第49話 優しいお兄ちゃん
「優しくて、素敵なお兄ちゃんなんだ。蓮君は、ひのの従兄なんだけどね」
いつか、ひのは自分の友だちに自分をそう紹介してくれてたっけ、蓮は懐かしく思い出していた。
ひのちゃんのお願いは、僕としてはなるべく叶えてあげたいんだけどね。
少し湿った風が吹く。変わりやすい秋の空、夕刻前に雨が降り出すのかもしれない。
かん、かん、かんと音を立て、古いアパートの階段を昇る。
蓮と紫月、二人だけ。二人いるわけだが、普通の人には一人しか見えず、足音も一人分しか聞こえないだろう。
「ひのちゃんたちは、変わりない?」
爽やかな笑顔を、心掛けていた。化身の紫月に対しても。紫月は、ゆかりの化身であり、ゆかりと繋がっている。しかしそうでなかったとしても、蓮は同じ笑顔を向けただろう。相手がなんであれ、それがマナーだと信じていた。
「はい。皆さん、元気でいらっしゃいます」
紫月がうなずき答える。
紫月から勇一のアパートの鍵を受け取った蓮は、玄関を開けた。
「誰かに見られたら、僕は独り言を呟いてる人に見えるだろうなあ」
でもつい、紫月や幽玄には話し掛けちゃうんだよね、と蓮は笑った。
「へえ、これはすぐに作業も終わっちゃいそうだなあ」
勇一の部屋を眺め、蓮は感想を述べた。若い男性の一人暮らしの割に、きちんと片付いていたのである。しかも、ひのから伝え聞いた運び出す荷物は、ごくわずかだった。
「冷蔵庫も中身そんなにないし。作業自体は僕一人でもよさそうな感じだね」
じゃあ、始めよっか、腕まくりをした。それから蓮はてきぱきと、紫月に指示を出しつつ、一緒に片付けや運び出す荷物の準備をした。
「勇一さんは、皆となじんでる感じ?」
「はい。幽玄とも白玉とも傘とも、よき信頼関係を築いていらっしゃるようです」
「ひのちゃんやゆかりちゃんとも?」
「はい。もちろん」
それはよかった、安心したように笑い、蓮は掃除機の置いてあるあたりに目をやる。
「あっ、掃除機だけじゃなくて、ちゃんとほうきがある。掃き出しといてあげよう」
掃除機の隣に、ほうきも立てかけてあった。若い子なのに珍しい――自分自身も「若い子」であるのだが――などと感心しつつ、ほうきを手に取る。それから、窓を開け放つ。午後の空気が、主不在の部屋に時間を生む。
「ほうきで掃き出すのは、邪気払いなどの意味があるんだよ。今まで世話になった部屋に感謝するためにも、とてもいいことなんだ」
きっと、実家のご両親が持ってきてくれたんだろうね、息子思いのご両親だし、ちゃんと置いておく勇一さんも偉いね、と言いながら、蓮はフローリングを、さっ、さっ、とほうきがけしていく。
蓮が掃除を始めたのにならい、紫月は雑巾を見つけ、拭き掃除を始めた。
「蓮様」
「なんだい、紫月」
紫月は、カラーボックスの上を拭きつつ、床の隅を見ていた。
「この、部屋の四隅にある柱水晶は、なんでしょうか? 荷物を集めているとき、なかったような――」
四隅に、小さな棒状の水晶が置かれていた。
「ああ。それね。よく、気付いたね」
ほうきを手に、白い歯を見せる。
「紫月が背を向けてるときに、一個ずつ置いたから」
「えっ、置いた……? 蓮様が……?」
ふふふ、と笑いながら、ほうきを持っていないほうの左手で、長い前髪をかきあげた。
カーテンが、揺れている。不吉な風を、はらみつつ――。
「全然気付かなかったろう? これで、君からの情報は、分断される――」
「えっ」
紫月は、短い声を上げた。
「ふふ。君と二人きりになる、これはなかなかないチャンスだからね。逃すわけにはいかないんだ――」
蓮は、ほうきを手にしたまま、紫月に近づいていく。
「水晶で囲んだ時点で、君の声、思い、見たものを吸い込み、ゆかりちゃんには届かない。ゆかりちゃんに伝えられるのは、囲まれる前の止まったままの状態で送られ続ける。だから、しばらくは気付かれない。君が僕に壊されてしまっても――」
床に、音を立ててほうきが落ちた。蓮のしなやかな両腕が、後ずさる紫月に伸ばされる――。
「大丈夫。君は、自然に還るだけだから。痛みも苦しみも、ないと思うよ。だから、おとなしく――」
蓮は、知っていた。化身が、術師と術によって切り離されたとき、もう術は使えない。化身自身が術を使っているように見えるが、それは術師のエネルギーあってこそのもの、本体の術師と繋がっていなければ、化身自体が効力を生み出すことはできない。
「君はもう、呪文も繰り出せない、ただの人形なんだ――」
笑う。笑いが、止まらない。
ああ、おかしい。こんなに簡単に……! ふふ。紫月がいない言い訳も、考えとかなきゃ、ね……!
途中で術師に襲われた、夕闇たちにはちょっと悪いけど、言い訳に使わせてもらおうと思った。
「さようなら、紫月――。人じゃない君の叫び声は、誰にも届かない。分断されてるから、誰にも、ね」
ばいばい……!
ドッ……!
耳に届く、鈍い音。
あれ。
蓮の中で、理解が遅れる。なんだろう、と思った。
あれ? まるで、背中を蹴られたような……?
