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「これ持っとけ」
僕の部屋を漁り、天井裏から埃被った茶色い包み紙を放り投げられた。埃が舞い、思わず咳き込む。
「汚いな。何これ」
「パワーストーン」
「……オカルトじゃん」
片手に乗るほどの包み紙は、確かに石のような固さと重さがある。
それから彼女は、椅子に立ったまま僕の携帯でどこかに電話をしていた。返された携帯の履歴を見ると、後見人の波多さんだった。
タクシーに乗った僕達は小一時間程走り、山間部へと入る。目的の場所に近付くにつれ、僕は体が強ばっていくのを感じた。
心残りがある場所についてきてほしい。そう言われた。
死んだ兄さんがよく分からない女性になって帰ってきた理由。きっとそれは、成仏するため、ということなのだろう。
突然だった兄さんとの別れに、気持ちの整理をつける機会が僕に与えられた。女性の言うことが嘘でも本当でも、僕はそれに従うべきだと思った。
兄さんは、それを望んでいると、思った。
「悪いな」
固く握り締めていた僕の拳に、さっちゃんは手を重ねた。柔らかく、生きている人のぬくもりがそこにはある。
兄さんが落ちたガードレールは何もなかったかのように、元通りに修復されていて、タクシーはその場を――――通り過ぎた。
山の頂上へと走りを止めない。
「え、そこじゃないの? どこに行くんだ!?」
「俺が死んだとこ行ったって何もねえよ」
「そうだろうけど……じゃあ何のために…………いや待て何か隠してるな?」
「まあまあまあまあ。譲はついてきてくれるだけでいいから。何もしなくていいから」
車内で運転手に不審な視線を向けられながら車を降り、険しい山道を歩いた末に僕達がたどり着いたのは、草がぼうぼうに生え、所々腐り落ちた社だった。濁った曇り空と相まって、いかにもなおどろおどろしい雰囲気に、僕は呆れてさっちゃんを見た。
「死んでも来たかったとこが、ここ?」
「来たかったわけじゃなくて、来ないといけなかったんだ。…………譲にはここが、どう見える?」
「意味分かんない。まあ、寂れて汚いけど、景色は悪くないから、草刈って道をどうにかしたら人来るんじゃないのってぇ!? なになになに!?」
話の途中でさっちゃんがまた抱き付いてきた。両肩を持って引き剥がすと、青白い顔に脂汗が浮き、僕と目が合うと口の端を上げた。
「体調、悪いの?」
「いや。けどちっとこのまま支えといてくれ。あと禊珠じゃねぇや、パワーストーン出して」
僕がポケットからそれを出すと、さっちゃんは僕に寄りかかりながらパワーストーンの上に手を置く。
「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみつくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに――――」
すらすらと呪文のようなものを唱え出したさっちゃんの吐息が、僕の首元に当たってくすぐったい。分かっているのに、恥ずかしさがあって、誤魔化すように僕は口を開いた。
「そうしてると、なんかすごい人に見えるね」
「だろお? 尊敬してくれちゃっても、いいんだぜ……つうか、やっぱり……譲は強い、な……」
「まぁこの人、軽いし、別に……兄さん? 寒い?」
触れた肌が冷たく、さっちゃんに問いかけても「すごい」だの「強い」だの、繰り返し僕を褒めるだけだ。冷えていく彼女の体に恐怖を覚えた僕は、ひとまず抱きかかえて適当な岩場に腰かけた。
しばらく待っても良くならず、ついには指一本動かすことができなくなってしまった。救急車を呼ぼうとしたが圏外で、その頃には呼びかけても呟く言葉が小さすぎて聞き取ることさえ困難だった。
