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第74話 花の香り

 銀硝空間(ぎんしょうくうかん)で、勇一と蓮が対峙する少し前。

 半封印の世界に、幽玄と優月(ゆづき)、対するは三きょうだいの「父」。

 今、幽玄と優月は燃え盛る炎の海の中にいた。


 なにもない中、燃え続ける炎、きっとこれは通常の炎ではなく、「父」の魔の力によるもの。


 幽玄はそう判断していた。優月の防御の術が効いているので、幽玄も優月も、今のところ炎によるダメージはなかった。


 ゴッ!


 炎の壁を突き破るように、拳が飛んできた。四本の腕から繰り出される四つの拳が、無秩序に幽玄へと迫る。

 飛び避ける、刀で打ち付ける、身を屈める、後退し、時に前進する。

 幽玄は、そうしてかわしつづけた。やはり、「父」の皮膚は幽玄の刀を弾き、ダメージを与えることができない。


 動きが速く、的確……! 一撃でも当たれば、致命的だ……!


 優月の術で、ある程度回復したとはいえ、黒炎(こくえん)から受けた傷が、いまだ幽玄の動きをにぶらせる要素となっている。


 キンッ!


 刀が弾かれ、飛行できるとはいえ幽玄の体は大きく体勢を崩される。

 炎に、風が走る。拳だ。幽玄は上昇しそれをかわすが、さらに続けて拳が飛んでくる。避けても、間髪入れず次、また次と休むことなく丸太のような腕が突き抜ける。


 四本の腕……! 攻撃がうまく読み切れない……。今もなんとかかわせたが、危ないところだった……!


 炎の魔力で、視界も「父」の魔の気配も掴みにくいものとなっていた。視界と気配察知、どちらも炎によって大きく損なわれていた。


 でも。

 

 でも、と思った。この絶望的な状況の中、かすかな救いがあった。

「父」はずっと優月には目もくれず、幽玄を執拗に攻撃し続けている。その事実だ。


 きっと、血の匂いだ。やつは、黒炎に直接攻撃した私を、真っ先に仕留めようと考えているに違いない。


 もしも、蓮だったら、戦闘の中優月への攻撃もぬかりなく行うだろう。そうなれば、常に優月を守ることを意識しなければならないところだった。それが、攻撃をかわし続けてきた今、優月と離れ、うまく距離ができていた。現時点では「父」が優月に攻撃を仕掛ける可能性は低い。

 

 私が、今、やつを倒さなければ……!


 封印の術が影響している状態で、この魔力は脅威だと思った。もし封印が完全に解けたのなら――、と想像すると恐ろしいものがある。

 

 なんとしてでも、私が今倒さなければ……!


 勇一のもとへも、一刻も早く駆け付けたいと思った。どうにかしてこの「父」を倒し、勇一の援護へ――。


 飛んでくる、岩のような拳。ハッとする。とっさに刀に力を込める。火花が散るようだった。弾かれる。体ごと、飛ばされた。


「うっ……!」


 地面に叩きつけられた。拳の直撃は免れたが、激しく体を打った。

 幽玄は人ではないが、体へのダメージはやはりそのまま活動エネルギーに影響し、機能停止、さらには死――消滅――に繋がる。

 薄暗い異界の空を見上げる幽玄の視界、感覚がなにかを捉える。

 足裏。「父」の巨人のような足裏が見えた。踏み潰す気だ。

 一瞬、幽玄の心にある考えがよぎる。


 勇一の援護。もしかしたら、その考え自体がもうすでに間違えていたのかもしれない。


 勇一は、夕闇と架夜子(かやこ)を倒していた。傘と白玉(しらたま)の力もあるが、たった一人で。


 援護が必要なのは、私のほうだった――。


 声が耳に届く。おそらく優月の呪文だ。でもたぶん、無理だろうと思った。

 きっと、間に合わない。「父」の恨み、三きょうだいの恨みを一身に受け、自分はここで終わるのだろうと思った。


 鏡家の使役鬼(しえきおに)としての役割を自ら捨てようとした、罰なのかもしれない――。


 ほんの一瞬の間のはずなのだが、心は流れる雲のようにうつろう。幽玄の口元から、笑みがこぼれる。


 勇一。勇一は強くなった。きっと、彼なら大丈夫――。安心して――。


 勇一が駆けつけてくれたとき、うっかり不安だ、と口に出してしまった自分を笑う。不安なのは、自分のほうだった、と――。

 握っていたはずの刀が、手から離れていた。

 鏡家の人々の術によって生まれた刀。実体のない、イメージの刀である。しかしそれは幽玄にとって、自身の体の一部のような、大切なものだった。


 紫月(しづき)様、私も、紫月様のもとへ――。


 遠い水平線の先の輝きが、見えた気がした。


 ズン……!


