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雲を溶かしたように何処までも薄青い空の下、エルクは村の広場の方面へと大急ぎで走っていた。
都から離れた田舎にぽつんと存在する村の教会といえど、否、寧ろたった二人しかいない小さな教会だからこそ、熟さなければならない日々の雑務は多い。朝の礼拝に始まり教会内の清掃、畑の手入れ、炊事や洗濯などやるべき事は盛り沢山なのだ。司祭を務めるローレンでさえ手ずからそうした細々とした雑事を携わっているのだから、下級神官であるエルクが仕事を疎かにするなど有り得ない事だった。
駆け足に揺れる景色の中で仰いだ太陽は空高くに浮かんでいる。もう少ししたらローレンが昼を告げる鐘を鳴らすだろう。すっかり遅くなってしまったが、今頃シェディールは何処でどうしているのだろうか。
朝方、シェディールはフィロを伴って教会を訪れた。昨日回れなかった他の少女達の家の場所を訊きに来たのだ。出掛けるならば一緒に行くから少し待って欲しいとエルクは申し出たのだが、シェディールは聞く耳も持たずにさっさと行ってしまったのだった。ローレンは残りの仕事は全部自分がやるから行って来て構わないと言ってくれたのだが、流石にそうもいかないだろう。老齢の司祭に長いこと中腰の姿勢になるような畑の草取りや床の拭き掃除などをやらせるのは酷だし、何より申し訳無い。
教会から道なりに走って行くとやがて広場へ辿り着く。各家々から延びる道達の集合地点である村の広場には真ん中辺りに石を組んで作られた大きな井戸があった。井戸端では数人のご婦人方が何やら熱心に話し込んでいる。彼女等は全力で駆けて来たエルクの姿に一旦話を止め、何かしらと言わんばかりに首を捻った。しかしエルクには体裁を取り繕っている余裕は無い。
一体何処にいるのだろう。もう全ての家を訪ね終わったのだろうか。エルクは上がった息を必死に整えようとしながら、きょろきょろと辺りを見回した。
「エルクお兄ちゃん、どうしたの?」
「あ、マリナ…。…っ、む、村の人じゃない…金髪の…背の高い女の人、見なかった?」
両膝に手を突いて荒く息をつき、エルクは尋ねる。マリナは真ん丸な瞳をぱちくりとさせ「うーんと…」と顎に人差し指を当てて考え込むように上を向いた。
「えっとねえ…、うーん。……見てないかなぁ」
「そ、そっか…。有難う、ごめんね…」
落胆を顔に出さないよう気を付けつつ、マリナに礼を言う。エルクは、はあ、と大きく息を吐き出して姿勢を正した。まだ呼吸も鼓動も少しも落ち着いてなどいなかったが、自分を慕ってくれる幼い子供の前で情けない恰好をしたくはなかったからだ。
じゃあ、もし見掛けたら教えてくれるかな。そう言おうと思って笑顔を形作ろうとした瞬間、ふと彼方に真っ白な髪をした少年が目に入った。少年は民家の軒先に置かれた丸太を切り出して作られた素朴な長椅子に、彼同様真っ白な髪をした老女と並んで腰掛けている。
フィロだ。遠目だったのに加え老女の隣に座っている事もあり、うっかり老人と見間違えていたらしい。
ではシェディールも近くにいるのだろうか。エルクは付近に臙脂の外套を探したが見当たらなかった。フィロが軒先にいる民家に少女は暮らしていない筈だが、ではシェディールは何処に行ったのか。もしかしたらフィロだけを其処に置いて別の家を訪ねているのかも知れない。
不思議そうに小首を傾げるマリナに「じゃあね」と別れを告げ、エルクはフィロと老女の許に急いだ。
「っ、こ…こんにちは…っ…」
息を吸い、吐いて、どうにかこうにか挨拶をする。口に出来たのはそれだけで問いの言葉は続けられなかった。フィロがその無表情を此方に向け、次いで老女がおっとりと微笑む。
「まあ、エルクさん。どうしたの?そんなに慌てて」
「…ええ、あの…。い、色々ありまして…」
肩で息をするエルクに老女は少し腰を浮かせて横へとずれ、場所を空けてくれる。どうぞ、と座るよう勧められてエルクは長椅子に腰を下ろした。
「すみません、ベラさん。お言葉に甘えて失礼します…」
「何か、飲み物でも持って来ましょうか?」
「い、いえ!大丈夫ですっ」
幾ら何でも其処まで甘える事は出来ない。エルクは優しげに白眉を曇らせるベラに礼を言い、立ち上がろうとする彼女を制した。
「そう?遠慮しないで言ってちょうだいね。エルクさんはいつも頑張ってるんだから。この前も、一人で何か大きな荷物を運んでいたでしょう?大変ねえ。今日も、眠り姫さん達のお見舞いかしら?人の心配もいいけど、あなたの方こそ無理をして身体を壊さないようにしてね」
エルクは曖昧に笑って言葉を濁した。そういう言い方をされるとベラのそのふわふわとした口調の所為もあって何だか面映ゆい。
そよ吹く風が火照った頬に心地好かった。教会の方で昼時の鐘が鳴っている。大きな街の鐘の音と比べれば荘厳さにこそ欠けるが、ゆったりと広がるような重い響きの中に奇妙な温かさのようなものがあってエルクは結構気に入っている。
「――続キを」
不意にフィロが言葉を発した。人形が話をする事にまだ慣れないエルクは驚いてぎくりとし、間に座っているベラ越しにフィロを見た。それが年の功というものなのか、ベラは喋る人形にも些か不明瞭なフィロの発音にも少しも動じた様子を見せず、ぽん、と両手を軽く打ち合わせる。
「そうそう。そうだったわね。…ええと、どこまで話したかしら?」
ベラは片手で頬を押さえるようにし、直前までの会話の内容を思い出そうとしている。
「――ああ、そうだわ。昔にもこんな事件があったっていう話だったかしら」
ややあって、ベラはのんびりとした調子で語り出した。
「昔にもね、あったのよ。あの子達くらいの女の子が突然目を覚まさなくなってしまう事件が。そうねえ…。私が二十代の頃だったから、今から四十年くらい前の事ねえ」
