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 空は胸がすくような快晴。けれどもそんな天気とは裏腹に、村に漂う空気は未だかつて無いような重苦しいものだった。

 意識的に平生通りの仕事を熟そうとする村人達は、しかし一様に面に沈痛な想いを滲ませている。其処彼処から聞こえてくるひそひそと囁き合う声も何処か悄然としており、さながら亡霊の嘆き染みて耳に届く。

 まるで葬式のようだ。暗く沈んだ村の中を歩きながらエルクは思った。

 斯く言うエルクも夜明け近くまで続けられたマリナの捜索に徹夜を強いられ、全身の訴える疲れを隠せないでいる。隈の浮かんだ目許を擦り、酷使に怠く感じられる足を無理矢理に動かしてエルクはシェディールの姿を探した。

 一方的に喧嘩別れのようになってしまった昨夜の事を謝らなければならない。彼女はその程度の些末事など気にしない性格のようにも思えたが、仮にもローレンから手伝いを命じられている身だ。このまま放り出すのは良くないだろう。

 外套の臙脂の色を求めて視線を彷徨わせていると、ふと雑貨屋の建物が目に留まった。流石に今日は店も休みらしい。幼い娘が行方知れずのままなのだ。仕事など手に付かないのも仕様が無い。

 昨夜キリテに殴られた頬へとエルクは無意識に手を遣る。腫れこそ引いたものの触れるとまだ酷く痛んだ。思い切り殴られたのだから当たり前かも知れないが。

 エルクは溜め息をついて森の方向を見返した。小さな森は風にそよぐ木立に普段と何ら変わらぬ静穏を纏っている。ほんの半日前くらいまで大勢の村人がマリナを探し回っていたのが嘘のような静けさだった。

 頬に疼痛を感じ、顔を伏せて踵を回らす。俯き、物思いに沈みながら歩いていたエルクは自分の名を呼ぶ優しい声にびくりとして顔を上げた。

「どうしたの、エルクさん?今日は、随分と暗い顔をしているのねえ」

「ベラさん…」

 ベラはいつものように軒先の長椅子に座ってにこにことしている。老女の隣にはまたもやフィロが座っていた。何もかもが昨日と同じようで、時が巻き戻ったような、あるいは既視感めいた不思議な感覚を覚えた。

 そっと席を空けられ、エルクはベラに礼を言って腰を下ろす。ベラは笑顔のまま、何の前置きも無しに話を始めた。

「なんていったかしらねえ…。ああ、そうそうレオノール様。貴族の方はレオノール様っていうお名前だったわ。可愛らしいお嬢さんのお名前は……駄目ね、思い出せないわ。嫌だわ、年を取るって。どうも、こういう事が多くなってしまって」

 フィロを相手に昨日の話の続きでもしていたのだろうか。フィロは聞いているのかいないのか、今一つ判然としない態度で真っ直ぐ遠くを見つめている。

「…ああ、でも、そこのお家に住んでいた女の子の名前は思い出したわ。ニーネちゃん、っていうの。いつも一緒のお人形の名前はニーナ。とても仲良しさんだったわ」

 ベラは空き家の方へと向けた目を懐かしげに細める。

「でもねえ、ニーナはお屋敷のお嬢さんの所に行く事になってしまったの。お屋敷の庭で遊んでいるニーネちゃん達のことを窓から眺めていたお嬢さんが『あのお人形が欲しい』って、駄々を捏ねたみたいで。ニーネちゃんは当然嫌がったんだけど、ほら。お父さんがちょうど、余所へ行って商売を広げようとしていた時だったから。もしも貴族の名前を借りられれば、お得意先も増えるんじゃないかって思ったんでしょうね。結局、ニーナをお嬢さんにあげる事にしてしまったんですって」

 大切な人形を奪われる事になった幼い少女の心の内を思い遣ってか、ベラの声が悲しげに陰る。エルクは今ではない過去を見ているベラの視線を追おうとし、話に出て来る少女達の事を考えた。

 片や、大切な人形を奪われた少女。彼女にとっては恐らく姉妹同然だったのだろう宝物を失って、まだ年端もいかない少女は何を思ったのだろうか。仕方が無いと諦めたのだろうか。それとも、気紛れな我が儘で自分から大切な存在を奪っていった貴族の少女を恨んだだろうか。

 片や、生まれながらに病弱で満足に外出する事すら出来ない少女。自分とは違って元気に外を駆け回れる同年代の子供達をただ眺め続けるだけの日々を送る少女の心中は、きっとエルクには計り知れないような孤独感と悲哀に溢れていたのではないだろうか。

 少女は多分、友達が欲しかったのだ。ずっと自分の傍にいてくれる友達。それが叶う身分でありながら新しい人形を親に強請らなかったのは、彼女の気も知らないで庭で楽しげに遊んでいる少女が羨ましくて堪らなかったからなのかも知れない。

 大切な人形(かぞく)を失った悲しみも、一人きりで過ごす日々の寂しさも。エルクには解るような気がした。

 それは恐らくベラも同様なのだろう。その昔、幼かった子供達を事故で一度に亡くし、それが切っ掛けで不仲になった夫までもが彼女を残して家を出て行ってしまったと聞く。ベラはもうずっと、独りきりの孤独と寂しさの中で暮らしているのだ。それとも、案外寂しくなどないのだろうか。度重なる心労の果てに心の擦り切れてしまったベラは半ば、彼女の心の中だけに在る遠い想い出の世界で暮らしている。

