第57話 蓮華天人
サイレン、大勢の無関係な人が来てしまう……!
自分たち側が呼んでしまったわけだが――、警官や救急隊員が、架夜子たちと遭遇してしまう、そのことを勇一は恐れた。
あ、と勇一は閃いた。
そうか。遭遇させないようにすれば、いいんだ。
名案だと思った。というか、この際それしかないと思った。架夜子たちは今まで廃屋に隠れ住んでいたわけだが、蓮が本性を現した今、きっと架夜子たちももう隠すことなく人々に襲い掛かるだろうと想像した。
だからこそ、鉢合わせになってはいけない、と思った。これ以上、誰も犠牲になって欲しくなかった。
「白玉! いったん、ここを離れよう!」
勇一は、白玉の背に叫ぶ。
救急隊員に光咲さんを病院に運んでもらい、同時に警官に蓮を逮捕してもらう。俺がここを離れれば、架夜子たちもついて来るはず……!
幽玄は普通の人から姿が見えないし声も聞こえないらしいが、きっと光咲の返り血を浴びたと思われる蓮、そして怪我を負った光咲を見れば、すぐ状況はわかるだろうと思った。さらに、ゆかりの話では、警察たちは鏡家と繋がっていて、事情を知っているらしい。現場の警官がどれほどの情報を把握しているかわからないが、説明する者がいなくとも、色々すぐに察するはず、と思った。
「そうだ、もう一度、銀硝空間へ……!」
銀硝空間へ行き、架夜子たちを自分のほうへ引きつけようと思った。
白玉のスピードなら、きっと時間を稼げる……!
勇一の指示通り、白玉は枠を超えた。
雨が当たらない。もう、銀硝空間だ。
「白玉、大丈夫か? しばらく、飛び続けられるか?」
白玉は、うなずくような仕草をした。本当は疲れているのかもしれないが、それを感じさせないくらい、元気よくうなずいた。
「架夜子! 夕闇! 黒炎! 俺は、ここだ……!」
勇一は、銀硝空間の空の上、大声で叫んだ。そして、気付く。
もしかしたら、同じ枠を超えて出てくるのかもしれない。出てくる瞬間、それがチャンスなんじゃないか……!
銀硝空間とこちらを繋ぐ見えない枠。そこから、架夜子か夕闇か黒炎、術師三きょうだいがひとりずつ出てくるだろうと思った。
そこを、突く……!
狭い穴から、出てくるイメージだ。こちらからの攻撃が、圧倒的に有利だ。
勇一は傘を構えた。傘の先、鋭い先端。傘の不思議な力もあるから、うまくいけば一撃で倒せる可能性もあるだろう。
勇一の髪についた雨が、冷汗と共に額からあごの下へと流れ落ちる。
実際はごく短い時間が、永遠のような気がした。
不意打ち、卑怯な作戦のような気がする。やつらには人の血も流れているという。しかも、鏡家、なのだという。
鏡家。鏡家の、親戚――。
瞬間、勇一の心にゆかりやひのの顔が浮かんだ。「人の血が流れている」、その情報の意味合いが、一気に近くなる。
ぞっとした。そんな身近な話だったとは――。
落ち着け。心を鎮めよ、勇一。
自分に言い聞かせる。勇一の心を読んだのだろう、傘の声が聞こえた。
『言っておく。勇一』
頭の中に自分の鼓動の響きを感じつつ、傘の声に心を傾ける。
『連中は、半分かそれ以下か、あるいはもしかしたらそれ以上、人の血が流れていると言っていた。それは、人でもあるということ、勇一、お前はそう考えるようだが――』
殺人、恐ろしい単語が、勇一の脳をかすめる。そしてそれは、脳から、心へ。
だめだ、今、それを考えてしまっては……!
心の反逆。自分の思考が、心が勇一を攻撃しようとしていた。矛盾しているが、勇一の心が勇一自身の敵になることで、勇一を守ろうと――。
やめなさい。勇一。危ないですよ。無謀な戦いです。たとえ成功しても、あなたはこの経験を記憶に刻み、一生悔やみますよ。
そんな具体的な誰かの声のように、思考が勇一を責め立てる。自分の中の一部分が、自分を説得しようとしていた。心の最後の抵抗だった。
今更、と叫びたかった。今ここでまた揺れるのかよ、と。
『連中は、人かもしれない、のではなく、はっきりと人ではない。半分の時点で、もう違うのだ。あれらは、人と敵対する存在、なのだ』
え。
人ではない、と傘は言う。半分の時点で、もう違う、と。
『ゾンビだ』
は?
傘の意外過ぎるワードに、目が丸くなった。
今、なんつった……?
ゾンビ、そう傘は確かに言った。
『たとえば、ゾンビ、それだ。ゾンビ映画というもの、ひのが話していただろう。あんなふうに思え』
えっ、傘! ゾンビ知ってんの!?