ベラが始めた昔語りにエルクは愕然として目を見張った。過去に村で同じような事があっただなんて全くの初耳だったからだ。そんな大事な話をどうして今まで黙っていたのだろう。訝しくはあったが、今は取り敢えずベラの話を聞いてみるのが先決に思えた。暢気に茶飲み話でもする風なベラを急かしたい衝動に駆られたが、我慢してベラが二の句を継ぐのを待つ。
「あの頃はこの村にも、もう少し活気があったのよ。ほら、あそこ。今は空き家になっているけれど、あの家にとっても商売の上手な人が住んでいてね…」
そんな話はどうでもいい。そう言いたい気持ちをエルクはぐっと堪えて呑み込んだ。因みにベラの指す空き家は村人等の好意で現在は教会の物置代わりに使われている建物である。エルクが此処にやって来る随分前からそうだというから、空き家になってからもう大分経っている筈だ。
「もっと手広く商いをやりたいからって、別の大きな街に引っ越して行ってしまったんだけど……懐かしいわ。確か、今のマリナちゃんくらいの娘さんがいたのよ。いつも、お気に入りのお人形を大切そうに抱えていてね。うちの子とも仲良しだったから、あの子がいなくなってしまって子供達、とても寂しがったの」
何だか話の方向が単なる想い出話へと移行している気がする。指摘するべきか、止めておくべきか。悩むエルクは目線を遠く、明後日の方へと遣った。だから、気が付いたのは全くの偶然だった。
射るような――突き刺すような眼がエルクを鋭く睨み付けていた。キリテだ。数件先にある彼の生家である雑貨屋の店先に、上着の隠しに両手を突っ込んで立っている。近付いて来ないのはエルクがベラといる所為だろうか。キリテは粗暴な少年ではあるが、あれで年長者を敬う一面も持っているのだ。
物言いたげ、というには苛烈に過ぎるキリテの眼差しがエルクをたじろがせる。
「皆でよく、森の中のお屋敷に遊びに行っていたわ。当時はあそこに都から来た貴族の方が暮らしていてね。病弱なお嬢さんの静養の為に住んでいたんだったかしら。広いお庭を子供達の遊び場として開放してくれていたのよ。お人形みたいにきれいな女の子が窓からよくこっちを見てるんだって、うちの子達、頻りにそう話していたの。お嬢さんもきっと、一緒に遊びたかったんでしょうね。生まれ付き身体が弱いらしくって、満足に外に出る事も出来ない子だったらしいの」
多分親御さんも他の子供が遊ぶ姿を見せてあげて、せめて気持ちだけでも一緒に遊んでいる気にさせてあげたかったんでしょうね。ベラの声が鼓膜を滑る。エルクは俯き顔を伏せた。獰猛な獣染みたキリテの視線が自分を睨み据えているのを感じていたが、然りとてどうしようもなかった。
「…でも、それはそれで酷な事よね。どうしたって自分は他の子達の遊びの輪に交ざれないんだもの。お嬢さんも、きっと、辛かったんでしょうね…」
風に乗って微かに耳に届いた舌打ち。恐らくキリテが発したものだろう。同時に攻撃的な視線の圧迫感から解放される。おずおずと様子を窺ってみるとキリテは怒りも露わに他方へ去って行くところだった。エルクはほっとし、背中を丸めるようにして安堵の息を吐き出した。
「――対抗するだけの気概は無いという事か?それとも端から相手にする気が無いのか、君は?だとすれば、彼は君を見下しているつもりでありながらその実歯牙にも掛けられていない道化者という事になるな」
出し抜けに降って来た、笑みを含んだ嘲弄。顔を上げずとも誰だか判った。こんな風に明確に人を小莫迦にした言動を取る者など、エルクの知る限り村の住人には存在しない。
「…そういうおっしゃり様は、心外です。僕は…争い事は良くないと思っているだけです」
エルクは控えめに反駁する。シェディールは態とらしく肩を竦めてみせた。今日は他にフィロと似た恰好をした見知らぬ少女を引き連れているが、察するにこの少女も人形なのだろう。
「流石にエレンディア聖教の神官殿は心が広い事だ。伊達に『魂の清廉』を教義に掲げている訳ではないらしいな」
面と向かってあからさまな皮肉を言われて鼻白むエルク。シェディールは小さく含み笑いを洩らし、早くも興味を失ったようにフィロを一瞥した。返事めいて一度瞬きをしたフィロは衣擦れの音をさせて席を立ち、シェディールの傍らに並ぶ。
フィロが拙い言葉で先程ベラから聞いたばかりの話をシェディールに語って聞かせる。発音こそ聞き取り難いものの、フィロの語る内容はベラ本人から聞いたものよりも簡潔に纏められていた。お陰でキリテの存在に気を取られて話をよく聞いていなかったエルクにも要点が理解出来た。
「ご婦人。貴重な話を聞かせて頂き感謝する」
さっきまでの無遠慮な態度は何処へやら。シェディールは優雅とも思える程に慇懃な礼の姿勢を取った。驚く事に形だけではないらしい真摯な謝辞に対してベラが恐縮気味に胸の前で片手を振る。
「まあ、いやだ。こちらこそ、年寄りの昔話に付き合ってもらってしまって…。ごめんなさいね。何か、もっと力になれたらいいんだけれど」
「一先ずは充分です」
「そう?…そうね。そろそろお昼ご飯の時間だし、今日はこのくらいにしておいた方がいいかしらね」
立ち上がろうとするベラへ、シェディールの後ろにいた少女が手を差し出す。此方もとても人形とは思えない滑らかな動作だ。有難うとベラが少女の手を取る。握った少女の掌の感触が人形のものだったからか、ベラの表情が戸惑いに変わった。だがそれも一瞬だけの事でベラはにこりと笑って少女の手助けを受け、真後ろにある家へと戻って行った。
「優しげなご婦人だったな。この村には余所者嫌いの偏狭者しかいないのかと思ったが、一概にそうとは言えないらしい」
ベラの姿が家の中に消えた途端、シェディールが臆面も無くそう言った。
「……小さな村ですから。余所から人がやって来る事も滅多にありませんし、仕方が無い事だと思います。どうか許して下さい」
シェディールの言を窘める事はエルクには出来なかった。彼女の言う事は事実であったからだ。不可解な事件が起こっている今は特にだろうが、そうでなくともこのトレノ村の人達には余所から来た人間になかなか心を開かないというか、冷たいようなところがある。それ故ローレンはエルクに余所者であるシェディールに同行するよう命じたのだろう。エルクとて二年前からトレノの教会で勤め始めた新参者ではあるが、それでも全くの余所者が単独で話を聞き回るよりは幾分ましだとは思う。
