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第19話 落ちる、先は

 青空に際立つ、銀杏並木の金の色。平日午前中の小さな公園は、穏やかな日差しに守られていた。


「あっ、おはようございます。そういや、上のお子さんの学校、授業再開したんですってね」


「ええ。そうなんです。校舎前の陥没の原因はわからないらしいけど、建物にも影響ないみたいだし、広がるような感じもないようだから、とりあえず大丈夫だろうって」


「地下水の汲み上げとか工事とか、なかったって聞いたけど……。なんだったんでしょうね? 原因がわからないってのも、怖いね」


「ほんと怖いですね。でも、子どもたちや先生に被害がなくて本当によかったです」


 幼い我が子たちを見守りながら、若い母親同士が話していた。小学校の陥没事件についての話だった。

 

「そういえばなんか、うちの子と近所を歩いていたら、隣の家のおばあちゃんが変なこと言ってきてね。ちょっと不気味だったんだけど」


「え、変なこと、ですか?」


 子どもたちは、柔らかな髪をなびかせながら、小さな滑り台を滑ったり、登ったり、きゃっ、きゃっ、と楽しそうにはしゃいでいた。

 母親は子どもに手を振ってから、ちょっとおかしなおばあちゃんだなって、前々から思ってたんだけどね、と言葉を濁しつつ、


「この町の化け物が、騒ぎだしているとかなんとか」


 と、声を潜めた。


「え」


 もういっかーい、と滑り降りた子どもの弾む声。滑り台の階段のほうへ、駆けていく。

 滑り台、ブランコ、ジャングルジム。ここは、子どもたちの楽しい遊具がたくさん。日差しを浴び、親たちの守りの中、笑顔の絶えない、明るく安全で、健全な場所。

 しかし、どうだろう。大きな影を生む大木の向こう側は……? 日の落ちた後の、ひとけのない冷たい暗がりは……?

 闇の中、または昼間の空白の時間、なにかが息を潜めている、という可能性は……?

 幼い子が、てっぺんにつく。そして、手を放す。座ったまま小さな足を地面に向け、勢いのままに――。

 計算し尽くされた、滑らかな傾斜。それに沿って落ちていく。果たして、ゆっくりと落ちたその先が、間違いなく日常の延長であるという保証は……?

 ぽっかりと異界が口を開けている、狡猾に姿を隠した怪物が待ち構えている、そんなことが絶対ないと言い切れるのか……?


 穴が開いたのは、化け物の仕業だって。この町にはね、ほんとうは、昔から化け物が、たくさんいるんだって――。


 さあっ、と、風が吹く。銀杏の葉が、舞い降りる。

 怖い顔をしたあと、母親は、ぷっ、と笑いだした。


「だから、気を付けなくちゃいけないよ、だって!」


「ええー!?」


 若い母親たちの、笑い声が響く。


「そんな、どこの昔話よう! お化けの仕業だなんて!」


 まったくばかばかしいと、大げさに手を振る。うちの子を怖がらせようとしたのかもしれないけど、それだったら悪趣味なおばあちゃんだわあ、と付け足した。

 当の子どもは、気味の悪い老人の話に怖がるでもなく、スカートを膨らませ、笑顔と共に着地していた。

 上の子が小学生という母親が、そういえば、と話し出した。


「変なこと、で思い出しました! うちの子があの日、フライングサラリーマン? とかわけわかんないこと興奮して話してたなあ!」


「フライングサラリーマン……! なにそれ……!」


「スーツ姿の男の人が、飛んでたんだって……!」 


 皆で校舎から出て避難しなければならないという緊張の中、きっと鳥かなにかを変なふうに見間違ったんだろう、それにしても子どもの想像力って面白い、などと母親たちは笑っていた。


「ふむ」


 軽やかなブラウンの髪の青年が、母親たちの脇を通り過ぎていった。

 この時間、若い男性が一人で公園にいるのは不自然なようでもあったが、講義の時間が午後からという大学生とか、平日が休みのサービス業の会社員とか、個人の事情はいくらでも考えられた。そして、広くないこの公園を通る理由、滞在する理由も、気分転換の散歩とか風景の写真を撮りたいとか絵を描きたいとか、様々考えられる。子どもを連れていないから不審者だとか変であるとか、警戒するのはちょっと極端な思考だ。公園は、当然ながら老若男女すべてが利用できる憩いの場所である。

