第64話 雲海
大地は、雨を受け入れ続けていた。
冷たい地面に、そっと横たわらせる。
そうするのがいいような気がして、 両手の指を胸の上で組んでいるような姿にした。
せめて、安らかに。
勇一は、祈る。自分にはもう、祈ることしかできないと思った。命を奪った自分がそんなことをできる資格があるのかどうか、わからないけれど。
草の上の夕闇は、血に染まっていること以外、眠っているように見えた。
ひとつの遺体。あの最初に遭遇した化け物のように、消えることはなかった。
このあとの処置は、知らない。
たぶん鏡家の人たち、それと警察とか色んな組織とか団体とか、鏡家にはそういったところとパイプがあるらしいから、このあとなんとかうまく処置していくんだろうと思う。
人一人分、なかったことにするのは、やはり色々大変だろうと考える。
処置って、なんだ。なかったことって、なんだ……!
考えて、また胸が痛んだ。膝の上の自分の拳を、無意識に強く握りしめていた。
おおおおん。
獣のような声が、勇一の耳に届く。
『勇一!』
頭の中に傘の声がして、ハッとする。
だんっ、と大きな音が響き渡った。
空から、大きな獣が降りてきていた。
獣……!?
まるで、虎のような姿だった。大きな口と覗く牙、鋭い眼光、太く逞しい四つ足、長く立派な尾。暗くてよくわからないが、虎との違いは額に角があること、体の模様があの虎模様ではなく、呪術的なタトゥーのデザインのように、渦を巻くような黒い模様であることだった。
「兄様……!」
勇一は、獣の発する声に驚く。その声は、架夜子の声だった。
これが……、架夜子の変身した姿なのか……!
呆然と眺める勇一の背を、何度も強めにつつく者がいる。
「白玉……!」
白玉だった。
早く乗れ、そう白玉の黒い瞳は訴えていた。
勇一は白玉の背に飛び乗る。至近距離の架夜子の攻撃のほうが先なのではないか、と恐れつつ。
しかし、すぐ目の前の虎から、爪が繰り出されることはなかった。
架、夜子……。
架夜子は、泣いている、と思った。
虎のような姿をしているが、夕闇の遺体の前、うなだれたように動かない。
そうか。兄の死を悲しんで――。
『勇一!』
白玉が空中に浮上したとき、右腕が、引き上げられた。傘の力で。
ものすごい衝撃が、右腕に走る。
「うわっ……!」
鬼の形相の黒炎が、音もなく目の前に現れ、槍を振り下ろしていた。勇一は傘の力によって、かろうじてその槍の攻撃を傘で受け止めていた。
なんて力だ……!
空中で、ぶつかり合う、傘と槍。黒炎の槍に、押されてしまいそうだと思ったが、すぐに槍は引っ込められた。夕闇のとき同様、傘の護りの力が槍に伝わり、黒炎は衝撃を受けたようだった。いまいましそうに、黒炎は首を左右に振っていた。
「小僧、貴様よくも弟を……!」
暗闇の中、光る目、黒い影。黒炎の全身から、怒りが噴出しているようだった。黒炎の目は、激しい感情に燃え、口からは煙を吐いているかのようだった。
勇一は、白玉の上、傘を構える。
戦えるのか、俺はこの怒れる鬼神のような男と……!
額に流れる冷たい汗を感じつつも、呼吸を、整えろ、自分に命じ、意識する。
そして、架夜子。
黒炎と同時に、架夜子の動きも考えねばならない。
そのとき、地上から奇妙な音がしていることに勇一は気付く。
え。
ばり、ばりり、ばり。
砕くような、音。まるでそれは――。
硬いなにかを食べている、音……!?