声に表れてしまったエルクの心情を汲んでくれたのだろうか。シェディールが村人等の態度についてそれ以上は言及する事は無かった。一呼吸置いてシェディールは三つ編みを肩から後ろへ払って言う。
「さて、では行くとするか」
「え?…ど、何処へ?」
さっさと背を向けて歩き出したシェディールにエルクは困惑した。
「決まっているだろう。今のご婦人の話に聞いた貴族の屋敷とやらへだ」
決まっていると言われても何故そういう展開になるのか。エルクにはさっぱり解らない。どうやら此方の当惑が伝わったようでシェディールは歩みを止め、何処か意地悪げな微笑を浮かべてエルクを振り返った。
「森の中の、今は誰も住んでいない屋敷だ。魔物が身を隠すには打って付けだろう?確認しておくに越した事はあるまい」
言い終わらぬ内にシェディールは森の方へと歩を再開する。エルクは釣り上げられた魚みたいに口をぱくぱくさせ、届かない手をどんどん遠ざかるシェディールの背に向かって伸ばした。
魔術師という存在は、果たして皆、彼女のように勝手気ままな人間なのだろうか。
頭を振って気持ちを切り替え、エルクは急いでシェディールに追い付こうとする。周章し、不覚にも足を縺れさせて転んだエルクの醜態をフィロと少女の瞳が空虚に、だがしっかりと目撃していた。
「昔はもう少し、手入れがされていたそうなんですが…」
半ば草に覆われたような小道。剪定を免れて伸び伸びと育った常緑樹の枝は気持ち良く腕を広げ、若葉は陽光を透かして鮮やかだ。
細かく切り取られた空から幻想的に光射す木の下道をエルク達は行く。何処かの枝から小鳥の囀りが聞こえるのが可愛らしい。迷子めいて一羽の蝶がひらひらと辺りを行ったり来たりしていた。魔物の潜む場所を探すという目的で歩いているのでさえなければ、穏やかな春の散策といった風情だ。
「村人は普段、この森に立ち入る事は無いのか?」
案内役として先頭を進むエルクの斜め後ろ辺りからシェディールが問い掛けてくる。
「ええと…その…。…危ないという事で、幼い子供達には森で遊ばないようにと言い聞かせてあるようです。人を襲うような獣こそいませんが、大人も余り立ち入りません。その分、と言っては何ですが…その…若い男女が…その……人目を忍んで……」
「逢瀬に使っている、という訳か。公然の秘密になっているのならば村の何処かで密会を行っても別段変わらないと思うがな」
その通りなのだが、そうはっきりと口に出されると居心地が悪い。自身に疚しいところこそ無いもののエルクは頬が赤くなるのを感じた。変に言葉を濁した事で妙な勘繰りをされていたらどうしよう。十六という年齢の、充分『若い男女』の範疇に含まれるエルクは顔に朱を散らしたまま、そうっと横目でシェディールの顔色を窺い見た。
「情念が凝る――だったか?仮にそうならある種の魔物には心地好い空間だろうが、其処までの様子は無さそうだな」
シェディールはつまらなそうに、近くに張り出していた枝を叩くように弾いた。揺れる枝葉の動きを少女の人形――シャラというらしい――の目が動くものに反応したかのように無意味に追う。
どうやら杞憂だったようだ。この程度で動揺を覚えるなんて、まだまだ修行が足りないな。己の至らなさを改めて思い知らされたようでエルクは照れ隠しに歩調を速めた。
下草と土の地面を踏む足音に二体の人形の纏うぞろりとした衣が擦れる音が入り交じる。鳥の歌声を遠くに聞きながら、目を凝らさなければ見逃してしまうような分かれ道を真っ直ぐに進む。目敏くも脇道に気付いたシェディールに其方は何処へ続くのかと訊かれ、エルクは森番の住んでいた小屋だと答えた。森番はベラの話にあった貴族の一家の使用人で、彼等が村から出て行くまでの間、森の中の道を歩き易いように整えていたそうだ。
分かれ道を過ぎれば目指す屋敷までは後少しである。道中で件の貴族について何か知る事は無いかとシェディールに尋ねられたが何せ彼等が住んでいたのはエルクが村に来るどころか、生まれるよりもずっと昔の話だ。一度気になってローレンに訊いてみた事もあるが、これといった話は聞けずじまいだった。なのでエルクに教えられる事は本当に少ない。結局ベラが話していた以上の事は何も語れずに終わった。
次第に進行方向の木々が少なくなり、徐に視界が開ける。木陰に慣れた目に白昼の陽光は眩しく、エルクは思わず瞳を細めた。
木造の家々ばかりのトレノ村ではまず見掛けないような、立派な煉瓦作りの屋敷が重厚に佇んでいる。広く前庭の面積を取って屋敷の周囲をぐるりと囲む塀も同じく煉瓦で出来ていた。塀の高さは平均的な大人の男性の身長と同じくらいだろうか。
見るからに豪奢な、正に貴族が住まう屋敷といった雰囲気の二階建ての家屋だ。だが屋敷の外壁には所々焦げたような黒ずんだ跡があり、一階部分の窓には全て外側から木の板が打ち付けられていた。かつては美しく手入れされていたのだろう前庭は雑草の類が伸び放題に茂ってすっかり荒れ果てている。
人の住まなくなって幾久しく。屋敷は無人の廃墟という言葉が相応しい様相を呈していた。
シェディールが細い槍を等間隔に並べたような鉄柵の門に触れる。開けようと試みてシェディールは何度か門を揺するように腕を動かした。しかし閉ざされた門は開くどころかびくともしない。古びて錆が浮いてはいるが門としての機能は現役であるらしい。
「…開かない、か。鍵が掛かっているようだな」
「昔に小火があったそうで、万が一誰かが中に入ると危ないという事で閉められているんです。残念ですが、今日はここで引き返しましょうか。鍵は教会で管理していた筈ですから後で探しておきます」
「いや、必要無い」
