スグルさんは、健康体になっていた
「早いぞ! このまま行ったら確実に落ちる!」
教官は1秒間に420メートル進んでいる。いつ気絶してもおかしくない。
教官からの声がしだいに途絶えた。
きっと気絶したのだろう。
死の恐怖と受けていた圧力は気絶するほどつらかったようだ。
教官の体が生を諦め無痛のまま死を選んでしまうほど、私は追い詰めてしまったらしい。
――私の胸ぐらを少しつかんだだけでベスパはあれほど正気を失ってしまうなんて初めてだよ。何でなんだろう。
私はただ祈るしかなかった、
私は人殺しにだけはなりたくないのでベスパを信じるしかない。
教官の落ちてくる10秒はあまりに長く、時が止まっているように感じた。
そう感じていたのは私だけかもしれない。
それでも時は流れ続けている為、10秒はあっという間に過ぎる。
「ぐっ!」
私達の目の前を発光体が通る。
私は眼をゆっくり開けると気絶しながら空中で棒立ちになる教官の姿が見えた。
ベスパは教官の襟首の鎧をつかみ、浮遊している。
眼は赤く、相当怒っているのだと容易に想像できた。
「きょ、教官……。大丈夫ですか?」
ロミアさんは教官の顔をパシパシと叩く。
教官は気絶しており一向に起きない。
「とりあえず、治療室に運びましょうか」
――ベスパ、教官を治療室運んで。
私はベスパに命令し、教官を治療室に運ばせる。
「了解しました」
空中に浮かんでいたベスパは、教官と共に割れた窓ガラスから建物の中に入っていく。
「えっと、キララちゃん。教官は大丈夫なの? どっか行っちゃったけど……」
ロミアさんが私に近寄ってきて教官の行方を聞いてきた。
「はい、大丈夫だと思います。何かあると怖いので教官は治療室に一応運びました。えっと、皆さんには大変ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いやいや、教官が絡んできたのがいけないんだよ~。キララちゃんは何も悪くないって。逆に私達はお礼を言いたいくらいなんだから。あのクソうざい教官をあれだけ泣きべそかかせられたんだから。もの凄く満足した。これから何言われても、今日を思い出せば屁でもないよ~」
「そ、そうですか。そう言ってもらえるとこちらも助かります」
「それで、キララちゃん。スグルさんに用があったんじゃないんですか?」
マイアさんは私がやらなければならない仕事を思い出させてくれた。
「そ、そうでした! 早く行かないと!」
私は4人に連れられ、スグルさんのいる研究室に来た。
私は扉を少し開けて中を覗き見る。
――スグルさん。もくもくと仕事してますね。なんか、昨日より調子よさそう。目の下のクマは無いし、よく眠れたのかな。それにしても雰囲気がまるで違う。あれはほんとに同一人物なのだろうか……。
『トントン』
私は扉を数回叩き、完全に開ける。
「すみません。スグルさんはいますか……。昨日お会いしたキララです。牛乳を持ってきました」
――いるのは分かっているけど、言わないといけないよな。
「ん? キララちゃんじゃないか。ありがとう、来てくれたんだね。昨日、住所教えるの忘れてたの朝起きた時に気づいたんだ。まさか来てくれるなんて、ささこっちに」
スグルさんは笑顔で私を迎え入れてくれた。
昨日のどんよりした顔とは程遠い。
今のスグルさんは後ろの4人がときめいてしまうほどイケメンで、清潔感に溢れている。
身長の高い男性アイドル系の顔と言えば分かるだろうか。
小顔で高身長、目がすっと切れ長で落ち着いた雰囲気を放っている。
顔の周りに花が舞っているような幻覚まで見えた。
「えっと……、ほんとにスグルさんですか。昨日とあまりにも違うので疑ってしまうんですけど」
「あ~、昨日は3徹後だったから相当疲れてたんだよ。でも、キララちゃんの牛乳を温めてから飲んで寝たら。ありえないくらいよく眠れたんだ。3徹の疲れを一気に吹き飛ばしてくれてさ、もう有難いのなんのって」
スグルさんは爽やかな笑顔を私に見せているのに、なぜか後ろの4人が黄色い声援を放つ。
「それは良かったですね。今日は牛乳を持ってきました。買っていただけますか?」
「もちろんだよ。調査資料にも必要だし、僕の睡眠の質を高めるためにも必要だからね。金貨5枚だよね。ちょっと待ってて、騎士団名義で請求書を書くから」
「は、はい……」
――請求書か。まぁ機関だから必要になってくるんだろうな。私達も請求書を書いたほうが分かりやすくなる部分があるかも。なにか牛乳関連で事件に巻き込まれた時、証拠になるかも知れないし。