 大地を踏みしめる、恐ろしい音。舞い上がったのは、土埃なのだろうか。

 その音を、幽玄は、聞いていた。


 え。聞いていた……?


 押し潰されたと思ったその身。しかし今、幽玄は宙にいた。


「幽玄……! よかった、間に合いましたね……!」


「優月様……!」


 踏み潰される寸前、優月が幽玄を引っ張り、そして抱えて飛び立っていた。


「呪文で一時的に、自らの速度と力を上げました」


 優月は術によって、身体的能力を限界まで上げたのだという。


「ありがとうございます……! しかし、早く私を離さないと優月様に危険が……!」


「標的にされる、そう言いたいのですね」


 すでに感じる圧。後ろから、追い掛けてくる気配が、強い圧となって感じられる。


「このまま、勇一さんが向かった扉を目指します」

 

 優月の言葉に、幽玄は驚く。


「でも……! 刀……! それに、このまま逃げ切れるとは、とても……!」


 刀までは、拾えなかった。踏み潰されてはいないと思うが、その場に手放したままだった。


「時間がありません。それに、戻るわけにも……。刀は、残念ですが――」


 優月の術によって上がった飛行速度は、確かに目を見張るものがあり、あっという間に炎の海を抜けていた。

 しかし、追い掛けてくる「父」との距離はさほど開かない。もしかしたら、じわじわと縮んでいるかもしれなかった。


 防御の術と、飛行能力、それから力の増大……。優月様は、つい先ほどお生まれになったばかり。あまりに無謀な術の使いかたなのでは……。


 幽玄の心に広がる懸念。

 ごうっ、という音と、熱がふたたび迫る。背後から、「父」が炎の柱を吐く。

 優月は呪文を唱えていた。声が、細い。しかし、効力はあった。新たな炎も熱を感じなかった。


「幽玄」


 気のせいだろうか。優月の声が、どこか遠い気がした。幽玄を抱える腕も、ずいぶん弱弱しいような気がした。


「私という存在が……、あなたの心を苦しめないといいな、そう願ってます」


「優月様……?」


 進む先、扉が、見えてきた。勇一の目には、のれんと映ったものだ。


「……少しなら、飛べますか?」


 優月は、優しい声で尋ねる。


 まさか……! まさか、優月様……!


「さあ、扉です……! 行って……! 幽玄! 振り返らずに――」


 幽玄は、首を動かし優月の顔を見上げた。はずだった。優月の顔は――。


 優月様……!


 もう、残っていなかった。顔を縁どる美しい黒髪だけが、かろうじて残っており、顔も首元も異界の空に透けてしまっていた。ゆかりの術によって創られたばかりの化身、優月。大きなエネルギーを使い過ぎ、その力は果て、術がほどけて完全に消滅しようとしていた。


「優月様、申しわけありません……! 私の……! 私のために……!」


 幽玄は、叫んだ。あふれる涙、嗚咽と共に。

 その叫びは、優月に届いただろうか

 花のような香りが届く。きっと、それが優月。そして、それもすぐに消えた。

 風と音。拳が、飛んできた。

 幽玄の飛行は、かろうじてふらふらと飛んでいる、そんな状態だった。

 しかし、届いた。

 扉に。向こう側へ、抜ける。

 間一髪。間一髪で、拳が幽玄の体を打ちのめす前に、扉の先へと転がり出た。


「優月、様……」


 紫月だけでなく、優月まで失ってしまった――、しかし、幽玄はそこで倒れているわけにはいかなかった。

 立ち上がる。刀もない。なんとか、一歩歩み出す。


「ここは――」


 建物の中。廊下の端に、手すりがある。幽玄は、手すりを頼りに、角を曲がった。


「ひの様……!」


 長椅子に倒れている、ひのを発見した。


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