次の瞬間、自分が床に倒れていると、気付く。目の前に、ほうきがあったから。
「紫月様……!」
その声は、幽玄……!
「幽玄、お前、なんで……!」
幽玄は、倒れた蓮を飛び越えて、紫月を抱き寄せていた。
「紫月様、大丈夫ですか!?」
「私より、蓮様を、捕まえて……!」
ああ。そっか。ばれちゃったのか。
蓮は、倒れている姿勢から大きく足を振り上げ、勢いをつけて立ち上がった。
「なーんだ。幽玄。銀硝空間で、様子窺ってた? ふふ。ばれちゃったら、しょうがないね」
「蓮様……!」
「それにしても、幽玄は甘いなあ。不意打ちくらわすなら、狙うのは背中じゃなくて、頭でしょ? それか、刀。僕を殺さなかったのは、優しさか、忠義の心か。まあ、なんでもいいや。おかげで、助かったよ」
蓮は、背後に空間を開ける。それは、銀硝空間ではなく、自分にとってはなじみだが、鏡家の人々や幽玄たちは、おそらく入ったことのない空間だった。
「じゃあね。ひのちゃんに、よろしく」
「逃がすわけには……!」
幽玄が蓮を掴もうとする、一瞬前。蓮は、空間に入り込み、そして空間を閉じた。
やれやれ。それにしても、なんでわかっちゃったんだろう?
蓮は、肩をすくめた。
逃げ込んだ空間は――、半封印の空間。術師三きょうだいが繋がれている場所、そしてその父親がいる空間である。
化け物たちを封印する封印の空間は、完全に「無」の空間だが、この空間はその封印の空間と勇一たちのいる日常の世界との狭間にあった。
この空間の存在自体、誰も知らなかったので、幽玄たちに追われる心配はなかった。
うまく騙せてると思ったのになあ。
ひのやゆかりにとって蓮は「優しくて素敵なお兄ちゃん」。今もそう信じ続けてくれている、と自負していた。
女の子って、やっぱ鋭いね。
ちょっぴり困ったように、笑みを浮かべた。
それは蓮と紫月がアパートに向かう前、ひのが蓮との通話を終えたとき。
だらんと、下げられた右手。握りしめていたスマホも、今にも落ちそうだった。
「ひのちゃんっ!?」
つい、細い両肩を掴んでしまった。そのまま倒れてしまいそうに思えたから。
「勇一、さん……」
もともと色白の肌から、さらに血の気がなくなっているように見えた。いつも太陽みたいに輝いていた瞳が、揺れている。
「ひのちゃんっ……!」
ゆかりも、弾かれたようにひののすぐ横に駆け寄る。
「すごく、怪しい、かも……」
わっ、と泣き出し、ひのは勇一の胸に飛び込んだ。
ひのちゃん……!
そのとき、勇一の心に喜びは湧かなかった。勇一の胸でざわついていたのは、当惑と、ひのをいたわる気持ちと、それから忍び寄る恐怖。
「蓮君……! きっと、なにか違う……! いつから? ううん、昔からずっと変わらないみたいだけど――、でも、でも……! なんだか違う気がする……!」
ごく普通の会話だった、とひのは言う。話しかたも言葉も、話すテンポも声も、すべて今まで通りの優しい「蓮君」だった、とひのは先ほどの電話でのやり取りを説明した。
「たぶん、感覚を研ぎ澄ませなければ気付かなかった……! 従妹として会話してたら、気付かなかった!」
会話の間、ひのは術を使っていたのだという。ひのは、ゆかりのように独立した「化身」というものを作れないが、心のうちにもう一人の他者、化身のようなものを作ってみたのだという。化身を作る手法から、着想した術――能力的に化身を作ることはできなかったが、方法としては学んで知っていた――をやってみたのだそうだ。
「心の中に、あえて鏡家ではない女性、『鏡家の血の影響を受けてない女性』を作って、蓮君と話してたの。そして、『女性』と蓮君の会話を『私』が視ていた。それで、気付いたの。蓮君は……、心になにかを隠してる……!」
繰り返し居場所を知ろうとしたり、荷物を直接届けようとした点が引っかかったのではなく――、あくまで感覚として悟ったのだそうだ。
「蓮君の中に、恐ろしい闇が見える……!」
ひのちゃん……!
気丈にも、通話の間のひのは、ずっと明るい調子で会話をし続けていた。
勇一は、震えるひのを抱きしめていた。
その場に座り込むゆかりを、幽玄が守るように抱え上げ、紫月の頭の上に白玉が乗る。
きっと、蓮はゆかりとひのにとって頼れる兄のような存在だったのではないか。ゆかりとひのが非常に強いショックを受けている様子から、彼らの関係性が痛いほど伝わってくる。
「私たちが気付いてしまったこと、知られてはいけない」
青ざめた表情のゆかりが、なんとか声を絞り出すようにして言い切った。ひのもうなずく。
蓮との約束は、午後一時。打ちひしがれている時間はない。それまでに、対応を考えなければならなかった。
「でも、まだ蓮君の考えはわからない。約束通り、紫月ちゃんに行ってもらおう。幽玄ちゃん、紫月ちゃんを見張っていて」
ひのの言葉に、ゆかりもうなずいた。まだ信じたい、そうひのとゆかりは思っているようだった。
まだ青空だった。しかし、風に冷たさが混じる。揺れる葉が、影を落とす。
「優しい自慢の、ひのたちのお兄ちゃん……、なんだ」
ひのは、そっと呟いた。




