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小さな教会の、小さな祭壇。壇上では天窓から射す穏やかな午後の光を浴びて少女の木像が厳かに祈りを捧げている。古の昔、無私の心で人々に尽くし、死後にその魂の汚れ無きを以て神の座に召し上げられたという伝説の聖乙女エレンディアの神像だ。
慎ましく跪き、瞳を閉じて両手の指を組んだ姿勢。世の人々の為にと永遠の祈りを続けるエレンディア像は、彼女を祀るこの礼拝堂の中で何を思うのだろうか。感傷などではなく純粋な疑問としてフィロはそんな事を考えた。
事のあらましを聞き終えた司祭のローレンは祭壇に蹲るエレンディアに向き合い、暫く押し黙っていた。瞑目し項垂れているローレンは何事かを祈っているようにも、重い落胆を心の奥底に押し込めて隠そうとしているようにも見える。
つと、帳のように礼拝堂を覆う悄然とした空気など我関せずのシェディールが長靴の踵を鳴らして最前列の長椅子まで移動した。ローレンを中心に立ち込める暗鬱とした空気ごと払い除けるかのように外套の裾を後ろへ大きく払って着席する。
「――…有難うございました」
シェディールが態と立てた物音を契機にローレンが囁くように言った。神像に向かって短く祈りの仕草をしてから振り向いたローレンは痛ましいような微笑を湛えている。
「これで…皆も救われます。貴方方のご尽力には感謝の念が尽きません」
ローレンは丁重に頭を垂れ、長い間そのまま動かなかった。ようよう顔を上げた老司祭は肩越しに教会の奥へと続く扉を見遣り、悲しげに瞳を伏せる。
魔物との繋がりを強引に断たれた所為か、エルクはまだ目を覚ましていなかった。村では魂の還った少女達が次々と意識を取り戻しているようだ。キリテとマリナの兄妹もシャラに担がれて村へと運ばれる道中で目覚めていたから、ローレンがエルクの心配をするのも無理は無い。
魂を奪われていた少女達は一様に昏睡に陥る前――つまり、エルクに誘い出されて魔物の餌食となった時の事をまるで憶えていなかった。それは操られていただけのキリテも同様らしく、自分が何故森にいるのかも、腹部の打ち身の理由も、何一つ記憶に無いようだった。これを幸いと取るかどうかはフィロには興味の無いのところではあるが、此方から明らかにしない限りはローレンを除く村人の誰一人としてエルクが事件に関わっていた事実を知り得ないだろう事は確かだ。
恐らくエルク自身は自らが魔物と共謀して少女達を手に掛けた事を忘れてはいないだろう。何故ならばエルクは魔物と契約を交わしている状態にあったからだ。
ほんの僅かフィロが送った視線を受けてシェディールが雑に折り畳んであった一枚の紙切れを取り出し、其処に記されている事柄を抜粋して読み上げる。仕事を頼みたいと連絡をもらい、事件の調査に村を訪ねる前に立ち寄った王都で渡された依頼書兼紹介状のようなものだ。末尾にはシェディールの友人であるエレンディアの司祭ルチカ・ベルフォートの署名がなされている。
「詳細は当該の村にて司祭ローレン・ミリート、及び神官エルク・レオノールに問われたし――と。司祭殿。貴殿は一昨日、我々が挨拶に訪ねた折にご自身は姓名を名乗られたが、エルクの事は名のみで紹介されたな」
聞けば、シェディールを紹介するのにもローレンは彼女の姓を省いてエルクに名のみを告げたらしい。エルクが姓名を言う必要が無いようにとの配慮からだろう。
「…この村の人々には姓を名乗る習慣がありませんから。ですので、名しか名乗らずとも誰も奇妙には思いません。お陰で他の村人達にあの子の出自が洩れる恐れはありませんでした。あの子は早くに亡くした家族の来歴を少しでも辿りたくて、神官としての任地にこのトレノ村を選んだのですよ」
「まあ、屋敷に放火するくらいだ。かつて村民に危害を加えた貴族の血統だと知られれば、ただでは済まないだろうな」
