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 薄暗い部屋の中、埃を被った荷物の奥に紛れるようにして〝それ〟は在った。

 古びた椅子にそっと腰掛けた姿勢で。静寂と薄闇に包まれた、年を経た什器の墓場染みたこの場所から、己を連れ出してくれる存在をじっと待ち続けるかのように。

 窓の外からか細く投げ込まれる日の光を浴びて尚仄白く浮かび上がる秀麗な貌。滑らかな輪郭を縁取る髪は艶めく絹糸。膝の上で行儀良く揃えられた指の一本一本までもがこれ以上は無い程に形良く整えられ、職人が心血を注いで作り上げたのだろう事が窺える。

 ―――美しい。

 辛うじて言葉に出来た感想はしかし、胸中に抱いた感動の一欠片さえも言い表せてはいなかった。一目見たその瞬間、突如として生じた狂おしい程の想いが胸の奥の奥までを掻き乱し、眩暈がする程に焦がした。

 それは恐らく恋にも似た感覚だっただろう。恍惚と渇望。今、目の前にあるこの一つの奇跡めいた存在を自分の物に、自分だけの物にしたくて堪らなくなった。それ程までにその人形は美しかった。

 椅子に腰掛けたまま、ただ時が流れるを静かに眺め続けるだけの人形。その白い頬に恐る恐る手を伸ばす。拒まれるのではないかなどと莫迦な事を頭の片隅で考えながら。

 緊張の余り微かに震える手が頬に触れる。優美で柔らかな印象を与える容貌に反した、拒絶めいた硬い感触がした。これが人間の姿を象っただけの単なる人形である事をまざまざと見せつけられたような気がして、自分でも驚愕する程の落胆を覚える。

 指の先でそっと、輪郭をなぞる。何処でもない一点を見つめるだけの硝子の瞳が自分を映してくれない事が酷く切なかった。どうにもならない胸苦しさに喘ぐように吐息を零す。

「………!」

 そうして、溜め息が足下へと落ちるよりも早く再び迫り上がってきた息を呑んだ。

 人形が、此方を見つめていたのだ。両の瞳だけを小さく動かすようにして、秘やかに。声を掛ける事を躊躇うかのように一度、二度と淡く色付いた口許が動き、空気を振るわせずに短い言葉を発する。

 ―――ずっと、待ってた。

 耳にではなく心に直接囁き掛けられたかのような人形の声に、心臓がどきどきと大きく音を立てて走り出す。だがそれは恐怖からではなかった。胸裏を過った逡巡は昂揚の為だ。自らを落ち着かせようとして、深呼吸染みた息を吐き出す。

 此方が明確な意志を以て頷くと、人形は艶やかに微笑んだ。漸く己の言葉が届く人間が現れた事を喜ぶかのように、大輪の花が綻ぶように。

 いつか、記憶にも無いような遠い昔。自分はこの人形に出逢った事があるような気がしていた。


      *


 少女は眠っている。小さく繰り返される規則正しい呼吸だけが彼女がまだ生きている事の証のようだった。

 寝台の傍らに立ったエルクは昏々と眠り続ける少女の顔を見つめる。年頃の少女らしい華やかさを纏った笑顔も今は其処には無く、閉じられた瞼の向こうにある筈のくるくるとよく動くあの可愛らしい瞳の様も、もう随分と見ていない。ふっくらとしていた頬は日が経つにつれて少しずつ痩せこけ、記憶の中にある少女の健康的な面影から遠ざかってゆく。

「…一体、いつになったら目を覚ますのかしら?」

 部屋の入口付近で虚ろに佇む少女の母親が呟いた。娘を案じる暗い声音には、僅かながらも諦めの響きが含まれている。無理も無い。少女は既に一月近くも眠り続けているのだから。

「……祈りましょう。信じていれば、アーシュもいつか必ず目を覚ましてくれる筈です」

 エルクはアーシュの母に言う。もっと励ましになるような事が言えればいいのだが、口に出来たのはそんな聖職者の決まり文句みたいな台詞だけだった。

「……そうね。…私たちが諦めてはダメよね」

 床に落としていた視線を上げ、アーシュの母は力無い笑みを見せた。

 娘を想う母の心が痛ましく、上手い慰めの言葉すら満足に言えない自分が歯痒い。しかしエルクにはどうしてやる事も出来ず、一礼してアーシュの部屋を、家を後にする。

 空はいつの間にか橙色に染まりつつあった。傾く太陽が早春の一日の終わりを告げている。日を追う毎に徐々に春めいてゆく空気は夕刻を迎えてもまだ僅かばかりの温もりを宿し、髪を撫でる微風は淡い花の香を纏っている。

