあった拒絶や恐れは自然と消え去っていった。
私の体は年々衰えていった。街での生活は便利だけど、どこか孤独だった。そんな中で、週に一度サナの屋敷を訪れるのが、気づけば私の楽しみになっていた。二人は喧嘩をすることもあれば、一緒にふざけたり遊んでいる様子を見ることもあった。
その時のサナを見ていると、私が恐れていたあの瞳にも、何か特別な力が宿っているわけではなく、ただ偶然遺伝しただけなのだと感じた。サナはサナであり、特別な力を持ちながらも、彼女なりのやり方で人を助け、笑い、生きている。そんなあたりまえのことに気づけたとき、私の胸の中で絡まっていた恐れが少しずつ解けていくのを感じた。
(なんだかんだ言って、この二人が一緒にいて、本当に良かった)
そして、別れの日が訪れた。私はベッドの上で横になりながら、娘がまだ幼い頃、家族三人で花畑へ行った時の夢を見ていた。
花畑には、色とりどりの花が風に揺れながら広がっていた。あのとき、まだ幼いソフィアが「花冠を作りたい!」と目を輝かせていたのを思い出す。私は彼女に作り方を教え、夫はそばで笑いながら手伝ってくれた。ソフィアは最初こそ不器用で、茎を何度も折ってしまい、「難しいよ」とむくれていたけれど、少しずつ上達し、最後には小さな手で立派な花冠を作り上げた。
「できた!」と得意げに笑うソフィアに、夫が「ほら、せっかくだからかぶってみな」と促した。私はソフィアから出来上がった花冠を受け取り、彼女の頭にそっと乗せた。そのときの彼女の嬉しそうな笑顔に、心がじんわりと温かくなった。あのときの光景が、今でもまぶたに焼き付いている。
あの花畑でのひとときは、私にとって一生忘れられない幸せな時間だった。
今はもう動く力はほとんど残っていないけれど、不思議と寂しさは感じなかった。
※ユキの焼いたパンが「よく分からない形」なのは、ユキが好きな絵本のキャラクターをパンで再現しようとしたから。




