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日本語訳版 ファム・ファタールの誘惑

日本語訳版が完成しました。

少し心情描写や補足など入れたので、ぜひ英語版と合わせて読んでいただけると嬉しいです。

「…人魚姫はその美しい二つの目で神の太陽を見つめ、その時初めて彼女はその瞳を涙で濡らしました。…」

そこまで読んだ所でノアはさも退屈そうな手付きで本を閉じた。

「…金持ち様はなんにもわかっちゃいない。こんな紙束が何になるっていうんだ。これを読んで教養をつけろって?これを売れと?それともいっそ食べたほうが…。」

ノアは貧しい男だった。彼は時間も金も家族も、何もかもを持っておらず、ただひたすら働き続けるという毎日を送っていた。そんな彼を見かねたどこぞの紳士がくれた本を、なんの気無しに読んでても、彼のくたびれた生活の何かが変わるわけでもなかった。

ノアは深い溜め息をついて彼のボロキレのようなベッドに本を放り投げた。明日は彼の今月唯一の休日。しかし彼の束の間の休息は、とても気分の良いものとは言えなかった。

「…海にでも行こうかな」

突然思い立ったノアは、自殺でもするつもりだったのか靴も履かずに裸足のままドアへとふらふら歩いていきノブに手をかけた。

ドアの外には電気の消えた、不気味な静けさの漂う真っ暗な街が続いていた。ろくに明かりのない道をノアは自分の感覚だけを頼りに街の外れの方にある海へと歩き続けた。

どれくらい歩いたのか、ノアは海へとたどり着いた。「寒い…」とつぶやき、足元にあった砂をすくってみると、砂はサラサラと彼の指の隙間を通り抜けていった。


「こんにちは、こんな時間に何をしているの?」

不意に後ろから声をかけられて、ノアはビクリとして振り向いた。

そこには、この世のものとは思えないほど美しい女性が立っていた。可愛らしい青い瞳、少し湿った長い髪。何故だかは分からないが、彼女の全てがノアを惹きつけた。

「で、何してるの?」

彼女の言葉にハッと我に返った。

「…そ、それは君もでしょ。

僕はノア。君は、何ていうの?」

「私はリタ。」彼女はクスリと笑った。

リタはこの街に初めて訪れたが行く当てもないので、なんとなく海に来てみたということらしい。明日が休日だったということもあり、ノアは親切心とほんの少しの下心から、明日リタに街を案内する約束を取り付け、浜辺を去った。

次の日の午前9時。ノアはリタに会うためまた海へと向かった。昨日とは違いリタに会うため自分のクローゼットの中で一番上等な服を着て、リタが来るのを待った。

「おはよう、ノア。私、あなたといっしょに街を見るのとっても楽しみ。」

出会った時は暗闇の中にいたが、昼間の彼女は太陽の光に照らされキラキラと輝いていてとても魅力的だった。彼女はつま先から頭の天辺まで全てが完璧で、ノアは既にリタによって心を完全に溶かされていた。


最初はリタのショッピングに付き合わされた。普段の彼にとってそれはさほど楽しいものではなかったが、ノアはリタが買い物をしているのを見るのを楽しんでいた。二人はたくさんの時間を費やしてお互いについての話をした。