良くて放逐、最悪で袋叩きというところか。シェディールは足を組み替えて座り直し、吐き捨てるみたいにして微かに嗤った。ローレンは何も答えなかったが、意図的にエルクの姓を伏せていた事や憂いを帯びて俯く様子にシェディールの言を暗に肯定しているのが推察出来る。
「…血に刻マれタ契約。ソれが、今回ノ事件ノ原因」
フィロは祭壇を見上げて独り言染みて言う。村人等の信仰の対象であるエレンディアの像は何処までも清廉に、楚々として皆の為に祈りを捧げ続けている。
エルクから濃い魔物の匂いがする事自体は初対面の時から判じていた。だがそれが魔物と関わりがある所為なのか、それとも足繁く少女達の見舞いに通っていて纏わり付いただけの移り香であるのかの判断が付かなかったのだ。辛うじて繋がっていた玉の緒が少女達の肉体と喰われてしまった魂とを結び付けていた為か、眠る少女達には魔物の気配が強く絡み付いていた。故に彼女等を通じて村中に同一の匂いが撒き散らされる形になったのだろう。
ローレンは魔物の封じられたあの人形をずっと、物置である例の空き家の一室の奥深くにしまい込んでいたそうだ。それをエルクが見付け、まだ残っていた血筋に宿る契約により、封印の弱まっていたらしい魔物が覚醒してしまった。しかし力の大部分を失っていた魔物は直ぐには蘭月の施した封印を破る事が出来ず、エルクを利用して少女等の魂を喰らって力を蓄えようとした。これが此度この村で起こった出来事の概略だ。
とはいえ発端は遡る事四十年程前、幼い少女達の間で生じている。端から見れば玩具の奪い合い程度の些細な事象。けれども当人達にとってはそれだけでは片付けられない機微があったのだろう。仮令幼くても、心の動きそのものは大人と然程変わるものではない。
フィロは想像する。最初はきっと、羨望に起因するささやかな報復心だったのだろうと。病弱な少女は焦がれてやまない窓の外の世界に、健康な身体を誇示するかのように駆け回る少女の姿を見た。彼女が自分と同年代であるが故に胸の内に育ってゆく妬みも一入であり、何時しか、せめて何か一つでも彼女から奪い取ってやりたいと望むようになったのではなかろうか。
そして大切な人形を奪われた少女の方も、もう一方の少女を激しく恨んだ。姉妹同然に愛していた宝物を権力を有する我が儘と親の勝手な都合とに奪われてしまったのだから、憎むなという方が難しい。
お互いに恨み、妬み、憎み合い。子供というものは大人がそう考える程無垢ではない。仮令どれだけ幼くとも己にとっての損得を勘定出来るだけの思考を行い、純真と称される笑顔の裏にどろどろした感情を抱え、それでも無邪気に見えるよう振る舞えるものだ。どういう訳か大多数の人間は自分もかつてそうであった事を忘れてしまう傾向にあるようだが。
フィロが微かに落とした溜め息に気付いてシェディールが声を出さずに口許だけで笑う。祭壇の神像を一瞥するシェディールの眼はやけに冷めていて、どうやら彼女は今し方のフィロの思考を彼の雰囲気から読み取ったらしかった。
礼拝堂に差し込む温かな光。外から注ぐ陽光は祭壇を明々と照らしてこそいるが堂内を暖めるには足りず、大して広くはないのに礼拝堂の中は春とは名ばかりの寒気が漂っている。
不意にローレンが顔を上げ、フィロを見た。年月という皺を刻んだ柔和な顔に浮かぶ逡巡。気息を整えるようにローレンは一つだけ大きく呼吸をし、躊躇いがちに口を開く。
「シバ殿…と、申されましたね。貴方は……以前この村を訪れたあのシバ殿の…お孫さんですか?」
答えを欲すると同時に聞きたくないとも思う、そんな心の内が透けているようなおずおずとした口調でローレンが問う。問われてフィロはまず答えとは全然違う事を考えた。
