新年初のドカ雪に見舞われたロンドンにコスプレイヤーが現れた?!
* 武 頼庵(藤谷 K介)さまご主催の『街中に降る幻想の雪企画』参加作品です。
ロンドンは滑っていた。
よりにもよって、大多数の社会人の初出勤日、1月2日にドカ雪が降ってしまったのだ。
郊外からの電車は止まり、地下鉄もあちこちで運休、「仕方ない」と徒歩でオフィスに向かう人で歩道は溢れた。
「ひゃっ」とか「きゃっ」とか、あちこちでバランスを崩す人がいる。
――あ、転んだ。
自宅フラットからスニーカーで歩いてきたサムは笑ってしまった。
「いくら何でもこんな日にパンプスはないだろ? ヒールがぺちゃんこだって言っても」
恐らく駅が職場と直結している銀行街で働く女性なんだろうが、乗り入れているモノレールが動いているとは思えない。
どれだけ歩くつもりか知らないが、アラサーのサムでさえ、クリスマス休暇明けの身体は重くキレが悪いのに。
実家では、母の手料理を存分に食べソファに寝そべり、セリフの隅々まで憶えていそうな定番映画を連チャンしていた。
頬に当たる冷たい空気だけが頭をクリアにしてくれる。
サムは歩いているオックスフォード・ストリートを見回した。
車道には真っ赤な二階建てバスが何台も、いつもより数倍とろくそのでかい図体を取りまわしている。
融雪砂利が撒かれているから走行面は凍ってはいないが、どのバスも満員、バス停での乗降にも時間がかかる。
サムの足なら、次々とバスを追い越してしまう。
普段サムは表通りを歩かない。
自宅のフラットから職場まで、ロンドンっ子らしく裏の近道を抜けていく。
今日、少々遠回りになってもオックスフォード・ストリートを経路に選んだのは、綺麗に雪掻きされているはず、と思ったからだ。
軒を並べる高級ブティックや黄色い袋の老舗デパートが、ニューイヤーセール客を雪の中に立たせるわけはない。
ネット販売が増えた今でも、ドアの前で待つ客はたくさんいるのだ。
クリスマス商戦のブラックフライデー、12月26日のボクシングデーセールと切れめなく続いているこの新春セールは今さら感いっぱいだが、唯一の醍醐味は最高の割引率だ。
――まあ、そのブランドが好きなら、店に飛び込んで手当たり次第に商品を買い漁りたくもなるのかね。
歩道脇に薄汚く続く雪だまりに顔をしかめて通りを東に進んで行くと、高級店はだんだん減りサムにも馴染みのある店が増える。
「電車組はいいよなあ、堂々と欠勤できて」
お気に入りのテイクアウト・コーヒー店が閉まっていてつい独り言ちた途端だった。
斜め前のバスから大量の人が降りて来た。
サムは一歩下がって人々の流れをやり過ごす。
男も女もマネジャークラスのスーツ組。つるつるタイルの歩道の雪掻き後張った薄氷に一番足を取られやすい人種だ。
一団が引き潮のように去ったところで、サムの目の前にうずくまる女性がいた。
黒ダウンに黒ジーンズ、ほんのりピンクのニット帽から黒髪がこぼれている。転んだのか、黒いショートブーツの上から押さえている足首が痛むのだろう。
高校生に見える。
隣におろおろする女友達がいた。
「Die-Joe-Boo?」と繰り返すだけで、どうしたらいいのかもわからないようだ。
観光客なのだろうか?
日本人? 中国人? 韓国人?
