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山頂に着く頃には雷雨が激しくなり、運転手さんは危ないからと止めてくれる。
さっちゃんは車内に残っているよう伝えたが、ゆるゆると拒否して僕の後ろからついてきた。
ほとんど土で隠れた丸太の階段を泥水が流れてゆく。登るにつれ傾斜が急になる足元はぬかるみ、ひとつ気を抜けば簡単に滑り落ちてしまいそうだ。
「着いた、けど」
ざあざあと風に揺らされた大木の枝葉が絡み合い、空を隠し、真夜中のように視界を悪くする。
一昨日来た時と、なんだか様相が違う気がする。
低く鳴く轟音が僕の肌を震わし、全身が強張るのを感じる。この大気の鳴動は、暗雲の向こうの雷鳴なのだろうか。
背後でばしゃっという水音が聞こえた。さっちゃんが両手をついて蹲っているのを見てやっと、彼女が以前も体調を悪くしたことを思い出した。
「やっぱり戻った方が……」
「いいえ……大丈夫です……ゆずるさんが見えない方なら、さとるさんを見つけられないですし、話せないですから」
言葉の節々にそう思わせるような発言があったので、兄さん寄りの人かもしれないとは思っていたが、やはりさっちゃんは幽霊を認知することができる人だった。
当然ながら、僕は見えないし聞こえないし、兄さんを探すなんてこともできない。
そんな僕をさっちゃんが頼ったのは、兄さんのような霊力というんだろうか、そういうものを僕にも期待してのようだった。
何か勘違いをしているのだと思う。逆に僕がさっちゃんに頼るしかないのだから、悪く思いつつもこんなところまで連れてきてしまった。
「じゃあ、あの、手を、掴まっていてください。体重とかかけていいので」
さっちゃんは一瞬目を丸くし、視線を逸らしながら、ぎこちなく僕の手をとった。
僕達は草を踏み分けぼろぼろの社に近付く。
と、突如視界が真っ白に塗り潰された。
驚きに動けなくなった僕は、腕にしがみつく感触に我に返った。全身にびりびりと震えを感じる。
「なっ、雷!?」
「あそこです!」
ぼんやりと世界が明確になっていく途中で、伸ばされたさっちゃんの腕が見えた。その先に目を凝らすと、粒子のような黄金色の光が、それぞれ円を描いては消えていった。
直後に青白い光が空から落ち、耳をつんざく音に僕はよろめく。
雨の中に焦げ臭いにおいが混じった。雷が目の前に落ちたのだと、遅れて理解する。
怖ろしい落雷と激しくなる風雨に、身の危険を感じた僕はさっちゃんを抱き寄せて周囲を見回した。
「離れよう!」
「待ってください! あそこにいるんです!」
さっちゃんが指し示す先に円を描く光の粒子がたくさん飛んでいた。
僕に見えないものがいると言われれば、それが僕達の求めているものなのだが。
再びの落雷に、僕達は身をすくませる。
「っ――――どうしたらいいの!?」
「さとるさんが抑えているんです! でもヨゴレが強いみたいで……!」
「汚れ!?」
汚れは落とすか、洗わなければならない。家事が染み付いた僕は、洗剤を持ってきてないことを本気で悔やむくらい混乱していた。
「ゆずるさんっ、あの時のように、祓えませんか!?」
「そんな、無茶な……」
あの時っていつの時か分からないし、祓えるわけがない。けれどこのままというわけにもいかない。
僕はしたこともないのに数珠を持ち、聞いたことのあるフレーズを唱える。
「は……祓いたまえ……清めたまえ…………………………っくそ!」
恥ずかしさが混じっていたせいか尻すぼみした言葉を言ったところで変化はない。どうしようもなくなって、さっちゃんの指差す方に数珠を思い切り投げつける。
すると白い光に撃たれ、珠が千々に飛び散った。
雷のようにも見えたが、先程のより衝撃はない。
僕は目をしばたたかせた。さっちゃんを見ると、必死な顔で何度も頷いている。
もしかしたら少しは効果があるのではないかと、リュックをまさぐった。
