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今日もまた、体育が自習になった。
受験生である僕達にとって、数少ない気晴らしのひとつだというのに、梅雨でもない時期に悪天が続いていた。
「なーんか最近頭重いんだよな。雨だからなんか?」
「あー俺も俺も。勉強し過ぎてんだよそれ。なあ?」
「……うん……雨だと、洗濯物が溜まるんだ」
「こいつ、今日全然話し聞いてねえ。……おーい見てみろ譲、なんか校門に出待ちいるぜ。きっと美女だ」
今朝のことでそれどころではなかったが、定規でつついてくるので僕は視線を向けた。見覚えのある傘だなあと眺めていたら、シルエットに気付いて、思わず立ち上がった。
「なに、どした?」
「ちょっと出てくるから、先生来たら頼む」
廊下を静かに駆けて、傘を掴むと同時に昇降口から飛び出した。近付けば、校門に立つ人物はやはり、さっちゃんだった。
今朝のことで来たのだろう。謝りに、かもしれない。
喧嘩した後は、いつも兄さんは僕の部屋の前に立ち、僕が出てくるのをいじけたように待っていたから。
「……なあ」
さっちゃんは両手で傘を握ったまま俯いている。僕の躊躇った言葉は、雨音に掻き消されてしまった。
「にい、さん……てば」
パンツ姿のさっちゃんの足元が泥で汚れている。もうすぐ下校時刻で帰るのに、急いで来た様子だ。
僕から、謝るべきか。
「ああもう……ごめん! 責めたかったわけじゃないから!」
「ひぁ、あ、はい」
身を震わせたさっちゃんが傘を落としたので、僕は慌てて僕の傘の中に彼女を入れた。
落とした傘を拾い上げてさっちゃんを見ると、視線をさ迷わせ、何故か僕の傘の外に出ようとゆっくり下がっている。
「何してんの、濡れるよ」
「……大丈夫です」
何が大丈夫なのかと疑問を口にしようとし、ふとさっちゃんの顔を見た。
なにか、違う。
いつもより青白い肌に薄い目元と唇は、化粧をしていないからだろう。自信の無い消え入りそうな声に、乱雑に髪は一括りにしている。
今思えば、寝起き以外のさっちゃんはきちんとしていた。いや、別に今も綺麗じゃないわけではないが。
「なんだよ、何かあったの?」
「あの、ゆずる、さん」
「…………は」
嫌な予感がした。
明らかに違う態度、言葉遣い。
「さとしさんが、いなくなったんです」
◆
目の前のさっちゃんは、兄さんじゃない。
彼女が告げた言葉は、それが真実と裏付けるには十分だった。外見は同じなのに、そこには違う人物がいる。
いなくなった。いなくなった? 兄さんが?
「……どうゆう、こと?……あんたは、誰だよ」
あの時も突然で、後悔をしたのに、どうして今朝、あのまま学校に来てしまったんだろう。
僕はまた同じことをしてしまったのか。悔しさと混乱で心が埋め尽くされるが、僕は奥歯を噛んで感情を抑え、女性を問い詰めた。
「私は、さ……外の人です」
「…………なにそれ」
気が抜けた。
本来の体の持ち主だろうに、まるで自分は殻で中身がないような言い方だ。となると中の人が兄さんだとでもいうのか。
けれど張り詰めていた気が緩み、思考に余裕ができる。
兄さんが誤魔化し続けていたさっちゃんが何者かより、彼女が急いで伝えに来てくれた内容の方が重要だと気付いた。
「……はぁ……じゃあ、兄さんはどうしたんですか?」
「はい、見つけた霊神様はヨゴレてしまっていて、その、私が一緒だと危ないと一人で行ってしまったんです。御山の方角だと思いますが、途中でさとるさんの魂が辿れなくなって」
「ストップ! 全くついていけない……何のことを言ってるんですか?」
「え? あ、留守電を聞いて来たのではないですか?」
「マナーにしてるから……」
ごっそりと共通認識が欠けていた。霊神だの魂だの完全にそっち関係の知識不足だから突っ込んだ話をされても分からない。
僕は後ろポケットの携帯を取り出し、『さっちゃん』と登録した覚えのない着信履歴に顔をしかめて留守録を再生する。
『……ぁ……さ、さっちゃん、です。今学校のすぐ近くまできています。一昨日行った山頂の……御山の霊神様のことでお話があります。社にかえってもらわないと大変なことになると、さとるさんはずっと探していて、さっき、見つけて追いかけたんですが、さとるさんが一人で行ってしまったんです。大丈夫と言われたんですが心配で……ゆずるさんにも話しておくべきだと思って……校門の前にいます。あと、すみません、携帯はさとるさんが契約して、終わればすぐに解約しメッセージを再生しました』
僕は耳から携帯を離し、深くため息をついた。
そしてタクシーを家に呼ぶ手配をし、不安げに僕を見るさっちゃんに向き直る。
これがふざけた内容だと、笑うことができない僕がいる。
証拠なんてなくても、この数日過ごしたさっちゃんは確かに兄さんだった。
そして、兄さんが帰ってきた理由。僕にとっては、オカルト以外の何物でもないけど、文字通り兄さんにとっては死んでも解決したかった重要な仕事。
大変なことって一体何なのか。分からないが、兄さんはその大変なことを防ぎたかったんだろう。
その理由には、きっと僕も含まれるんだ。
それでいい――――ことにする!
