第77話 命名
風を切り、下降する。
あちらの世界では深夜だが、ここは異界、銀硝空間。緑がかったダッグエッグブルーの空が広がっていた。
新しい化身を創るには、気力が足りない。それよりも、手っ取り早く――。
蓮は、化け物の気配のするほうへ急いだ。異界に入り、こうして飛び回るのにもエネルギーを消費する。それがなくても、今日は術を使い過ぎている。
「これは、ずいぶん大きいな……!」
蓮は感嘆の声を上げた。眼下に見えたのは、森の中を疾走する、巨大な――大型トレーラーくらいの全長がある――シャコのような形の化け物だった。森に隠れる気はまったくないのか、全身が七色に光っている。
こいつを操ってやろう。
対、幽玄として。自分は勇一に向かうつもりだが、うまくやれば幽玄もろとも勇一も一度に処分できそうだ、と思った。
ここでやってしまえば、死体も見つからない。
蓮は、森を走るシャコの怪物の眼前で下降を止め、宙に浮かぶ。
「異界の化け物よ。我に従え――」
呪文を唱えた。
「まずい……!」
化け物のほうへ下降する蓮の姿を見て、幽玄が叫んだ。
「止めなければ――」
幽玄の言葉がどういうことか、蓮の意図はなにか、この時点で勇一にはよくわからなかった。
「え? 止める?」
もしかして、蓮、化け物を操れるとか――?
幽玄が駆け付けたタイミング、化け物のほうへ飛び去る、そして、蓮が去り際に放った「面白いことに、なってきた」という言葉。それらが意味することとは――。
「化け物の力を利用するつもり、そういうことか――!」
遅れて、蓮の思惑に思い至る。
「急ぐぞ……! 勇一、白玉、そして傘……!」
幽玄がそちらへ目掛けて飛び立ち、勇一を乗せた白玉も後に続いた。
しかし、後方の勇一へ投げた幽玄の言葉は、意外なものだった。
「蓮が、返り討ちに合う……!」
「えっ、どういうこと――」
先ほど幽玄が止めると言ったのは、蓮のこれ以上の凶行を阻止する、という意味ではなく、蓮自身を守る、そういった意味だった。
白玉が飛行速度を上げ、幽玄の隣に並ぶ。
「ゴールデンハンマーを使ってみて、私もなんとなく感覚としてわかった」
幽玄は、自分が手にしている黄金に輝くハンマーのヘッドを、ほんの少し勇一のほうへ向けつつ語る。
「ひの様の術は主に、癒し、守護。言うなれば『光の術』だ。その術によって創られたこのハンマー。蓮の体を叩いたとき――、なにか、抑制するような印象を受けた」
「抑制……?」
「ああ。蓮のなにかを。おそらく――、蓮の邪念のこもった術を、一時的に封じる効果があるんじゃないか――」
眼下では木々が枝葉を揺らし、バキバキという枝葉が折れるような音がする。さらには、光。なにか、明滅している――。
「蓮……!」
上空から緑の中に分け入ったとき、勇一は幽玄とともに目撃する。
エビだ。しかも、キモイ。
上から見るとシャコそっくりの化け物ではあったが、正面からみた印象は、とりあえずエビだった。シャコよりエビのほうが見た目としてはメジャーだから、それ系でまず浮かぶのはエビだ。
しかし、エビやシャコと異なる外見上の大きな差異がある。その化け物は、身の毛がよだつような特徴を持っていた。
口が丸く顔いっぱい大きく開いていて、まるで筒やホースのよう、そしてその筒状の口には歯がびっしり並んでおり、少し飛び出した眼球らしき器官はなぜか口の周りにこれまたびっしりと並んでいた。そして、常に眼球はそれぞれギョロギョロと不規則に動いており、寒気を催すのに充分すぎる仕様だった。
勇一は、心の中で名付けた。
エビシャコキモイ。
新種生物なら第一発見者が学会に報告し名付けるのだろうが、これは生き物ではなく化け物なので、蓮に次ぐ第二発見の勇一が名付けていた。
「くそっ、なぜ効かないんだ――!」
蓮の戸惑いの怒声。化け物を操れないこと、攻撃の術が使えないこと、そのことに戸惑い、混乱しているようだ。ゴールデンハンマーの一撃の影響だと、まだ蓮は気付いていないようだった。
蓮は、素早く化け物の攻撃を交わしながら飛んでいた。エビシャコキモイは足がたくさんあるのだが、前足のようなものに細かな突起のついた大きなハサミがある。それを蓮に向け、振りかざし続けている。枝を切り、飛び散る葉を切り刻みつつ、蓮へと突進する。シャコのように、ハサミに挟まれなくとも打撃だけでも相当な破壊力がありそうだ。
勇一は、叫んだ。
「蓮、早く離れろ! お前の術は、効かない――!」
「なぜ僕がお前ごときに指図を……!」
早口ではあるが、一語一句噛みしめるように吐き出される、蓮の低い声。
「ひどいやつとはいえ……! 俺も幽玄も、お前を見殺しにするなんて、できない……!」
術がどのくらいの時間使えないかはわからないが、術が使えなければ蓮はただの人だ。巨大な化け物を前にして、勝てるわけがない。
「だから、俺と幽玄は来たんだ……! ただ、命を助けたいから……!」
止めたい、と言った幽玄。きっと、鏡家の使役鬼、その存在意義を超えて。ただ、目の前の命を助けたいと思ったのだ。
命の中身が、腐っていようと、命は命だ――。
平和ボケとも、お人好しとも、なんとでも思え、と勇一は思う。
幽玄には、もしかしたら自分の手でなら蓮を殺してしまうという未来もあるのかもしれない。しかし、きっとこれは違う。幽玄の望む結末ではないのだ、と思う。
「くそ、僕がこんな屈辱……!」
勇一が傘を構えて化け物に向かっていき、幽玄がゴールデンハンマーを大きく振り上げた、そのとき――、怒りと苛立ちのこもった声を吐き捨て、蓮は姿を消した。
もとの世界に戻ったのか……!
蓮が逃げたことを、その瞬間勇一は安堵してしまっていた。ひのやゆかり、蓮に命を狙われた光咲、皆のことが心配ではあったが、すぐ目の前の一つの命が奪われずに済んだこと、そこに確かな喜びがあった。
甘いのかもしれない。厄介な敵をなくす好機を逃しただけなのかもしれない。でも……。
こんなことで人生の結末を迎えてしまうのではなく、人の社会で正当な裁き――正当に裁けるのか、疑問はあるけれど、とりあえず傷害という罪は問えるだろう――を受けてほしいと思う。更生が、見込めないのだとしても――。
「勇一! 傘の攻撃は待ってくれ! それより蓮を追ってほしい……!」
ぴっこーん!
幽玄が勇一に向かって叫び、ゴールデンハンマーをエビシャコキモイの頭上に力を込め振り下ろす。少々外殻が柔らかいのか、ぼよん、といった感じで、エビシャコキモイの、ゴールデンハンマーの当たった付近が揺れた。
「早く……!」
「わかった……!」
勇一を乗せた白玉が、『枠』を抜ける。
枠の向こう、ひののいる病院の廊下に出るのかと思った。
「え……!」
どうやら、直近で空間を開けた者がいる場合、自然とそこへ向け枠ができるようだ。それで、勇一と白玉は普通に蓮のあとを追うことができた。
勇一が出たのは、真っ暗なお堂の中。暗闇の中、ぼんやり見えたのは――。
「お前さえ、お前さえいなければ……!」
ゆかりの上に馬乗りになり、ゆかりの首を絞めている蓮の姿だった。




