新バベルの塔
遥か昔、神話でしか知ることの出来ない時代。その頃はまだ、人類は文字を持たず、一つの言語のみで互いを知り、手と手を結び、協力して文明を築いていった。その歩みは牛の歩みのように遅く。言葉のみでその時代に何があったのかを伝えるのは難しかった。それでも、人々は何代も何代も子から孫へ昔話という形で、自分が何を成してきたのかを伝えていった。
そして遂に、人類はある偉業を成し遂げようとした。天を衝くように聳える巨塔「バベルの塔」の建造である。
まず土台として五世代がただひたすら土を盛り、基礎となる土台を作った。
次に三世代が岩山を切り崩し、石のブロックを積み上げていった。
最後に二世代が大陸中の鉱山から銅を集め、尖塔を築き上げた。
こうして築き上げられた「バベルの塔」。土台は大陸にそびえるどんな山よりも巨大で、積み上げられた岩の壁はどんな城よりも威風堂々とその威容を放ち、巨大な銅の尖塔は太陽よりも眩い輝きを持っていた。大陸のどの場所からでもその巨影は見ることが出来、近づいてみればどれだけ見上げても尖塔の頂上に施された宝石の輝きを拝むことはできなかった。
この「バベルの塔」こそ、人類の団結の象徴であり、人類が不可能を可能にしたという事実の証明であった。
何代にも渡ってこの塔を築き上げてきた職人や労働者は、この塔の建造に関われたことを何よりも誇りとし、指導者はいずれ神々のいる天上にも人類はたどり着くだろうと宣言した。
しかし、この「バベルの塔」は神々の怒りを買った。
人類が自信に満ち溢れ、自らの栄光ある未来に何ら疑いを持たなかった頃、突然彼らは隣人と会話が通じなくなったことに気が付いた。隣人だけではない。家族とも。自然とも。動物とも。
川の声を聞き、洪水を予知することも。山羊に頼み込み乳を分けてもらうことも。風と雲に語りかけ、雨期の到来に歓喜することすら人類はできなくなった。
そう。神々は人類から共通の言語を奪ったのだ。
会話が通じないことに、人類は恐れおののいた。昨日まで朗らかに談笑していた隣人と目を合わせられなくなり。自分の妻や息子を信ずることに不安を抱いた。洪水を防ぐには治水をせねばならず、より多くの雨を求めて地平線のはるか先に移住せねばならなくなった。
「バベルの塔」は、神々の手によって三日三晩続いた雷と地震によって、遂に崩れ落ちた。そして、その時人類は希望と自信を失った。
これは各地に口頭伝承として、僅かに残された神話の断片を繋ぎ合わせ、大陸中の遺産や、大陸中央に地理学的には不可解な形でそびえる大山と転がる銅塊から、推定された数万年前の出来事である。
しかし!それが事実として一体どうだというのか!今や時代は変わった!
数万年後、共通の言語を奪われた人類は猜疑心と邪な欲望を抱えながらも、逞しく文明を発展させていった。
文字の発明。鉄器の導入。新大陸の発見。
これらの偉業によって、多くの血が流れ、多くの不幸が大陸はおろか世界中に広がりながらも、数万年振りに人類は再び一つの帝国により統一されることとなった。
全世界を統一した皇帝は地上の統一だけでは物足らず更なる野望を抱えていた。
絶えることなき勝利。とどまることを知らない名声。何人たりとも侵されない権威。
第一回帝国統一会議にて、皇帝はそんな自らの野望を忠臣と藩王に話した。
そして、ある年老いた軍師がふと思い出したかのように、かつて存在したかもしれない「バベルの塔」について話した。
皇帝は一も二もなくその話に食いついた。
集え帝国臣民!今こそ皇帝陛下の偉業を神々に知らしめる時だ!
皇帝は、自らの偉業を全世界に知らしめるため。神にも劣らぬ権威を身に纏うため。旧大陸と新大陸に広がる自らの帝国を動かし始めた。
帝国中から技術者と科学者をかき集め、彼らのために一つの都市を造り、そこに彼らを押し込んで研究と開発に没頭させた。
広大な領土に眠る手つかずの資源を集めるため、鉄道を敷き、農村から労働力をプッシュして、鉱山を至る所に開いた。
普及が始まったラジオ・テレビなどを、帝国すべての家庭に配給してプロパガンダを浴びせることで、愛国心を生み出し、この一大事業を熱狂的に協力させた。
そして、遂にロケットの開発にまで成功した時、いよいよ塔の建設に取り掛かった。
かつて、「バベルの塔」が築かれたと思しき台地に、ありったけのコンクリートを流しこみ、土台を作った。
人工衛星から地上にまで垂らされたケーブルを軸に、アルミニウム合金がトラス構造を構成し、美しい幾何学的な模様を重ねていく。
地上からの引力に負けぬように、人工衛星にはいくつものユニットがドッキングしていき、機能を強化されていった。塔の頂上のモニュメントとして。展望台として。宇宙都市として。そして、最終的には一つの大きなタイルのような造形となる。
かつて「バベルの塔」が何世代にも渡って建造されたのに対し、この新たなるバベルの塔はたったの一世代で完成にまで至った。
いかに人類文明が進歩し、帝国が強大であるかが分かる。
そして、最後に皇帝は、塔の外縁トラスにライトを取り付け、華やかなライトアップを施すと共に、ケーブルを昇降できるように鋼鉄で出来た質実剛健なゴンドラを取り付け、自ら乗り込んだ。
そして、皇帝は息をのむ。
自らが達成した偉業の栄光に包まれて。
眼下に広がるのは全てが帝国の領土であり、大洋も、空も、そして今自分がいる宇宙すらも手中に収めた。
今、頭上で佇むは最早かつての人工衛星の面影を残さない、巨大な宇宙ステーションもとい宇宙都市。そしてそれと地上を繋ぐのはぐのは全長数百キロメートルに及ぶケーブルとトラスで構成された「バベルの塔」。
どれだけ見渡しても、すべてが己の所有物。
自らを陥れようとする敵の姿はどこにもなく、神すらもその姿は見えずじまいだった。
地球を征服した!敵はいない!神などというものは存在しない!