ローレンにはきちんと姓名を告げた筈だが、やはり『真白』という音は此方の人には発音し難いのだろうか。『フィロ』という呼び方も出逢って間も無くに「音が難しい」という理由でシェディールが付けた愛称のようなものだった。そんなに難しい音ではないと思うのだが、まあ、未だに此方の言語の発音が不得手な自分に言えた義理ではなかったか。
口を噤んでいるフィロの態度に堪え兼ねるようにローレンは両手の指を腹の辺りできつく組んだ。フィロの思考が余所にずれているのを正しく悟り、シェディールが靴の踵で、とん、と床を叩く。思ったよりも響いたその音に意識を引き戻されてフィロは表面上は無感動に、実は少しだけ慌てて首を左右に振った。
「いイえ。蘭月――アなたの言ウ〝シバ〟は僕ノ大叔母ニ当たリます」
蘭月は若い頃、此方の大陸に遊学をしていたと聞いた事がある。フィロが知る限り、一族内で彼女の他に海を渡った他国にまで足を延ばして己の術を磨いた者はいなかった。
「……そうですか」
ローレンは安堵と寂しさが綯い交ぜになったような声で呟いた。
「ローレン殿はこれの大叔母君と面識が?」
興味をそそられた風にシェディールが尋ねる。そういえばシェディールは蘭月に会った事が無かったか、とフィロは大叔母の厳然たる佇まいを思い出した。
「はい。もう随分と昔の事になりますが…かつて今回と同様の騒ぎが起こった際に、同じ魔物を封じて頂いたのです。私は当時下位の神官でしたが、村で起こっている騒動をどうする事も出来ず、ただ見守るしかありませんでした。そこへシバ殿が現れて村を救って下さったのです。彼女とはそれきりになりますが、ご息災でいらっしゃいますか?」
フィロは頷く。フィロは蘭月と、それから彼女の直弟子と共に故在って生国を捨て、此方に渡って来たのである。一年と少し前に蘭月の許を離れはしたが今でも偶に手紙の遣り取りくらいはある。直接には暫く会っていないが恐らく元気にしているだろう。さもなくば、そうした連絡程度は来る筈だ。
「そうですか。それは何よりです」
噛み締めるようにローレンは目を閉じる。彼の瞼の裏には在りし日の蘭月の姿が思い描かれているのだろう。懐かしんでいるところに横槍を入れるようで悪いが、これだけは確かめておかなければならないとしてフィロは追憶に沈むローレンに問い掛けた。
「何故、アノ人形を処分シなかッタノでスか?」
問われたローレンは一瞬驚いたように目を丸くした。次にローレンは答えを見繕うように他方を目を遣って一呼吸置き、やはりきちんと答えるべきだと思い直したらしく、小さく首を振った。
「…大叔母上からお話をお聞きになっておいでだったのですか?」
質問で返され、フィロは僅かに肩透かしを喰らったような気分になった。けれどもローレンの表情を見るに今の問い掛けは此方をはぐらかす為の言葉ではないようだ。なのでフィロも正直に返事をする。
「いイエ。でも蘭月デあれバ、魔物ヲ封じタだけノ人形をソのままニハしないと思ッテ」
幾ら遊学の最中で時間や道具などに不足があり、自身の手に余る事柄であったとしても、蘭月の性格を考慮すると最低でも然るべき処分をしておくよう言い渡しておくくらいはするだろう。自他共に厳しく、あらゆる意味で厳格なのがフィロの知る大叔母だ。再度悪さをする恐れのあるモノを物置に押し込めておくような放置の真似事は決してすまい。
其方を捉えたまま動かないフィロの瞳をローレンは瞬きもせずに見つめていた。ふと張り詰めていたようなその表情が少しだけ和らぐ。ローレンはそっと息をついてから祭壇の真正面まで歩いて行き、聖乙女の像を仰いだ。
「――『然るべき処分を』と、彼女は確かに私に言い置きました。旅の途中である彼女には魔物を封じるだけで手一杯であり、後の始末などは他の魔術師に頼んで欲しい――と。私はそれを了承しました。偶然村を訪れただけの方に何から何までお任せするのも申し訳ありませんし、それも村の人々の為に私が出来る仕事の内だと思いましたから……」
「では、何故?」
