第44話 水平線の向こうに
水平線の向こうには、なにがあるのだろう。
どこにでも飛んで行ける。きっと、水平線の向こうにも。
でも、彼は動かなかった。ただ心を揺らす潮風の中、彼は静かに見送るのだ――。
人に近い怪物……。それが、敵の正体。
勇一は、天井を見上げる。眠れそうになかった。
幽玄の報告を、ひのたちと一緒に聞いた。
どういういきさつで、そんな化け物が誕生してしまったのだろう。
幽玄は多くを語らなかった。ひのやゆかりの驚きぶりから、似た事例は今までないのだろうということがうかがえた。
人が、なにかの要因から化け物になる。もしくは、人と化け物の間に子どもが生まれた結果。どちらにしても、気味の悪い話だな……。
寝返りを打つ。暗闇の中、先ほどの幽玄とひの、ゆかりの会話を思い出す。
「今、連中の行動に制限があるのは、彼らが未完成の封印状態であるから、とのことのようです」
幽玄の言葉に、ひのがどういうことか、と尋ねていた。
「彼らには人の血も流れている様子。そのことが、術の妨げになっているのです」
そのときまで黙って聞いていたゆかりが、口を開いていた。
「と、いうことは、彼らは鏡家の術を受けたことがある――」
一瞬、沈黙が流れた。
「鏡家の歴史には記されない、彼らとの戦いがある。そして今日、光咲伯母ちゃんと陽花伯母ちゃんは、その隠された記録を見つけたってことなの……?」
まっすぐな、ゆかりの眼差しが幽玄を射る。幽玄の美しい眉が、かすかに動いたような気がした。
「先ほど、私がお二人からお話された内容は、以上のことだけです。まだ、不明な点が多いのです。憶測は、先入観で目を曇らせ、真実を見誤るもととなります。現在、お心に留めていただきたいのは、連中が人でもあるということ、半封印状態の今が戦う好機であること、その二点です」
幽玄が頭を下げ、銀の髪がさらり、と肩口から流れ落ちた。
ひのとゆかりは、そのあとも幽玄に質問をしていたが、幽玄はまだわからない、の一点張りだった。そして夜も遅いということで、報告会はその辺りで終了した。
報告会は、勇一と幽玄と白玉のいる部屋で行われたので、ひの、ゆかりが退出して自分たちの部屋へ向かう。紫月は幽玄に歩み寄り、小声で尋ねる。
「あなた、なにか隠してるでしょ」
紫月の追及する目――いくぶん、好奇心が入っている――から瞳を逸らすことなく、幽玄が言葉を返す。
「……あなた様が、もしあなた様でなければ、喜んでお伝えできる胸の内もございます」
「まあ。どんな?」
「たとえば――、愛のささやきなど」
紫月は、幽玄の胸元を軽く小突く。
「嘘ばっかり」
ふふ、と紫月は艶っぽく笑い、きびすを返す。背を向けたまま、肩の辺りで手のひらをひらひらさせ、
「私も私でなければ、喜んでささやき返すんだけどね」
と早口で告げる。そして紫月は一瞬だけ振り返り、幽玄を見つめ――、ほんのひととき、目を伏した。長いまつ毛が、紫月の瞳を覆う。
それから紫月はまっすぐな姿勢で前を向き、後ろ手のまま扉を閉めた。
お、おおう。
そのとき、自分はたぶんまぬけな顔をしていた、と勇一は思い返す。
「ゆ、幽玄っ! 今のって、今のって……!」
中学生みたいに、幽玄に詰め寄っていた。
「半分は、本音です。私は嘘が嫌いですから」
そのときの幽玄の目――、それも、今現在勇一が眠れないでいる理由の一つだった。
幽玄は、扉の向こうにあるはずもないのだけど――、輝く水平線を見るような目をしていた。
幽玄の眼差しに宿る色。あの色は、きっと、諦め――。
使役鬼と、化身。ふたりはどちらも人を模した存在であるが、自分たちの心を持つ。人からは遠く切り離された「使役鬼」と、人と繋がっている、いわば「影」のような「化身」。
自我があるって――、残酷なことなのかな……。
幽玄、紫月、白玉、傘。皆それぞれ心がある。彼らと触れ合い、心を交わすのは楽しいし、幸せなことと思っていた。
創った、責任。生み出した、責任。歩み出した彼らの一生に、責任なんて到底背負えることはできないけど、でも――。
思い出す、ファミレスの配膳ロボ。スマホやパソコンを見れば、日々進化するAIというものに触れる。いつか彼らにも心は生まれるのだろうか。際限なく情報を与えられ、人間社会や地球上、宇宙についても知っていく彼らにも、もしかしたら――。
『勇一。考え過ぎだ』
枕元の傘が、語りかけてきた。
『我は、楽しんでいるぞ。きっと、幽玄も紫月も白玉も。生まれたこと生み出したことは、悪ではない』
傘の声に、ふと思う。
化け物は……、あの術師たちは、悪なんだろうか。
思いつくまま心の声にしてしまって、慌てた。
い、いやっ! ごめんっ、つい連想というか考えが広がり過ぎちゃっただけで、別にお前たちをあの術師たちと同一線上に並べたわけでは――。
『だから、考え過ぎ、気にし過ぎだ』
ごめん……。
『そもそも、責任を負えると思うこと自体が傲慢だ。我も先ほど悪ではないなどと申したが、悪の定義を定められると思うことだって、傲慢だ。ただ、なすべきことを考えよ』
なすべきこと……?
