第14話 暗闇の卵焼き
ぺこぺこ、ぺこぺこ。
背広姿の男たちが頭を下げ合う。
「いえいえ、こちらの都合で無理を申し上げ、急な変更をお願いしてしまったので――」
「いえいえ、お電話もせず十五分も遅刻してしまい――」
結局、早めに出発したのと白玉の飛行速度が功を奏し、遅刻した時間は約束より十分と少々、十五分までには至らない、といったところだった。
相手担当者とは、まだ電話での挨拶のみ、直接会うのは今日が初めてだった。
胃の痛み、収まってくれた――。
相手の希望する情報も資料も提示することができ、顔合わせと打ち合わせは穏便かつ順調に終えることができた。相手の顔を見るまでは不安だったが、よい信頼関係を築けそうな手応えを感じ、勇一は安堵のため息をつく。
「白玉。今度は会社へ頼む。こっそり見つからないように」
銀硝空間経由、「白玉タクシー」で、帰社した。先ほどの疲労はどこへ行ったのか、白玉タクシー、速い速い。
「ありがとう、白玉。家に帰ったら、ご馳走あげるからな」
その勇一の一言が、大きかったようだ。白玉の飛行速度が上がる。
「ゲンキンだな」
途端に張り切る白玉の様子に、幽玄も笑っていた。
傘は食事をしないって言ってたから、白玉と、幽玄と、俺、三人分。今晩はスーパーに行ってみるか。
見上げた夜空に、星が見えなかった。夕方から曇ってきたらしい。
少し遠回りになるが、スーパーで晩飯を購入することにした。今ころの時間だと、値引きシールが貼られている。大変助かるし嬉しいのだが、その半面、人気の定番弁当や総菜は売り切れの心配もあった。しかし、それは時の運。行ってみないことにはわからない。運がよければ、三割引き、さらに強運なら半額の寿司もゲットできる。
今日の俺、豪運かどうか――。
奇妙な運試し。自動ドアが開くやいなや、足早に弁当と総菜のコーナーへ向かう。途中ふと、冷静になる。
食費、一気に三倍になる……?
ちょっと、青ざめた。
でも、とりあえず今日は祝いだ。無事生き延びられた、祝い……!
それと、と勇一は思う。
俺と皆の、親睦会、かな!?
勇一の顔には、自分でも思いがけず笑みが浮かんでいた。
やはり、売り切れが多かった。
弁当などが陳列された棚には、あちこち穴ができていた。
そんな中、三個だけ身を寄せ合っているように並べられた商品。他はすでに売り切れているので、そこだけ陸の孤島のようだった。
寿司……! しかも、半額……!
寿司は、輝いていた。店内の明るい照明を、一身に浴び。ヒカリモノだけというわけでもないのに、光を放つ。この魅惑の三っつのパックが、今夜のスーパーのスター、すなわちスーパースターであることは、疑いようもなかった。
玉子焼きも、お稲荷さんも入ってるじゃあないか……!
安さ手軽さの一翼を担うこのツートップが、勇一は好きだった。実は、主役となるシャリ上の刺身たちよりも、嬉しいくらいだった。
勇一は、手を伸ばす。迷うことなく、ただひたすらに――。
「あっ」
手が、交差した。そして、双方同時に引っ込める。
「すみません」
気付かなかったが、いつの間にかすぐ近くに男性客が立っていた。そして、その男性客も、寿司に向かって手を伸ばしていたのだ。
「いえ。こちらこそ、すみません。どうぞ」
品のよい穏やかな美声。勇一は、男性客を見上げる。背の高い、細身の若い男性。勇一と同世代かもしれない。装いはカジュアルだったが、どこかのブランドなのだろう、とてもスマートな雰囲気がある。
微笑むと糸のように細くなる目。軽やかな、明るめのブラウンの髪。声質も相まって、柔和な印象を受けた。
「いえいえ、そちらこそ、どうぞ」
紳士的な態度に、思わず譲ってしまった。
「いえいえ、すみませんでした。どうぞ」
ぺこぺこ、ぺこ。
ぺこぺこの、再来である。
譲り合っていても埒があかないので、爽やかな笑顔でどうぞ、と一礼してから、寿司のもとを離れようとした。
「ありがとうございます……! 怪我をした兄と、妹が喜びます……!」
怪我をした、兄と、妹……?
男性客の笑顔に、ちょっと違和感を覚えた。兄と、妹が、同時に――同時でもないかもしれないが――怪我。
怪我をしているきょうだいのために、おいしいものを買って帰ろうとする、優しい次兄……。
まあ、そういうこともあるだろう。別に、疑問に思うところでもないと思うが、なんとなく、なんとなくだが、妙に落ち着かない感じがした。
「兄と妹の、好物なんです。助かります……!」
初対面の自分に、聞かれてもいないのに家族の詳しい情報、しかもよい話ではないことを伝えることが、疑問なのだろうか。
糸のような目と、思ったよりも大きく吊り上がった口元、笑顔がどこか不自然に思えたのだろうか。
なにか、心がざわざわと落ち着かない感じがした。
「大変ですね。お大事に――」
気付けば、つい先ほどまで近くにいた幽玄の姿がない。白玉も。勇一は、他の売り場を先に見て回ることにし、その場を離れた。
視線を感じる。背中に。おそらく、あの男性客の。
なにかに似ている、と思い始めていた。あの笑顔。細い目の、大きな笑み。
お面みたいだ。
消化不良のような、居心地の悪い不安感が胸に居座る。どうということもないやり取り、どちらかといえば、ほのぼのとした交流のように思えるものだったはずなのに、どこか不吉な予兆のよう――。
勇一は、振り返らなかった。きっと、まだ笑っている。面のように表情を変えず。体がどんなにねじれても、白い顔だけこちらに向けて。そんなばかげた想像が浮かぶ。
振り返ってはいけない、決して。本能が警鐘を鳴らしていた。
結局、半額のオードブルとおにぎり、サンドイッチ、それから酒類などを買った。
スーパーを出て、信号を渡ったあと、傘の声が聞こえてきた。
『幽玄と、白玉は回収された』
「回収!?」
驚き、思わず声に出して訊き返してしまった。
『あれは、敵だ』
強い風が、吹き抜けていく。持っていたビニール袋が、がさがさ音を立てた。知らずに、勇一の手が震えていたのかもしれない。
『幽玄と白玉は、紫月様のもとにいる。紫月様が、彼らを引き戻した』
なんの、ために……?
『勇一を、守るためだ。あの場合、それが正しい』
え……。
『あの少女より、強大な力。衝突は、避けたほうがいい。そして、紫月様の見立て通り、やつは今回様子見だけのようだった』
あの少女……、架夜子より、強大な力……!
どこをどう歩いたかよく覚えていない。背を流れる冷たい汗。視界が歪んでいるような気がした。月の光も星の光も届かない中、勇一はおぼつかない足取りで、なんとかアパートにたどり着いていた。
「うまい……!」
「うん! お兄様、最高ーっ!」
きょうだいの喜びの声を耳にし、細い目をさらに細める。
「よかったですね。親切な人の、おかげです」
風に窓が鳴る。
妹は、半額がすごいとはしゃぎ、兄は、ちゃんと醤油が入っているのもいいな、と感想を述べる。
真っ暗な家の中、団らんのひとときが流れていた。
「ふふ。これから――」
きれいにまっぷたつではなく、不揃いに割れた割りばし。その先で、玉子焼きをつまむ。
「楽しくなりそうですね」
青年は、きょうだいたちのほがらかな反応を見て満足げにうなずきながら、最後に残していた好物をゆっくりと味わっていた。




