第78話 制裁かつ救済、そして――。
こんな卑劣で許しがたい光景があるだろうか。
大の大人の男が、小学生の女の子に馬乗りになって、その華奢な首を絞めている――。
「やめろーっ!」
勇一は乗っていた白玉の背から飛び降り、蓮に飛び掛かるようにして、蓮をゆかりからひきはがした。
あれ?
拍子抜けるくらい、呆気なく蓮は床に転がり、今度は勇一が蓮に馬乗りになるような状態となる。げほっ、と倒れた衝撃か、蓮が大きく咳き込んだ。
背後でも、げほっ、げほっ、とゆかりの咳き込む音もする。相当苦しかっただろうが、ゆかりは無事のようだった。
「ゆかりちゃんが咳き込むのはわかる、蓮、てめーは咳き込んでる場合か……!」
蓮の胸倉を掴み引き上げ、殴りつけようとした勇一の拳が、止まる。
これは、血……!?
真っ暗なお堂で、よくはわからないが、蓮の口元が汚れているように見えた。おそらく、吐血――。
「今、そ、そんなに激しく床にぶつかったか!? そうは思えなかったけど……!」
ぎょっとした。怒りを思い切りぶつけ、結果怪我をさせようが構わないと思ったが、まさか本当に血を出す、しかも吐血、内臓を痛めるなんて、と勇一はうろたえた。殴りつけようと胸倉を掴んでいた勇一の手は、傷を負ったのであろう蓮をいたわり支える手に変化してしまっていた。大丈夫か、という言葉まで添えて。
蓮は激しく勇一を睨みつけ、叫んだ。
「僕に、触る、な……! お前、ごとき、が……!」
とぎれとぎれの、息も荒く苦し気な声。そして、蓮は口を手で押さえた。指の間から、血らしきものがまたあふれ出る―。
「それは、毒……?」
肩越しに聞こえた、ゆかりの声。
え!? 毒……?
思わぬ指摘に驚いたが、もしかして、と勇一は思い至る。
「エビシャコキモイに、やられたのか……!」
勇一の言葉に、一瞬静まり返る。ゆかりはおそらく、「その言葉はいったい」と疑問に思っただろうし、蓮もおそらく「なんだそのワードは」とおおいに疑問だったことだろう。白玉だけが、そうだ、きっとそうに違いない、と全力でうなずいていた。
きっと、あの、エビシャコキモイに……!
「エビシャコキモイ、あいつのハサミ、トゲトゲがついてた……! それに、刺されたんじゃないのか……?」
容赦なく「エビシャコキモイ」を連呼する勇一。
ハサミのトゲに、毒があったのだろうと推測した。しかし、蓮は、黙っていた。今、話せる状態ではないのかもしれないし、単純に勇一の推測を肯定したくなかったのかもしれない。あるいは、受け入れられなかったのかもしれない。「エビシャコキモイ」という名を。
「蓮君……!」
ゆかりは、蓮の名を呼んだ。蓮の恐ろしい本性があらわになる前の、ごく親しい従兄としての呼びかたで――。
「化け物に、やられたのね……! 治癒の術を――」
ゆかりは、自分の首を絞め、殺そうとした張本人に駆け寄る。治癒の術を施そうとして――。
蓮は、そんなゆかりの小さな手さえも振り払った。
「どこま、で、も、僕を、馬鹿に、し、て……!」
空気が動いた。今ここには、自分と蓮、ゆかり、白玉、あとは傘、だけしかいないのかと勇一は思っていた。しかし、素早くなにかが後ろから駆け寄り――。
ぴっこん!
蓮を殴打した。
その間の抜けた緊張感に欠けた音、それを繰り出す者はただひとり――。
「幽玄!」
幽玄だった。勇一に少し遅れ、銀硝空間からこちらに来ていたようだ。幽玄のゴールデンハンマーに張り倒され、蓮は床の上に伏す。
幽玄、いくら蓮が卑劣で非道な野郎でも、弱ってるときにぶちのめすのは……!
つい幽玄を責めそうになったが、幽玄は振り上げたゴールデンハンマーの意味をあきらかにした。
「蓮! ひの様のあたたかなお心を身を持って知るがいい! これは、治癒の力……! このお力で、毒も緩和できるはず……!」
幽玄……! 蓮を痛めつけるんじゃなくて、治療してあげようとしてたのか……!