先を促す言葉とは真逆にシェディールの声は素っ気ない。シェディールは既にその答えを知っているかのようで、ローレンには目もくれず手持ち無沙汰に天窓を眺めているのみだ。己の心情を吐露したいと思いつつもなかなか踏ん切りが付かないらしいローレンの胸中を推察し、どうやら敢えて尋ねたようだ。
ローレンは神像を見上げて暫く口籠もっていたが、やがて心の整理が付いたみたいにぽつぽつと語り始めた。
「…寂しかったのですよ。勿論、私個人の身勝手な感情だとは理解していました。ですが…彼女の残していった人形。あれが失われれば、彼女との繋がりが完全に断たれてしまうような気がして……私にはどうしても堪えられなかったのです」
振り返り、ローレンは自嘲を含んで寂しげに微笑んだ。ほんの一瞬、往来の中で少し擦れ違っただけのような恋。それでもローレンにはとても大切な想い出であり、容易に捨て去るなど出来ない想いだったのだろう。
フィロはシェディールの方を横目で忍び見た。視線に気付いていない筈などないだろうにシェディールは長靴の爪先に目を落として無言を貫いている。多分ローレンの心情を思い遣っての事だろうが、彼女が何も言ってくれないとなるとフィロは言葉に詰まってしまう。何せローレンは懺悔に断罪を乞うような苦しげな面持ちをしているのだから。
頭の中でフィロは言うべき言葉を探したが、そんなもの初めから見付かる訳も無い。ローレンの抱き続けている恋情はローレンだけのもの。フィロのような無関係の人間が口を挟むような余地があろうものか。
フィロはただローレンを見、そのまま目線を滑らせて奥へと続く扉を見遣った。シェディールが声も無く苦笑しているのが判ったが、そっとしておく事にする。
「――で、あの少年の処遇はどうするおつもりです?」
フィロの意を汲んでシェディールが代わりにローレンに問うた。非難や叱責を待っていたのだろうローレンは些か気落ちした様子であったが、直ぐに司祭としての顔に戻り、彼の本質なのであろう誠実さに溢れた声と表情で言った。
「全ては私の責任です。私がかつて言われた通りにあの人形を処分していれば、今回の一件は防げた筈なのですから。ですからあの子――エルクには何の責任も存在しません。エルクは魔物に魅入られ、操られていただけ。罪を問われるべき立場にあるのは私であって、彼ではない」
「司祭殿らしいお言葉だ」
茶化すようなシェディールの相槌をローレンは仄かな微笑みで受け流す。その眼には既に覚悟を決めた者の強さが在った。
「幸か不幸か、エルクが事件に関わっていたという事実を記憶している者はおりません。村人達には私の方から上手く説明しておきましょう。もしかしたらエルク当人は憶えているかも知れませんが…その時は彼のしたいようにさせてやりたいと思います。自らの行いを悔いて村を出るも良し、ここに残って慚愧の分だけ村人の為に尽くすのも良いでしょう。…私はもう側に付いていてやる事が出来なくなるかも知れませんが、エルクはしっかり者ですから。たとえ一人でこの教会に勤める事になっても大丈夫でしょう」
ローレンはそう毅然として言い切ってみせる。孫程も年の離れた後輩へ、篤い信頼に裏打ちされた心からの激励を込めて。
ローレンが言葉を終えるのと時を同じくして奥の扉が遠慮がちに開かれた。何時からいたのかは知らないが、扉の向こうで全てを聞いていたのだろう。戸惑うように立ち尽くすエルクが顔をくしゃくしゃに歪め、頬を滂沱の涙で濡らしていた。
「ソう言えば、手伝っッテくれテ有難うゴざいマシた」
天頂を過ぎ去った太陽が西の方角を目指して緩やかに落ちてゆく、昼中とも夕刻とも言えないような隙間の時刻。フィロは歩幅の違いで二、三歩分先を行くシェディールの背を見上げて礼を言った。
あれからフィロ達は間を置かずに宿を引き払い、トレノ村を後にした。調査を依頼された一件が片付いた以上は無駄に長居しても仕方が無いし、フィロ達部外者がいない方が今回の騒動に関わる話し合いなども円滑に進む事だろう。なのでフィロとシェディールはトレノ村近くにある街道沿いの宿場町へ向かって歩いている。