尚も頂上の宇宙都市を目指し、上り続けるゴンドラの中で皇帝は高らかに叫んだ。
人類は神の世界に足を踏み入れた!これこそが人類の血と知と地を結集し、最後にもたらされた偉大なる結末なのだ!
かつて、人類の団結の象徴として築かれた「バベルの塔」は、一人の人間の生涯の終着点として再び大地に、この星に姿を現した。
神々はそれを黙って見ている訳にはいかなかった。だが、もう一度人々の団結を解いたところで再び人類は団結し、より醜悪な欲望を以てして「バベルの塔」を再建するだろうと悟った。
よって、あえて逆の手段に出ることとした。
全人類がラジオやテレビの前に皇帝が成し遂げた偉業を耳と目に焼き付けようと集まっていた。
そして、偉大なる皇帝が重々しく口を開いたとき、神々の御業が顕された。
言葉が通じるのだ。
人々は口を開け、ただ沈黙をもってその奇跡を受け入れた。
ラジオやテレビの通訳も皇帝自身すら何が起きたのか、直ちに理解することは困難だった。
次の皇帝の言葉は「余の言葉が届いているか」だった。
そして二言目は「通じているのか」だった。
そして三言目に言葉にならないような雄叫びを上げた。
帝国の臣民は何を言っているのか文字にこそ出来ないが、皇帝の爆発した喜びを感じ取った。
その直後、帝国全土で地割れのような雄たけびが響き渡った。
皇帝万歳!帝国万歳!
遂に人類は神々を超越したのだ。「バベルの塔」を完成させ、神々から奪われた共通の言語を取り戻したのだ。
家族と抱き合い喜びを分かち合った。。ペットの猫と犬と意思疎通ができることに驚嘆した。大地は雄弁に己が存在を主張し、風はささやき、海は笑い、星々の吐息すら聞き取れた。
そうだ。これこそがかつて人類が手にしていた誇りと自信だ。今こそが人類文明の最盛期であり、すべての努力と苦労が実った瞬間なのだと、皇帝も臣民も踊り狂った。
誰にでも通ずる言語のすばらしさ。それはこのような文字媒体では決して伝えることのできない。
たとえ、その言葉が意味をなさなくとも、そこに感情がこもっていれば相手に伝わるのだ。
たとえ、赤ん坊だろうと動物だろうと、感情あるものすべてと会話することができるようになった。
やがて、人々は言葉を簡略化して使い始めるようになった。当然である。丁寧に文法や体裁を整えずとも、そこに思いを込めれば必ず相手に伝わるのだから。
すると、言葉が正確であるかどうかよりも思いが正確であるかどうかが問われるようになっていった。
見る見るうちに言葉は崩れていき、人々は身振り手振りやイントネーションをもって、相手に誠意を伝えるようになっていった。もちろん、そのようなことをせずとも相手に自分の意思は伝えられるのだが。
偽善などというものは廃れ、嘘も重罪とされ、駆逐されていった。
しかし、それでもコミュニケーションは円滑に行われる。
そう。誰にでも通ずるのだから。
ある時、一人が言い出した。言語なんてなくともコミュニケーションは可能では?と。
試しにあーだとかうーだとか。意味をなさない声を出して会話を試みた。
結果として、会話は通じた。それどころか言葉や文字を用いるよりも、遥かに高度な意思疎通が可能であることに気が付いた。
あっという間に、言葉も文字も失われていった。それでも人々は相手と心を通じさせる喜びをかみしめていた。
まず最初に失われたのは文化だった。次に数学。そして最終的には文字。言葉も再び失われた。
そうして、文明は少しづつ衰退していった。「バベルの塔」は整備が行えなくなり老朽化により墜落した。
かつての文明の栄華を感じさせるものは朽ち絶え、人類は古代と何ら変わらぬ生活を送るようになった。
しかし、それでも人々は幸せだ。信頼のおける仲間に囲まれて生活ができているのだから。
何よりも、共通の言語をめぐって、二つの「バベルの塔」が築かれては滅んでいったことも、文字と言葉の喪失により最早知ることができないのだから。
以降、二度と「バベルの塔」が築かれることはなく、人々は大自然に身を委ねその生を繋いでいくこととなった。