第46話 感謝
小鳥の声が聞こえだす。初めは遠慮がちに、しかし次第に種類も数も増え、明るく賑やかになってくる。
「まずいな」
幽玄は、銀の長い髪が流れる背を勇一に向けたまま、ぽつりと呟いた。
「え。ま、まずい……?」
勇一は、唯一自分の武器となる「傘」を握りしめ、勢いよく立ち上がる。心拍数が一気に上昇する。
「やはりおそらく術師だと思う。つまり、向こうにこちらの場所がばれているということだ。どういうわけか今は反応がないようだが、いつでも襲撃の可能性がある」
ここが、ばれた……!
「ゆかり様とひの様に、急ぎ報告せねば」
ここを、戦場にしてはいけない。オーナーご夫妻を巻き込まないよう、『星の宿』を発つ。ゆかりもひのも、意見は一致していた。そう決まれば、早かった。
「鏡様のお家としての、ご事情ですね」
不思議な力を持ち、鏡家と縁を持つオーナーは、突然のチェックアウトの申し出を察してくれた。
「本当にお世話になりました。おいしいお料理と貴重な天体観測体験、心よりお礼申し上げます」
通常の宿泊料金と多額の謝礼を合わせて包んだ。オーナーご夫妻は、とんでもない、と受け取りを拒否したが、
「どうか受け取ってください。それから、こちらに危険が及ばぬよう、しっかり術を施しますので、どうかご安心ください」
重ねてお願いをし、それから白玉まで含め、一同深々と頭を下げた。どうかご無事で、と手を取ってくるオーナーの奥様の目には、涙が光って見えた。
「せめて、これだけでもお持ちください」
オーナーは、作っていた皆の朝食を折詰にし、それから数本のワインやパウンドケーキ、手作りジャムなど、その場にあったお土産となるような品をもりだくさん――手あたり次第といった具合、しかし真心こもる品ばかり――合わせて手渡してくれた。
「またいつでも、泊まりに来てくださいね」
特殊な事情でも、そうでなく観光でも、ぜひ来てほしい、とオーナー夫妻は声を揃える。
「ぜひ、また伺わせていただきます……!」
小鳥のさえずりが、出発に祝福を添える。
車の窓から見えるオーナーご夫妻は、秋咲きの花たちの向こう、いつまでも手を振ってくれていた。
ひのの運転、助手席に勇一、勇一の膝の上に白玉、それから後部座席にゆかり、ゆかりの隣には紫月がいる。幽玄はというと、走行する車の屋根の上に立っていた。
「幽玄。花びらを一枚ずつ、撒いてね」
車に乗りこむ前、ゆかりは幽玄に、テーブルの上に飾ってあった一輪挿しのピンク色のガーベラを手渡していた。出発前、オーナーご夫妻に頼んで、いただいたものだった。
「なぜ、その花を……?」
勇一が疑問を持ち、ゆかりに尋ねた。ゆかりの幽玄への指示では、屋根の上から、一枚ずつ花びらをちぎって少しずつ飛ばしてほしい、というものだった。
「このガーベラは、術を施したもの。この花の花びらに、私たちのイメージを投影してあるんです。その花びらを撒くことは、移動しているという痕跡になります。それは私たちが、『星の宿』を出発して、もうそこにはいない、と術師たちにわからせるために、です」
「なるほど……! オーナーたちに危険が及ばないようにって、そういうことかあ」
ハンドルを握るひのが、さらに付け加えた。
「それと、『星の宿』全体に守りの術、それからオーナーご夫妻にもお守りを渡しておいたよ。それから、万が一術師や化身が現れたら、こちらにも伝わるような仕掛けもしておいた。だから、迷惑をかける心配はないよ」
『星の宿』から離れていく。ピンクの花びらが一枚、また一枚と青空を舞う。
花びらがなくなったら、そこから移動先は追えないようにする手はずだ。
「ピンクのガーベラって『感謝』って意味なんだって。本当は、もらうんじゃなくて、買って用意したかったなあ」
ひのの呟きに、勇一もうなずく。
みずみずしい緑の茎の上に実るような、たくさんの繊細な花びら。その美しさの中に、オーナーご夫妻の、ひとつひとつ丁寧なもてなしを重ねる。
テーブルの上にさりげなく飾られた、でも真心を表わす一輪。守るためとはいえ、ちぎってしまうのは、なんだか申しわけないな……。
感謝してもしきれない、と思った。
ちなみに、撒くのは車内からでも有効だという。
幽玄が屋根の上にいるのは、定員オーバーだからだった。とはいえ、人には見えない使役鬼、さらに紫月は化身というもの、彼らを乗車人数に含める必要はないのだが。
「なんか、ぎゅうぎゅうって、嫌じゃん?」
とは、ひのの言葉だ。
はるか頭上で、鳶が弧を描く。
お堂の前に、夕闇がいた。手には、御幣のような白い紙。
夕闇は、白い紙を空にかざした。うっそうとした木々の向こう、空高く飛ぶ鳶の姿を念じながら。
よし。映した。
夕闇に浮かぶ、かすかな笑み。
白い紙が、揺れる。四角い輪郭が、揺らいでいく。そして夕闇の手のひらの上、つい先ほどまで白い紙だったはずのそれは、小さな手のひらに乗るほどの鳶の姿になっていた。
それは、普通の人間には相変わらず「白い紙」にしか見えない。しかし、見る力のある者にとっては鳶の姿に見えた。
「行ってらっしゃい」
夕闇の声を受け、手のひらから「鳶」が飛び立つ。
見つけるんだよ。きっと、彼らは今ごろ移動中だろうから。
鳶に、託した。黒炎が掴んだ、幽玄たちの居場所付近へ、鳶を向かわせたのだ。黒炎が居場所に気付いたということは、同時に幽玄たちもわかっている、それなら即座に移動するだろうと、夕闇はふんでいた。
見つけたら、あのかたへお教えするんだよ。
鳶の鋭い鳴き声がした。空を切り裂くようだった。
これは、本物のほうか。
ふふ、と笑う。もう姿の見えない紙の鳶が、まるで返事をしたように思えたから。
大きく旋回した「本物の鳶」は、お堂の向こうへ飛んで行った。
それにしても。
夕闇は改めて、しみじみとお堂を眺める。
母上は、たくさんの人たちに慕われてきたのですね。深く、強く。
お堂や座像を建立したのは、長年の間に存在した、密かに「母」へ恋心を持つ者たち、または「母」から神秘的なものを感じ取り、崇拝する者たちだった。それは、日の当たる道を歩まぬ人たち――条件としては、母の「糧」となる人間と重なるが――だった。
母上に心酔した忠実な彼ら。もっとも母上は、その者たちと愛を交わすことはなかったようですが。
献身的に母を支えた者たち。母は、愛を施して献身に応える代わりに、彼らの望み――たとえば、復讐の手助け、彼らの思う邪魔者の始末など――を叶えてきたのだという。
闇に生きる彼らのおかげで、母や父、それから自分たちきょうだいの復活の手助けをしてもらえた、夕闇は、名もなき彼らに深い感謝の念を持っていた。
苔の上、這うように赤い実がいくつもなっていた。ツルリンドウの実だ。薄暗い緑の中、ひっそりと美しい赤。
ありがとう。母上のため、そして父上や我らのために。
ツルリンドウの赤い実に、彼らの誰にも知られぬ一生を重ね、夕闇はそっと感謝の念を送っていた。
もうすぐ訪れる、自分たちの解放を心に描きながら。




