第60話 空と重力と人間
一斗、勇一、誠一郎。
勇一たち三兄弟は、皆「一」の付く名前だった。次男である勇一に「一」が付くのは、両親の思いからだった。
「生まれた順番が違うだけ、兄弟それぞれ、唯一無二。お父さんお母さんにとって、一番の宝物なの」
母も父も、そう言って笑う。
「兄弟、仲よくね」
両親は平等に愛してくれた。それぞれ素直に育ち、兄弟仲はとてもよいと思う。
今、目の前にいるのは、黒炎、夕闇、架夜子。
彼らも、三きょうだい。
降りしきる雨の中、空中に浮かぶ、三つの人の姿をした者たち。夕闇は、架夜子を大切な妹と言っていた。
『きょうだい、なかよくね』
自分の境遇と彼ら、なにが違うのかと、ほんの一瞬勇一は自らの心に問い掛けていた。
だめだ、そんなことを考えては――!
感情がある、思いがある、言葉を話す、しかしやつらは人じゃない、人を襲う敵だ、勇一は、改めてそのことを心に刻む。無理やりにでも。
ゾンビだ……! ゾンビと思うんだ……!
それが非現実的過ぎて無理と思うのなら、天敵と思えと自分に命じた。人類の天敵、それと戦うのだ、と。
天敵と、戦う。逃げるわけにはいかない状況のとき、それは生物として、自然なことだ。
傘を、構える。三つの人影のどれを狙うべきか、傘の先端が揺らぐ。傘に溜まった大きなしずくが、地上へと落ちていく。
「勇一、光咲様を頼む」
「幽……」
ハッとした。瞬間移動をしたのかと思うほど、幽玄は素早く勇一のすぐ傍に飛来する。
「勇一。自らの呼吸を見よ。そして傘、白玉と一体となれ――」
呼吸――、そうだ……! 呼吸……!
幽玄に言われて初めて、勇一は自分が緊張と気負いで、がちがちになっていることに気付く。
幽玄は早口で告げた。
「光咲様は、意識を失ってしまわれた。救急車が到着したはず。早く、光咲様を――」
そうだ! 救急車……! それから、警察も来てるはず……!
ずっとサイレンが聞こえているが、そういえば音の変化がなかった。見下ろせば、赤い光はその場から動かない。お堂より、少し離れた場所だった。木で覆われた小さな山の中で、停車できるのがそこだけだったのだろう。そのとき勇一は確認できなかったが、護の車も救急車と警察車両の近くに停められていた。
光咲さん……! 早く、早く救急隊員のところへ――!
幽玄はいったん刀を腰に収め、光咲を両手で抱え直していた。空中で光咲を確実に受け渡すためだった。
勇一も傘を脇に挟むようにして、両手を伸ばす。まるで人形のように力が抜けた状態の光咲が、受け渡されようとした、その瞬間――。
冷たく重い、夜の空気が動いた。それは、二つの動き。
えっ。
一つは、鞭のようなつる。光咲を受け渡そうとする幽玄と、今まさに受け取ろうとする勇一の間を、鋭い音を立ててつるが風を切る。
夕闇が、放ったつるだ。まるで稲妻のようだった。
そしてもう一つは槍。幽玄の頭を貫こうと、黒炎の鋭い槍の先が迫りくる。
勇一を乗せた白玉が察して咄嗟に大きく後方へ下がり、幽玄は幽玄で光咲を抱えたまま下降した。
それぞれ攻撃を受けることは免れたが、光咲の受け渡しは、失敗した。
くそっ、連中の動きが、速すぎる……!
夕闇は、その場に留まっているようで、追撃もない。黒炎は、幽玄を追っていた。夕闇は、そんな黒炎と幽玄の様子を見ているようだった。
「ありがとう、白玉……! でも……」
逃げるわけにはいかない。白玉に、幽玄のほうへ飛ぶよう指示しようと思ったが、
架夜子、架夜子は今どこに……!
その前に架夜子の位置も確認しようと思った。
「んー、なんか賑やかになってきたっぽい?」
架夜子は、そう述べつつ地上に視線を留めていた。どう見ても、それは――。
「きゅうきゅうしゃから出てきた人たちは、あのおばちゃんを病院に連れてくため? で、おまわりさんたちが走ってきてるのは、なんだろう、たぶん、蓮さんを捕まえため、かな?」
架夜子はそんな言葉を残し、お堂を目指す救急隊員や警察官のほうへ、急下降を始めていた。
彼らを襲う気だ……!
急ぎ、勇一は叫ぶ。
「白玉! 架夜子を追って……!」
幽玄と光咲の無事が気になっていた。紫月がどうなったのかも、早く知りたかった。そして、蓮と陽花と護が、どうなっているのかも気になっていた。しかし、その瞬間選択できるのは一つの行動だけである。
いくつかある選択肢の中、勇一は、架夜子から無関係の人々を守ることを選択した。
「勇一さん。そうはいきませんよ」
夕闇……!