『寝ろ』
はい、と思った。体調を万全にすること、心身を整えることが勇一に課せられたことだった。
眠れそうもない気がするけど……、おとなしく寝よう。
目を閉じてみる。疲れが出たのか、案外すぐに眠りに落ちた。
海の夢を見たらしい。
波が輝いている。
たぶん、船着き場。カモメの舞う空の下、幽玄と並ぶ。
汽笛。船が出るようだ。勇一は、大型船に急いで乗り込む。行き先は、知らない。
「幽玄、乗らないのか?」
幽玄は、静かに首を振り、ただ微笑んでいた。
「私は、見送る側だ。これまでも、これからも」
たくさんの人々を、見送ってきた、と幽玄は言う。
「紫月様とのお時間も、私にとって、ほんのひとときの夢」
「じゃあ、幽玄! なおのこと、乗ろうよ……! 行こう……!」
どこに行くかわからないけど。ただ、その場に留まり続けるのは違う気がした。
ふたたび汽笛。ゆっくりと動き出す、船。
よいのだ、遠ざかる幽玄の唇が、そう動いたように見えた。
遠い眼差し。幽玄は、船の向こう、水平線を見つめていた。
「幽玄の、夢を見たよ」
まだ日の昇らぬうちに、起きた。幽玄に、話してみる。
「ほう。どんな夢だ?」
「海の夢。幽玄の背を、俺は押したい」
当惑する、幽玄。困ったように、腕を組む。
「なるほど。それはつまり、私を海に突き落としたいってことか?」
声に出してみて、妙に納得する様子の幽玄。突き落とされる心当たりが、自身でもありまくるようだ。
勇一は、笑って首を横に振って見せた。
「いや。俺は、幽玄の望む未来を歩かせてあげたいと思っていた。そんな夢」
「それが、海?」
「うん。海」
わからんことを言うな、とは幽玄の感想。
「海を越えて欲しい」
「勇一。もしかして、寝ぼけてるか?」
「うん」
確かに、寝ぼけているのかもしれない。寝ぼけているから、なにを言ってもいいのだ、と思う。
「もっと自由に生きて欲しい」
幽玄は勇一の目を覗き込む。勇一は、それ以上なにも言わず、見つめ返す。
俺の立場じゃ、これ以上は言えない。だけど……! 伝われ!
伝われ、と願う。伝わる、と信じた。
言霊、というのがあるらしい。思いの込められた言葉には、きっと力があるはず――。
潮が満ちていくように、日が昇るように、幽玄の顔が明るくなっていく。
「……ありがとう」
端正な顔立ちが、思いがけず崩れる。少し泣き顔にも見える、笑顔だった。
それなら、と、幽玄は呟く。
「自由に……、今私が願っていること、言ってもいいか?」
もしかして、と勇一は思った。幽玄の眼差し、ゆっくりとした声から。
もしかして。今の、幽玄が願っていることは。
新鮮な空気を吸い込む。今一番の思いが、吐露される――。
「では、これから『鍵の間』で、修行を始めよう」
声が、被る。互いに指差し合い、同時に同じ言葉を発していた。
「修行。やっぱり」
「修行だ。やっぱり」
声を立てて笑い合った。思った通りだった。幽玄を小突いたら、逆に小突き返された。ばかみたいに、笑った。
笑い声に気付き、目覚めたらしい白玉が、乱入してくる。白玉は、勇一と幽玄、両者の頭の上で交互に弾み、じゃれついているよう。
今はいいんだ。というか、今は仕方ない。それしかないのだから。でも、いつか、きっと。
幽玄の本当の望みを叶えてあげたい、手助けをしてあげたいと思った。
長年、人のために尽くしてきた。俺たちの代くらい、いいんじゃないかな。
勇一は、鏡家の人間ではない。でも、願わずにはいられなかった。
きっと、俺たちが知らない悲しみを、たくさん抱えてきただろうから。
勇一の知らないため息をひとつ、幽玄は吐き出す。そして、姿勢を正した。
「では、早速」
幽玄は、空中に手をかざしていた。異空間である「鍵の間」を開けようとしている。
「む」
幽玄が、目を大きく見開く。
「どうしたんだ? 幽玄?」
「入れない」
「えっ」
「鍵の間に、先客がいるようだ」
夜はまだ、明けていない。暗闇が、支配する――。