それはきっと、骨を、噛み砕く音。
「兄様、兄様、兄様……」
ただ、兄様、と呼び続ける声。
ぞっとした。虎が、架夜子が、兄である夕闇の亡骸を食べていた。嗚咽をもらしながら。
「おお。架夜子……。夕闇の死を、深く悼んでいるのだな――」
黒炎の声は、震えていた。深い悲しみと嘆き、そして慈しみ、共感。それからなぜか少し喜びが混じったような――。
「架夜子。俺のぶんも、残しておいてくれ。今は、こいつの始末が先だ」
シェアする感じ……!?
これが、彼らの別れのしかた、愛情の示しかたなのか、と勇一は思う。恐ろしいほどの深い愛情のようだが、勇一はあまりの嫌悪感のせいか、現実逃避してつい軽薄な捉えかたをしてしまっていた。
うおっ……。
吐き気をもよおしたのかと思った。いや、実際吐き気はあった。
しかし、今はそういった心理的な生理現象ではなく、白玉の急な加速によって生じた、体に感じた衝撃からだった。
いわゆる「Gがかかる」、という状態。そんな白玉の動きは、黒炎の攻撃を読んでのことだった。
黒炎の槍による突き、それが勇一の胸の辺りに迫っていたのだ。白玉は、勇一を乗せその場でいったん後退し、そこから勢いよくさらに浮上していた。
「ふん。傘による防御の前に、体を貫通するはずだったのだが」
黒炎の声が、下から追い掛けてくる。白玉は、上昇し続けていた。まるで、天を目指すように。
雲が、近い。雲へ、突っ込んで行く。
白玉、雲を抜ける気かーっ!?
すっかり冷えた体に、追い打ちを掛けるように雨と冷気が全身を打ち付ける。
雲……!
息苦しかった。前方が見えない。
さっと、視界が明るくなる。ついに、雲を抜けた。
雲の上は、快晴だった。
雲海――。
月と星が、異様なまでに美しかった。
こんなときにまで、人は美しさを感じるのか――、そこに勇一はなんともいえない、切ないような、皮肉めいているような、しかし今生きていることの喜びを覚えるような――、複雑な気持ちになる。
がっ……!
激しい音がした。
え。
音のほうへ視線を向ける。
「勇一。来たぞ。今度は私が真打、かな」
静かな声が響く。そこには、月明かりに照らされた銀の長い髪の――。
「幽玄……!」
幽玄の姿がそこにあった。
幽玄の刀と、黒炎の槍のぶつかり合う音だった。
「勇一。ゆかり様をお連れして、少し遅れた。すまない」
ゆかりちゃんが、来ている……!
すぐ近くにゆかりが来ていること、無事であることに安堵する。が、すぐに疑問が生まれた。
ひのちゃんは……? それから光咲さんは……? それから――。
皆の安否に不安を覚える勇一だったが、それより今に集中しなければならなかった。
「幽玄……! どけ……! まずはあいつだ……!」
黒炎が、幽玄の刀を大きく振り払う。
幽玄と俺、そして黒炎の二対一……! もしかして、これはチャンス……?
たとえば、武術の達人同士の戦いに、単なる村人Aが突っ込んで行く。それはどう考えても邪魔にしかならず、村人Aの自殺行為でもある。しかし、傘の導き、傘の力がある。そして、白玉の能力と判断力も。
黒炎に隙ができるとも思えないけど――、でも、たぶん、今しかない……!
「白玉、行くぞ、黒炎を……」
黒炎と幽玄が火花を散らしていくところへ、突進していこうと思った。傘の力、白玉の力を信じて。
俺は心を鎮め、ただ一瞬に賭ける……!
刀と槍、しのぎを削る中へ、と覚悟したそのとき。
「あなた、よくも、兄様を」
冷や水を浴びせられたようだった。振り返り、勇一は見る。
今の声は。架夜子。
神秘の月の光、星の明かりが照らしていた。
今は、虎ではなくなっていた。紺青の空、吊るされたように浮かぶ。
冷たい人形のように表情を失くした、血まみれの少女が。




