第34話 最強の呼吸
一歩足を踏み入れると、暗闇だった。
「うわ、なにも見えない……!」
勇一はたまらず叫んでいた。前にいるはずの幽玄の姿が、まったく見えない。
ここは、「鍵の間」と呼ばれる空間なのだという。異空間とのことだが、まさか暗闇とは思わなかった。
「幽玄、いるよな!? 幽玄!」
自分の足元も見えない。一歩も進めず、たちまち不安に駆られる。
「感じないか? 勇一」
幽玄の声が、近い。すぐ目の前にいるらしい。しかし、あいかわらず姿は見えない。特徴的な銀色の長い髪さえ、ちっとも見えない。
「私の気配。息遣い。そういうものを、感じ取れ」
「ええ!? 見えないし、わからないし、声を出してもらわないと、どこにいるんだか――」
「ここには陽の光のようなものはない。そういう空間だ。勇一、まずはその場に座ってみろ」
座れ、といわれても、安全が確認できないと、座るという動作さえ怖い気がした。
でもきっと、この不自由な空間にいること自体が、修行……。
勇一は、おそるおそる座ってみた。なにも障害物はなかった。ただ、奇妙な感覚がある。足の下、座っている尻の下を、風が通っていく。
まさか、宙に浮いてるんじゃ……?
最初、立っていた感じからすると普通の地面の上だと思っていたが、風の吹き抜けかたやら、体の接地面の感覚やらが、どこか地面とは違うような気がしてきた。
そういえば、白玉はいない。一緒に「鍵の間」には入らなかったようだ。
白玉がいないということは――、ここが空中だったら、もしくは崖みたいなところだったら、すごくまずいんじゃ――。
幽玄は、修行と言っていた。まさか、危険と紙一重のような場所に置き去りにはしないだろうと思った。
置き去り――、まだ勇一は傍にいるであろう幽玄の気配すら感じ取れないでいた。
「丹田呼吸、というものは知っているか?」
唐突に、尋ねられる。やはり幽玄は変わらず目の前にいるらしい。
丹田……? 呼吸……? そういう呼吸法ってこと……?
「健康法みたいなやつ……? それとも瞑想法……?」
首をかしげ言葉のイメージで答える勇一に、幽玄はまずは呼吸について語り出した。
「古来より武芸者たちは、呼吸というものを重要視していた。呼吸とは、『気』であり、生命力の要とされている。呼吸、すなわち自然界から体内に入れる『気』によって己の心と体を深く認識し、それから心と体で『気』を最大限に活用する。『気』を取り入れ、『気』を有効に使いこなす。『気』と心と体は、人間を動かす三つの大きな要素といえよう」
「呼吸、気……、確かに、漫画とかの戦う場面で出てくるなあ」
呼吸や『気』は様々な古武道などの基本で、漫画などの創作や単なるイメージの話ではない、と幽玄は語る。
「丹田、はわかるか?」
「へその下あたりにあるんだろ? なんか、確か体の中心みたいな――?」
「そうだ。丹田とは、上丹田、中丹田、へその三寸下にある下丹田と三つあるが、ここではへその下にある下丹田をいう。経路、すなわちエネルギーの中心といわれている」
それから、幽玄は丹田呼吸法について説明した。丹田に『気』を集めて『気』を練る呼吸法なのだという。
「まずはその状態のまま、背筋を伸ばせ」
勇一は、背筋を伸ばして座っているつもりだったが、恐怖心からか、さほど背筋が伸びていないことに気付く。改めて、意識して背筋を伸ばす。
「肩の力を抜く。それから、息を口から全部吐き出す。全部吐き終えたら、丹田を意識しながら、ゆっくり鼻から息を吸う。そして、丹田を意識しながら、口からゆっくり息を吐き出す。その繰り返しだ」
幽玄の指導通り、試してみることにした。
丹田を通るように深呼吸をする、そんな感じかな?
丹田の意識、というものが、ちゃんとできているかどうかわからないが、とにかくへその下、それから吐くときは口、吸うときは鼻、どちらも時間を掛けて、というのを意識するようにして繰り返す。
おお、なんか「やった感」ある!