 だからきっと、未だに余所者として扱われている節のあるエルクにも率直に親しんでくれるのだろう。ベラは初めからそうだった。この老女はいつだって優しい。それが夢を見ている者特有の幻想めいた現実感の無いものだとしても、エルクは何度ベラの優しさに救われたか判らない。

 ベラは熱過ぎるお茶に息を吹き掛けるみたいに、ふう、と吐息をついた。何処か虚ろな眼差しで森の方を眺め、数呼吸。ベラは皺だらけの優しい顔を憂いの一色に染めて口を開いた。

「でもね…今考えると、やっぱりそれが良くなかったんでしょうね。私も詳しく知っているわけじゃあないけれど、お人形のニーナに魔物が宿ってしまったのは、そのせいもあるんじゃないかしら?」

「――え?」

「ある時から若い娘さんが次々に倒れて、そのまま目が覚めなくなってしまったの。ふふふ。今と一緒ね。皆、レオノール様のお屋敷にお嬢さんの遊び相手としてお呼ばれした娘さんばっかり。それと同じ時期からだったかしら?お屋敷のお嬢さんがすっかり元気になって、村の方にもやって来るようになったのは」

 どくん、と。頭の中一杯に響くような自分の心臓の音をエルクは聞いた。目の前が真っ白になるような動揺が全身を駆け抜け、長椅子に腰掛けている筈の身体がぐるぐると回転して不安定に揺れているような感覚がする。

 エルクは溺れる寸前であるかのように喘ぎ、法衣の胸元を皺が寄る程きつく握り締める。ベラの話に呼吸をするのさえ苦しくなるような衝撃を受けて思わず口許を抑えたエルクを、思考など存在しないような空虚な無表情でフィロが見ていた。

 ベラは何を言っているのだろう。意味が解らなかった。単なる想い出話である筈の語りが思わぬ方向へと進み出した事に困惑を感じ、エルクは強く瞼を閉じて自身の鼓動を宥め賺した。

「お嬢さんが元気になったのはきっと、魔物が取り憑いていたお陰なんでしょうね」

 野良仕事や今日の献立について話すような気楽な語り口でベラは続けてゆく。まるで、それが楽しい物語か何かであるかのようだ。

「魔物をやっつけてくれたのは旅の魔法使いさん。まだ若い、綺麗な娘さんだったわねえ。少しだけお話をしたんだけど、随分遠くからやって来たみたいだったわ。あなたみたいに、本当の人間みたいな大きなお人形を連れていたっけ。…そうそう。確か、そのお人形に怖い魔物を封じてくれたみたいなの。だから帰りにはお供のお人形が減っていたのを覚えているわ」

 可愛がっている孫とのお喋りに興じているかのようにベラはご機嫌だった。息継ぎのような呼吸の間を置いてからフィロを見、次にエルクの方を向いて、茶目っ気たっぷりに声を落とす。これは秘密のお話なのよ、と態度で断りを入れるみたいに。

「うふふ。最初はね、村の皆はおかしな事が起こってるのはその魔法使いさんの所為じゃないか、って疑ったのよ。そうよね。余所から来た人の所為にしてしまえば、村の中に波風は立たないものね」

 極めて辛辣な一言を、けれどもベラは微笑んで口にする。まとめ髪の後れ毛を少女のような仕草でいじり、老女は通り風の内に春の香りを楽しむようにそっと瞳を閉じた。

「――ああ、気持ちいい風。…でも、村の人達を悪く思わないであげてちょうだい。あの人達も根は悪い人じゃないのよ。皆、私みたいな『可哀相な人』の面倒を文句一つ言わずに見てくれる優しいところもあるの」

 にっこりと屈託無くベラが笑う。エルクは何も言えなかった。ベラから顔を逸らして、足下の地面にただ目線を落とす。

 ベラは全て知っているのだ。知った上でああして夢のように微笑んでいる。心を半分、幸せな世界に置き忘れたままで。

 不意にエルクはベラが怖くなった。この老女は何処まで気付いているのだろう。ただただ優しいばかりだったベラの笑顔が途端に得体の知れないものに思え、自分が今、彼女の隣に座っているという事にぞっと鳥肌が立った。

「余所から来た人達に少し厳しいのは、多分あの一件のせいもあるのかしらね。村の人達は皆、前にそんな事件があった事なんて忘れてしまっていたり、忘れた振りをしているけれど。ほら。いやな言い方をすると、レオノール様も元々村の人間じゃないでしょう?あの人達もそれからすぐにここを出て行ってしまったし、やっぱり、居づらかったのかしらねえ。幸い亡くなる人こそ出なかったけど、あんな事件を引き起こした張本人に対する周りの人達の眼は、さぞかし冷たかったでしょうしね」

「…そノ後、魔物を封ジたとイう人形ハ?」

 心を持たぬ人形故に何も感じないのか、フィロが平然と尋ねる。ベラは大丈夫よと励ます風に怯えるエルクの背中を撫でていたが、問いの答えを探すかのようにのんびりと青空を眺めた。

「さあ…。私は知らないわねえ。ひとまず教会で預かられていたような気もするけど…。ごめんなさい、力になれなくて」

「――イえ。有難うゴざいマシた」

 礼を述べるフィロのぎこちない発音が疲弊した神経に障った。エルクは席を立とうとし、つと差した影にそれを邪魔される。

「差し当たり、その人形の在処を探すべきだろう。生憎と教会の物置には影も形も無かったからな」

 シェディールだった。例によって傍らには従者の如くシャラが控えている。出端を挫かれたような恰好になりエルクは戸惑った。シェディールはにやりとして、手の中で弄んでいた物をまごつくエルクへと放って寄越す。

