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第61話 残酷な手ごたえ

 勇一は、仰向けのまま地上へと。

 

 ああ。ごめん。お母さん――!


 落下していく体。待ち受ける地面。

 お母さん、と思った。やはり、人は生まれるときも死ぬときも、手を伸ばすのは「お母さん」なのだろう。


 それなのに、蓮というやつは……!


 怒りを覚えた。と、同時に感じたのは、憐み。


 なんて悲しい男なんだろう。


 自分の母親を殺そうとする。どういう背景があるのかわからない。わかりたくもない。蓮にしかわからない悲しみや辛さがあったのかないのか知らないが、感謝や愛や尊敬、そういったものがない心とは、どれほど寒々しいものなのだろうか、と思った。

 勇一が考えを巡らす時間はなかった。

 地面との激突、その衝撃、痛みを覚悟し、勇一はぎゅっと目をつむった。


 ああ。ごめん、みんな――!


 ぼふっ。


 感じたのは、衝撃。衝撃の、柔らかさだった。


 地面って固いはず。常識的に。


 勇一は予期していた感覚と違う状況に戸惑い、驚く。自分が今感じているのは、まるで高級羽毛布団のような、白玉(しらたま)のような――。


「白玉っ!」


 急ぎ、勇一は上半身を起こした。まるで台車に乗っているかのよう、草が顔にかかりつつ素早く横に流れていく。濡れた草の匂いと顔を打つ感触にほんのちょっと閉口したが、やがてふたたび全身が持ち上がる。浮上していた。

 勇一は、傘を握りしめたまま白玉の背に乗っていた。

 白玉は、急降下して先回りし、間一髪地面と勇一の間に滑り込んでいたのだ。


「白玉、ありがとう……!」


 叫ぶ。助かった、助かったのだ! と心の中で繰り返す。ギリギリのところで助かっていた。白玉の速度と機転のおかげだった。勇一の体は、自分の意思とは関係なく勝手にがたがたと震えており、頬はいつの間にか涙で濡れていた。

 呼吸は乱れていた。しかし、勇一の、傘を持っている右腕が勢いよく上がる。


 え。


 バッと、傘がひとりでに開く。

 驚いていると、硬いなにかが連続で傘に当たる音と手応えがある。傘の布は強い衝撃にも破れることなく、弾いていた。感覚としてはまるで、金属を投げつけられたような――。

 

「残念。生きてますね。やっぱり、ちゃんと殺しておかないとだめですね――」


 夕闇――!


 夕闇の声だった。そして、投げつけられたのは夕闇の武器、あの葉のような刃、だった。

 次の瞬間、息をのむ。

 ついさっきまで上空から聞こえてきた夕闇の声、上から投げつけられた刃。

 しかし、どういう速さなのだろう。今、夕闇は勇一と白玉の目の前で宙に浮いて立っている。


「さようなら、勇一さん」


 夕闇の指の間で、光る刃。息をする間もなく、正面から投げられるのだろう。


 傘……!


 開いたままの傘を、顔の前にかざす。夕闇の刃が到達するのが先か、傘の動きが先か。

 しかし白玉は、こんな危機的状況にも関わらず、なぜか進路も変えず速度を上げ続けていた。


 白玉、それ、無理ゲー!


 そのまま夕闇へ突っ込む気か、と思った。それはあまりに自殺行為と思えた。

 

 白玉ーっ!


 傘の布が、大きな音を立て刃を弾く。傘の動きが間に合っていた。

 白玉は、夕闇が刃を投げたあとに生じる少しの間、そこを狙って突進するつもり――、傘の先端で突き刺す気だ、と勇一は即座に白玉の意図を理解する。

 刃を投げ終えたあと、果たして、夕闇は――。

 上空に逃れていた。白玉は、すぐに進路を変更し、右上空を目指す。その動きは夕闇を追うためというより、目標地点だった夕闇のその向こう、目前に迫った木を避けるためだった。


「ふふ。なかなか、やりますね。勇一さん。その度胸も、賞賛に値します」


 夕闇の笑い声が、雨音を縫うように聞こえてくる。ほんの少しの間に、距離を取ったようで姿が見えない。


 どこだ、どこへ行った……!


 夜の闇、雨に紛れ、夕闇が見えない。どこから攻撃が来るか、恐怖で心臓が破裂しそうだった。


『私の気配。息遣い。そういうものを、感じ取れ』


 唐突に、幽玄の言葉が脳裏に蘇った。

 暗闇の「鍵の間」での幽玄の言葉だ。


『感覚を、研ぎ澄ませよ』


 そうだ……! 暗闇でも動きを感じる……! 傘と繋がりやすく、呼吸、丹田呼吸、だ……!