 けれどもエルクの足取りは重い。見渡せば一望出来るような小さな村だ。村の外れにあるとはいえども教会への帰路など大した道程ではない。だがその多少の距離がやけに長く感じる程に沈鬱な気分だった。

 救いを求めるように空を仰ぎ、大きく息をつく。夕暮れの色が何処までも続くような空の遙か彼方を眺め遣り、エルクは途方に暮れたように歩く。

 不意に法衣の裾を引っ張られた。そうやって自分を呼び止める者に心当たりは一人だけだ。エルクは足を止めて振り返り、何とか笑顔を作って明るく声を発する。

「やあ、マリナ。どうしたの?」

 同年代の少年達に比べればやや背の低いエルクよりも更に小さな、先日十になったばかりの女の子の目線に合わせてエルクは少しだけ腰を屈めた。

「エルクお兄ちゃん、みんなのお見舞いの帰りでしょ?さっきアーシュお姉ちゃんのお家から出てきたもん。……どう?お姉ちゃん、起きてくれそう?」

 マリナは大きな瞳でじっと、不安そうにエルクを見つめる。直ぐに笑って「大丈夫だよ」と言ってみせればいいのにエルクはつい口籠もってしまった。えーと、と言葉を探して頬を掻くエルクにマリナは答えを悟り俯く。

「……お姉ちゃん達、どうしちゃったんだろうね」

 何も答える事が出来なくて、エルクもマリナと同じように黙りこくって視線を地面に落とした。

 事は一ヶ月程前に遡る。初めは仕立屋の一人娘のアーシュだった。次は花屋の娘リーネ。それから村長の家で小間使いをしているレアと続き、今では村に住む少女等の半数近くが同じ病に罹っている。

 ――否、これは病などではないのだ。村中の皆がそう噂しているし、エルク自身もそう思っている。

 ある日、倒れているところを発見されてそのまま目覚めない。眠っているかのように呼吸は穏やかだが、家族がどれだけ声を掛けようと、あるいは強く揺さぶってみても、眠る少女達は少しも目を覚ます気配を見せないのだ。

 倒れていた場所も時間もばらばらであり、これが何かの事故の類なのか、それとも事件なのかも判らない。眠る少女達に共通点があるとすれば、十代半ばくらいの未婚の少女であるという事くらいだった。

 恐ろしい病が流行り出したのではと恐れる者がいる。何らかの事件に巻き込まれたのではないかと疑う者がいる。ついにはこれは何かの呪いなのではないかと騒ぐ者まで現れた。眠る少女達と同じ年頃に当てはまる少女やその親は勿論、マリナのようなまだ小さな女の子が不安がるのも無理からぬ話だろう。

 エルクは努めて微笑んでマリナの顔を覗き込む。

「大丈夫だよ。きっと、皆良くなるから」

「うん…」

 こくりと頷き、マリナはずっと握ったままだったエルクの法衣を放した。

「もう家に帰るところだったんだよね?送って行くよ」

 マリナの頭を撫でてエルクは言った。けれどマリナは首を左右に元気良く振ってにっこりと笑う。

「へいき!すぐそこだもん」

 言うが早いがマリナはぱたぱたと家の方へと駆け出して行く。途中で一度立ち止まり、此方に向かって大きく手を振るマリナに手を振り返し、エルクもまた歩き出した。

 踏み固められただけの道を村の中心から遠ざかるように進むと、森を背に建つこぢんまりとした教会へ辿り着く。材を組んだだけの素朴な佇まいだが、年月を経て良い色合いになった木造のこの教会は村人達の心の拠り所でもある。

 習慣で隣にある畑の土の乾き具合を確認しつつ、エルクは両開きの扉の片方に手を掛けた。寒い冬の間はともかく、暖かくなり始めてからは信者達の為に大きく開け放たれている事の多い教会の扉が今はしっかりと閉ざされていた。どうしてだろうと少し不思議に思いながらエルクは戸口を潜る。

「ただいま戻りました」

 言いながら、祈祷席である粗末な木製の長椅子の列の奥へと目を向ける。祭壇の前には司祭のローレンが立っており、来客と何事か話をしているようだった。もしかして邪魔をしてしまったかな。大きな声を出したのをエルクは少々気不味く思ったが、彼が戻った事に気付いたローレンは穏やかに迎えてくれた。