「…わっ!?」

 受け取り損ねて落としてしまった物が地面にぶつかって乾いた音を立てた。

「か、鍵?これは…」

「司祭殿から借り受けて来た。君から返しておいてくれ」

 シェディールが投げて寄越した鍵は其処に見える空き家――教会が物置として使っている建物のものだった。返すという事は既に中を調べてきたのだろうか。仮初めにも調査の助力をしている筈のエルクに一言の相談も無く、このような抜け駆けめいた行動を取るとは。

 つまり自分は信用されていないという事なのか。些かむっとする想いもあったが、まあ致し方無い。胸裏に秘めた感情を悟られないようにしながら、エルクはふと思い出してシェディールに昨夜の非礼を詫びた。

「君に謝罪の必要があるとも思えないが?」

 然して興味も無さげにシェディールは言う。何だか謝罪した自分が莫迦みたいに思えた。だからといって短気を起こしてはいけない。エルクは胸中の怒りを呼気に変えて緩やかに吐き出し、

「―――…あれ?」

 訝しげなその声にシェディールと人形達がエルクの見つめている先へと目を向ける。

 井戸端の辺りにキリテが立っていた。両腕を体側に下ろし、足を軽く開いた自然な体勢ながら、どういう訳か様子が奇妙に感じられる。その理由にエルクが思い当たると同時にシェディールの眼が鋭さを帯びた。

 無言で佇むキリテの表情には、エルクに向けてられていたあの激しい敵愾心が存在しなかった。それどころかマリナの身を案じるが故の昨夜のあの焦りの色が一切見当たらず、うっすらと笑ってさえいるのだ。

 異様な気配を湛えたキリテは決して此方へ近付いて来る事無く、その場で彫像の如く佇立していた。

「今日はやけに温和しいな」

 シェディールがからかうように呟き、フィロがベラに黙礼をして長椅子から立つ。シャラが長い髪を靡かせてキリテのいる方へと向き直った。

 辺りの空気が少しずつ張り詰めてゆくような感じがしてエルクは小さく身震いをした。敵対を思わせるシェディール等の態度にもキリテは全く動じる素振りを見せず、ただ其処に突っ立ったままでいる。

「…!」

 突然キリテの笑みが異形めいて深くなる。エルクが腰を浮かせ掛けたのに合わせるかの如く、キリテは村外れの森へと鞭を入れられた馬のように駆け出していた。

 他の何も彼の視界には入っていないらしく、途中で人にぶつかりながらも相手を肩で弾き飛ばすみたいにしてキリテは駆けて行く。エルクが息を詰めて見守る中、キリテは遠くに見える森の入口でぴたりと立ち止まった。この距離からでも彼が此方を凝視しているのが判る。しかし彼の意識が向けられている先はエルクではない。キリテの眼はシェディールのみに注がれていた。

「どうやら誘われているらしい」

 面白がる風にシェディールが呟く。森の方へと無造作に歩き出したシェディールとシャラを小走りでフィロが追い掛ける。数歩行った辺りでシェディールは頭だけを動かすようにしてエルクを見、問うてきた。

「君はどうする?」

「…僕は…その……」

 返答に窮し、顔を背けるエルク。隣ではベラがにこにこと微笑んでいて、何だか居心地が悪かった。エルクは手の中にある固い感触に縋るように、先程投げ渡された鍵を握り直す。

「……鍵を、ローレン様にお返しして来ます」

 無論、同行を断る為の言い訳だった。これ以上自分から率先してキリテに関わるような真似はしたくなかったし、昨日までのようにシェディールに付き従うのも心情的に憚られた。鍵を返しておこうと思う気持ちも嘘ではないし、他に用事があるのも本当なので罪悪感は少ない。

 エルクの返事にシェディールは一笑で応えた。シェディールはエルクの事など最早眼中に無いような雰囲気でキリテの待つ森の入口へと向かう。シェディールが付いて来るようなのを確認してキリテが木々の間にさっと姿を消す。

 エルクは暫くの間目の前の光景を見つめていたが、やがてすっくと立ち上がると教会へと走った。

 走りながら手の中の鍵を強く強く握る。掌に刺さる痛みが心を落ち着けてくれるような気がした。エルクは眦を決して自らの進む方向を睨み据える。大丈夫、これで間違ってなどいない筈だ。

 裏口からこっそりと教会に戻り、物置の鍵を定位置に返す。この時間、恐らくは礼拝堂にいるであろうローレンに帰って来たのを気取られる前にエルクは再び裏口から外へ出掛けた。



 陽はまだ高く、陽光は木洩れ日となって行く手を指し示すかのように注いでいる。

 キリテは時折木陰にするりと身を隠し、また現れては此方を誘導しているらしかった。さて何処へ連れて行こうというのだろうか。尤も、向かう先がどのような場所だとしても此方の取るべき行動に変わりはないのだが。

 不意にキリテがとある太い幹の裏に回り込んだまま姿を見せなくなる。だが見失う心配は無い。キリテからは村中に漂っていたのと同じ魔物の匂いがしている。まるで匂いの強い香を濃く焚き染めたかのような有様だ。仮令姿が見えなくなろうとも、それだけでどちらへ行ったか断定出来る。

 キリテが消えたのは昨日エルクと歩いた時にも通った分かれ道の所だった。より匂いの強い方、脇へと逸れる小道に足を向ける。静かな森に突如分け入って来た闖入者に驚いたのだろうか、茂みから野兎が一羽飛び出して来る。動くものに警戒するよう指示してあるシャラが逃げ去る野兎を一瞥した。害が無いようであれば放っておくようにも命じてあるのでシャラは直ぐに野兎から興味を失う。