強度を確かめるみたいに手の甲で煉瓦塀を叩くシェディール。エルクの方を見向きもしないでそう言った彼女は直後、塀の上部に無造作に手を掛けて地面を蹴り、ひょいと上に登ってしまった。唖然とするエルクを余所にシェディールの姿が塀の向こう側へと消える。
「…シェ、シェディールさん!?」
驚きに上擦った声でエルクはシェディールを呼ぶ。返事は無い。代わりに地面の草を踏み締めて歩き出す足音が塀の裏から聞こえた。
エルクは門のぎりぎりまで駆け寄り、格子越しに通路を睨む囚人のように鉄柵に取り縋って敷地内を覗き込んだ。
「シェディールさん!何してるんですか!?あ、危ないですよ!」
だから立ち入り禁止になっているというのに、なんて非常識な。此方の呼び掛けになど全く応える様子の無いシェディールは荒れた庭を横切って屋敷の方へ近付いて行く。
エルクは両手で門を握り締めたまま、がっくりと項垂れた。駄目だ。あの人は僕の話など聞く気が無い。完璧に黙殺された己の叫びの残響を聞くとはなしに聞き、胸の奥からは自然と大きな溜め息が零れ出た。エルクは脱力して掴んでいた門から身を離し、今度は其処に背中から寄り掛かる。
フィロとシャラがエルクを――正しくはその奥に見えるのだろうシェディールを見つめ、現在エルクが抱いているような精神的な疲労感とは無縁の、情動の欠落した顔を見合わせる。似通った衣装。同一の無表情。その精巧さ故に生気に乏しい人間の姉弟にも見える人形達は僅かの間無言で互いを見つめ、直ぐにシャラだけが前へと進み出た。
近くはあるが全く色が無いようなフィロの白髪とは違う、エルクの白金髪から更に色素を薄くしたような、腰までもある長い髪と衣装の袖や裾が空中に大きく靡いた。急に強風でも吹いたのかと思ったが違う。シャラが跳躍したのだ。
風に舞う妖精のように高々と宙を跳び、一度も何処かに触れる事無くシャラはふわりと門を乗り越える。思わずエルクはその美しい動作に見惚れてしまった。
玄関の手前で待っていたシェディールにシャラが追い付き、屋敷を調べる主人に付き従う。どうやらフィロは行かないらしく、エルクと共に此処で調査が終わるのを待つ構えのようだ。
あんな風に塀を乗り越える事などは到底出来ないのでエルクは手持ち無沙汰に何となく空を見上げた。森の木々の中にぽっかりと広がる空白めいた空は遠く、風がさやさやとした葉擦れの響きを伝える。
良い天気だな。そんな感想がぼうっと頭に浮かんだ。胸中に蟠るこの憂いさえ無ければ、この長閑やかな時間と春先の快い空気とを思い切り味わえるのに――。
閉じた瞼に浮かぶ、一人の少女の幻影。目を閉じていても視覚に触れる真昼の光に霞んでしまうような、儚さすら感じさせるその姿を捕まえようとするみたく目を開けた、その時。いきなり横合いから腕を鷲掴みにされてエルクの心は驚愕と共に現実に引き戻された。
「――っ!?」
深い眠りの淵から強引に叩き起こされたかのような混乱の最中、引っ張られた方向を咄嗟に振り仰ぐ。
「キ、キリテ…!?」
「こんな所で何してやがる」
低く唸るような声には詰問の意図がはっきりと透けていた。キリテは敵意も明白にエルクを睨み付ける。気圧されながらもエルクはどうにかキリテを振り解こうとするが、骨も折れよとばかりにエルクの腕を掴むキリテの力は少しも緩まない。
「答えろよ。こんな所で何してるんだ、って訊いてるんだよ…!」
掴まれた箇所の骨が痛みを伴って軋み、ぎしぎしと悲鳴を上げている。近くにいるというにフィロは此方の遣り取りをただ見つめているだけだ。残念ながら助けは期待出来ないらしい。
エルクは苦痛に顔を顰めつつ言った。
「…何…って、アーシュ達を助ける為に……痛っ!」
「しらばっくれるんじゃねえよ!」
細く掠れてしまったエルクの返答を遮るかの如くキリテが口を開く。良く研がれた刃物めいて鋭利に細められた眼が射殺さんばかりにエルクを睨み据え、底冷えがするような酷く冷たい、だが激しい怒りを内包しているのが明らかな口調でキリテは更に言い募る。
「知ってるんだよ、俺は。アーシュが目を覚まさなくなったあの日、お前がこの森でアーシュと会ってたってな!」
「――ほう。それは興味深い話だな」
其処に突如として揶揄めいた笑い混じりの言葉が間に割って入った。不意を衝かれたキリテが慌てたように声の主を確かめる。
「…なっ!?―――ぅが…っ!」
腕を掴んでいた強い力から突然解放された所為でエルクは空足を踏んだ。恐慌の名残に駆け足を続ける心臓を宥めようと深呼吸を試みる。
シェディールはキリテの腕を後ろ手に掴んで捻り上げ、自由に身動きが取れないよう拘束している。逃れようとして暴れるキリテをいとも容易くいなす様はまるで狂犬をあしらう飼い主も斯くやだ。
「それで?今の話の続きを聞かせてもらえると有難いのだが?」
じたばたするキリテを無視してエルクへと向けられた微笑。けれども頭上に広がる空の青をそっくり映し取ったかのようなシェディールの瞳の奥は少しも笑っていなかった。ぞっとエルクの背筋が粟立つ。額に浮いた冷や汗を拭うように吹く風は異様に冷たく、つい先程まで盛んに囀っていた鳥達さえもが何処かに行ってしまったかのような静けさが辺りを支配している。
遅れて戻って来たらしいシャラが地面に降り立つ軽やかな音が神経を刺すように刺激した。シェディールは酷薄に微笑んでエルクを見つめている。何か言わなければ。そう思うのだが、声が喉に絡んで上手く言葉にならない。
「放せ、この余所者っ――…ぃだっ!?」
キリテの上げた苦悶の声がエルクを我に立ち返らせた。尚も騒ぎ立てようとするキリテの腕を顔色一つ変えずに平然と、シェディールはより強く捻る。一応助けてもらったのだろうという自覚はあるが、幾ら何でもやり過ぎだ。シェディールの暴挙を止めようとエルクは必死になって声を張り上げた。
「は、話します!話しますから、乱暴は止めて下さい!」
「先に乱暴な扱いを受けていた人間の言う事とは思えない台詞だな。悪いが、今放すと要らぬ邪魔が入りそうだ。それは君から委細を聞いた後にしよう」
エルクの向けた非難の目などシェディールは全く意に介さない。他人の秘密を勝手に言い触らすみたいで余り気は進まなかったのだが、エルクは仕方無く話し出した。