「あの社に行けばいいんですね?」
「っはい! あ、携帯を」
「持っていてください。僕は色々準備してきますので、さっちゃんも僕の家まで来てくれますか。詳しい話はタクシーで聞かせてください。先に行ってます!」
返事を聞かず僕は走り出した。
全速力で駆け抜け、家に辿り着く頃には雨と汗でびしょ濡れていた。
兄さんの部屋に入り、それらしいお札や数珠、はたきのような道具をとりあえずリュックに突っ込む。分からないなりに、手ぶらで行くのも危険に感じたからだ。盛り塩から連想して、食塩や岩塩も持って、急いで服だけ着替えた。
玄関で思い出し、僕の机に放っていたパワーストーンも掴んできた。
外に出ると、息を切らしたさっちゃんが塀に手をついていた。
冷蔵庫からペットボトルとタオルを持って来たところで、タクシーが到着したようだった。
タクシーに二人乗り込んで場所を伝える。
「水、飲んでください。あとタオルも」
「すみません、ありがとう、ございます」
「話を聞かせてくれますか?」
「はい」
さっちゃんの話によると、元々、山頂の社には霊神様というものがいたらしい。
力を持った土地神だったが人の信仰心が薄れ、邪神に巣食われていた。
兄さんが社の浄化に赴き、一度は失敗したものの一昨日の僕も行った時に祓うことができたという。
あの時、見るからに憔悴していたさっちゃんは邪神とやらと戦っていたのだろうか。
そして、邪神を祓った後、霊神様が行方不明になった。この地を守る霊神様がいないと災いが訪れてしまうので、僕の知らないところで兄さんとさっちゃんは探し回っていたようだ。
やっと見つけて、危ないからと、兄さんが一人で行ってしまった。
概要はそんな感じである。
さっちゃんの話に、僕は頭を抱えて整理する。ちょっと気持ちが追いつかないけど、そういうもんだと思うことにする。
一通り話を聞いて落ち着いた後、僕は再び深く嘆息した。
「……なんで、僕には何も言わないかなぁ……」
「あ、いえ、私は勝手にさとるさんが話しているのを聞いていただけなんです。だからきっと、ゆずるさんに心配をかけたくなかったから、言わなかったのだと思います」
「わからなくもないけどさ。……え? てことは、さっちゃんにも兄さんは何も説明してない、と…………あの馬鹿」
「私は部外者なので、大丈夫ですよ」
あまりにも自分を疎かにしたさっちゃんの言い方に、僕は一瞬言葉を失う。
「体を……使われて、部外者なわけないじゃないですか」
弱く微笑むさっちゃんは、左右に小さく首を振った。
「本当に、私のことは気にしないでください。私は、見ることしかできませんから、ゆずるさんのように強い力は何もないので、役立たずなのが、申し訳ない、くらいで」
「なんでそこまで自分を卑下す……待って、僕の強い力って何のこと?」
さっちゃんの言った力というのが筋力とも違う気がして彼女を見つめると、不思議そうな顔で見つめ返された。