 屋敷へ続く道よりも更に細く荒れた小道を黙々と歩く。葉風の歌と、草と土を踏む音だけが森の静寂を谺していた。小道は次第に草に覆われて途切れがちになり、随分と長いこと此処を通る人間がいなかった事を表している。だからこそ却って踏み付けられた草の跡が目立った。

 小道の終はエルクの話通り、一軒の小屋に突き当たる。小屋はあの屋敷と同じく煉瓦を組んで建てられている。しかし現在は外壁の煉瓦も細部が所々が欠け落ち、窓も枠だけを残して全て割れていた。屋根も一部が崩落していて見るからに廃屋という状態ではあるが、古い割にはよく原型を留めているようにも思う。元が頑丈な造りだったのだろう。

 出入口を塞いでいたと思しき一枚板の扉は長い年月の果てに外れて内側へと倒れていた。罅割れ、ささくれ立った部分をなるべく踏まないようにして敷物と化した扉を乗り越え、小屋の戸口を潜り抜ける。

 内部は外観から察せられた通りの狭さだった。寝室を兼ねた一間と厨と思しき空間が間仕切り無しで一続きになっている。壁の隅や天井の角といった至る所に蜘蛛が巣を掛け、剥がれた床板の隙間からは伸びた雑草が我が物顔で背丈を競っている。

 そんな中にキリテはいた。此方に背を向け、戸口の対面に置かれた今はもう枠組みだけになった寝台を前にして、跪くように座り込んでいる。寝台の上には新品でこそなさそうだが廃墟には似付かわしくない小綺麗で清潔そうな毛布が敷かれており、其処に一人の少女が寝かされていた。

 確か、マリナとかいう名前だったか。

 静かに眠るマリナからは他の少女達と同じ気配がした。魂を喰われた者の気配だ。想定内の事柄故、特に焦りなどは感じない。寧ろ焦っているのは相手方の方だろう。当の魔物にとっては他の少女達のような多感な年頃の魂こそが大きな力となり得るのだろうに、選り好みを止めてまで獲物を手に入れようとするくらいなのだから。

 此方に背を向けたままの姿勢でキリテは身動ぎ一つしない。一見、魔物の毒牙に掛けられた妹を前に打ち拉がれる兄の姿に見えなくはなかった。だがそうではない事は火を見るよりも明らかだ。

 キリテは消沈して力無く座り込んでいるようでありながら、その実何の感情も発してはいない。其処に在るのは傀儡(くぐつ)の虚無。自らが傀儡を操る術師であるが故にそれが容易く看破出来る。

 無遠慮に一歩を踏み出したその足下で、ぴし、と割れた床板が鳴る。まるでそれが合図であったかのようにキリテが凄まじい勢いで身を返し、発条仕掛けの絡繰りの如く飛び上がった。瞬時にシャラが進み出て、飛び込んで来たキリテを迎え撃つ。

 交錯の瞬間、しゃがんだ体勢から上方向へと大きく掬い上げるようなシャラの手刀がキリテを弾き飛ばす。キリテは空中で即座に受け身を取った。だん、と重く勢いのある音と共に壁際に姿勢低く降り立ったキリテの手には、いつの間にか一挺の斧が握られている。普段は薪割りにでも用いる物なのだろう。然程大振りの品ではないが、刃は厚く鋭く、良く手入れされているようだ。

「…ゥウウ……」

 キリテはほぼ四つん這いになって、喉の奥から低い唸り声を発している。この様子では言葉は通じないだろう。ならば応戦するまでだ。

「……ウゥ………ガァッ!!」

 歯を剥き出しにしてキリテが吠える。人とは思えぬ動きで襲い掛かるキリテは明らかに正気ではなかった。だからといって加減をしてやる義理など皆無だ。というより、半端に手心など加えれば此方が怪我をするだけだろう。小屋の中は立ち回るに適した広さなど無い上に、寝台にはマリナもいるのだ。であれば早期の決着が望ましい。

 キリテは床や壁を蹴って縦横無尽に跳ね回っている。その動きは最早人間の動きではなく、俊敏な獣を相手にしているようなものだった。

 しかし〝獣染みている〟という事は、言い換えればそれ以上ではないという事に他ならない。

 乱暴に振り回される斧が無茶苦茶に風を切る。常軌を逸した叫びを迸らせるキリテが床を蹴り、鈍色に輝く凶刃を振り上げた。

「―――沙羅(しゃら)

 狂ったような凄まじい形相でキリテが迫り来る。魔物によって踊らされる哀れな操り人形を止めてやる為に、人形遣いは静かに己が傀儡に命を下した。

 端的な命令。傀儡は仕込まれた術式により、下された指示を的確に行動に移す。

「がはっ…――!?」

 シャラは飛び込んで来たキリテの真下へと横合いから床を滑るようにして潜り込み、躊躇無くその腹部を蹴り上げた。衝撃にキリテの身体が一瞬、宙に浮くかのように跳ねる。蹴りを入れた直後にはもう横へ転がって素早く移動していたシャラはその隙に斧を握るキリテの腕を手刀で強かに打ち、武器を取り落とさせる。

 斧の分厚い刃が床板を貫いて突き刺さる音が地面に響く。失神したキリテが崩れるように床に倒れ伏し動かなくなるのを見届けるも、動きを止めた操り人形にもう関心は無い。思考は既に別の場所へと向けられていた。