 意識した。焦りと恐怖をはるかに超え、深く、深いところへと。


 ヒュッ。


 闇を切り裂くような光。投げられた刃が、勇一の頬をかすめた。鋭い痛みを感じる。皮膚を切られ、血が出ているに違いない。夕闇の容赦ない攻撃が勇一に当たっていた。

 しかし、「かすめた」のだ。刺さったのではなく。


 俺、避けていた……! 自然に……!


 夕闇が、狙いを外すとは思えなかった。と、いうことは勇一の体が避けていた。鍵の間の幽玄との手合わせのように、避けることに成功していた。

 しかし、あのときのように無茶苦茶な、体に負担を強いるような動きではなかった。ごく自然な動き。しっかり、傘との連携が取れている証拠だった。

 一つ、二つ、三つ。勇一は、風を切り襲い来る刃を交わす。

 白玉の素早い移動。上昇と下降で逃げ続け、今、勇一と白玉はふたたびそう高くない位置、地上数メートルの位置にいた。


「うっ」


 四つ目、背に走る痛み。服を切り裂き、背中の皮膚が真一文字に切り裂かれる。勇一は、痛みにうめき声を上げていた。


 三つの軌道。そして、四つ目の軌道……。夕闇の動き、次は――。


 夕闇は素早く移動しつつ、様々な角度から勇一に狙い定めた刃を飛ばしている。しかし、今、勇一は木に囲まれた位置にいた。


 木に守られているおかげで、夕闇の位置も動きも、ある程度制限されるはず……!


 こちらの動きも制限されるわけではあるが、それでも状況に光が差したような気がした。しかし、そのとき勇一が気付いたのはよいことだけではなかった。白玉の速度が、落ちてきていると思った。さすがに無理をさせすぎていた。


 白玉――。


 涙がにじんできた。白玉はなにも言わない。言葉を発せられないだけではない。疲れた様子を微塵も出さない。そこが悲しく苦しい。

 早く、早く状況を打開せねば、と思った。


 俺が、始末をつけねば……!


 逃げるだけ、避けるだけではだめだと思った。白玉が、消耗するだけだ、と。

 冷たい雨は、いまだ止まない。


 感覚を研ぎ澄ませるんだ。攻撃。攻撃に移らねば……!


 感覚をもっと研ぎ澄ませようと、胸ポケットの隕石に、ふと目を落とす。


 宇宙。


 星の宿で感じた、宇宙の感覚を思い出す。

 勇一の思いに呼応したのか、隕石と傘が、青白く光っていた。


 傘の護りの力に、夕闇は苦痛を感じていた――。


 勇一の心に、一つの閃きがあった。

 闇を突き抜け、刃が迫る。


 いた……!


 避ける。そして刃の軌道から、勇一は夕闇のいる位置を知る。


 隕石、ごめん……!


 勇一は、力いっぱい投げた。胸ポケットの、隕石を。

 傘を持たない状態の勇一には、それほどの投げる力もコントロールもなかったかもしれない。

 しかし、傘の力が勇一の運動能力全般を爆発的に底上げしていた。


「なっ……!」


 夕闇の声。見事、隕石が当たっていた。


「白玉、頼む――!」


 夕闇は、空中のその場で痺れたように動けないでいるようだった。

 勇一は、傘を構える。


「ごめん……!」


 突き進んだ。ひたすらに。鋭く長い傘の先端を向け。

 謝るのは、なんの言い訳にも慰めにも免罪符にもならない。しかし、声を上げずにはいられない。

 貫いていたから。傘が、夕闇の体を。


「ああ。勇一さん……、あなたは、ご立派です……」


 夕闇の唇から、ため息のような言葉がこぼれ出る。


「ごめん……、ごめん……! 俺は……、俺たちは……!」


 勇一は、叫ばずにはいられなかった。夕闇を抱きかかえるような形で、勇一は時を止めた。傘が貫いていなければ――、親しい友の抱擁のようだった。

 勇一の肩から、夕闇はわずかに顔を上げ、勇一を見つめた。

 意外にも――、透明な笑顔だった。


「ふふ。残念です、が……。これもまた、移り行く季節、なのでしょう、ね……」


 雨が、体を打つ。残酷な手ごたえが、勇一を苦しめる。


 俺たちは、生きていたいんだ……!


 叫んだのか、心の中だけの叫びだったのか、勇一にはわからない。


「どうしてあなたが苦しそうにしているんですか……。あなたは、ばかですね」


 夕闇は、笑った。呆れているように。震える冷たい指先が、勇一の濡れた頬をなぞる。


「私の最期に、美しい彩りを……、ありがとう」


 夕闇の力が、抜けた。


 ごめん……!


 勝者の喜びなどなかった。

 夕闇が、永遠の穏やかな微笑みを浮かべているのに対し、勇一は叫びながら泣き続けた。

 傘も白玉も、なにも言わない。

 黒い木々が、静かに見守っていた。

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