第55話 境界の向こうへ
声を張り上げられる状態ではないということは、人ではない幽玄にもわかっていた。
出血の状況から、おそらく背後からナイフで突かれたのだろうと思った。
雨が打ち付け雷鳴も時折轟く、そんな暗がりの中、狂ったように笑い続ける、蓮。
しかし、信頼する最愛の一人息子に深い傷を負わされた母である光咲は、どこからそんな力が出たのか、声を張り上げていた。
「蓮……! お願い、正気に戻って……!」
ぴたり、笑い声が止まる。
「正気……?」
蓮は、涼やかな目を大きく見開き、やがて唇の端を大きく持ち上げて笑みを作る。知的で柔和だった雰囲気はもうどこにもなく、取って代わったように、凶暴性が前面に表出していた。
「僕は、いつだって正気だよ? 変わらないし、なにかに支配されることもない。僕は、僕のままだ」
「どうして……! どうしてこんなひどいこと……!」
紫月に抱えられ、木の枝の上にいる光咲。紫月の唇は、かすかに動き続けていた。光咲に治癒の術を送っているのだ、と幽玄は気付く。光咲の容態は今以上悪化することはないだろうと、ひとまず幽玄は安堵する。
「どうして……? ふふ……。お母さんは、愚かだから……。ちゃんと一から説明しないと、全然わからないんだろうなあ」
蓮はナイフを持っていない左手で、長めの前髪をかきあげた。その瞬間だけ、幽玄の認識していた「蓮」が帰ってきたような気がした。
しかしそれは束の間だった。そしてそもそも、長年の認識自体が誤っていたのだ、と突きつけられる。
蓮は、勢いよく両手を広げた。なにかを、振り払うように。激しい怒りなのか、額、細い首、手の甲にはっきりと筋が浮き出る。
「ゆかり……! 小学生のガキ……! そんなやつが鏡家当主だなんて、僕は絶対許せない……! 歴史ある鏡家に、そんなことがあってはならないんだ……!」
まさか。
まさか、と幽玄は思った。
「鏡家の次期当主は、才も実力も資格もある、僕であるべきなんだ……!」
まさか、そんな、ちっぽけな理由で……?
蓮は、叫び続けた。いったん噴出した怒りは止められない。くすぶっていた思いすべてを、叩きつけているようだった。
「僕が、ひのを妻に迎える! そして、僕とひので、これからの鏡家の道を作るんだ……! 僕だったら、もっと賢く立ち回れるし、どの世代よりも鏡家を大きくさせることができるだろう……! この国の害となるものを排除するし、繋がるべき権力ともっと深い結びつきを得て、ゆくゆくはもっと機能的で無駄のない、美しい国へと導いていけるだろう……! 海外、海外だって、僕は視野に入れているよ? 僕とひの、そしてあの者たちの力があれば、愚民たちなど意のままに操れる……!」
空が、光る。走る、稲妻。落雷の音が響く、その一瞬前。
「ばかっ!」
光咲の叱責。
「あなたが、そんなばかな子だった、なんて……! あなたは、いったい、なにを見て、なにを学んできたの……!?」
光咲の声は、届かなかったのだろうか。蓮は、大きなため息をついた。
「ばかだなあ。お母さん。それはこっちのセリフだよ。お母さんこそ、僕のなにを見てきたの……?」
蓮は、くすくす、と笑いだす。そして、やっぱりお母さんには、全部声に出して親切に説明しなくちゃ、通じなかったんだあ、と続けた。
愚かな――。
幽玄は、銀の瞳に映す。大人の姿をした、小さな子どものような「怪物」を。
鬼でもない、と思った。これは、邪悪な欲にまみれた、歪んだ怪物――。
蓮は、肩をすくめる。
「ああ。ゆかり。紫月を通して聞いてるよね。本音をぶちまけちゃったから、ついでに紹介しとくよ。架夜子たち、三きょうだいは、鏡家の血筋の者だ。僕らとは、親戚だよ? ふふ。すごいよね。鏡家って。化け物とも、子ども作っちゃうんだもんね」
「蓮……!」
光咲が遮るように叫んだが、蓮の言葉は止まらなかった。
「びっくりした? ふふ、君たちは、闇に閉じ込められ、迫害されているかわいそうな親戚を、さらにやっつけようとしてたんだよ? ひどいよね。醜いよね。無垢な女の子には、当主なんて務まんないよね。だからやっぱり、清濁併せ呑む、度量のある僕が当主にふさわしいんだよ――」
紫月の治癒の呪文が、止まっていた。別人格とはいえ、ゆかりと繋がりあう化身である紫月。紫月の顔は青ざめ、あきらかに動揺している。その先のゆかりの心は、さらに大きく乱されているに違いない。
蓮が、紫月に視線を定め、左手を紫月のほうへ突き出し、声を上げる。
「消……! 偽りの人形、この世界に留まること叶わず、ほどけ、還り、去るべし……!」
紫月様――!