正しくできているかどうか、今の勇一にはわからない。「やった感」だけかもしれない。が、心が落ち着いてくるような気がする。
「勇一の場合――、傘との繋がりが重要だ」
勇一が丹田呼吸を続けている間、幽玄は語り続けた。
「実際に体を動かし体力や筋力をつけることももちろん大事だが、一番は繋がりやすくすること、すなわち、いかなるときも心を落ち着けることが肝要だ。だから一層、基本となる呼吸を身につけることを心掛けてほしい」
傘との、繋がり――。
勇一の心に、望遠鏡やこの目で見て感じた宇宙が広がる。
宇宙――。
この暗闇と、宇宙空間にいたような体験――。勇一は重なるものを感じていた。先ほどまでの恐怖心が消えていく。
「これからは、ここで呼吸や瞑想をやってもらう。それから私との対戦。それをトレーニングとして日課にしてほしいと思う」
え。幽玄との、対戦!?
驚く勇一に、幽玄がゆっくりとした口調で告げる。
「ここで」
「ここで!?」
この暗闇の中、幽玄と戦うってこと!?
「ここまでの呼吸で、少しは私の気配、掴んだか?」
私は人ではないから、気配を掴むのは難しいかもしれない、しかし、慣れてくればわかるはず、などととんでもないことを幽玄は述べ始めた。
「わ、わかるわけが――!」
「感覚を、研ぎ澄ませよ」
そんなこと言われても――!
ヒュン、と音がする。勇一は、風を切る音に驚きつつ、どうすることもできずにいる、と思った。が、体が動いていた。
傘だ。右手にある傘が、勇一の右腕を動かす。
ガッ。
音を立て、勇一の頭上で幽玄の鞘に入った状態の刀を、傘が受け止めていた。
「そう。今までのように、傘が動かしてくれる。だから、大丈夫だ。しかし、術師たちとの戦いでは、勇一自身の力が必要となってくるだろう」
「俺が、強くなくちゃ、ってことだよな」
「そう。立て。勇一」
立て、と言われて立つが、なにも見えない中、それ以上どうすることもできない気がした。
「私を見ろ。私の放つ『気』から、私の姿を見つけよ」
そんな、ちょっと呼吸したくらいで、急に身につくもんでは――!
なんとか暗闇に目が慣れてこないかなあ、と思うが、一向に見えてこない。
「目で見るのではない」
むむ、漫画とかで見かけるセリフ――。
「み、見えない……。無理……」
「じゃあ、私から行くぞ」
えっ。
風が動く。腕が勝手に動く。ガンガン、バシッ、バシッ、と激しい音と重い手応え。幽玄の抜いていない刀が迫り来て、傘が受け、傘が刀を打ち返す。
うわー、うわー、ちょっ……。
傘により、全身が動く。それで幽玄の動きにちゃんとついていっている、らしい。足がもつれるんじゃないか、転んでしまうんじゃないか、と思うが、無茶な体勢を取りつつも、素早く力強い幽玄の動きになんとか対応しているようだった。
ちょっと待てーっ!
本人不在の手合わせ。呼吸を意識する暇もない。
気付けば、勇一は盛大に肩で息をついていた。
「はあ、はあ、はあ……。無理だよ……。幽玄……。こんな、急に――」
「今日のところは、上出来だ」
鞘に入ったままの刀を腰に収め、穏やかに微笑む幽玄。
「どこが、じょうでき……!」
幽玄に喰ってかかりつつ、ハッとする。
あれ? 今、幽玄が笑っている姿が、見えていた……!
幽玄に向かい、叫んでいた。その瞬間、信じられないが――、普通に幽玄を認識していたようだった。
「戦いの『気』より、和やかな『気』のほうがわかるのか……? 勇一、やはりよき力を持っているな――」
柔らかに広がる銀の光。確かにそれが、感じられた。目で見るのではなく、確かに感じた、のだ――。
「私は厳しいと、言っただろう? この流れを毎日折を見て、できれば数セットやっていこうと思う」
数セット……!
汗が流れており、無理に動かした体中あちこち、変なところが痛い。よろよろと、幽玄に続き「鍵の間」の枠を超え、ペンションの部屋に戻った。
やれやれ、と額の汗をぬぐう勇一だったが、幽玄に続いて空間を出る際、まったく暗闇を意に介さず歩けたことに、まだ勇一は気付いていない。
部屋に戻ると、白玉の大歓迎が待っていた。
「おはよう。勇一君。ちゃんと眠れたかな?」
なにも知らない平和な笑みの護も、待ち受けていた。
勇一は疲労感を隠して、護に笑顔と挨拶を返す。
「ここは自然豊かで空気がおいしくて、本当に、素敵なところだね」
のびのびと、深呼吸をする護。
なんと自然で平和な呼吸――。
ある意味、最強、と思った。




