第73話 負けるわけにはいかない
これも、「術」というものなのだろうか。
長く続く病院の廊下の照明が、点滅していた。
窓もなく閉ざされたはずの空間で、どこからか、冷たい風が吹き込んでくる。
蓮の唇から、忌まわしい呪いの言葉が生まれ落ちようとしていた。
「呪法、赤裂……!」
これ、たぶんやばい……!
勇一が息をのんだそのとき、握りしめた先の傘が、音を立てて開く。
うっ……!
得体の知れないなにかから身を守るように、傘を体の前に突き出す。護りの力を持つ傘、きっと呪文攻撃から身を護る効果があるんじゃないかと思った。
傘を持つ手に、強い風圧のような手ごたえを感じる。
なんだこれ……!
勇一の足の皮膚が裂け、血が噴出していた。通常の傘より大きい傘だったが、傘で覆いきれない部分、ひざ下のあちこちに傷が生まれ出血している。
「廊下で傘なんか開いちゃ、だめだよね」
声が、近い……!
いつの間にか蓮が、傘の裏側、勇一の左脇に回り込んでいた。
「蓮、おまえ……!」
勇一の足下には、毛玉怪物の白玉がいる。白玉が蓮から距離を取るように、急いでひのの倒れているほう、さっきまで蓮がいたところへ勇一ごと移動しようとした。
おそらく、ある程度大きさ自在の白玉は、ひのも背に乗せようとしたのだろう、そのとき廊下の上を飛びながら、白玉は自分の体を今までより二回りくらい大きくした。
それが、仇になった。
勇一の手首に、強い痛み。後ろから走ってきた蓮が追いつき、勇一の左側、白玉の上に飛び乗っていた。そして、傘を叩き落とそうと、勇一の手首に思い切り手刀を振り降ろした。
「させるかっ……!」
ぶんっ、勇一は傘を離さず、振り回した。一瞬、躊躇した。いくら防御のためとはいえ、人に向かって傘を当ててしまうなんて、と。
幸か不幸か、空振りに終わる。蓮の動きは素早く、すでに白玉から飛び降りていた。
ひのちゃん……!
飛び続ける白玉、長椅子のひのの、真横に来た。
でも、俺、傘を持ってるし、また蓮が攻撃してきそうだし、ひのちゃんを抱えることが……!
血の流れ出た足が、痛みと共に脈打つ。一つ一つは深い傷ではないと思うが、今にも座り込みたい思いに駆られる。抱き上げる自信が、ない。勇一が戸惑っていると、白玉の体から、にゅっと白い腕が出てきた。
あっ、そうだ……! 白玉、手も出てくるんだっけ……!
白玉が缶ビールを開け、掲げていたことを思い出した。あのときも、突然棒のような二本の腕が出ていた。
白玉が、ひのを抱えようとした、そのとき――。
がっ!
後ろから駆け寄った蓮が、白玉の腕を蹴り上げる。
「蓮、お前、白玉になんてことを……!」
「ふふ。勇一さん。そんなことより、さっきの僕の術、どういう術か、知りたくない……?」
白玉は、腕を引っ込めて蓮から離れようと、もと来たほうへと逆走した。たちまち、蓮とひのから距離ができる。
ひのちゃん……! 今は、ごめん……! 絶対、助けるから……!
コツ、コツ、冷たい音を響かせ、蓮がゆっくりと歩いてくる。
「僕の得意な呪法は、水に関するもの。水。つまり、君の体内の。君の血液に、干渉した」
俺の、血……!?
曲がり角手前で、白玉は動きを止めた。蓮の言葉の続き、ひのの様子、勇一のためというのもあるが、白玉自身もそれらを把握したいのだろう。
「傘の護りがあったから、それくらいしか、影響しなかったけど。でも、何度も発動させたら、さすがに大の大人でも色々危ないよね」
ああ、ちなみに、と蓮は付け足す。
「護叔父と陽花叔母は、わざわざ力を加減してあげたよ。体内の水分じゃなく、屋外だから雨を使った。でも人に対して使うのは初めてだったから、ちょっと強くぶつけ過ぎちゃったのか、二人を木まで飛ばしてしまった」
なんだって……!