「お帰りなさい。丁度良かった。エルク、貴方もご挨拶なさい」

 と、いう事は。ローレンの言葉で来客の正体に見当が付き、エルクは急いで祭壇の方へ回った。教会の中で走るなど行儀が悪いとは思ったがこればかりは仕方が無い。ローレンも特に咎める事はせず、側へ来たエルクへ傍らの人物を紹介する。

「此方はシェディール殿。貴方も知っての通り、今、村で起こっている事態を調べにやって来てくれた方です」

 長身の体躯が鷹揚な動作で振り向くのに合わせて臙脂色の外套が小さく翻る。天窓から射し込む斜陽の光を捉え、一本の長い紐のように編まれた金髪が冷たく輝いた。

「宜しく」

 シェディールは涼やかに徹る声で短い挨拶を述べる。エルクは礼を返すのも忘れて目前の女性に見入ってしまった。

 村で起こっているこの異常事態の解決の為にローレンが王都の教会へと書状を送った事は知っていた。先日届いた返信に、腕利きの魔術師を調査に送ると記されていた事もローレンから聞いて知っている。それでも尚エルクは言葉も無くシェディールを凝視してしまった。

 ―――じゃあ、この人があの〝人形遣い〟なんだ!

 呆然とし、不躾にもエルクはまじまじと彼女を見つめ続ける。だがシェディールはそんな事は意に介した風も無く、何処となく不敵な微笑を口許に浮かべた。



 魔術師〝人形遣い〟。その名は近年、このオーロール国で知らぬ者など無い程に轟いている。

 噂に曰く人形を用いた風変わりな術を用い、依頼されれば人殺しすら厭わずに引き受けるという。

 悪逆無道の徒。邪悪なる魔術師。そうした風評が流れる一方、純粋に仕事としての行い以外では他者に危害を加える事の無い、極めて善良な部類の魔術師であるという話も聞く。

 果たしてどちらの噂が本当なのか。将又どちらも所詮は噂話であって真実ではないのか。エルクには判断の仕様が無かった。エルクの属するエレンディア聖教会の重鎮ベルフォート家の名で届いた手紙の内容を直接確かめた訳でもなく、ローレンも〝人形遣い〟という魔術師が来てくれるそうだと教えてくれはしたものの、それがどのような人物であるのかは彼自身も詳しく知らないようだった。

 今し方潜ったばかりの教会の扉を押し開けながらエルクは肩越しに、自分の後ろにいるシェディールの事を盗み見る。

 調査の為に件の少女達の様子を見たいと言うシェディールに対し、それなら村の者が一緒にいた方がいいだろうとエルクはローレンに同行を命じられたのである。エルクとしては調査の手伝いをする事自体に不満は無いのだが、少なくない恐れを抱いてしまうのは仕方が無い事だろう。

 意匠こそ飾り気無いが貴族の子弟が身に着けるような衣服を纏い、その長身を足首までも覆うような外套を羽織ったシェディールは悠然とエルクの後に続く。相応の育ちをしているからなのか、それとも自らの才能に対する自負故なのだろうか。二十歳そこそこのまだ若いと言える女性でありながら、シェディールの態度はさながら王侯貴族が供を従えて外出するかのような風情だ。

 実際にはどのような人物であるのかまだ判らないとはいえ相手が相手である所為か、案内役を務めるのに際してエルクは何だか気が重くなってきてしまった。だからといって役目を投げ出す事など考えられず、胸の内に「しっかりやらなければ」という使命感染みた感情が存在するのも事実である。気を取り直してエルクは教会の外へと大きく足を踏み出した。

 矢先。何者かの視線を感じたような気がして、其方の方へつと顔を向ける。

 一瞬、それが何なのか判らなかった。一拍遅れて目にしたものを頭が認識し、エルクは悲鳴染みた叫びを呑み込んだ。

「……っ!?」

 開かれた扉の向こう側、戸の縁から半分程だけ身体を覗かせて佇立する小さな人影。

 じき完全に夕闇に呑み込まれるだろう薄暗い森を背景にして茫漠と浮かび上がるような色の無い白髪。髪色に負けず劣らず白い顔。色素に乏しい容貌の中で硝子玉のような緑青の瞳だけが瞬きもせずにエルクを捉えている。

 その無機的な無表情に加え、半分しか姿が見えないという事がエルクの恐怖を煽った。我知らずエルクは地面に靴底を擦るようにして数歩後退りする。怯えたようなエルクの様子を怪訝に思ったのか、エルクの見つめる先を探るかのようにシェディールが彼の脇を擦り抜けた。

