第72話 僕が
簡単な話だったのに。僕と、養子縁組すればよかったんだ。
蓮は、眼鏡のレンズの向こう、意識を失っているひのを、見下ろしていた。
蓮は、あの日、と思い起こす。
あの日。ゆかりの両親の訃報を受けた日……。僕は、確かに運命を感じたんだ――。
鏡家の当主とその妻の死。残されたのは小学生の娘。
僕が。
空いた当主の座。れいという女性当主の実例もあり、鏡家に、男子を当主にすべきという決まりごとはなかった。しかし――、ゆかりはまだ保護されるべき年齢。
僕が。
四十九日も明けてから、親戚一同鏡家に集合した。
『ゆかりを、鏡家当主とする』
ゆかりの伯母――蓮の母親――の光咲と陽花が未成年後見人となり、ゆかりが当主の座に就く。誰も異論を唱えなかった。ゆかりの術師としての才を、認めてのことだった。
自分が挙手し、意義を唱えるなどということは、蓮のプライドが許さなかった。
誰かが言えばいい、と思った。蓮を養子縁組し、ゆかりの兄として、鏡家の当主として迎え入れよう、と。
お母さん、なんで言わないんだよ……!
戸籍上のことでも、息子を手放すのが惜しいのか、と思った。自分の欲で、息子の栄光ある未来を踏み潰す気か、と思った。
僕が……!
愕然とした。膝の上で握りしめた拳の指の関節が、固く白く浮き出ていた。
あの日。ゆかりの両親が死んだと知った日。蓮は、一人喜びを嚙みしめていた。自分の時代が来る、そう思ったのだ。
あの運命の宣告のあと、どこをどう帰ったのか、蓮は記憶にない。そのあと数日間のことも、あまりはっきりとは思い出せない。
僕こそが、当主に値する器の持ち主だった……!
他の者なら、まだ納得できたかもしれない。年端もいかない小生意気なガキが自分を差し置いて、一族を統括する地位に就くということが許せなかった。
僕が当主になっていたら、過去を探ったりはしなかった。
鏡家の過去の資料から、当主任命が覆る方法を探ろうとした。方法がないにしても、なにかしらの粗を探せるかもしれないと思ったのだ。
あのときほど、優しくよい従兄を演じていた過去の自分自身に感謝したことはなかったな。
両親のいないゆかりの様子見を装い足繁く訪問し、ほとんどその都度鏡家の蔵に侵入した。
当主になれば、過去の因縁について知ることになる――口伝されなくとも、ゆかりの父の手記を知ることになったはず――のだが、当然ながら蓮はそのことを知らない。己の術を行使しつつ、違った角度からも蓮は調べていた。
鏡家の化け物退治の歴史を綴った文書に載っていないが、この町付近で発生したあきらかな不審死――化け物が絡んでいると蓮の感覚が訴えるもの――について、慎重に探りを入れた。
その過程で、ゆかりの祖父母、そしてゆかりの父母の死の真相の輪郭を、蓮は把握する。夕闇たちの「母」と「父」、夕闇たちきょうだいの存在だ。
それはちょうど、夕闇たちの封印が歳月によって緩み、彼らが頻繁に出没するようになった時期と重なる。ついに蓮は、夕闇との接触、対話に成功した。予想外だったのは、夕闇が意外にもゆかりの父が「母」を殺したという恨みを超え、「親戚」という血を重んじ、初めから友好的だったことである。
夕闇たちの情報以外にも、初めて知ったことがあった。
そういえば、僕の他にも、異端な術師がいたっけ――。
様々なことを探る中、鏡家の蔵の奥深く隠されていた文書の中の、意外な発見だった。はっきりと書かれてはいないが、鏡家から排除されたと思われる、犯罪に手を染めた術師がいたらしい。隠れて報酬を受け、依頼主の依頼通り、人などに向け呪詛を掛けていた者がいたようだった。
その悪事についても処遇についてもうまく術を掛けてごまかしてあって、おそらく鏡家の者の中でも勘の鋭い者以外、気付かないような文書だったが――、どうやら読み解くと事実が発覚してからその術師への対処としては、術師としての力を封じ、鏡家から追放したようだった。呪殺も行っていたようだったが、呪術ということで法に触れることはなかったようだ。
その後家系図からも排除され、その者の存在はなかったことにされた。
力を封じる。そんなことも可能なのかな。当時よほど能力の高い術師がいたに違いない。
蓮は、ふと屈みこむ。長椅子に横たわるひのに、手を伸ばす。
ミルクティー色に染めた、ひのの髪。病院の冷たい廊下に流れ落ちた髪を、蓮は一房すくい上げた。
染めなくても、きれいな髪だったのに。
ひのはもともと黒髪というより、少し明るい栗色の髪だった。くせっ毛で、緩やかにカーブしている。
幼いころから、見ていた。おてんばで、騒々しくて、そそっかしいところのあるひの。よく笑い、その名の通り、あたたかな陽の光のような子だった。
こうして眠っているように横たわっていると、かわいらしい人形のようだ、と思う。
短時間でなく一生意識を封じ続ける。僕なら――、できるかもしれない。
短時間の意識を閉ざすことは、こうしてできた。さらには過去の術師たちが行っていた能力を封じるというものの応用で、完全に意識を封じる、もしくは支配し意のままに操る、そんなことも可能かもしれない、と思った。
僕だって、稀代の術師だ。過去の術師ができたこと、それ以上を僕ならできるはず――。
微笑み掛ける。力なく眠り続けるひのに。
君は、僕の物になるんだよ。僕の当主の座をより一層確固なものとするために。そして君は、僕の崇高な術の実験体でもある。
精巧な人形になるんだよ、とため息交じりに蓮は呟く。
そして――、ゆくゆくは僕の完璧な愛の対象になるんだ。
ひのの長い髪を手ですき、可憐な耳をあらわにする。そっと耳元に口を寄せ、口づけをするように囁き掛けた。
「まるで少女から大人の女性になるように、完璧な唯一無二の理想の妻に変身できる、それって最高の幸せ、術師としても栄誉なことなんじゃないかな」
甘く囁く唇が、耳から、当然の帰結として唇へと移ろうとした、そのとき。
びゅん、奇妙な音がした。
「い、いたーっ!」
は。
蓮は、立ち上がり振り返る。
「びゅん」は、風を切って廊下を曲がってきた音。なんとも間抜けな声は、間抜けな顔の人物から飛び出した声。
ああ。なんだ。
なんだ、と思った。心底、興ざめした。
「なんだ。勇一さんじゃないか」
無粋にも現れたのは、白玉に乗った勇一。右手には、傘。
「な、なんだとはなんだーっ! ひのちゃんに、なにをしたっ!? ひのちゃんから、離れろ……!」
愚かな男。
蓮の薄い唇から、乾いた笑いが漏れた。
「よく僕を見つけたね。それだけは褒めてあげよう。でも――」
幽玄の気配は、感じられない。駆けつけたのは勇一ただひとり――。
「病院は、静かにしたほうが、いいんじゃないかな」
年長者のたしなみとして、諭すように述べた。
「蓮、ひのちゃんは――!」
「僕を呼び捨てに、したね」
蓮は、人差し指と中指を揃え、印のようなものを結ぶ。
「生き急いでいるね。愚かにも――」
空気が、変わった。