「……やっぱり向こうか」

 荒れた屋内を吹き抜ける風が零した呟きを浚う。同じ風に、森の木々と人形の白い髪とが細波のようにそよいでいた。



 いつ訪れても、此処はとても静かだ。

 心安らぐ静謐に包まれた世界。忘れられ、取り残されたような古びた調度と、無粋な照明など存在しない薄暗い空間。外の光は遠く、木々のざわめきさえ此処には無い。

 心地好い忘却と静寂に彩られた廊下を独り、彷徨う亡霊の如く歩く。聞こえるのは自分の足音と軋む床板の幽かな囁きだけだった。一歩進む毎に埃が舞い上がるがそんな事は少しも気にならない。

 この屋敷にはかつて村人の手によって火が放たれた事がある。家族を、恋人を、魔物に喰われそうになった腹癒せなのだろうか。屋敷は村の他の家々と異なる煉瓦を用いた造りであった為、幸いにも火事は小火程度で済んだようだ。だからこそ余計に村人達はこの屋敷について意識的、無意識的に拘わらず、揃って口を閉ざすのだろう。突発的な怒りの炎が鎮まった後には仄暗い後ろめたさだけが燃え残ったに違い無い。

 ふと物悲しいような気持ちになったが二階のある一室の前に辿り着くと、そうしたつまらない感情は途端に吹き飛んでしまう。逸る心に急かされて、もどかしいような想いで古く重たい扉を押し開けた。

 室内は酷くがらんとしている。他に家具も無いただ広いだけの空っぽな部屋の、その中央にぽつんと置かれた背凭れに瀟洒な透かし彫りがなされた一脚の椅子に〝彼女〟は座っている。

 冷たく澄み渡る湖水の色をそのまま閉じ込めたかのような青い瞳。滑らかでほっそりとした輪郭を縁取る髪は深い夜を紡いだ漆黒の色。華奢な作りの体躯に古風ながら洗練された印象のドレスを纏った〝彼女〟は深窓の姫君か、高貴な貴族の令嬢さながらだ。〝彼女〟以上に美しい人形など、生まれてこれまでに見た事も聞いた事も無い。

 人形は椅子にゆったりと身体を預け、ぼんやりと物思いに耽っているかのようだった。驚かせてはいけないような気がして歩調は自然と忍ばせ気味になってしまう。だが人形は彼の来訪など疾っくに気が付いていたかのように、僅かに顔を上げて此方を見た。

「―――お帰りなさい。エルク」

 艶やかな微笑みに迎えられ、エルクも笑み返す。

「ただいま。ごめんね。いつも独りにしてしまって…」

「いいのよ。あなたは私の為に頑張ってくれているんだもの。いつもありがとう。私の為に素敵な()達を連れて来てくれて」

 掛けられた感謝の言葉にエルクは思わず顔を赤らめた。慈しむような言葉が優しく心に染み渡る。そんな風に言ってもらえるなら、嬉しさのあまりに苦労も不安も何もかもが簡単に吹き飛んでしまう。

 エルクが〝彼女〟と出逢ったのは約一月程前。ローレンに頼まれて、物置に使っている例の空き家に壊れてしまった礼拝堂の長椅子の代わりになる物を探しに行った時だった。

 埃を被った荷物の奥に埋もれ、隠されるようにして人形は在った。埃除けに布を被せられていたからか大した汚れも無く、美しいままの姿で〝彼女〟は其処に存在していたのだ。

 まるで何かに呼ばれているかのようにエルクは〝彼女〟の許へと歩み寄った。実際に呼ばれていたのだと理解したのは「ずっと待ってた」と心に直接語り掛けられた瞬間だった。以来、エルクは〝彼女〟の為に全てを捧げる覚悟でいる。

 最初のアーシュは簡単だった。話をしたいとアーシュの方から誘われて森へ出掛けた事に嘘偽りは無い。今思えばあれは聖乙女エレンディアの思し召し、自らを捨ててでも他者に尽くせという信仰をアーシュが体現しようとしたものだったのかも知れない。

 健気にもその身を捧げ、〝彼女〟の為の尊い犠牲となってくれたアーシュ。彼女の両親の悲しむ姿を目の当たりにするのは心が痛んだが、それでもエルクはアーシュには言葉では言い尽くせぬ程の感謝の念を抱いている。

 次はリーネ。教会の花壇の手入れを通じて親しくなった少女だった。レアは村長の家で働いていたから用事で会う事が多々あって、村人の中では割と話をする方だった。

 少女の人選自体に他意は無い。エルクは彼と同年代くらいの少女が必要だと言われていただけで、後は〝彼女〟の許へと連れて行き易そうな者を選んで行動していた。回を重ねる度に徐々に村人達が警戒心を抱くようになってしまってどうしようかと思ったが、教会には祈りの為に毎日人がやって来る。機会を得るのはそう難しい事でもなかった。

 ただ、ローレンが村人達の相談に応じて王都へ手紙を出し、事件解決を依頼された魔術師が来てしまった事だけは予想外だった。

 手紙を出すには一刻以上も掛かる隣街まで赴かなければならない。普段ならそうした雑用はエルクの仕事である。なのにローレンはエルクに任せる事無く、自分で手紙を出しに出掛けて行ったのだ。

 もしやローレンにはエルクの行いについて何か思い当たる事でもあったのだろうか。今になって考えるとそれもあって今回シェディールの助手めいた役割を任せたのかも知れない。でもそれは逆効果だったと思う。共に行動するという事はシェディールの動きをエルクが関知するという事。だからああして〝彼女〟が欲する年齢からは外れたマリナを次の犠牲に選ぶ羽目になってしまったのだ。