ぎょっとした。傘の、まさかのゾンビ語り。
そして思い出す。ひのが車中唱えていた「ゾンビ最強説」。もしかしたら、ゆかり、ひの、紫月、幽玄、傘などのメンバーで、映画鑑賞していたことがあったのかもしれない。
ちょっとシュールな映画館……。
想像してしまった。楽しそうである。いやいや、とすぐに余計な感想は追いやった。それより、と勇一は傘の言葉の意味を噛みしめる。
ゾンビ。もともとは知らない人、知人、もしかしたら家族や恋人。しかしゾンビになってしまったら、それはもう敵。襲い掛かるゾンビを、主人公たちは銃やなんやかやで、結局倒すしか救いはない――。
思いがけない新たな角度からの提案が、心に風を通すことがある。
覚悟が、決まった。
ありがとう、傘……! 俺は、俺は……! 自分の使命を、果たす……!
改めて、傘を構える。
来い……!
使命というのがあるのなら、できればもっと違う形のものであって欲しかったな、そんなこともふと思いながら。
見えない枠を、見つめる。
現れるのは、誰か。もう、逃げない。来るのを、恐れながらも、待った。
深い呼吸で、勇一は傘と一体となる――。
静かだった。
心が静かだからかと思った。
しかし、なんの変化も訪れない。ただ、風が濡れた服の冷たさを思い出させ、そして通り過ぎていく。
「……来ない」
架夜子も、夕闇も、黒炎も。誰も。
しまった――!
ようやく、思い至る。
やはり連中にとって、自分は脅威に思われていないのだ、と。
架夜子たちは、幽玄たちのほうへそのまま向かっていたのだ、と。
勇一は、急ぎ銀硝空間を出た。
紫月様、紫月様……!
幽玄は、雨の冷たさを、ひどく感じていた。使役鬼である自分が、自然現象を肌で感じるというのは、奇妙なことだった。
木の下から、蓮の声が聞こえてきた。
「幽玄。お前は、長い歳月を掛けた念が込められている。お前をほどくのは、ガキのゆかりが作った紫月とは違って、ずいぶん時間も手間も掛かりそうだ。それにもったいないね。どうせ始末に時間が掛かるなら、お前を眠らせて、何年掛かるとしても、お前の意識を入れ直して、再利用する、そんな方法のほうがよさそうだね」
なにを、言っているのだろう。
今の幽玄には、蓮の言葉がすぐには理解できなかった。虚ろだった。樹上で傷を負った光咲を支えるので精一杯だった。
幽玄が答えるより先に、肩で息をしつつ、青ざめた顔の光咲が声を上げた。
「紫月ちゃんを……! あなたは……! そのうえ、あなたは、幽玄の心まで……、殺そうとしているの!?」
「ああ。お母さん。傷が痛むだろうに。あまり、叫ばないほうが、いいよ」
蓮は、悲しそうに眉根を寄せた。
「ごめんね。お母さん。早く楽にしてあげるから。紫月についても、悲しまなくていいように」
紫月や幽玄を思いやる、優しいお母さん、そう言いながら蓮は、人型に切った和紙を懐から取り出した。
「化身。蓮華天人」
蓮がそう呟き、和紙に息を吹きかけた。たちまち、和紙は翼の生えた人のような姿に変化した。ゆるく波打つような髪も、瞳も、それから身にまとう衣も、すべて蓮の花のような淡い桃色の、輝くような美しい天の使いのような化身だった。しかし、しなやかな長い指には、細身の剣がしっかりと握られていた。
「蓮……!」
悲鳴のような、光咲の声。愛する息子だったはずの蓮の意図が、もうすっかりわかってしまっているようだった。
「さようなら。お母さん。今まで育ててくれて、ありがとう――。お母さんの命は、ちゃんと大事に使うからね――」
なにを――。
目の前に、剣を構えて迫る、化身。
遠くで聞こえる、サイレンの音。まるで悲劇の舞台を盛り上げるかのように。
この音は、確か、人間の……。
きゅうきゅうしゃ、ぱとかー。そんなものを指すのだっけ、ぼんやりと幽玄は思い出す。
剣が、迫る。
刹那――。幽玄の瞳に、光が戻った。絶望の暗闇から、無理やりにでも目覚めたように。
そうは、させない……!
光咲を左側に抱え直し、幽玄は剣を抜く。
させるものか――!
「あらあ。なかなかに、スリリングなことになってるー」
化身対使役鬼、剣と剣が、火花を散らす一瞬前。
起こっていることすべてを押しのけて、あどけない声が飛び込んできた。
「架夜子、夕闇、黒炎……!」
蓮が空を見上げ、驚いたように叫ぶ。
意外なことに、この場に時間の隙間を生じさせたのは、架夜子たちの出現だった。




