第16話 長い歳月、人の生を見つめてきたから
ひえっ、と変な声が出た。
常識を超えた出来事ばかり、すっかり驚き慣れた勇一だったのだが。
テーブルにのせられたのは、札束だった。
「お命に対し、釣り合うものなんてないのですが……、これは化け物退治を家業のひとつとしている鏡家から、勇一さんに対しての、精一杯の誠意です」
そう述べて手をつき深々と頭を下げる小学生女児と、差し出したとんでもない大金。
紫月こと鏡ゆかりは、勇一の家に上がったあと、とりあえず座ってくつろぐよう勧められるやいなや、背負っていたリュックから複数の札束を取り出し、淡々とした様子でテーブルの上に並べていたのだ。
ちょっと、ちょっとーっ!
半額お値下げのオードブルを並べようとした勇一は、言葉を失う。化け物だとか変な空間だとか空を飛ぶとか、超常現象的驚異に立て続けに直面してきたが、これは、超現実的な驚異である。
「勇一さん。どうぞお納めください」
ゆかりは、もう一度改めて頭を下げた。一つに結わえた黒髪が流れ、白くはかなげなうなじが現れる。
「お納めくださいって、言われても……!」
「もらっておけ」
ゆかりの隣に座る幽玄が、言う。
小さなサイズになり、ゆかりの左肩辺りに浮かぶ白玉も、全身をフル活用してうなずく素振りを見せる。
白玉も、もらっておけ、そう述べているようだった。
もらっておけ、って……。そんなこと言われても……。
見たこともない札束の山。変な汗が出る。
『もらってオッケー』
勇一の隣にある傘が、言う。「もらっておけ」ならぬ、「もらってオッケー」、なぜか、口調が軽薄。
こんな大金……!
たぶん、束の感じから、数百万。もしかしたら一千万くらいあるのかもしれない。
「ええと、紫月さん、いや、ゆかりちゃん……。君、これを持って一人で夜道を歩いてきたの……?」
どこからどう切り込んでいいかわからなくて、小学生女児がリュックに大金詰めて夜道を歩く、まずはその異常さと危険性について、問うてみることにした。
「一人ではありません」
「いや、幽玄と白玉もいたんだろうけどさ――」
「この近所には、家の者や家のゆかりの者たちが、勇一さんのアパートを中心に配備済みです」
配備済み!?
ただならぬ言葉に、思わず前のめりになってしまった。
「実は、幽玄が接触する前から。正確には、勇一さんがこのお部屋に引っ越された一週間以内に、配備しております」
「ええっ!?」
「このアパートを中心とし、そこから五芒星を描くように、鏡家の血縁の者たち三名と、私どもに関わる二匹が、住んでます。勇一さんの気配を隠すために」
「住んでるーっ!?」
「はい。勇一さんの存在を邪悪な存在から見つけられないようにするため、です」
なんとも大がかりな話だった。三人と二匹の生活を変えてまで――、と思いを馳せ、それから、ある点に引っかかりを覚える。
「え、二匹って……?」
色々疑問は尽きないが、気になるので、そこを一番に尋ねた。
「猫一匹、ハムスター一匹です」
猫とハムスターも頭数に……!