 でも、そういった邪推をさせないくらい、青年の歩く様子は、自然に溶け込んでおり、ゆるやかに流れる空気の中、どこか詩的であり美しくさえあった。

 青年は、舞い降りた銀杏の葉の前に、立ち止まる。糸のように細い目を、ほんの少し大きくさせ、空を見上げた。


「気配が、消えましたね……?」


 青年が、一人呟いた。細い顎に手を当て、思案する。なにかを、探るように。


「もともと、隠れていた。もともと正確な居場所は、掴めない。だけど――、わかる。彼らは、町を発った……」


 気配が確実に消えている、と思った。

 銀杏の枝がもう一度かすかに揺れたあと、歩き出す。


「まあ、いいでしょう。どうせ、彼らは」


 どうせ、彼らは、と思った。


「こちらが動いたら、戻ってくる。きっと、小さな命を見捨てないでしょう」


 青年の薄い唇が、不吉な笑みを形どる。


「まあ、帰ってこないなら、それもよし。それこそ願ったり、我らが自由に動けるというもの」


 どちらにせよ、と青年は思う。


「血の花を、咲かせて見せましょう」


 くっ、くっ、と喉の奥で笑う。

 母親たちは、気付かない。背を向け公園から歩き去ろうとしていた青年の姿が、忽然とかき消えたことを。

 あ、と幼い子が、なにもない空間を指差した。それは、青年がいたはずの空間。

 無垢な瞳は、陽光の下の怪異を目撃していた。



 そういえば、俺は大金を持っている。


 後部座席のシートの上、思い出したように、緊張する勇一。忘れていたわけではないが、色々突然過ぎてあまり意識していなかった。


 これで、当面なんとか生活できるといえばできるが……。しかし、持ち歩くってのは恐ろし過ぎ……!


「朝ごはんというか昼ごはんというか、そろそろ食べましょーかっ!」


 ハンドルを握る、ひのが、元気よく話し掛けてきた。大金に怯えていたところに不意打ちの大声、つい肩がびくっと上がってしまった。


「そ、そ、そーだね。さっきから、おなかすいた……」


 笑顔も引きつる。

 車を停めたのは、高速を出てしばらく走ったあとの、見晴らしのいい駐車場だった。ドライブ休憩にちょうどいい眺望箇所らしい。東屋もあった。


「ここで食べようー!」


 ひのは、東屋のテーブルにバスケットを広げた。

 具だくさんのサンドイッチや、唐揚げ、ポテトのベーコン巻き。本当に、ピクニックのようだった。


 うわ。昨晩の半額サンドイッチとオードブルとは、雲泥の差……!

 

 期せずして、昨晩とほぼ同じメニュー。しかし、スーパーの半額総菜と格の違いを見せつけられた思い。サンドイッチ界の最高峰じゃなかろうか、勇一は、感動を禁じ得ない。あまり食にこだわりのない勇一は、昨晩と料理被りだとしても、いいじゃないか、と思った。白玉の黒い目も、心なしかうるうるしている。


「ありがとうございます! いただきます!」


「遠慮なく、食べてね」


 言われるまでもなかった。特に、白玉。遠慮なく食べた。

 平日のお昼前ということが幸いし、他に人の目はなかった。

 普通の人には白玉の姿は見えない。そんなわけで、宙に浮かぶサンドイッチや、誰も手を伸ばしていないところで唐揚げが消えていくという怪奇現象を見てしまう人はいなかった。


「そんなふうに食べてもらえると、作ったかいがあるなあ!」


 ひのが微笑む。


 あれ。


 なにか、どきり、とした。

 胃袋を掴まれる、というやつだろうか。爽やかな風、色づく木々、抜けるような青空のせいだろうか。

 それとも、大金を持つどきどきのせいだろうか。吊り橋効果というものが、あるらしい。


 あれれ。


 サンドイッチを持つひのの細い指には、指輪のようなものはない。

 そんなことをつい確認してしまい、勝手に頬が熱くなる。


「白玉ちゃん、おいしい?」


 白玉にも優しい笑みを送るひの。緩やかにカールした髪が揺れる。


 こんなときに。こんなときだからか? こんなときこそ――。

 

 こんな非常事態、危険な状況なのに、と思った。


 こんなときこそ。人は恋に落ちるのかもしれない――。


 車の中流れていた、ひののピアノの音。頭の中で、繰り返される。高く、低く、躍るように。

 そのとき勇一は、瞳に映していた。広い世界の中、ただ一人の女性を。


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