第62話 ダージリンティーと、スイートポテト
「あっ、あれはなんだ……!」
人間たちが、指差してくる。
「失礼ねえ。レディを指差すなんて」
架夜子は、見下ろす。空の上から。駆けつけた警官や救急隊員が、顔に恐怖を張り付け、宙に浮く架夜子を一様に指差していた。
ずぶ濡れの長い髪の少女が、不気味に黒い影として浮かんでいる。彼らの目には、とんでもなく禍々しい亡霊、もしくは妖怪として映っているに違いない。
きゅうきゅうたいいんが、三人。おまわりさんが、ええと、じゅうにん、くらい。
何人いようと、武器を携えていようと、架夜子の敵ではなかった。むしろ、大勢いてもらったほうが大歓迎だった。
「でも今、そんなにおなかすいてないしなあ」
くすっと笑い、小首をかしげる。それから品定めをするように、人間たちを上から眺める。
集まっている人間たちは、鍛えている男たちばかり。しかも若くない者が多い。あまりおいしそうには見えない。
架夜子は、ぽん、と両手を叩いた。
「そうだ、あとでみんなと一緒においしく食べるために、狩る方法を工夫してみようっ」
一人で楽しむには、めちゃくちゃに破壊するに限るけど、おいしさは損なわれてしまう。それではいけない、と思った。内臓は傷つけないように、頭もおいしいところが詰まってるし、狙うのは首かな、と思った。
父、兄ふたり、自分。このあと訪れる一家団らんの様子を想像する。こんなにたくさんよい状態で、架夜子はえらいね、優しい子だねって、きっと皆褒めてくれる。
自分に向けられるあたたかな家族の笑顔を想像すると、えへへ、と自然と笑みがこぼれた。
うん。食材が子どもや若い女の人以外の場合、料理人の腕の見せどころってやつ?
狩猟の段階で、もう料理は始まっているのだ、なんて一人納得する。
「一瞬で! なるべくフレッシュキープの方向で!」
叫んだとき、ついでに口も裂けていた。これはレディとして、うっかりだ。あらわになる、牙。
「うわあああ!」
若い警官が、拳銃を構えた。何人かの警官も、若い警官の叫び声につられるように、銃口を空中の架夜子に定めた。
「待て!」
上司と思われる警官が、若い警官を制止する。そして、その警官はポケットからなにかを取り出した。
そして、呪文のような謎の言葉を呟き始めた。
「魔の存在よ、この場より去れ!」
それは、一人だけではなかった。他に、二人の警官が手に持ったなにかを架夜子のほうへ向け、戸惑いながらもまじないのような言葉を唱え始めた。
「き、消えよ、去れっ……!」
架夜子は、警官たちの行動に目を丸くした。
「あれえ、それって……!」
彼らが掲げているのは、小さな鏡だった。鏡面に、なにか呪文がしたためられたお札のようなものが貼ってある。それを架夜子にかざしている。
鏡家! これは鏡家の術だ……!
キーン……。
耳鳴りがした。架夜子は思わず両手で耳をふさぐ。
近くに、あのおばちゃんたち以外の鏡家の者もいる……!
警官たちの持っている鏡は、鏡家から事前に渡されたものなのだろうと思った。それを掲げ、呪文を唱える。しかし術師ではない警官たちだけでは、効力はないに等しいはず。どこか周囲にいる鏡家の人間が遠隔からサポートし、術を有効にしているのだと思った。
「うるさあいっ!」
攻撃としては微力だが、うっとうしい。必死にお経を唱えている者もいた。それも耳障りで、不快だった。
「あんたたちなんて、一撃で――」
架夜子が、腕を振り上げた。指先には長い爪。
術も、にわかな読経も、架夜子の行動を制するまでには至らなかった。このまま勢いよく下降し、人々のほうへ突進していったら、次々と首を狩ることができるだろう。血を噴出し、首のない死体が多数転がる、そんな惨劇が今にも繰り広げられようとしていた。
黒い雲が動き、おぼろげな月が顔を出す。
「はっ」
架夜子の動きが止まる。直感が、架夜子の体を貫いていた。
唐突に、恐ろしく、悲しい知らせを感受していたのだ。
まさか。そんなまさか。
嘘だ、と思った。
しかしすぐさま否定し、そんなことは信じられない、絶対に、と思った。
景色が、揺らぐ。世界が崩れ落ちてしまうような気がした。
「兄様……!」
一人の警官の銃口が、火を噴く。しかし、それはただ空を切り、闇の中へと消えていった。
架夜子は、すでにその場から飛び去っていた。一心不乱に、ある場所を、あるひとを、目指して。
兄様、と小さく呼んでみる。
月はもう、姿を隠していた。
震えながら、心の中で問う。
兄様が……、死んだ……?
小さな涙が落ちていく。地上へと。認めない、認めたくなかった。
しかし、人ではない彼女の特殊な感覚は、告げる。決して目を逸らせられない真実として。
夕闇が、死んだ。
と。
嘘よ……!
「そんなこと、あるはずがない!」
叫ぶ。喉も、胸も、張り裂けてしまいそうだった。
『こらこら。架夜子。架夜子が運命なんてことを語るのは、まだまだ早いですよ』
困ったような、嬉しさを隠せないような、穏やかな笑み。ずっと、向けられるはずだった慈しみ――。
あの日の午後を、思い出す。
『架夜子は頑張り屋さんだなあ』
細い指で丁寧に注ぐ、ダージリンティー。ことり、と差し出されるスイートポテトは幸せの一皿。
湯気の向こうの、微笑み。
これからもずっと、ずっとそんな時間が――!
牙も、爪も消えていた。
架夜子はただ、愛する兄の元へと急いだ。