 本当はマリナを手に掛けるつもりは無かったのだが、あのようにこの屋敷の周辺までをシェディールに嗅ぎ回られては仕方が無い。シェディールと別れ、家へと送って行く最中に昼食の後で遊ぶ約束をした。夜、マリナの捜索に加わってくれないかとシェディールを訪ねたのはそれ等を勘付かれていないかを確かめる為だった。

 ――キリテはどうやってエルクが一連の事件に関わっていると見抜いたのだろう。単純にエルクを嫌っているからこそ悪い事は全てエルクの所為だと決め付けただけなのだろうか。それともエルクの事を常日頃から敵意を持って見張るようにしていたからだろうか。

 どちらにしても厄介な事この上無い。今朝方此処を訪れた時もキリテはエルクを怪しんで尾行していたらしく、見付かってしまい心底困った。一先ず屋敷に寝かせたままにしておいたマリナを余所へ運ぼうとしていた時だったから尚更だ。どう考えても状況に弁明の余地など無く、キリテは怒り狂ってエルクを糾弾したのだ。〝彼女〟が助けてくれなかったら果たしてどうなっていた事か。今思い出してもぞっとする。キリテのあの勢いでは弾みで殺されかねないような空気だったのだ。

 そういえば、後始末に忙しくてまだお礼も禄に言えていなかった。礼を失していた自分を恥じる想いでエルクは〝彼女〟に改めて感謝を伝える。

「気にしないで。私だってあなたに助けられているんですもの。お互い様だわ」

 言って〝彼女〟は小鳥を思わせる動きで可憐に小首を傾げる。〝彼女〟は労るようにエルクの手を取り、愛おしげに己の頬に寄せた。

 指先に伝わる頬の感触は体温こそ感じないものの、重ねられた手のそれとは違って人間のように柔らかい。アーシュ達の魂を得て〝彼女〟は少しずつ少しずつ人間(ひと)と同じ温もりを手に入れるのだ。エルクが生まれる以前、四十年の昔に悪い魔術師に奪われた生命(いのち)の輝きを〝彼女〟はもう一度取り戻そうとしていた。

「もう少しよ。もう少しで、私は自由を取り戻せる。全部あなたのお陰よ、エルク」

「いいんだ。君の為なら何でもするって僕は決めたんだから」

 本当は、その長い黒髪を梳るように撫でてみたい。けれども許可も無く触れる事は禁忌染みて躊躇われた。そんなエルクの葛藤を見透かした風に〝彼女〟はエルクの手を優しく持ち上げ、美しい黒髪に添わせる。

 恍惚すら感じさせる甘い一時。温かで、優しく、美しく――そして何よりも愛しい存在。共に在るこの時間だけが、村人達の心無い仕打ちに傷付いたエルクを癒してくれる。

 ずっとこのままこうしていたい。だがそんな二人きりの甘美な幸せに水を差すかのように、閉めた筈の部屋の扉が無遠慮な嗄れ声を響かせた。

「―――邪魔をするぞ」

 思いも寄らぬ事態に仰天して後ろを振り向いたエルクの瞳に、この数日で見慣れた金と臙脂の色が映り込む。

「他人の逢瀬を態々妨害するような趣味は無いつもりだが、今回ばかりは仕方が無いな」

「……シェディールさん」

 大切な人を庇うように人形を背に隠し、エルクは侵入者と対峙した。

 ふざけたような言葉とからかうような態度。靴音を鳴らして踏み込んで来たシェディールは室内をざっと見回して小さく嗤う。彼女の傍に影の如く付き従うフィロは相も変わらずの無表情だが、その目線はエルクを素通りし、座っている人形の少女のみを注視していた。

「どうして、あなたがここに…」

 まさかつけられていたのだろうか。己の迂闊さにエルクは唇を噛んだ。しかしシェディールはキリテの後を追って行った筈だ。キリテは〝彼女〟がエルクの助けになるようにと陽動役に差し向けてくれたのだ。

 招かれざるシェディール等の登場にエルクは激しい当惑と焦燥に駆られた。人形遣いの手駒の片割れであるシャラがいないのはキリテ達の方に残してきたからか。ならば此方が相手取らなければならないのはシェディールとフィロのみだ。エルクは動転している所為か上手く働かない頭で、この場を乗り切る為の術を模索する。

 この場で下手な誤魔化しは利かないだろう。固く握り締めた掌にじっとりとした汗を感じる。思わぬ苦境に立たされ狼狽するエルクの背中で、ことり、と微かな物音がした。

「そう…。始末に失敗したのね。使えない下僕(にんぎょう)だこと」

 役目を果たせなかったキリテの体たらくを察して〝彼女〟が冷たく言葉を吐く。エルクはシェディールに気付かれないよう、法衣の内側にある隠しへとそろりと手を伸ばした。

「…本当にもう少しなのよ。絶対に、邪魔なんてさせないわ――!」

 凶暴なまでの怒気に彩られた宣言が停滞した空気を大きく震わせる。その声に弾かれるようにしてエルクは飛び出した。

 用心して持ち出して来ておいた、本来は手紙などの開封に用いる短剣をシェディールに向かって振るう。ひゅ、と刃先は鋭く空気を切り裂いたが、シェディールには難無く躱されてしまった。