サムにはてんで区別がつかない。
真ん前の二人の外国人女性をぐるりと避けて通るわけにもいかず、とは言っても他の皆はそうしていたのだが、サムは「怪我したんですか?」と声をかけた。
怪我人は潤んだ目を向け、友人は当事者より涙目で、「Queue-Queue-shir……、Ambulance number?」と訊いてきた。
残念ながらイギリスの救急車は捻挫には来てくれない。
電話の向こうから来る最初の質問が「患者は息してますか?」なのだ。トリアージのためだとわかっていても酷い。
死にそうでなければ助けが来るまで7時間かかったりするから、他の策を講じなければならない。
救急センターに担ぎ込むという手はあるが遠い。ホテルに帰って様子を見ろと言うところだが、いつもは煩いほどいるタクシーの空車が雪のせいで見当たらない。
サムは怪我人の横に長身をかがめた。
「骨折れてますか? 足動かせますか? 触りますよ?」
学生時代ラグビーをしていたおかげで、簡単な診断ならできる。
英語が何となく通じているのか、本人はブーツの横のジップを下げて足首を出そうとした。
そこに見えたのは子豚のキャラクターがにっこり笑うピンクの縞々ソックスだった。
加えて、淡いピンクの帽子のワンポイントはミニー、黒手袋はミッキー。
サムは頭を抱えたくなった。そういえばここはあの店の前。
――わざわざ、キャラクターグッズのセールに来たのかよ。
肩の力がどっと抜けて、サムは心なしか笑顔になっていたのだろう。
怪我人女性は、
「痛いけど……動かせるので、大丈夫です、少し休んだら……」
と英語で答えた。
「ここじゃ休むにも身体が冷えすぎる。ちょっと失礼」
サムは決心を固め、怪我人の膝下に腕を通し、ひょいっと抱き上げた。
「15分我慢してください」
「きゃ、あの、いいですから、下ろして、腕を貸してくれたら片足で歩けるから……」
女性の抗議を無視して、サムはくるりと後ろを向きもと来た道を引き返し始めた。女友達は、彼女の荷物と片足脱いだブーツを持って追いかけてくる。
腕の中の女性はきつい香水ではなく、柔らかいいい匂いがした。
同僚のアジア系女性からはスパイスなどのエキゾチックな香りがするのだが。
そしてすぐ近くにある首筋を横目で窺うと、高校生だと思ったのは巧妙な薄化粧のせいだとわかった。
――恐らく同世代。
サムが向かったのは、5ブロック手前の薬局だった。
コロナ禍以来英国では、薬局には救急処置資格を持つ者が常駐して相談窓口となっている。休む場所もあれば、湿布や包帯なども買える。病院より何かと手っ取り早い。
人の波に逆らって2ブロック歩いたところで、女性を横抱きしたことを後悔した。
――カッコつけずに負ぶえばよかった。
が、一度でも下ろすと腕の中の人は、けんけんで歩くとでも言い出しかねない。
サムは、女性を空中で抱き直して、腕がぷるぷるしてくるのを誤魔化した。
通りをさらに西に進むと人混みはもう見当たらない。
セールス客は店に吸収され、遅刻の通勤客は既に諦めたのだろう。
サムも自分の遅刻については、後で考えることにした。
何とか怪我人を落とさずに、目的地、半時間前にのど飴を買ったおしゃれな薬局の自動ドアをくぐることができた。処方箋窓口にあるイスに女性を下ろす。
「すみません、足挫いてるみたいなんで診てもらえませんか?」
白衣の薬剤師さんに声をかけるとすぐ患者に問診を始めてくれた。
サムがホッと安心して「じゃあ」と去ろうとすると、もう一人の女友達のほうが左腕にすがりついた。
「ライン、プリーズ」
――ライン? 地下鉄路線か?
こっちの娘は英語に慣れてないよなとサムは思いながら見つめると、スマホを取り出して緑色のアプリを懸命に指さす。
「サンキューメッセージ。センド」
サムはそのアプリはやってないなと思い、ケー番を英語で言ってもこの娘は聞き取れそうもなく、ブルートゥースを繋ぐ説明も難しいと判断し、アナクロでいくことにした。
今朝家を出る時に、届いていた封筒をブルゾンのポケットに突っ込んできたのだ。
中身は母校からの寄付金の礼状、封筒だけにして表に電話番号を書き足す。
名前、住所、ケー番が一目でわかる重要書類になってしまったが、助けた恩人に迷惑はかけないだろう。
「サミュエル・ジョンソン・フィリップス」
フルネームを呼び捨てされるのは母親か先生に叱られる時だと決まっているのだが、目の前の娘はそんなことは知らなそうだ。
よく見ればこっちの娘のほうが、かなり歳が若い。
薬局を離れ、サムはまた会社に向かった。
既に昼近く、サムは重役出勤どころか名実ともに社長出勤になったオフィスで、社員たちと「ハッピーニューイヤー」と言い合う。
ここはサムが大学卒業と同時に、ラグビーでチームメイトだったジェフと立ち上げた不動産メンテ会社だ。
歴史あるロンドンの景観を守りながら、屋根を修繕したり庭を改修したりするのは思ったより難しい。
特に業者の当たり外れが激しすぎる。
サムが祖母の遺産として受け取った、今住んでいるタウンハウスの修繕に苦労したところから始めた会社だった。
事業内容としては、顧客のニーズを聞き最適な業者を割り当て、円滑な作業と金銭のやり取りを保証するだけ。
タウンハウスのテナントからの賃貸料収入は安定しており、まとまったお金がある。
評価額の上がったタウンハウスを担保に安い金利で借り入れもできた。