勇一は、息をのむ。地上へ向かった架夜子と勇一の間、遮るように夕闇がいた。
「架夜子は大切な妹、そう言ったでしょう」
夕闇の口元は、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし夕闇の細い目が、見開かれている。勇一に据えられたその目は、微動だにしない。まるで、見つめるだけで災いをもたらす視線と言わんばかりに、圧を持って迫ってくるようだった。
夕闇の手元は、動かなかった。しかし、勇一にはわかる。時間はほとんど必要ない、今動いていないとしても、次の一瞬にはつるが勇一の全身を切り刻むに違いないと。
先に、間合いに入って傘で貫く。つるが弧を描く、その前に。
それしかない、と思った。
『自らの呼吸を見よ』
ついさっきの幽玄の言葉を思い出す。
大丈夫。きっと、うまくいく。
深く吐き、深く吸い込む。そのとき夕闇の手は――、
ない、と思った。あったはずの右手がない。左手も、さらには、全身も動かずそのままなのに、ただ利き手であろう右手だけが――。
え、ない? 夕闇の体の横に、下げられてたよね? 右手……!
それはつまり、動いた、ということ。
風が来る。風を切る音と共に。きっと、来る。つるの先が、勇一へと――。
そのとき。勇一の、腕が持ち上がる。持ち上げようとしたのではなく、きっとそれは傘の意思。
傘……!
バシッ、恐ろしいほどの力、手応え。腕が痺れるようだった。
深い呼吸で、ひとつになった勇一と傘。傘が勇一の腕を動かし、つるを止めていた。
つるは、そのままの勢いで傘に巻き付いた。
まずい! 傘を、引っ張り取られるのでは……!
巻き付けたつるで、傘を引っ張られてしまうのでは、と思った。
「くっ……!」
しかし、それは杞憂だった。夕闇は顔をかすかにしかめ、苦しそうに小さくうめき、傘からつるを離した。つるは、自在に消したり出したりできるようで、空中で消えた。
そうか……! 傘の、護りの力……!
傘と勇一の胸ポケットに入れた隕石が、光っていた。護りの力がつるを通して電流のように伝わり、夕闇は苦痛を感じたようだった。
「ふう。その傘とあなたの共闘、我々にとって、なかなかに厄介なもののよう」
夕闇はため息を吐きながら右手を振っている。少し痺れているのかもしれない。
これは、もしかして――。
いけるのかもしれない、と思った。もしかしたら、もしかしたらだが、勝てる見込みもあるのかも、と。
「まあ、私の動きに、どこまで付いてこれるか、ですね。傘ではなく、あなた本体が」
ハッとする。先ほどの幽玄のように、いつの間にかすぐ目の前に、夕闇の顔があった。
速っ……!
夕闇の笑顔。夕闇の曲げられたひじ。夕闇のひじはきっとすぐに爆発的な力で伸ばされ、勇一の胸元に叩き込まれるはず。
しかし、それは空を切る。白玉の速度だ。白玉が、急降下する。しかし矢継ぎ早に出される、夕闇の足先。先ほどより下がった位置の勇一の額を蹴ろうとしていた。白玉が右下に下がる。夕闇が付いてくる。繰り出される夕闇の、拳、蹴り、ひじ。
ちょ、ちょっとーっ!
目が回るようだった。激しく見える景色が変わり、夕闇の打撃が襲い掛かる。傘も、応戦しようとするが、白玉の早い動きを読み切れないようで、うまく機能し得ない。
夕闇の指の間、いつの間にか、なにかが光っている。葉のような、刃のような――。両手の人差し指と中指の間、薬指と小指の間、都合四枚あるようだ。
「ここは、空中です。あなたのその足となるもの、それを仕留めたら、人間であるあなたはどうなるでしょうね?」
夕闇は、両腕をクロスさせていた。その動作と、一瞬力をためた感じから察する。
その刃のようなやつを、白玉に投げつける気……!
勇一は、夕闇の意図を完全に理解した。
勇一は、叫んだ。
「白玉! 小さくなれ! いつもみたいに!」
投げつけられる、きらめく四つの光。勇一の足の下の、白玉目掛け――。
「なんと……!」
息をのんだのは、夕闇のほうだった。
投げつけた葉のような刃は、すべて空振りに終わり、白玉を傷つけることはなかった。
白玉が、勇一の命令に従い、小さな姿になっていたから。
しかし、それは図らずも夕闇の狙い通りの結果となっていた。
小さくなった白玉から、勇一は転落していた。傘と共に。
今まで下降していたせいもあり――、あと地上まで数メートル。
よかった、白玉――。
勇一は、満足そうに一人笑みを浮かべる。我ながら今まで、よく頑張ったと思う。
勇一は衝撃を予期した。激突のときは、すぐそこ。
白玉、そして頑丈な傘は、きっとだいじょうぶ。
もともと隕石から作られた傘は、落下の衝撃は大丈夫なんじゃないかと思った。
雨、刃、勇一と傘。それらは今、引力の支配下にあった。