「これでよし。それじゃあ、金庫から資金を持ってくるから、もうちょっと待っててね」
「分かりました」
私はスグルさんのいない間に、ベスパを呼び戻す。
――ベスパ、廊下に置きっぱなしのクーラーボックスを持ってきて。
「了解」
ベスパは1分も経たないうちにクーラーボックスを浮かせながら私のもとに戻って来た。
「大変申し訳ありませんでした。ついカッとなってキララ様の命令を無視するなど……大罪に値します。私を一度焼き払ってもらえないでしょうか、身も心も入れ替えてキララ様に尽くしたいのです」
「いや……、ベスパは私を守ろうと行動してくれただけでしょ。教官も無事だったんだから、そこまで落ち込む必要ないよ。これから気を付けてくれればいいんだから」
「う……ううう~。キララ様~~!」
ベスパはクーラーボックス床に置き私に飛びついてきた。
『ファイア!!』
「ギャアぁア~~~~!」
ベスパは燃えカスとなり、研究施設の床に落ちていく。
「ご……ごめん、ベスパ。さすがに飛びつかれたら燃やさざるおえない……」
燃えカスは塵尻になり、魔力へ戻る。
「あ~、燃えました、燃えました~。生まれ変わったようにいい気分です~」
ベスパはすぐさま復活し、私の頭上を8の字に飛び回る。
その後、スグルさんは革袋を持って戻って来た。
「えっと…、この中に金貨5枚が入っている。確認してくれるかな」
「はい、分かりました」
私はスグルさんから革袋を貰い、中身を確かめる。
中には金色に光る硬貨が5枚入っていた。
「金貨5枚ちゃんと入っていますね。ありがとうございます。こちらが、牛乳パックの入ったクーラーボックスです」
私は床に置かれていた、ボックスを滑らせながらスグルさんの足もとに持っていく。
「ありがとう。えっと……7日後もここに来てくれるのかな?」
「それでもいいですけど。騎士団の受付に事前に連絡しておいてください。そうしないと、また塞き止められてしまいます」
「あ……、ごめん、忘れてたよ。次は事前に連絡しておくから、7日後もお願いしますね」
「分かりました。それで、牛乳の検査結果はいつごろ出るんですか? 7日後に出ると有難いですけど……」
「検査結果は確かに7日後に出るけど、その結果を王都にある食品安全庁の上層部へ持っていかないといけない。そこで許しが出ないと一般に販売出来ないんだ。しかも、上層部が決定するまで1カ月はかかる」
「あ……そうなんですね。それじゃあ、7月の終わりか8月の初めくらいに結果が分かるんですね」
「そうだね。早くてそれくらいかな。長いときは半年かかった事例もあるから、一概には言えないけどね」
「半年……それは長いですね。何が半年もかかったんですか?」
「混合された価格の安い紅茶だね。検査結果は問題なかったんだけど、貴族との折り合いが立たず一般に売るか相当悩んでいたらしい。貴族は紅茶にうるさいからさ。一般の民衆に紅茶が飲まれるようになったら、紅茶本来の味や風習がぶれると主張したんだ」
「へぇ、そうなんですか。まぁ、私は1カ月待てばいいだけですね。もしダメでも生活するには困らないので、地道に頑張っていきますよ」
「自分は牛乳を買い続けますから。もうこれがないとダメな体になりそうなので」
スグルさんは苦笑いしながら、クーラーボックスを撫でる。
「は、はい。よろしくお願いします」
私は研究施設から出た。
――スグルさんを健康体にしてしまった。牛乳の安眠効果、おそるべし……。
外で待っていた4人は何かを話し合っている。
話を聞く限り『スグルさんが…』と言っているので、きっと容姿が変わっていたのが相当驚いたのだろう。
私の存在を忘れて女子話(女子トーク)を繰り広げている。
――あ~、若いな~。私も女子話してた歳があったよ。えっと……4人はまだ15歳くらいなのかな。騎士の養成学校がどれだけの間、通うのか分からないから私の想像でしかないけど。中学3年生から高校1年生の間か。一番盛り上がりそう。私がアイドルになったのが高校1年の時だから、高校の3年間は部活、アイドル活動、勉強で潰れちゃってたな。でも、今の歳なら私も学園に行けば、同年代とお話しできるのか……ちょっと楽しそう。いや……心の年齢が離れすぎてるよね。
私は特に何もなかった中学校、高校の頃を思い出す。
「キララ様、残るはあと1店舗のみですね」
「そうだね。それじゃあ、向かおうか」
私は、なごやかで楽しい雰囲気が満ちている4人を邪魔したくなかったので、無言で会釈してからその場を離れた。
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