一番効果がありそうな食塩を手の平にさらさらとこぼして握って放ってみたが、そこ2メートルくらいしか飛ばない。雨のせいだ。
次に岩塩を掴んで振りかぶった。社から少し逸れた位置に飛んでいったが、同じように白い光に撃たれて弾けた。
パチパチと光の粒子が舞う。
やはり届かないと意味がない。次はと、掴んで取り出したものはパワーストーンだった。
包んであった汚い紙がリュックの中ではがれかけ邪魔だったので、乱雑に破り捨てると、孔雀色のような青緑や黒の混ざった綺麗な石が姿を見せる。
僕はそれをボールのように握って狙いを定めた。
僕の指から離れた瞬間、引っ張られるような感覚を味わった。踏みとどまったが、貧血に近い眩暈に襲われ、片膝をつく。
「ゆず――……」
さっちゃんの声が遠退く。
葉の擦れ合う音がしたかと思えば、真っ白な風が吹き抜け、僕の視界を奪っていった。
同時に、穏やかな温もりに包まれる。
体が消え、夢の中にいるような、音のない景色だけが広がっている。瞬きも、呼吸も、声も、意味をなさない。
人影があった。
――――にいさん
静寂に満ち、想いは音にならない。
ただ兄さんの姿だけが見える。少し前は、毎日のように見ていた、背の高いよく笑う人。
二度と会えないと思っていたのに、舞い落ちた奇跡に感謝していた。でもまだ伝えられていない。まだ、全然伝えていない。
――――いかないで
心配など、心残りなど、何もないとでも言いたげに、笑う。
想いは届いたのに、願いは届かない。
それを証明するように、人影は背を向けた。
――――まって
「…………――――って、待って! 行かないで! まだっ……まだなにも……!」
急速に景色が戻る。
色が戻り、音が戻り、体が戻る。時間の感覚だけが分からない。頬を濡らす雫が雨粒でないことは、もう分かっていた。
「ゆずるさん」
背を撫でられ、僕は顔をあげる。
気遣う声音に、暖かい手のひらに、さらに涙が溢れた。
「まだ、伝えれてない、のに……」
嵐は落ち着き、小康状態となっている。ともに、何もかも連れ去っていってしまったのだろうか。
「……大丈夫です」
不意に、さっちゃんは空を見上げ、目を細めた。
社の上空に灰色の雲だけが渦巻いていた。するりと渦の中心から白いリボンのようなものが抜け落ち、ヒラヒラと舞う。
それは、踊るように落ちてくる。自由になった喜びに満ち溢れ、その身から光を振り撒いて、愛しいこの地を守ってくれるのだろう。
「還しましょう」
立ち上がったさっちゃんは、僕の前に颯爽と立つ。華奢な体躯は、とても頼もしく見えた。
「――――掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと、恐み恐みも白す」
透き通った声音は、歌うように耳に流れて、世界に静けさを取り戻していった。
いつしか風雨はやみ、雷雲は遠退いている。
雲の隙間から夕陽が射し込み、金色の光に包まれた姿はどこか幻想めいていて、ただただ綺麗だなと思った。
ゆっくり振り返ったさっちゃんは、柔らかく微笑む。
「これで、終わりだ」
「…………にい、さん……?」
「譲、ありがとな」
「っ……兄さん」
「助かったよ――――あと、ごめんな。ひとりにして」
感情が溢れて止まらず、嗚咽が漏れる。
終わりなんだ。この夢のような奇跡が、もう、終わってしまうんだ。
伝えないと。今度こそ、絶対に。
「…………兄さんごめん……僕は、また、会えただけで嬉しかった」
「分かってる――――俺もだ」
さっちゃんは僕の前に手を差し伸べた。掴んで立ち上がった僕達の視線が近くなる。
僕は今、笑えているだろうか。
兄さんの「泣き虫だなあ」と言って乱暴に撫でる手は、前と全く同じで、優しかった。
「兄さん、大好きだよ」
だから、もう後悔したくなくて、本心を――――
「うん…………ほんと、ごめんな譲……………………紛らわしかったよな。こんな雰囲気のとこアレなんだが、兄ちゃんまだ成仏しない」
「……………………は?」