「人に向かって刃物を振り回すのは聖職者にあるまじき行為だろう?」

 せせら笑うシェディールへとエルクは続け様に短剣を振るった。何と言われようと構わない。自分は〝彼女〟を守る為に戦うのだと、確たる決意がエルクを突き動かしていた。

 エルクは敢然と敵に立ち向かう。シェディールは哀れみと蔑みとを同等に含んだ冷たい眼でエルクを見た。

「愚かだな。自分が操られている事も理解していない、か」

「煩い!!」

 苛立ちに任せて思い切り振り上げた短剣をシェディールの忌々しい冷笑目掛けて振り下ろす。頭に思い描いた真っ赤な鮮血が吹き出す光景は残念ながらシェディールが腰の後ろから取り出した短い棒のような物に打ち払われてしまう。

「結局こうなるのならば、村を訪れた最初に行動に出てくれていればいっそ楽だったのだがな」

 呆れた風に言ってシェディールが棒の表面を撫でるように手を滑らせる。棒かと思った物は伸縮式の杖であったらしい。瞬時に伸びた両手を広げた程の長さがある杖を掌でくるりと回転させ、シェディールは煩わしそうな顔をした。

「早く片付けろ、フィロ」

 シェディールの冷淡な一言にエルクはぎくりとし、慌てて〝彼女〟の許へ駆け寄ろうとする。だがシェディールが見逃してくれる訳も無く、胴を薙ぐような杖の一打を床に倒れ込むようにしてどうにか避ける。直ぐ様身体を起こしてシェディールに向き直った刹那、目まぐるしく揺れ動く視界の端でフィロが〝彼女〟へ掴み掛かろうとするのが見えた。

 無言で襲い掛かるフィロを憎らしげに睨み付ける〝彼女〟は目にも留まらぬ速さで腕を真横へ振り抜いた。一撃を正面に喰らってフィロが吹っ飛び、勢い余って優に数歩分は床を滑る。フィロは尚も起き上がろうとするが、〝彼女〟は腕を突いて立ち上がろうとしているフィロの背を無慈悲に踏み付けた。物が床に叩き付けられる荒々しい音に入り交じり、太い幹に罅が入るような乾いた破裂音が鳴った。

「ああ忌々しい、忌々しい。人形、人形、ニンギョウ…!!そうよ、憎たらしいあの女。思い出したわ。ええ、シバとか言ったわね。お前からはあの女と同じ匂いがするわ。この私をこんな人形の中に閉じ込めるなんて、人間如きが調子に乗るんじゃないわよ――っ!」

 禍々しいまでの憎悪に彩られた言葉は呪詛染みて聞く者の怖気を誘った。ドレスの裾に半ば以上隠れされた優美な曲線を描く、だが紛れも無く作り物である足が振り下ろされる鎚のように容赦無く、倒れたままのフィロの背を何度も何度も打ち据える。人形は痛みを感じないのだろう、フィロは悲鳴どころか呻き声一つ上げはしないが為す術も無く踏み付けにされている。

「その人間如きに封印されたのは一体何処の誰だろうな?」

 エルクの短剣を杖の中程で受け止めた体勢のまま、シェディールが素知らぬ顔で聞こえよがしに呟く。手駒を封じられた劣勢でありながら未だにそんな減らず口を叩くとは、負け惜しみにも程がある。そう思う反面エルクは憤りを禁じ得なかった。

「黙れ!お前なんかに何が解る!?」

 憤然と叫び、短剣を握る腕が過負荷に軋みを上げる程の力を込める。細身の刃と杖の柄が激しくせめぎ合った。彼我の視線が交わる。シェディールが湛える不敵な笑みが癇に障ってエルクはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。

沸騰の寸前でふつふつと煮え続けるような怨讐に呼び寄せられ、胸が潰れるような孤独と狂おしい程の嫉妬の求めに此方は応じただけなのだ。望むものを与えてやったのだから対価を要求するのは当然だろう。なのに、突然脇からしゃしゃり出て来たあの女が邪魔をした。もう少しであの少女の身体を己の肉体として奪い取れた筈だというのに――!

 激憤はエルク自身のもの。だがその由来となる怒濤のように流れ込んでくる黒い感情が既に己のものではない事にエルクは微塵も気付いてはいなかった。胸裏に在る感情は全て自らの想いだと露程も疑わず、内なる衝動に突き動かされるようにしてエルクは刃が折れそうな程の強さで杖ごとシェディールを両断しようとする。シェディールが面倒そうに顔を顰め、軽侮も露わなその表情がより一層エルクを苛立たせた。

 エルクの憤怒を体現したかの如く室内に一際大きな音が鳴り響く。フィロが破壊された音だった。

 勝ち誇る哄笑が少女の姿をした人形とエルクの口から、一斉に溢れ出す。これでもう手も足も出まい。狂ったように声を上げてエルクは笑い続ける。愛しい〝彼女〟と一緒に――否。魔物の傀儡として、その手足の一部のようになりながら。

 室内に満ちるけたたましい高笑い。後はあの女と同じ〝人形遣い〟を始末するだけだ。自由になった後の事を想像すると嬉しくて嬉しくて笑いが止まらない。ほとんど引き攣ったようになっている自分の笑い声を何処か他人事みたいに聞いていたエルクは、ふと耳が拾った異常をやはり他人事として遠くに聞いた。

 何を言っているのか全く解らない、異音と言ってもいいような意味不明な発声。次の瞬間、断末魔めいた凄絶な絶叫が迸る。その絶叫が自らの喉から吹き出したものだとエルクは理解せぬまま、唐突に途切れるように意識を失った。