宿場町への道程の半ば以上を過ぎてからの、忘れていたのを漸く思い出したかのようなフィロからの急な謝辞にシェディールは軽く片手を挙げた。臙脂の外套を靡かせ、一定の歩調を崩さぬまま、彼女は振り向きもせずに言う。
「気にするな。王都の方に偶々所用もあったし、序でに言えばルチカの奴から行く先が多少閉鎖的な気質の村である事は聞いていたからな。お前を一人で送り出すのが心配だっただけだ。何しろお前は温和しそうな顔をして存外ずけずけと物を言う質だ。発音の不得意も相俟って村人との間に要らぬ揉め事を起こしそうだと判断したまでだ」
「……貴女がソれを言いマスか?」
「ほら。そういうところだ」
シェディールは頭だけを少々仰け反らせるようにして此方を振り返り、それ見た事かと鼻先で笑った。揶揄の色も明瞭な意地の悪い微笑を向けられ、フィロは素知らぬ振りで辺りの景色へ目を遣る。
平坦に広がる平原、地平に続く森。鋭角な稜線を薄青い空と同色に霞ませる遙かな山脈。生国はもっと山がちだった。ぐるりと見渡せば四方を緑に覆われた山々が取り囲む彼方の風景とは、此方は趣が全く異なる。
思えば遠くへ来たものだ。長い船旅を経てこの大陸へと渡って来た癖に、海の彼方の異国で暮らしているという実感がフィロには当初から余り無かった。確かに言葉や習慣、人々の容姿や出で立ちは違うのだが、そうした事が大して気にならないという方が正しいかも知れない。
詰まるところ、この傀儡師としての生き方が続けられさえすれば構わないのだと思う。フィロはその為に蘭月等と共に異国へとやって来たのだから。
今から凡そ三年程前の事だった。新帝の即位によって故郷で呪術師狩りが始まったのは。
新帝曰く、「呪術師による呪殺の横行は目に余り、やがて世を乱す禍根と成り得る。因ってこれを国より廃すべし」――心底莫迦げた話である。
呪殺が行われるのはそれを依頼する者がいるからだ。フィロ達真っ当な呪術師は仕事としてそれを請け負うだけであって他意や私的な思惑など微塵も無い。寧ろ取り締まるべきは呪殺の依頼を持ち込む貴族や高位高官連中の方だろうに、弾劾されるのは此方だけというのは甚だ笑える話だ。
お触れはまず言葉のみで穏やかに行われた。無論、従わなければ直ぐ様武力での弾圧に切り替わるであろう事は見え透いている。無用な争いを避ける為に多くの呪術師は稼業を変えるを余儀無くされ、あるいは朝廷の目を逃れての活動を決意した。
斯波は前者を選んだ一族だった。一門を束ねる斯波家当主――フィロの祖父に当たる――がそう決めたからだ。今は黙して従い、時を待つか、別の道を模索せよ。だがフィロは斯波としての技の数々を捨てて、あるいは封じて生きる事を良しとは出来なかった。だから当主の意向に強く反対意見を示した蘭月を支持し、彼女に同行して国を出る道を選んだのだ。
蘭月は斯波の技を深く愛していた。傀儡師である事が彼女の矜持であり、また生き甲斐でもあった。フィロも同様だ。フィロにとって身に付けた斯波の技を殺して生きるのは即ち死と同義なのだ。自らの誇りを殺し、己の心をも殺して生きる事に何の意味があろうか。彼方異国の地にて愛すべき技と共に生きる事が可能ならば、生まれ故郷を捨て去るくらい何躊躇う事があろうか。
以前、此方へ渡る前。蘭月に言われた事がある。お前は私に似ているわ、と。真冬の枯れ野のような空々とした心の奥深くに、斯波としての技に対する自負と執着という決して消える事の無い熾火を宿している。その時の蘭月は同病相憐れむような、同族嫌悪のような、普段滅多な事では眉一つ動かさない彼女には珍しく曰く言い難いような複雑な顔をしていたのを憶えている。