「たぶん、あちこち骨折しちゃったかも。大切なひのちゃんの両親だから、二人とも内臓が無事だといいなって、願ってる」
照明が、ちかちかする。蓮は、絶えず穏やかな微笑みを浮かべていた。かえって勇一さんの場合みたいに、血液を使ったほうがよかったかなあ、なんて今はちょっと考えてるけど、とまで平然と言ってのけていた。
この男は……、化け物か……!
勇一は、蓮の張り付いた笑顔を目に映し続けていた。コツ、コツ、と一歩ずつ歩み寄る、人の姿をした、なにか。
「君は……。予言の君は、油断ならない。悪いけど、ここで君には退場してもらおうと思ってる」
関わらなきゃよかったのにね、と蓮は優しい声で言う。会社に通い、時折ミスをしつつもたまに業績に貢献して、テキトウに恋愛してほどほどの結婚、地味でごく平凡な日々を送る、そんな人生でよかったのにね、と囁く。
「君は自分が選ばれた特別な人間だって思ってるだろうけど、本来の姿は、どこにでもいる冴えない会社員に過ぎないんだと思うよ」
蓮――!
明滅する、乳白色の廊下。白い白玉の毛並みが、廊下が、一刻ごとに赤く染まっていく。
『勇一。白玉』
傘の声が、勇一の頭に響いてきた。それは、白玉にも聞こえているはず。
傘の声。勇一は、うなずく。白玉も。
「呪法、赤裂……!」
蓮の呪文が薄暗い廊下に響き渡る、一瞬前。それは、明滅し続ける照明が、一瞬光を放ったとき。
空間に、枠ができる。
白玉は、傘を掲げた勇一を乗せ、傘の指示通り銀硝空間に飛び込んでいた。
「はあっ、はあっ……」
勇一は、白玉の背に座り込んだ。ひざから下にできた複数の傷口を、手で抑える。
なんとか、間に合った……!
おそらく、さっきの呪文が叫ばれたのだろうと思った。寸前に銀硝空間へと逃げ込むことで、新たな傷は防げたようだった。
さっき、ひのを連れ出せなかったが、かえってよかったのかもしれない、と思った。きっと彼女はゆかり同様、銀硝空間には入れない。
そこまで思いを巡らせたときだった。
「お忘れ、かな」
声が、聞こえた。
「僕も、異空間に入れる術師なんだけど」
銀硝空間の空の上、目の前に蓮が立っていた。
こいつ、銀硝空間の空、飛べるんだ――。
うーん、ますます化け物、と勇一は変なところに感心していた。
「蓮……。あんた、勘違い、してない?」
呼吸がうまく整わない。しかし、勇一は途切れ途切れの声で、言い返す。
「俺らが銀硝空間に来たの、逃げるためじゃなくて、思う存分、お前と戦うためなんだけど」
病院じゃ、迷惑だろ、と言いつつ立ち上がる。白玉の背の上。
本当は、とっさの退避に過ぎなかった。でも、はったりでもいいから言ってやろう、と思った。
「蓮、お前を、俺が……! いや、俺と傘と白玉が、打ちのめす……!」
指差し、宣言する。声が震えてしまっていたが、勇一ははっきりと言い切った。
「へえ。威勢がいいね。どうやって?」
くすくす、蓮は笑う。
どうやって、だろうねえ。
勇一自身、疑問だった。
むしろ、蓮、傘、白玉、勇一の中で、勇一自身が一番疑問に思う。
教えてくれ……! この冷血野郎に勝つ方法……!
足元が、おぼつかない。腹からの深い呼吸も難しそうだった。立っているのも正直やっとというところだった。
そんな勇一の様子を、蓮が気付かないわけがない。
「勇一さん。君の遺体は、銀硝空間の中、永遠に取り残されるんだろうなあ――」
せめて、負傷してなければ――!
あの三きょうだいを、乗り越えてきた。一応人である蓮に、負けるわけにはいかない。
「幽玄も、ゆかりの作る化身も、この先きっといなくなるから。異界の中、君は誰にも見つけられない」
かわいそうな勇一さん、蓮は眉をしかめつつ、笑う。
銀硝空間の雲が、ゆっくりと流れていく――。