リタは小さな海辺の町の出身らしい。彼女は今日までの人生を全てその街で過ごしてきたため、外の世界についてをよく知らないと言っていた。

「外の世界の話を聞くのはすごく楽しいわ!ふふ、ハンサムなナビゲーターさんに出会えるなんて、私とっても幸運ね。ありがとう、ノア。」

「お世辞はよしてくれよ。…僕こそ、君みたいな素敵な女性に出会えて幸せだ。」

リタは魅惑的な笑みを浮かべた。

「リタ、次はどこへ行こうか?」

リタは薔薇色の唇をゆっくりと動かし、ある店を指さした。ノアの顔がさぁっと白くなる。リタが選んだのはこの街で1番高級なレストランだったのだ。

「リ、リタ、申し訳ないんだけど…あの店は…その、高級だから、僕には…」

「心配いらないわ。私が払ってあげる。」


「これが僕にとって最初で最後のフルコースになるだろうなあ…」とノアは言った。

「ええと、メインディッシュを選ばなくちゃいけないのね。魚か、牛肉…」リタは苦い顔をしてメニューを覗いている。

「肉、嫌いなの?」ノアが尋ねる。「いいえ、でも食べたことがないの。」リタはメニュー表と睨み合っている。

「ならせっかくだし食べてみようよ。」ノアがリタの手を強く握って言った。「ね?」

リタはしばらく固まっていたが、目を大きく見開いて「分かったわ。」言い笑った。

幸せな一日は、そうして過ぎていった。

「ねぇノア、明日は空いてる?」帰り際にリタが尋ねると、ノアは首を横に振った

「日曜日まで仕事が入ってて。…夜にまたあの海で待ってる。リタは来れる?」

「もちろんよ。」リタは笑みを浮かべた。


次の日の夜、ノアは砂浜に座り込んでリタを待っていた。しばらくしてリタがやってきて、ノアが読んでいる本を覗き込む。

「ねぇノア、何読んでるの?」リタが尋ねた。「誰か知らない人がくれた本さ。僕はあまり長い話を読むのは得意じゃないけど、これは面白いよ。」

リタは本のタイトルを見て、少し目を逸らしたかと思えば、声を張り上げ話題を切り替えた。「ね、今日は何のお話をしましょうか?私今日はあなたの生活について聞きたいな。…」

夜は更けていく。ノアはなぜかは分からなかったが、リタの歌を聴いているとなぜか少し寂しさを感じるのだった。


リタと出会ってから3日目のこと。ノアは蟹缶工場でいつものように仕事をしていた。昨日はすごく楽しかったな、とリタとの思い出に浸りながら昼食を食べていると、同僚のリチャードがやってきた。

「珍しく幸せそうな顔しているじゃないか。何かあったのか?」と聞かれたので、ノアはリタとの思い出について話した。

「ノア…、お前知らないのか?そういう女をなんて言うのか。ファム・ファタールだよ。」

「ファム…何て?」突然のことで、ノアはリチャードの言っていることが理解できなかった。「ファム・ファタール。美しい女性が男を誘惑し、やがて破滅へと追い込むんだ。。お前の場合海であったから、なんだっけ…ローレライ?いや違うな。もっと別の呼び方があったはず…。」

「リタはそんなことしない、はず。」ノアは必死に説明しようとしたがリチャードは聞く耳を持たなかった。「まあ、破滅したくなければせいぜい彼女に気をつけることだな。」それだけ言い残してリチャードは去ってしまった。


その夜、ノアはリタに会うため海へと向かった。リタは海と砂浜の境に立っていて、急いで近寄ろうとすると突然リタは歌い出した。

ノアの足が独りでに海へと向かっていく。リタはその様子を見つめていたが、ノアはちょうど海へ入ってしまう手前で自分に頭を思い切り殴って正気を取り戻した。

「あぁ、リチャードは正しかったんだ。

…リタ、君は僕を騙していたんだね。」

リタは魔法が効かなかったことに驚いて、「あぁ…ノア、違うの…ノア…」と言い、海へ飛び込んで身に纏っていたものを全て脱ぎ捨てた。彼女はみるみる美しい人魚の姿へと変わっていった。

「ごめんなさい、ノア。ずっと隠してたの。私、実はセイレーンなの。…人魚の一種といったところかしら、それで…。」リタは自分の尾びれを見つめた。「ねぇノア、私と一緒に海で暮らしてほしいの」


「ま、待てよ!理解できない!人魚!?海で暮らす!?暮らすにしたってどうやって!?」ノアは混乱していた。「私が何とかするから。ねぇお願い、あたしあなたを連れてこられなきゃ海の魔女に殺されちゃう!」


ノアは一旦冷静になってみた。リチャードの言っていた通り、これがこの女の本性なのだろう。魔法の歌と美貌で人を惑わし、破滅へと向かわせるセイレーン。


ただ、彼女の提案も悪くないのではないか、とノアは思った。くたびれた働き詰めの生活。生きているのか死んでいるのか分からないような人生だったが、彼女と過ごした数日間は人生で一番幸せだったと言っても全く過言ではなかったのだ。

ただ、だからといって今直ぐにこの生活を手放せるほどノアは強くはなかった。


「わかったよ、リタ。君にもきっと事情があるんだろう。…ただ、少し時間が欲しいんだ。この生活を手放しても良いのか、考える時間が。」

リタは大きく目を見開いたあと、何を思ったのか、しばらく顔を水中へと沈めていた。

挿絵(By みてみん)

戻ってきたリタの顔はまたいつものように、魅惑的な笑みをたたえていた。

「分かった。私待ってるわ、あなたのこと。約束するわ。ずっと、ずっとよ…。」

リタはそう言って水面に潜り、この海のもっと深くにある彼女の家へと帰っていった。ノアは、彼女の尾びれが遠ざかって消えていくのをただずっと眺めていた。


それから来る日も来る日も、ノアはあの砂浜へと足を運んだが、ついにリタが現れることはなかった。海は気まぐれに波打って、ただ泡だけを運んでいく。

リタはあの時何を思ったのか、我々にはもうそれを知る術は無い。

…人魚の涙は、海の中では見えないのだから。



ファム・ファタールの誘惑


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