「彼らも、優秀な結界のひとつとして働いてます」
五芒星の一角となる家に、預かってもらっているのだという。
五芒星、ということは五角形……。見つけられないように……。でもどのくらいの範囲なんだろう。
そんなことを考えた瞬間、思い出す。つい先ほどのできごとを。あの――、糸のように細い目をした男を――。
「ゆかりちゃん……! さっき、幽玄と白玉を引き戻したって……、あれは敵だって、傘が言ってたけど……!」
「はい……。あくまで、五芒星の結界は、勇一さんの拠点とする場所を見つけられにくくするため。結界内から術師や化け物たちを弾くほどの効力は、残念ながらありません」
結界、傘、隕石。どれも隠す作用がある。しかし、架夜子と架夜子の化身のよる、あのスーパーで声をかけてきた男に顔を見られてしまっている。そして、見られたのは、幽玄と戦った僧形の化身にも。
「もしかして……。この大金で……、身を隠せ、ということなのか……?」
「はい……。やはり、そのほうがよいかと思われます」
ゆかりは、まっすぐ勇一を見つめた。小学生とは思えない、凛とした眼差しで。
「私にも、探りを入れてきているようです。あの小学校の陥没事件、あれは架夜子のしわざでしょう。私も、この町を発とうと思います。あの術師たちは、私たち鏡家の者たちの想像より力が大き過ぎましたし、動きも予測できません。今のうち、動いたほうがよいと思うのです」
なんと答えていいか、わからなかった。
あまりに突然すぎたし、決断するには変化が大きすぎた。
「少し、考えさせてほしい」
今の勇一は、絞り出すように告げることしかできなかった。
「もちろんです」
でも考えがどうあれ、このお金は受け取って欲しい、とゆかりは述べた。それから、とゆかりは言葉を付け足す。
「このような場合、本来なら鏡家の大人たちが伺うべきなのでしょうが――。両親も祖父母も今は亡く、現当主は私。そして、私のきょうだい、親類たちは皆、あの術師一族の情報収集、境界を越えた化け物たちの討伐、鏡家の屋敷の結界の維持、と様々なところに尽力しております。どうかご容赦ください」
ゆかりは深々と礼をし、立ち上がる。
「勇一さんのお勤めなさっている会社――。勇一さんがご決断次第、鏡家が、交渉させていただきます。長期ご休職、ご退職、いずれにしても、ご希望通り取り計らえると思います」
昔からこの地を影となり守ってきた鏡家、各方面にパイプがあるのだという。仕事面での心配はせず、今は身を隠すことが最優先、そう言いたいようだった。
「私も、細々とした準備がありますので、本日はこれで――」
幽玄と白玉が、ゆかりを送るらしい。彼らは、ゆかりを送り届けてから、このアパートに戻るとのことだった。
「では。近々、またお会いしましょう」
勇一は、ぼんやりと挨拶をした。ような気がする。正直、頭がよく回らずなんと返したか、勇一の記憶にない。
見下ろすテーブルの上の、やけに現実的で非現実的な札束。
並べられずに忘れられた、賑やかなご馳走たち。ただし半額。
自分も漠然と夢見ていた誰もが羨む富と、今にも賞味期限が切れそうな食品。あまりに対照的だった。しかし、今の勇一には前者のほうが空虚に感じられた。
せっかく――。
勇一は、心の中で呟く。
せっかく。築いてきたのに――。
新しい仕事、新しい仲間、新しい人間関係。世の中にとって、ごくありふれたささやかなものかもしれない。自分のしてきた仕事なんて、誰でもすぐに取って代われるような、小さなものかもしれない。
『よろしくお願いします』
転勤早々親しく接してくれた同僚の谷川、ついさっき初めて会った取引先担当者の笑顔。そして、新天地でも頑張れと励ましてくれた上司や同僚、後輩たちの笑顔――。様々な、笑顔が浮かぶ。これまでの時間、これから過ごすはずだった時間――。
力なく、膝をつく。
札束を、払いのけようと手を振り上げる。
こんな……。
刹那、架夜子、よる、僧形の化身、そしてあのスーパーで出会った不気味な男が脳裏に浮かぶ。
勇一は力なく首を振り、テーブルに伏した。
答えは、考えるまでもなかった。
身を守ること。それが多くの人を守ることにもなる。
今のままでは危険。結論は決まっている。しかし心がついていかない。
人生を賭けるほど、命を賭けるほど、愛着があったわけでもない、だけど。
秒針が冷ややかに静寂を刻んでいく。
勇一の傍らの傘は、沈黙を守っていた。
ただ、寄り添う。長い歳月、人の生を見つめてきたから――。