「…あの日、アーシュから呼び出されたんです。話がある、って…。だからこの森の入口で待ち合わせました。それで森を散歩しながらたわいない話を少しして……別れました」
あれは確か、丁度今と同じくらいの昼過ぎ頃の時刻だっただろうか。態々呼び出すくらいだから何か深刻な話なのかと思ったのだがアーシュに特別変わった様子は無く、いつも通り楽しげに色々な事を喋っていたのを憶えている。もしや悩みでもあるのかと身構えていたエルクとしては幾分拍子抜けしたものだった。だから同日の夕方近くになってアーシュがこの森の入口側で倒れているのが見付かったと聞かされた時には本当に驚いた。エルクは言葉を尽くしてシェディールにそう説明する。
「…成る程」
とは言いつつもシェディールの表情に納得の色は見られない。まさか、何か疑われているのだろうか。そう考えると動転しそうになったが、此処で慌てふためいては余計に疑心を抱かせる事に繋がり兼ねない。エルクは努めて冷静を装おうとした。誓って疚しい事は無いのだと、拙くなってしまう言葉よりも目顔で一生懸命に訴え掛ける。
シェディールは話の真偽を黙考する風にエルクを見ていた。強くなってきた風に木々の枝葉がざわめく。エルクを遠巻きに注視しながらシャラがシェディールの傍らに移動する。次に、それまでじっとエルクを見つめているだけだったフィロがふと小首を傾げた。
くるりと背後を向いたフィロに釣られるようにしてシェディールが其方を見遣る。彼女の視線の向かう先を目で追ったエルクの視界に見知った、だが思いも寄らない姿が飛び込んで来た。
「ちょっと、何やってるのよ!」
場違いに幼い声が息苦しいような沈黙を裂いて響き渡った。お気に入りの黄色のリボンで結ばれた波打つような癖毛が走って来た勢いで頭の左右、高い位置で揺れている。子供らしく丸い頬を一杯に膨らませたマリナが、勇ましくも両手を腰に当てて其処に立っていた。
「マ、マリナ!?お前、何でこんな所に――」
妹の登場など予想だにしていなかったのだろう。狼狽するキリテが拘束などお構い無しにマリナの許へ駆け寄ろうとする。と、シェディールがぱっと手を離した。
「うおっ!?」
「もうっ!ホントに何してるのよ、お兄ちゃんは!」
勢い余って頭から地面へ突っ込んでしまったキリテにマリナは嘆くように言って肩を怒らせた。が、直ぐ様兄を捕らえていたシェディールへと向き直り、両手を身体の前で揃えてぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい。うちのお兄ちゃんがごメイワクおかけしたみたいで。根はわるい人じゃないので、どうか許してやってください」
幼いなりに真剣なマリナからの謝罪を受けシェディールが小さく肩を竦める。キリテが顔を真っ赤にして立ち上がるのをフィロとシャラの無情な視線が二方向から見つめた。冷ややかにも見える人形達の視線に怯んだらしく、キリテは「へっ!」と悔し紛れに吐き捨てて、殊更に肩を聳やかした。
「バカな事言ってんな。いつ誰が迷惑掛けたってんだよ?ガキが調子こいた事言ってんじゃねえよ。ほら、帰るぞ!」
「バカはどっちよ。わたしはね、お兄ちゃんがこそこそとエルクお兄ちゃん達の後を追いかけてくのが見えたから、また何かいじわるするんじゃないかって心配してついて来たの!帰るなら一人で帰ってよ。わたしはエルクお兄ちゃんと帰るもん」
急かすキリテが妹の髪の片方をぐいと引く。マリナは怒った風にそれを振り払い、外方を向いて唇を尖らせた。妹の態度に一瞬だけだがキリテが傷付いたような顔をする。それを見逃さなかったシェディールが態と噛み殺したみたいに笑った。
「――っ、じゃあ勝手にしろ!」
笑われた羞恥に顔を耳まで赤くして、けれど声色ばかりはさも憤慨したようにキリテが身を翻す。腹立ち紛れに地面の土を抉るように高く蹴り飛ばし、キリテは肩越しにエルクを睨むと、ふん、と鼻を鳴らして村の方角へと大股に歩き去る。
自分でも知らぬ間に息を詰めていたエルクはキリテがいなくなった事でやっと人心地が付いた。ぱたぱたと此方に駆け寄って来たマリナに微笑み掛け、しゃがんで彼女と目線の高さを合わせる。
「ごめんね、エルクお兄ちゃん」
「どうして?マリナが謝るような事は何も無いよ」
「だって、うちのお兄ちゃんってばホントにバカなんだもん。いくらアーシュお姉ちゃんのことが好きだからって、エルクお兄ちゃんに焼きもち焼いて、いじわるなんかしちゃってさ。そんなことしたってアーシュお姉ちゃんがふり向いてくれるわけじゃないのに」
やや大仰に腕組みをしながらマリナが鼻の頭に皺を寄せる。大人顔負けの風格でませた事柄を口にするマリナにエルクはただたじろぐばかりである。
「アーシュお姉ちゃんがエルクお兄ちゃんのこと好きなのはしかたないじゃない。だってうちのお兄ちゃんなんかよりずっと優しくてステキだもん。ねえ?」
「…ええと…ねえ、って言われても……」
そのように同意を求められても困るしかない。エルクは曖昧な笑みを浮かべてマリナから顔を逸らした。偶然その先にいたフィロと目が合う。フィロはまじまじと――と言っていいのか、エルクには少々判断が付かないが――エルクを見、口許の動きだけは滑らかに言葉を発した。しかしどうにも発音が奇天烈過ぎ、何と言ったのかエルクには聞き取れなかった。
「違い無い」
意味不明なフィロの呟きにエルクとマリナが頭を捻る中で一人、シェディールだけは理解を示して笑っていた。気になってエルクが何と言ったのかを問うと、シェディールはさも愉快げに教えてくれる。
「恋は思案の外、と言ったんだ」
「………ええっと……」
虚無的な雰囲気で呟かれた割にはやけに深い言葉である。流石に解らなかったようで「どういう意味?」としつこく尋ねてくるマリナを多少引き攣った笑顔であしらいつつ、エルクはそろそろ村へ帰らないかとシェディールに提案した。