しまった、と思った。つい先刻、蓮は紫月を消し去ろうとしていたではないか。今の呪文の、言葉の響き、感じるエネルギーの性質。それはまさに、紫月という存在を――。
ゆかり様と紫月様の激しい動揺、それがお二人を一時的に分断する……! そこに強力な呪文をぶつけるということは――!
幽玄の体が、空へ舞い上がる。樹上の、紫月と光咲のほうへ。
手を伸ばす。紫月へ。
紫月の表情が、変化する。当惑している表情から、かすかに花開くように。
それは、どこまでも透明で美しい笑顔だった。
「幽玄――」
「紫月様!」
紫月の瞳から、こぼれる涙。輝き、頬を伝い、落ちていく。
輪郭が、ぼやけているように感じた。それはただ降る雨のせい、そう信じた。
雨の――。
『ありがとう。さよなら』
花のような唇が形どる言葉、いつもの憂いを帯びた少しハスキーな声は、聞こえなかった。
しかし、届いた。幽玄の胸に。心から、心へ。
紫月、様……!
幽玄は、腕に抱いた。紫月を。傷を負っている光咲と、共に。
しっかりと、ふたりを抱きしめた、はずだった。
「幽玄……」
震える声は、光咲一人のものだった。雨に濡れ震える体も、光咲ただ一人のものだった。
紫月――。
紫月の姿は、紫月のぬくもりは、なかった。
『ビスコッティとジャムのハーモニーのピークの向こう側に見える景色は、どんなものであるのか。また、おいしさの境目を超えない未来と超える未来、知ることと知らないことは、果たしてどちらが幸いであるか。また、超えたあとに、超えなかった過去というものを正確に推し量ることは、可能であるのか』
星の宿の、ローテーブルで交わされた、どうでもいい議論。
コーヒーの湯気の向こう、ふふふ、と紫月は笑っていた。
「超えてみたいわ。私は。たとえ知ることで、後悔することになっても」
知らないよりは、知ったほうがいいと、そのとき紫月は言った。
「幽玄は?」
ビスコッティにどっさりジャムを塗りながら、紫月は問う。
「私は――」
紫月の楽しそうな唇を見ていた。それは、山盛りジャムが向かう、美しくもきっと幸福な場所。
「私は。知らないまま、ただ恍惚と夢想し続けるでしょうね」
夢想。夢といえば、勇一がおかしなことを言っていた、と幽玄は思い出した。
「海を越えて欲しい」
勇一は、超えて欲しい、と言っていた。
「もっと自由に生きて欲しい」
幽玄は、今思う。
ついに、私は超えた、はずだった。
引いていた線。主の化身と、使役鬼。その境界線を。見えない高い壁を。
この手で、私は紫月様を抱きしめた、はず――。
さまよう瞳は、紫月を探す。
紫月は、どこにもいなかった。
超えることで、抱きしめることで、もしかしたら留められるかもしれない、そんな非現実的なことを考えていた。
しかし、留めることは、叶わなかった――。
「紫月様……!」
幽玄の慟哭が、嵐の夜を切り裂いていた。