一足先に街道を駆け抜けて行く風がフィロの意識を思考の淵から呼び戻した。春の気配を漂わせる風の匂いを嗅いで考える。後どのくらい研鑽を積めば蘭月のような傀儡師になれるのだろうか。己の未熟さに辟易するような心持ちでフィロは帯に手挟んであった小芥子めいた人形を手に取る。
魔物を封じ直しはしたが、エルクの血の中に蘇った契約を断ち切る術をフィロは知らない。正確にはエルクを生かしたままで契約のみを破棄する術を知らないのだ。やろうと思えばこのまま魔物を封じ続ける事くらいは出来るだろうが、それでは何時の日か封印に綻びが生じた際に再度レオノールの血統に影響を及ぼす事になり兼ねない。
手の中の人形に魔物の気配を感じながらフィロは蘭月の偉大さを痛感する。蘭月は手持ちの有り合わせの道具のみで魔物を数十年もの期間封じ込めてみせたのだ。確かに特別強大な力を有する魔物という訳でこそないとはいえ、その術の巧妙さは見事の一言に尽きる。
フィロは自身の未熟に憂鬱を覚え、知らぬ間に握り締めてしまっていた人形を帯に戻した。
「何だ、まだ気にしているのか?その魔物の事なら私の方の伝手で〝然るべき処分〟をしておくから問題無いぞ」
言ってつと足を止めたシェディールが振り向き様に微笑み掛けてくる。けれどもその微笑に含まれているのは気遣いや優しさではない。その事で内心いつまでも悔しがっているフィロをからかう為に作った微笑みであるのだ。
精進しよう。フィロは無表情の裏側で固く決意する。経験上、傍目には表情は全く動いていない筈だがシェディールはフィロの顔を見て「まあ努力あるのみだろうな」と、風に乱された前髪を鬱陶しげに横へ払った。
薄情な笑みを湛える恋人を見上げてフィロは改めて思った。この人は性根こそ曲がっている訳ではないが、本当に意地が悪い。何故判るのは知らないが、そうやって此方の心中を察してくれるのならば、態々駄目押しのような事を言わなくてもいいのではないだろうか。
少々思うところが無い訳ではないが、言っても詮無い事ではある。この話はこれで一区切りとしてフィロは特に意味も無く、歩みに併せて視界を流れていく辺りの風景に意識を戻した。
大気に含まれる春の匂いはまだ淡い。向こうでは桜の花が蕾む頃だろうか。四季の移ろいに花を愛でるような風流な趣味は持ち合わせていないが、こうして離れてみると自分でも意外程に春の香りにあの花吹雪を思い出す。
歩調こそ淀み無いながらもフィロの思考は散漫としていた。延々とした街道の雄大さも、人知れずそっと咲き誇る野花の清楚な佇まいも、視覚に捉えこそすれども其処に注意が向く事は無い。水泡のように浮かんでは消える取り留めも無い思案の数々にフィロは完全に気が散っていた。結果、街道に刻み込まれた轍の跡に無様にも足を取られる。
はっとした時にはもう遅い。ああ、転ぶな。他人事みたくそう思って転倒の衝撃に備えるものの予想したようには転ばずに済み、蹈鞴を踏んで大きく蹌踉くだけで終わった。
「足下が疎かになるようなら考え事は程々にしろ」
シェディールの声は判り易く呆れていた。確かにその通りだとフィロは頷き、注意が足りなかったと反省する。だが、突然頭が揺さぶられたのが功を奏したらしい。あれこれと纏まらない思考の中でフィロは今更ながら自分が何を気にしていたのかに思い至った。
「――…アの二人に、オ咎めハ?」
唐突に過ぎるフィロからの問いにシェディールが眉間に皺を寄せる。
「あの二人…?――ああ、司祭殿とエルクの事か」
無言で其方を見つめるフィロの態度を肯定と判断し、シェディールは村のある方角を素気なく見遣った。
「村人の事なら問題無いんじゃないか?今は目覚めた娘達の心配で手一杯だろうし、あの司祭殿は持ち前の真面目さと篤実な人柄で村人連中の信頼を勝ち得ているようだ。過去に村に害を齎らした魔物が今でも残っていたのは自分の所為だと莫迦正直に明かしたところで、指弾される事は無いとは思うがな。第一、かつてあった似たような事件を直隠しにして忘れ去っているような輩だ。都合の悪い事は何もかも無かった事にしているような連中に他者を糾弾する資格があるとは私は思わん」