聞けば、屋敷の玄関口にも鍵が掛かっていて中には入れなかったとの事だ。ならばいつまでもこんな場所で顔を突き合わせて話をしていても仕方があるまい。鍵なら後で自分が探しておくから、今後についての相談は村に戻ってからにしよう。マリナの手前、怖がらせないよう今回の一件に魔物が絡んでいるらしい事は伏せてエルクはそう進言した。シェディールも異存は無いらしく、此方が呆気に取られるくらい素直にエルクの意見を採ってくれた。
「しかし、君も存外隅に置けないな」
「…あの。その話は…もう終わりにして頂けないでしょうか」
面と向かって好意を告白された訳でもなし、当人の与り知らぬところでこのような話をするものではないだろう。尤も、万が一好意を告げられるような事があったとしても、エルクにはアーシュに対してそうした感情は一切存在しないのだ。だからこそ尚更居心地が悪い。
どうにも歯切れの悪くなるエルクにシェディールが何やら意味ありげに口の片端を笑みの形に引き上げる。シェディールは眉一つ動かさずに己を見上げるフィロの頭を擦れ違い様に、ぽん、と一撫でし、エルクを追い越して颯爽と歩き出した。その直ぐ後ろにフィロ、シャラと続く。
木暗い道を燥ぐマリナに手を引かれながらエルクも村への帰途に就く。
エルクは途中で一度だけ、森の中にひっそりと佇む屋敷を振り返った。木々の緑に埋もれるようにして見え隠れする煉瓦の色。さっと強く吹いた一陣の風が木々を騒がせ、屋敷は揺れる梢の緑に紛れてしまう。
一歩毎にどんどん見えなくなってゆく、忘れ去られたような古い屋敷の一角。その暗く寂しい窓辺に此方を見つめ続ける誰かが佇んでいるような気がしたのは、エルクが胸裏に抱く一抹の不安の所為だろうか。いや、大丈夫だとエルクは自身に言い聞かせ、不吉な想像を振り払うように小さく頭を振った。
普段と何ら変わらぬ静かな夜である筈だった。教会の表口の扉が荒々しく叩かれるまでは。
疾うに日も暮れて早数刻。平生ならば、このような夜分に村人が訪ねてくるなど滅多に無い事だ。奇妙に思いながらも、物音に部屋から出て来たローレンと共にエルクは礼拝堂の扉と向かい合う。
閂を外すとほぼ同時に外側から勢い良く扉が開かれた。途端、数人の村人を引き連れて戸口に立っていた村長の息子のテオが早口に用件を捲し立てる。酷く慌てているテオは話す間も落ち着かなげにきょろきょろと彼方此方に視線を彷徨わせていた。
――マリナが行方不明になっている。
テオの話を聞いてエルク達は揃って顔色を失った。
いつもより少し遅く昼食を食べた後、再び外に遊びに出掛けていったのが母親がマリナを見た最後だという。仮令どんなに遊びに熱中していてもマリナは誰に叱られるでもなく、夕方頃には必ず家に戻って来る。それが今日は夕食の時間を過ぎても一向に帰って来なかったらしい。
「これから村の男達で集まって捜しに行くところです。司祭様達もどうか一緒に…」
「勿論ですとも。大丈夫。きっと、すぐに見付かりますとも」
責任感から来るのだろう焦燥に満ちた表情で懇願をするテオの手を取り、ローレンが励ますように言う。既に寝間着に着替えていたローレンが法衣に着替えるまでの間にエルクは一言断りを入れ、テオ等よりも一足先に教会を飛び出した。
広場にはもう村人達が集まっていた。銘々が松明や角灯などの灯りを携えて難しい顔で話し合っている男達の脇を駆け抜け、エルクは大急ぎで宿屋に向かう。無論シェディールに会う為だ。
昼間、森を出た後。エルクはシェディール等と別れてマリナを自宅の前まで送って行った。それからの事は教会に戻って雑務をこなしていた所為で知らないが、例の事件の調査で村の中を回っていたシェディールならば何処かでマリナを見掛けているかも知れない。
もうマリナの失踪について聞き及んでいるのだろう。心配げにカウンターの中を行ったり来たりしている女将への挨拶もそこそこに、客室のある二階への階段を駆け上がる。
女将に教えられた部屋の戸を叩き、乱れた呼吸を叱咤してエルクは中へと呼び掛ける。
「シェディールさん!起きていらっしゃいますか!?シェディールさん!」
直ぐに室内で人の動く気配がした。どうやらまだ眠ってはいなかったらしい。扉が開くまでの時間がいやに長く感じられ、苛立ち紛れに親指の爪を噛む。
「何か用か?」
尊大とも取れる悠長さでシェディールが漸く部屋から顔を出した。
「っ、…マリナが――っ!」
意気込んで言葉を発しようとした結果、吸い込み過ぎた空気に噎せそうになる。二、三咳き込んでしまったもののエルクはどうにか言葉を続けて現在の状況を説明した。
「――それで?」
しかしシェディールはさもつまらなそうにそれだけを言い、出入口の縁に凭れ掛かった。
「それで…って…。な、何かマリナを捜す方法は無いのですか!?貴女は魔術師なのでしょう!?」
何かしらの魔術でマリナの居場所を見付ける事は出来ないだろうか。エルクはそれを訊きたくて宿屋まで走って来たのだ。エルクのような世情に疎い人間でもその名を知る、音に聞こえた魔術師なのだ。もしかしたらマリナの行方など造作無く捜し出せるのではないか。エルクはそう考えたのだった。
黙して見つめ合う事暫し。必死さ故に目を凝らすようにして其方を見つめるエルクに対し、シェディールは小さく嗤って答えた。
「私には無理な話だな」
思いも寄らぬ返答にエルクは唖然とする。シェディールは嘲笑染みた笑みを湛えたまま、エルクの頼みを一刀両断に切り捨てる。
「そもそも、村の人間が捜索の為に集まっているのだろう?ならば敢えて魔術に頼らずとも人海戦術でどうにかなる筈だ。違うか?そもそも私達はこの村で起こっている少女達の昏睡事件について調べに来たのであって、行方不明の子供の捜索は仕事の内には入らない」
「…貴女という人は……っ」
非情な言動にエルクは心奥からふつふつと沸き上がるような怒りを覚えた。
この人は役になど立たない。その上、とんでもない人で無しだ。態々訪ねてみるだけ無駄足だったのだ。