そこで、技能は高いのに資金力がなくて存分に腕を振るえていない自営タイプの職人たちを抱え込んだのだ。
ピンキリの業者がひしめくロンドンだからこそ、サムの会社を通せば問題ないとの評価が高まってきている。
「出てこないつもりかと思ったよ」
年度末3月までのスケジュール調整表を眺めながら、ジェフは笑った。
「オレが一番オフィスに近いのに遅れちまったな」
サムはただ笑うだけにした。
個人情報を悪用されないと思ったのは、サムが甘かったと言えるだろう。
仕事初めもそこそこにサムが家に帰ると、夕刻アナとエルサが表玄関に現れた。
とりあえず3階の自宅前まできてもらったが、サムはドアを半ば開けたところで、ふたりをまじまじと見入ってしまった。
靴、ドレス、ワイン色のマント、メイクアップ、ブロンドと薄い茶髪のかつら。
カラコンだけはムリだったらしい、ふたりのアジア系栗色の瞳が恥ずかしそうに笑っていた。
ふたりの背格好もキャラにピッタリで顔つきも似ており、まるで、映画から抜け出てきたみたいだ。
手に持つのは有名な黄色い紙袋に紅茶やトリュフチョコ、シャンペンにシングルモルト。リバティの袋にはなぜかマグカップ4つ。
「お礼に何がいいかわからなかったので」
傷めたほうの足には体重をかけていないエルサが頬を染めた。
「う、ウィスキーだけもらおうかな。わざわざありがとう」
サムがおずおずと手を伸ばすと、アナが、コスプレという単語を連発した。
この言葉はネットでグローバルに話題になっているのでサムにも聞き覚えがある。
――自分の家の玄関にレイヤーが現れるとは思わなかったが。
「折角着たので、見てほしいって妹が……」
エルサの顔色はレースが煌めく水色のドレスに似合わないほど赤い。
「じ、じゃ、あがる?」
いや、男の一人暮らしの家にあげちゃだめだろう、とサムも赤くなった。
「そ、それは困るので……」
「ノッティングヒル-no-koibito、ガーデン、スノー!」
アナの格好をした妹らしい娘は元気がいいのはいいが、何が言いたいのか今一よくわからない。
サムは姉が通訳してくれるのを待った。
「ここのお庭、ノッティングヒルの映画みたいに住んでる人だけの共用ですよね? 芝生の上は雪がまだ綺麗。妹が歌ったら聞いてくれますか?」
「歌?」
断るのもヘンだと思って3人連れだって広々としたプライベート・ガーデンに出る。
裏口の灯が雪に反射して小さなスケートリンクのように見える真ん中で、アナは踊りながらテーマ曲をのびやかに歌った。
「これはエルサの曲じゃない?」
とサムが隣で聞いていた姉に声をかけると、彼女も数歩前に出て、デュエットに変わった。
歌の上手い仲良し姉妹もいいものだとサムは眺めていたが、終わるや否や、アナはもう一曲歌いながら雪だるまを作り始めた。そういう歌があるらしい。
しかし、一度解けた雪はザラメのような氷粒状になっているから丸まりにくい。
アナが悪態を吐きながら奮闘している横でエルサはうずくまり、足元の雪をかき集めてサワードウのパンのように細長くまとめた。
「赤い実がなってる木、ありませんか?」
もう庭の植込み辺りは真っ暗だが、屋外灯を雪が照り返すスポットライトの中のエルサの微笑みは、サムには眩し過ぎた。
「ピラカンサがあるけど、棘が鋭いからオレが取って来るよ」
「じゃあ、大きな緑の葉っぱもお願いします、椿とかがいいんですけど」
サムはこの庭の所有者が自分で、メンテに来る造園業者とも懇意にしていてよかった、などと思いながらスマホのトーチ機能を頼りに、ピラカンサの赤い実と、椿はないので代用として月桂樹の葉を数枚採って戻った。
エルサに手渡すと、「ほら、スノーラビット!」と何を作っていたのか教えてくれた。
雪だるまを断念したアナもふたつ作ったらしく、そこには3羽の白うさぎが並んでいた。
「ありがとう」
サムはなぜか胸が詰まってそれだけやっと口にした。
明日はもうフライトだからホテルに帰るというふたりをサムは引き止め、1階のビジネス用応接室に案内した。
「身体冷えただろうからお茶淹れるよ。タクシー、今日はすぐにはこないと思う。今予約しておこう」
「タクシー? 地下鉄でいいです」
「足まだムリしないほうがいい。その格好を見せびらかしたいなら別だけど」
サムが心配半分、からかい半分にそう言うと、エルサはムッとしたのか少し悲し気に黙ってしまった。
名前も知らない、エルサと呼ぶしかない相手。
行きずりの、母国に恋人が待つのか、連絡先を聞いたとしてもこれから先に繋がるのかどうか、それもわからない人。
サムが立ち止まって付属する小さなキッチンに出ていかないのを見て取って妹がはしゃぐ。
「アイゴーホテルバイタクシー。アイスリープホテル、シスタースリープヒア!」
こんなときばかり、サムは妹の言わんとすることがすっとわかってしまい赤面した。
エルサはそれ以上にソファの上に縮こまって俯いている。
「そろそろ、名前ぐらい教えてくれないかな?」
サムは自分の声の震えが隠せない。
エルサが後で語ったことには、やっと顔を上げた時、サムは途轍もなく優しい瞳で見つめていてくれたらしい。
新年すぐのドカ雪も、滑りやすいオックスフォード・ストリートの歩道も、プライベート・ガーデンの雪うさぎも、恋の成就に貢献したのだろう。
-了-
読んでくださってありがとうございます!