手厳しいが道理ではある。エルクの事は恐らくローレンが宣言通り、身を挺してでも守るのだろう。自分を愛し認めてくれる〝家族〟など自分には存在しないとエルクは思い込んでいた様子だが、彼の側にはずっとローレンがいた事に本当に気付いていなかったのだろうか。フィロには疑問だった。果たして身近過ぎて見えなかったのか。それともいっそ悲劇に酔い痴れていたかったのか。他にもエルクには好意を寄せ、慕ってくれる者がいたというのに。
孤独の余りに抱いた憧憬故に、本来ならば見える筈のものさえ見えなくなっていたのか。そうした心の空隙に魔物は付け込んだのだ。悲嘆に暮れるエルクにとって魔物の言葉はさぞかし優しく甘い誘惑だったに違い無い。
フィロは成る程と瞑目した。フィロの中で考えが落ち着いたのを見計らったかのようにシェディールが続く言葉を継ぐ。
「因みにエレンディア聖教のお偉方なら気にする必要すら無いな。仮に司祭殿が裁きを欲して訴え出たとしても、あんな小村の教会のごたごたに一々拘らってなどいられないだろう」
そんなに気に掛かるのなら報告がてらルチカに一言添えておけ。シェディールはそう面倒げに付け加えると、またさっさと歩き出した。正論と言えば正論なのかも知れないが何とも乱暴な物言いである。エルクとローレンの先行きを思ってフィロは一度だけ後ろを振り返り、尤も自分には関係の無い事かと極微かに頭を振った。
「私としてはあの二人の件よりも、魔物が封じられていたあの人形の方が気になったがな。…良かったのか、本当に処分してしまって?」
フィロが小走りで隣に追い付いたのを見て、待っていたかのようにシェディールが訊いてくる。魔物の器と化していた蘭月作のあの人形はシェディールに頼んで彼女の持つ魔具を用い、あの場で焼却してもらってあった。その事をフィロが密かに悔いてはいないかと案じているのだろう。
フィロははっきりと頷いた。それで構わない。いや、寧ろそうするべきだったのだ、と。
『あれはもう、蘭月の傀儡じゃない』
断言する。語調の強さに怪訝に眉根を寄せるシェディールにフィロは彼女を真っ直ぐに見上げ、そして遙か東の方角へと目を移した。地平を越えた更に向こう、海を渡った彼方に在る生国の姿を見晴るかすかの如く。
『――〝操り手もおらず勝手に動くものは最早傀儡ではない。化生というの〟。そう蘭月は言ってた。一度化生に成り下がった人形には邪気が残る。なら、再び独りでに動き出す事が無いように焼き捨てるのが最良の選択です』
化生に堕ちた人形などは蘭月には不要だろう。無論、フィロにも必要無い。
全ては斯波一族の傀儡師としての矜持に由来するものだ。この矜持を捨てれば、自分達は誰かの依頼によって誰かを殺すだけの無様な傀儡と成り果てる。そんなものは化生以下の存在だ。技の為に国を捨て去る事を選ぼうとも、胸に在るこの信念だけは何があろうと決して捨ててはならない。
迷いの無い瞳で彼方を見据え、フィロは凛と言う。シェディールはそんなフィロの横顔を無言のまま神妙に見つめていたが少しして、到頭堪え切れずにといった体で何故だか小さく吹き出した。
「お前は語るべき事柄が多くなるとどうしても其方の言葉を使うな。成る程、いつまで経っても発音が上達しない訳だ」
「………放っテおイて下さイ」
人が折角真面目な話をしているというのに。しかも自分から話を振っておいてその反応はどうなのだ。流石に悪いと思ったのか、シェディールは笑い顔を他方へ逸らしながら片手をひらひらさせて謝罪の意を表している。
そもそも此方の発音が小難しいのがいけないのだ。それが言い訳であるのは重々理解しているが、こればかりはどうにもならない。有るか無きか囁きめいた溜め息を洩らし、フィロは止まないシェディールの忍び笑いを風の音に聞き流すのだった。