「ひのちゃんの、創ったものなのね……! すごい、確かに、これならきっと毒も消せるのでは……!」
ゆかりからのお墨付きが出た。ゆかりと幽玄はうなずき合い、ついでに勇一も白玉もうなずきに参加した。勇一と白玉は、その不思議な効能について、ちんぷんかんぷんではあったのだが、全面同意したくなっていた。ふたりがそう言うなら、そうなのだろう、と素直に信じた。
幽玄は、ゴールデンハンマーを高く振り上げた。一撃では無理でも、何度か打てば、毒消しになるだろう――。
制裁かつ救済。
打つことで治る、救済でもあるが、制裁のような形にもなる、と思ってしまった。勇一は「もっとやれ、幽玄、この際思い切り」、と密かに拳を握りしめた。
「ふざけるな……!」
ゴールデンハンマーの一撃をかわし、蓮は立ち上がって叫んだ。
「貴様らの、施しなど受けない……! お前らごときに助けられるなんて、そんな屈辱……!」
あきらかに、蓮はつい先ほどより元気になっていた。少しふらついているようだが、立ち上がり、叫ぶことができている。やはり効果は絶大のようだ。
幽玄は、冷ややかに蓮を見つめている。ゆかりの頬には、涙が流れ落ちている。勇一は――。
「さっきから、なんだよ……!」
我慢ならず、叫んでいた。
「お前ごとき、とか、屈辱、とか……!」
蓮に先ほどぶつけられた言葉が、勇一の頭をよぎる。
『会社に通い、時折ミスをしつつもたまに業績に貢献して、テキトウに恋愛してほどほどの結婚、地味でごく平凡な日々を送る、そんな人生でよかったのにね。君は自分が選ばれた特別な人間だって思ってるだろうけど、本来の姿は、どこにでもいる冴えない会社員に過ぎないんだと思うよ』
勇一は叫び続けた。すべてを低く小さく見積もるような蓮の悪意に満ちた呪いの言葉を吹き飛ばす、魂からの抵抗だった。
「いいじゃないか! どこにでもいる冴えない会社員だって……! ささやかでも穏やかな日常を暮らせること、それがどれだけ貴重でありがたいことか……! 予言とか、不思議な力とか、あってもなくても俺は俺だと思ってる……! そんなことを超えて、今生きてるだけでもすっげー奇跡で、すっげー尊いことなんだよ……!」
語彙力、と思った。ひねくれた悪党に、こんな言葉が届くわけがないと思った。でも、止められなかった。言わずにはいられなかった。
「ゆかりちゃんも幽玄もひのちゃんも、みんな一生懸命今を大事にして、みんなの『今』を守ろうと必死に頑張っているんだ……! 自分だけが最高っていう最低思考のお前が見下せるようなものなんて、この世界になにひとつないんだ……!」
蓮の口元が、ゆっくりと吊り上がる。血を吐き真っ黒に見える口が、ぽっかりと開けられた。
焦点の合わないような目で、勇一を見つめる――。
「ふふ……。だから、嫌なんだよ。凡人は――。みんな大切、みんな仲よし、みんなが最高――。まったく、おめでたいね。現実というものを、まるで見てない。お前らみたいなのに救われるくらいなら――」
あっ、と息をのむ。一瞬で、あまりに唐突で、誰も動くことができなかった。
ドッ、と鈍い音を立て、蓮は己の胸の辺りに、隠し持ったナイフを突き立てていた。それはおそらく、自分の母親である光咲を襲ったときに使ったナイフ――。
「蓮……!」
蓮の左手には、隕石。胸の辺りにナイフを突き立てたまま、蓮は隕石を震えながら掲げた。
「暗黒を旅した大いなる運命の石よ、時を動かし地の鎖を解け……!」
呪文、か……?
勇一には、なんのことかわからない。しかし、とても不吉なものを感じた。本能がなにかを察知したのか、勇一の全身に鳥肌が立つ――。
「あははは……! 宇宙の時間、ついに使ってやったぞ……! 二つの重要な条件、『封印をかけた、一族の子孫』と『術者である僕自身が、痛みを受けるような人選』、完璧じゃないか……! 僕の命、それこそがこの上ない発動条件……!」
「な、なにを言っている――」
冷汗が流れ、勇一の鼓動が、速くなる。よくわからない、よくわからないが――。
よくないことが起きる――!
「僕の手で、封印を、解いてやったぞ……! 僕こそが、最高の術師――」
蓮は笑いながら狂ったように叫んだ。
蓮の手から滑り落ちる隕石。まるでスローモーションのように見えた。
隕石が転がるのを見届けず、蓮は自身の血だまりに倒れた。
なんてことだ……!
蓮は、絶命していた。
勇一は力なく首を左右に振る。こんな最期、望んでいなかった。いったい、なんのために生き、なんのために自ら死を――。
最高ってなんだよ……! 蓮……!
勇一は足元まで流れてきた蓮の血の上に、拳を叩きつけた。なんの涙かわからない涙が、知らずにあふれ出る。
「封印が……!」
激しく動揺する勇一をよそに、ゆかりと幽玄が声を震わせる。
まさか……!
まさか、と思った。封印、と言われて浮かぶのは、三きょうだいの「父」――。
あれが、来るのか……!
漆黒の闇の奥、背後の邪神像が、音を立てながら揺れていた――。