エルクは歯を食い縛り、せめてもの抗議めいてシェディールを睨め上げた。けれどもシェディールは事も無げにエルクを見下ろし、口許にそれと判る冷笑を浮かべてみせた。莫迦にされているのがありありと伝わって、かっと頭に血が上る感覚がする。
エルクはシェディールに背を向けると足音高く走り出した。飛び降りるように階段を駆け下り、憤然と宿を後にする。
激昂した心に冷静さを取り戻させるような冴えた夜風が走るエルクの頬を切る。然程広くはない村であるが故に広場には直ぐに着いてしまったが、皆と合流する頃にはエルクの怒りは粗方静まっていた。一人で戻って来たエルクを見たローレンが気遣わしげな視線を送ってきたが気付かない振りをした。
老いて足腰の悪くなっている村長に代わりテオが音頭を取り、村人達は二手に分かれる事に決まった。一方が村の中やその周辺を見て回り、もう一方が裏手の森を捜す。マリナの母は村内、キリテは森の方の捜索に加わった。
「もしかしたら何処かその辺で眠りこけてるだけもしれないだろ?あいつ、口ばっかり達者なだけでまだまだ赤ん坊だからな。見付けたら、目一杯叱りつけてやんねえと」
キリテが憔悴する母の肩を抱き、励ましの言葉を掛けている。キリテの家は昨年に父親を亡くしたばかりで現在はキリテが家長の役割を担っていた。エルクの目には乱暴なばかりに映るキリテの態度も今は影を潜め、その様は懸命に家族を支える孝行息子そのものだ。
「では、行きましょうか。皆さん、どうぞ宜しくお願いします」
最後にローレンが号令を掛け、各々が数人ずつで組んでマリナを捜しに動き出す。エルクは森の方の捜索に志願した。
こういう不安な事態に直面した際に村人達の心の拠り所となるべきも聖職者たる者の勤めの一つだ。此方を敵視するキリテと同道する事に憂いが無くは無かったが、しかしエルクは毅然と襟を正し、ローレンには遠く及ばないものの皆を勇気付ける事が出来るようにと奮起した。
夜の森は灯りを用意していてさえ尚暗く、加えて足下も悪い。昼間の静謐さはそのまま不気味さへと変じ、木陰の其処此処からこの世ならぬもの達が此方の様子を窺っているようにさえ思える。
キリテは夜の帳に覆われた森の気味悪さなど物ともせず、先陣を切って荒れた小道を進んで行った。母親にこそああ言ってはいたが、ずかずかと森を進むキリテの後ろ姿にエルクは激しい焦燥を見て取った。大声で妹の名を叫ぶ声は注意して聞けば震えてさえいる。
エルクもキリテや他の村人達に交じって森の中へ向けてマリナの名を呼び続けた。だが幾ら叫べどもマリナからの返事は返らない。さながら皆の上げた声全てが端から森の闇へと吸い込まれ、消えてゆくみたいだ。
それからどれだけ森を捜し回っただろうか。途中で他の組にも出会したが成果は捗々しくなかった。徒に心身ばかりを消耗するように時間だけが過ぎ行き、村人等の顔にも疲労の影が濃くなってくる。
森の中にはいないんじゃないか。ひょっとすると村の周りを捜してる連中の方でもう見付けてるかも知れない。同行する村人等が口々に言い合う。気休め染みた励ましの、あるいは諦念から出て来る言葉の数々だった。エルクは何も言えず目を伏せてキリテの背を窺う。
キリテの肩は小刻みに震えていた。もしや泣いているのだろうか。エルクは心中密かに同情の念を抱いた。
「…お前の……お前の所為だ…っ!!」
「――!?」
キリテが滾るような怒りを露わにして叫ぶ。瞬間、何が起こったのか解らなかった。振り向き様に振るわれたキリテの拳に殴り倒されたのだと、冷たく堅い地面に抱き留められてからやっと気付く。
「…ぅ…」
殴られた頬を押さえながら、のろのろとエルクは上体を起こす。血の味がした。どうやら口の中を切ったらしい。
「お前がっ、お前が全部悪いんじゃねえか!お前さえいなければこんな事にはならなかったんだ!マリナもアーシュも、リーネもレア姉ちゃんもキャスもミラもルミアも!!全部全部、お前がこの村に来なければ済んだ話なんだよ!!何もかもお前が悪いんだ!消えるんならお前が消えりゃあ良かったんだ!!」
絶句してエルクは呆然と顔を上げた。他の者達も逆上するキリテの剣幕に唖然としている。ざりっ、と土や小石を踏み躙ってキリテが大股にエルクへ近付く。其処で漸く我に返ったらしい村人の一人が慌ててキリテを羽交い締めにした。
「お、落ち着け、キリテ!」
「放せよ!全部この余所者が悪いんだよ!!」
けれども制止の言葉に効果は無かった。形振り構わず暴れようとするキリテを押さえ込む為にもう一人が加わったが、それでもキリテの勢いは止まらない。
「返せ!返せよ!!マリナを……アーシュを返せって言ってんだよ、この野郎――!!」
幾らエルクを嫌っているからといって何を根拠に其処まで手酷い罵倒をするのか。そうした不審を抱かせるような、この場において完全な言い掛かりでしかないキリテの怒号。絶叫めいた罵声の最後の一音が夜の森閑に呑み込まれる。誰も、何も言わなかった。ただキリテの荒い呼吸と松明の炎が爆ぜる音だけが辺りに虚しく響く。
自らに向けられる彼等の視線の意味をエルクは正しく理解していた。これは、自分達の身内ではない者を見る目だと。支離滅裂なキリテの言葉の中でたった一つ確かな、村の住民でただ一人エルクにだけ当て嵌まる『余所者』という呼び名が村人等の耳朶を打ったのだ。
判っているつもりだった。まだ自分が村人達に本当の意味で受け入れられていないという事は。村中が家族ぐるみの付き合いをしているような小さな村だ。そんな場所に外部からやって来た人間が、高々二年程度で村の一員として認めてもらえるものか。
あのローレンですら四十年以上の歳月を掛け、現在の村人達皆から信頼される地位を得る事が出来たのだ。若輩で、村に来てからの年月も浅いエルクなどがローレンのように扱われる筈も無い。
なかなか村人達と打ち解けられず悩むエルクにローレンは言ってくれた。無理をせず、ゆっくり皆さんと親しんでいけばいいのです。だが幾らエルクが努力しようとも、向こうが打ち解けようとしてくれない場合は一体どうしたいいのだろうか。
