第8話 至福の一杯〜ブレンドコーヒー
朝のまだ清々しい空気が漂う開店直後。今日は風も穏やかで小鳥のさえずりも聞こえる。
キッチンではブレンドさんが注文されたブレンドコーヒーをドリップしている。
ペーパーフィルターをセットしたドリッパーに中挽きしたコーヒー豆の粉をきちんと分量を計って平らに入れる。その上から1度沸騰させてから沸騰がおさまったお湯(85〜95°C)を静かに粉全体に注ぐ。20〜30秒待って粉を蒸らしたらコーヒー粉の真ん中にゆっくりとお湯を注いでいき、飲む分の量になったらドリップをやめる。温めてあったカップにコーヒーを注ぐと完成である。
「お待たせ。ブレンドコーヒーどうぞ。」
ブレンドさんがカウンターに座っている年配の男性にコーヒーを差し出した。
「あぁ、いい匂いだねぇ。ありがとう。」
男性はコーヒーの匂いを嗅ぐと満足そうにコーヒーを口に運んだ。
「私はコーヒーが好きでね。特に喫茶店のコーヒーは手間暇かかってるでしょう。選ぶ豆や挽き方とかねぇ。そういうのを考えながら飲むのがまたいいんだよ。」
そう笑いながら美味しそうにコーヒーを飲んでいる。
「今日は散歩の途中でここを見つけてね。入ってみて良かったよ。」
「じいさんはこの近所に住んでんのか?」
ブレンドさんが尋ねると男性は大きく頷いた。
「もう少し行ったところの町に1人で住んでるよ。」
「1人でか?家族はいないのか。」
近くに立っていたラテさんが言うと男性は少し寂しそうに答えた。
「娘が1人いるんだが、何年も前に嫁いでね。今は遠くに住んでるよ。一緒に住まないか、とも言ってくれたんだけどねぇ。やっぱり自分が生まれ育った土地から離れるのは嫌でね。」
そう言うと男性はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した…。
高森重雄75歳。10年前に40年近く勤めた会社を退職し、現在はこの近くの町にある一軒家で1人暮らしをしている。
妻は4年前に病気で他界しており、たった1人の家族である娘の優子は数年前に他県に嫁いでいた。
娘夫婦と孫たちは毎年お正月に帰省していたが最近では孫たちももう大きくなり、遊びに来る機会も減ってきている。
それでも1人暮らしは気楽だと重雄は笑った。
「ただちょっと困ったことが起きてねぇ。」
重雄は少し伸びた顎髭を撫でながらブレンドさんの方を見る。
「この前健康診断だったんだけどね。実は、癌が見つかってねぇ…まだ娘には話してないんだけどね。どうしたもんかねぇ。」
重雄は視線を空になったカップに移すと皮肉に笑ってみせた。
「えっ。そうなのか?身体は大丈夫なのかよ。」
いつのまにか話を聞いていたモードがびっくりして尋ねる。
「それは早く娘さんに言ったほうがいいんじゃないですか?」
パンくんも帰るお客さんの会計が終わるとレジの方からカウンターにやって来た。
「心配かけるのも気が引けるからねぇ。まぁしょうがないよ。ごめんよ、こんな話をして。」
重雄は何事もなかったかのように笑顔で言うとみんなに頭を下げる。私はそんな彼を見て思わず声を掛けてしまった。
「あの。娘さんを頼ってあげてください。」
重雄は不思議そうに私を見た。
「私のおばあちゃん、この前倒れたんです。今は入院中ですけど。おばあちゃんは息子夫婦が近くにいて本当に良かったって言ってます。私たちもすぐにおばあちゃんを病院に連れて行けて安心しています。」
重雄とおばあちゃんが重なりつい熱くなってしまう。
「そうだぞーじいさん。自分の身体もっと大事にしろよ。」
ソーダさんがフォーチュンクッキーの袋をもってカウンターの方にやってきた。
「これ願いが叶うフォーチュンクッキーっていうんだけど。まぁ、おみくじみたいなやつな。これやるよ。」
そう言って重雄の前にクッキーの袋を差し出した。
「ほう、おみくじかぁ。じゃあ1つだけ貰おうか。」
そう言うと重雄は袋から1つフォーチュンクッキーを取り出し、パンくんに教わった通りにクッキーを半分に割った。
『願い叶う。今、このときを大事に生きるべし。』
フォーチュンクッキーのおみくじを見ながら顔を綻せる重雄を私たちは笑顔で見守ったのだった…。
2週間後。
まだ開店直後の店内はドリップしているコーヒーのポタポタという音といい匂いでいっぱいになっている。
温めてある2つのカップにコーヒーを注いだブレンドさんがカウンターに座っている2人にそれを差し出す。
「当店特製のブレンドコーヒーです。ごゆっくりどうぞ。」
出来たてのブレンドコーヒーのカップの中には、コーヒーを受け取る重雄の笑顔とそれを見守る優子の顔がゆらゆらと揺らめいていたのだった_。