      *


 部屋の中から二人分の狂笑が響いてきていた。二重で聞いていると耳がおかしくなりそうだったので、ずっと繋いでいた聴覚と視覚との接続を併せて切る。

 開け放されたままにされた扉から見えるのは壊れたような哄笑を続ける人形に封じられた魔物と、法衣を纏った少年。足蹴にされて倒れ伏す人形。

 早く片付けろと言われているのでさっさと済ませる事としよう。生身へと変化していない部位ならば魂を喰われた少女達に影響が及ぶ事は無いだろう。距離を目測し、懐から取り出した小刀を手早く投擲する。小刀は狙い過たず、倒れた人形の背に載せられている魔物入りの人形の足に突き刺さった。

『――お前に自由は訪れない』

 足に撃ち込まれた小刀を呆然と見下ろす魔物に向けてフィロは淡々と告げる。間を置かず、操られていたエルクの口から絶叫が迸った。

 小刀には一枚の紙切れが巻き付けてある。『縛』の文字が記された札だ。施してある呪が魔物の魔力を再び人形の内側に押し込め、結果として突然接続を切られたような状態になったエルクが意識を失って床に崩れる。

「…お…前……ハ…」

 魔物は部屋の入口に佇むフィロを愕然と凝視していた。耳障りな発声で零された言葉の中に誰何の響きを聞き取り、室内へと歩き出しながらフィロは答えた。

斯波(しば)真白(ましろ)。お前を封じた人と同じ、傀儡師(くぐつし)。…此方では〝人形遣い〟と呼ばれているけれど』

「シ…バ…?」

 理解しているらしい反応から察するに、異界に棲まう魔物にはこの世の人間の扱う言語の違いなどは特に関係無いらしい。此処からでは遙か異邦となる母国を離れて早三年。言葉こそ完璧に習得したものの未だに発音だけは不得意なフィロとしては、母国語で話せるというのは楽でいい。

『漸くお出ましか。やけに遅かったが、まさか屋敷に来るまでに道に迷ったんじゃないだろうな?』

 倒れたエルクの様子を確認しながらシェディールが揶揄たっぷりに声を掛けてくる。フィロの喋りに合わせて其方で話したのだろう、彼女にとっては異国語であるというのにやたらと流暢な発音である。シェディールに故国の言葉を教えた身として嬉しいような、妬ましいような。比べて自分は何故に発音が上達しないのだろうかと思い悩んだ事もあるが、まあ元より己の口数が少ない事は自覚しているので構わないだろうとも思う。

 それが戯れ言であるのは解り切っているので強いて問いには答えない。フィロの無反応にシェディールは微かに苦笑めいた笑いを洩らした。臙脂の外套の裾を泰然と翻して隣へやって来たシェディールを人形と然して変わらぬ無表情でちらりと見上げてからフィロは無言で袂を探る。

「シバ、シバ…。お…のレ……オノレェェェ…ッ!!」

 魔物は悔し紛れの憎悪を叫ぶが縛の術に捕らわれているが為に指一本動かせない。唯一自由になる硝子の目玉に凶悪なまでの憎しみを湛えて魔物はフィロを睥睨するが、一々付き合ってやる必要も無いだろう。

 フィロは掌大の人形を片手に魔物の側に立った。人形といっても木を簡単に切り出しただけの目も鼻も口も刻まれていない物だ。生国で言うところの小芥子に似ている。

 恨み言を吐かれたところで生憎とお門違いなのだ。フィロは魔物の呟く呪詛を黙殺し、その眉間の辺りに手にした人形の頭部を押し付けて呪術の文言を唱え始める。刹那、魔物が器にしている人形が、かっ、と両の眼を見開いた。文言が終わりに近付くにつれて魔物の全身がかたかたと小刻みに震え出し、やがて魔物は一切の動きを止め、文字通り糸の切れた操り人形の如く頽れた。

「やれやれ。手間を掛けさせられたものだ」

「…お疲レ様デした」

 シェディールが凝りを解すみたいに首を左右に傾ける。魔物に深く魅入られていたエルクは昏倒させてしまうとキリテのように完全な傀儡として暴れ出す恐れがあった。その為敢えて適当にあしらい続けてもらったのだ。シェディールの技量であれば造作無い事ではあろうが、単純に伸してしまうよりも面倒だった事は確実だろう。

「礼を言う時くらいはもう少し声に感情を乗せてみたらどうだ?」

 シェディールはいつものように薄く笑って皮肉げな表情を作った。

「……善処シマす」

「何度目の台詞だろうな、それは?」

 そんなもの、数えている筈が無いではないか。善処しようという気持ちに嘘偽りがある訳でも無し、虚言には当たるまい。

 フィロは余所へ顔を向けながら、序でに床に倒れたままの眞白――自身を模して作った傀儡に命を下す。少女等の魂が取り込まれている箇所を傷付ければ、魂の本来の持ち主をも傷付ける事になり兼ねない。故に縛の呪法を撃ち込める箇所の見極めと魔物の油断を誘う為とに壊れて動かなくなった振りをさせていたのだが、それこそ手足が捥げようと致命的な破損があろうと、単純に動かすだけなら幾らでも出来るのだ。

 術式を介した命令に従い、むくりと起き上がった眞白が向こうで気絶しているエルクを抱え上げる。後は森番の小屋にいるキリテとマリナか。其方はシャラに回収させて途中で合流するとしよう。

「で、それはどうする?」

 杖を元通りに畳んで腰の後ろに戻しつつ、シェディールが目線で魔物の器に使われていた人形を指し示す。魔物が抜けた際に仰向けに倒れて頭が真横を向いたので、首筋に刻まれている銘がよく見えた。

 ――斯波蘭月(らんげつ)

 フィロは記された一文字一文字をなぞるように見つめ、そして小さく首を振った。

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