エルクは孤児だった。幼い頃に二親を亡くし、当時住んでいたとある街のエレンディア聖教会に引き取られて育った。教会の人達は皆優しかったし、暮らしにも不便は無かった。でも、それでも考えてしまうのだ。自分に本当の家族がいたらどんな風に暮らしていたのだろうか――と。
常に心の片隅に存在していた『家族』への憧憬。だから、神官としてトレノ村に赴任した時は嬉しかった。温かそうな村だと思った。皆が互いを大切に思い遣って、村中が家族同然に暮らしている素晴らしい村に見えたのだ。
だが、実際はどうだ。現実なんてこんなものではないか。
八つ当たりのような暴力と無茶苦茶な暴論。止めにこそ入ったものの、殴られたエルクを心配するでもなく村人達は顔を見合わせて困惑の表情をしている。キリテの発言を鵜呑みにした訳ではないし、キリテが今、錯乱に近い状態にあるのも判っている。けれども『村人』と『余所者』のどちらの肩を持つかといえば、前者の意見を支持したい。そんな感情が手に取るように察せられた。
所詮自分は信頼出来ない余所者なのだ。現実を突き付けられて目に熱いものが込み上げそうになったが努めて堪えた。エルクは誰の手も借りずに立ち上がり、法衣の土汚れを払う。
転んだ拍子に落としてしまった角灯はすっかり割れてしまっていた。ローレンに謝らなければならないな、などと漠然と思い浮かべる。エルクは地面に散らばった硝子片を集めようとして、やはり止めた。この暗さでは全てを回収するのは不可能に近い。
背中越しに放られる松明の明かりが森の中を赤く照らして揺らめく。炎に映し出される自分の影がやけに大きく闇へと延びているのをエルクは何とはなしに見つめていた。
*
窓の外、遙か先。飛び交う蛍火の如く彼方此方で揺れ動く灯りが見える。
「ご苦労な事だ」
失踪した幼い少女を捜す村人等の行動を揶揄するような呟き。シェディールは壁に背中を預けるようにして窓辺に佇んでいる。
村人達の危惧も憂悶も、夜闇に阻まれ此処までは届かない。元々旅人の余り立ち寄らない村なのか、それとも付近にもう少し大きな宿場町があるからか。この宿に他の泊まり客はいない。時折階下から慌ただしく人の出入りする音が聞こえるが、恐らく捜索に加わらなかった者達がマリナという少女の身を案じて隣近所を右往左往しているのだろう。
もう何度目かになる忙しない階下の物音にシェディールは靴裏で床を、とん、と打ち鳴らす。蝋燭の朧な薄明かりが彼女に同調するかのようにゆらゆらと揺れた。
「其処まで心配だと言うのならば総出で捜しに行けばいいと思うがな」
エルクからの協力の要請をにべも無く断ったシェディールは涼しい顔で言う。シェディールは己を見つめる視線にまるでたった今気付いたかのような雰囲気で窓の外を眺めるのを止め、視線の主であるフィロの方へ顔を向けた。
「何だ。何か思うところでもあるのか?」
フィロは答えない。それがフィロの常態であるのでシェディールは特に気にする風も無く、つくねんと寝台に座るフィロの隣へと悠々と腰を下ろした。
「一連の魔物の仕業であれば今慌てても仕方が無い。最初の犠牲者であるアーシュという名の少女は昏睡状態に陥ってから早一月が経とうとしているそうだが、まだ生きている。ならば今日この日に他の少女同様に魂を抜かれたとしても、直ぐにどうこうという事も無いだろう」
そう。眠る少女達は皆、魂を喰われていた。だから幾ら手を尽くそうとも目覚めない。精神とも言い換えられる魂が失われているのだから当然だ。少女達が未だ無事でいるのは、彼女達の魂を奪ったと思われる魔物がまだそれ等を完全に取り込めていないからだろう。
だが、いずれ時間の問題だ。このまま放っておけば少女達は遠からず死に至る。最も危険なのは一番初めに魂を喰われたらしいアーシュだ。魂の〝消化〟にどれだけの時間が掛かるものなのかは定かではないが、猶予はもう幾許も無い筈だ。それに比べればマリナが仮に魔物に襲われたのだとしても時間的な余裕は充分にある。
「それに、だ。もしもマリナというあの子が魔物の仕業とは無関係に行方知れずになったのだとしたら、それこそ部外者である私達には関わりの無い事だと思うが?」
言って、シェディールは指先でフィロの頬に触れる。フィロは瞬きを一つした。それでいいのだろうか、と言葉ではなく示されたフィロの意見をシェディールは誤り無く読み取り、不敵に微笑む。
「まず、彼方があの態度だ。『余所者お断り』と態度の端々に掲げているような連中に対して此方から強いて譲歩してやる必要などあるまい」
シェディールは両手を後ろに突き、長い足を優雅に組み替えた。体重を掛けられた寝台が小さく軋み、音に反応したシャラが部屋の片隅に置かれた椅子の上で猫のように微かに頭を動かす。
また眠るように瞳を閉じたシャラにシェディールは仄かな苦笑を浮かべ、組んだ足の上で頬杖を突いた。
「とはいえ…マリナの失踪が魔物の所為であるならば、随分と舐められたものだな。私達の存在は向こうも認識しているだろうに。余程自信があるのか、あるいはその逆か…」
独り言ちるシェディールの声は常には無い真剣みを帯びている。少しの間シェディールは窓の向こうを睨むように見つめていたが、やがて、ふっ、と小さく笑みを零した。
村中に魔物の気配が満ちてしまっている所為で直接居所を突き止めるのは難しかった。だが全く見当が付いていない訳ではない。魔物も此方の動きを察知している事だろう。ならば行動を起こした相手方が却って襤褸を出す可能性もある。
マリナは他の少女達とは明らかに年齢層が異なっていた。これまで年頃の少女達だけを獲物と定めていたのには訳があるのだろうに、敢えて規則性を破ってまで行動に出たのは間違い無く此方を意識しての事だろう。
潜む真意は余裕か、焦慮か。
夜に浮かぶ灯火がちらちらと村の中を行き交う。夜明けはまだ遠く、辺りを包み込む闇は深い。雲の間から姿を現した月は酷く細い笑みの形を象り、奇しくもその様は懸命に捜索を続ける村人達を嘲笑っているかのようだった。