「――ああ。戻ったか、フィロ」

 続いて上がった声は素っ気なく聞こえるくらい平静そのもので、エルクは訳が解らず目を瞬かせた。

 シェディールは扉の縁に片手を掛け、その裏に黙して佇む何者かに話し掛ける。

「首尾はどうだ?」

「………」

 返答は無い。此方からは一つだけしか確認出来ない瞳が微動だにもせずエルクのみを見据えていた。何の感情も読み取れないその視線がやけに恐ろしく感じられ、エルクは恐る恐るシェディールに問う。

「……あ、あの。…その子…は?」

 フィロと呼ばれた人影はよくよく見ればエルクよりも頭半分くらい背丈が低い。だからこそ視線が上手く搗ち合ってしまい、より戦慄する羽目になったのだが。

 慄然とするエルクに「君には紹介がまだだったな」とシェディールは入口の扉を閉め、片手を腰に当てて尊大に答えた。

「これはフィロ。一足先に村の中を調べていた」

 無表情のままフィロが僅かに目礼する。エルクはぽかんとしてしまった。

 大振りの布を数枚重ねたような異邦を思わせる風変わりな衣装。作り物めいた容姿から受ける印象は可憐とも称せる風情だが、不思議な事に端麗な面差しになよやかさなどは微塵も感じられない。加えて眼前の少年からは感情というものが欠片も窺えなかった。その見目の良さと相俟って、一言も発さずにその場から動かないでいる様はまるで等身大の人形のようだ。

 其処まで観察してエルクははたと気付く。もしや、このフィロという少年は〝人形遣い〟であるシェディールが操る人形なのではないか。そう考えればフィロのこの生気の感じられない雰囲気にも納得がいった。

 扉の裏側にいたのは単純に開いた扉を避ける為だろう。驚いたからといって一瞬幽霊か何かを見たような気がしてしまった自分が恥ずかしい。

「あ、ええと…僕はエルクです」

 人形相手に律儀に名乗るのも奇妙な話だとは思ったが一応はそうするのが礼儀だろう。無論といっていいのか、フィロからの返事は無かった。シェディールは面白がるような微笑を浮かべている。気恥ずかしくなったエルクは日が暮れる前に、とその場を誤魔化すように先に立って歩き出した。

 まずは一番最初に倒れた少女を見たいというシェディールの言に従い、アーシュの家に向かう。

 道すがらエルクは乞われて眠り続ける少女達についての子細を語った。といってもエルクが語れる事などは多くない。話のほとんどが彼女が先刻ローレンから聞いたであろう内容の繰り返しになるだろうからと断ったのだが、それでもシェディールは別の人間から聞く事に意味があるのだと言ってエルクに話をさせた。

 一通りを話し終え、エルクは横目でそっとシェディールの表情を窺う。シェディールは何やら思考を巡らせている風に微かに眉根を寄せていた。

 教会は森の側の村外れ。一方アーシュの家は逆の方角にあり村の入口の方に面して建っていた。尤も小さな村なのでアーシュの家には大して歩きもしない内に着く。

 針と糸と布とを簡単な図案にしたような仕立屋の看板が黄昏の寒気を帯びた風に寂しげに揺れた。アーシュが楽しげに手入れをしていた店の玄関脇の小さな花壇では萎れ掛けた草花が俯くように頭を垂れている。恐らくアーシュがああなってから誰も世話をしていないのだろう。まだ春とも呼べない過日、アーシュは芽が出たのをとても喜んでいたのに。

 先程見舞いから帰ったばかりのエルクが再びやって来た事にアーシュの父母は揃って訝しげな顔をした。だがエルクが事情を説明すると快くシェディールを娘の部屋へ入れてくれた。

「成る程な」

 端切れを上手に使って可愛らしく仕上げた寝具に包まり、アーシュは安らかに眠っている。アーシュの痩けてしまった青白い顔を見下ろし、暫しの後にシェディールが呟いた。

「間違い無く魔物の仕業だな。感知の不得手な私にさえ嗅ぎ取れるような強い匂いがするくらいだ」

 嘲笑染みたシェディールの言葉を耳にしてエルクは身を強張らせた。

 魔物。異界に潜み、人間の魂や精気を食らうとされる化け物の事だ。

 驚愕と疑問、悲憤とが綯い交ぜになってエルクの心中に湧き上がる。まさか、そんな。思わず声を荒らげてシェディールを問い質してしまいそうになったが懸命に自制してそれを堪える。

「フィロ。他に魔物の気配のする場所は?」

 金槌で頭を思い切り殴打されたような衝撃とエルクが必死に戦っている最中、シェディールは綽然と問うた。フィロは眠る少女を無感動に見つめていたが、その問い掛けに寝台からゆっくりと視線を外して窓の外を見遣る。

「…村中に漂よッテ、飽和シテいまス。強弱くらいシか判ラナい」

 ぎこちない発音で辿々しくフィロが言葉を発する。エルクはぎょっとして弾かれたようにフィロを見た。

 人形が喋った。噂に名高い〝人形遣い〟の所有なのだからそのくらい当然と言えば当然なのかも知れないが、それでも人形がいきなり言葉を話し出すのは心臓に悪い。エルクはごくりと大きく唾を飲み込んだ。

「存外使えないな、お前も」

 からかうように言ってシェディールは肩から垂れていた三つ編みを背中に放る。颯爽と外套を翻したシェディールと彼女の後をよく慣れた子犬のように駆け足気味に追うフィロをうっかりそのまま見送り、三呼吸。シェディールが検分を終えたのだと遅れて気付いたエルクは慌ててアーシュの部屋を出た。

 二階の住居部分から一階の店舗の方へと続く狭い階段を急ぎ駆け降りる。丁度、一日の仕事の後片付けをしていたらしいアーシュの両親がシェディール等に深く頭を下げているところだった。どうぞ娘の事を宜しくお願いします。あの子を助けてやって下さい。父親も母親も心労からか、一目で判るくらいに酷く疲れた様子だ。大切な一人娘をひたすらに案じる二人の声は聞く者の胸を打つ程に痛々しい。エルクは居住まいを正して其方へ歩み寄りながら、彼等には気付かれぬよう密かに嘆息する。

 祈りにも似たアーシュの父母の言に、だがシェディールは力強く請け合うでも優しく励ますでもなく、ただ淡々と「ああ」とだけ返した。これ程までに思い詰めている人達に対してその素っ気なさはあんまりではないかとエルクは思ったのだが、アーシュの両親にはそれだけでも充分心強い言葉だったようで、有難うございますと彼等は再度深々とお辞儀をした。

 代表してエルクが辞去の挨拶を述べ、玄関扉に手を掛ける。けれども扉は押し開けようと力を入れた途端に独りでに向こう側へと開いた。

「あ……」

 雑貨屋の息子のキリテが玄関の外に立っていた。もう店番の終わる時刻になっていたらしい。此方の姿を認めた瞬間にキリテは怒ったように表情を険しくし、エルクに聞こえるように大きな舌打ちをする。

「どけよ」

 エルクは恫喝めいた一言に怯んで素直に道を空ける。キリテは、ふん、と鼻を鳴らして擦れ違い様に態とエルクに肩をぶつけていった。

「アーシュの見舞いに来ました。今、いいですか?」

 エルクに向けて発せられたのとは打って変わった好意的な調子でキリテが用件を告げる。快活な中に相手を気遣う響きの込められた声音だった。アーシュの母が頷いてキリテと二階へ上がって行く。窺うように此方を一瞥した父親に向かってエルクは軽く頭を下げ、逃げ出すみたいにして外へ出た。

「嫌われているようだな?」

 伏し目がちに、静かに扉を閉めるエルクにシェディールはさらりと言ってのける。其処まで察しているのならば訊かないでもらいたい。エルクは恨めしいような心持ちでシェディールを見上げた。

 睨むようなエルクの視線を受けてシェディールは薄く笑う。どうやらこの女性はあまり性格の良い方ではないようだ。エルクは目線を逸らし、聖職者としてあるまじき苛立ちにさざめく心を鎮めようと努力する。

「……もう、こんな刻限です。あんまり夜分遅くに訪ねるとご迷惑にもなりますし、他の方の家には明日になってからご案内するという事でも宜しいでしょうか?」

「ああ。それでいい」

 シェディールは何かを探すみたいに村の中を見渡しながら承諾の意を示した。その傍らではフィロが表情の無い顔でエルクを見ている。

 いつしか、薄明の残光も夜の帳に溶けて消えていこうとしている。家々に灯された明かりが淡く照らし出す村の風景は漠然と暗く、民家の幽かな窓明かりは宵の陰影を却って濃くしているかのようだ。

 先に宿を取ってあるというシェディールと別れ、エルクは既に人の往来もほとんど絶えたような村の中を一人、教会へと帰る為に歩いて行く。

 見知った村の風景と歩き慣れた通い路。なのに何故か、今日は奇妙に心細いような気分だった。

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