「体調悪いなら早く言えよ! タクシーのところまで戻るからな! 気張れよ!」
おんぶをしようと体勢を変えるが、女性だとしても動けない人の体を背負うことは難しい。
僕は焦燥感でいっぱいだった。
くわんくわんと盆が落ちて地面を回るような耳鳴りがする。自分の鼓動が聞こえそうなくらいどくどくと脈打ち、胸が苦しく感じる。何故こんなことになるのかと、疑問符ばかり浮かび、視界が滲んでくる。
「ああもう煩い!!」
自分を叱咤すれば、ぴしりと耳鳴りが止み、鼓動が落ち着いた。冷静さを僅かに取り戻した僕は、やっとさっちゃんを背負いあげ、山道を駆け出した。
「…………譲は……強いなぁ」
「気づいたのか!? 大丈夫!?」
「ずっと起きてるよ……だいじょぶだいじょぶ」
ぶらんとしていた細い両腕に、僕の首にしがみつくように力が入った。
タクシーまで戻ると、汗だくの僕とおんぶされたさっちゃんを見てぎょっとした運転手が急いで発進してくれた。
さっちゃんは「安全運転で頼むよ」なんて兄さんに対して皮肉めいた言葉だけを残し、僕の膝の上で眠ってしまう。
総合病院に着いて起こすと、さっちゃんはけろりとした顔で、保険証がないから帰ると言い張った。元気そうに全身を伸ばして笑うさっちゃんは折れず、結局、僕達は家に帰ることになった。
◆
僕は憤っていた。
さっちゃんは後で説明すると言って、僕の家に当然のように上がり込み、ご飯とお風呂と着替えと寝床を求めた。
倒れたこともあって、気遣った僕はその日は何も聞かなかった。
次の日、学校に行く前の僕に、さっちゃんはお金を要求した。
最初に着ていた服が一張羅で、お金は一円も持っていないからだという。昨日のタクシー代も確かに僕が払った。
帰ってきたら話すと言って、ふんだくるように僕の財布を持って出かけてしまった。
夜遅くなっても戻ってこないさっちゃんを僕は心から心配していたのに、彼女は山のような荷物と一緒に現れ、買ってきた物を片付けることもなく疲れたと言って僕のふとんで眠った。
見れば、服に下着、化粧品に女性用のあれやこれや、生活に必要な品が総額十万近く。財布にはそんなに入っていなかったはずで、家の口座から引き落とした履歴の紙だけが彼女の行為を物語っていた。暗証番号をどうやって、いやそれより重要なのは、さっちゃんがここで暮らすつもり満々だということ。
早起きした僕は、さっちゃんを叩き起こし、朝食の席につかせた。いい加減説明をしてもらわなければならない。
大きな欠伸をして眠そうなさっちゃんは、勝手に食器を取り出し、兄さんの湯呑で一息ついた。
「ちゃんと説明しないともうご飯作らないからな。あの社は何だったのか、体調は本当に問題ないのか、あんたは一体誰なのか」
「あんたじゃなくってさっちゃんだってば」
「素性を聞いてるんだよ。……ほんとに、兄さんが憑いてるってことでいいのか……?」
「え、そこまだ疑ってたの? 嘘だろ譲……素性の分からない奴に頼まれても財布渡したら駄目だぞ?」
「なっ…………か、家族じゃなきゃ渡さないよ」
僕は顔を逸らしたまま、チラッとさっちゃんを見ると、にやあ、と得意げな笑みを浮かべている。
「素直じゃないねえ」
「話しを、逸らすな! その人は、二日も家に帰っていないんだろ? 兄さんが、ずっと入っていて……いいのかって……その、いつ……」
兄さんが消えてしまうのか。
重要な話なのに、僕が積極的に聞けなかった理由もそこにある。
聞いてしまえば、日常に戻ったように錯覚した毎日がまた、終わってしまう。誰かに悩まされることのない、静寂に満ちた生活。その孤独が、また。
最後まで紡ぐことができなかった僕の言葉を、さっちゃんはただ困ったように微笑した。
「似てるなあ。もっと、自分本位に生きてもいいのになあ」
「なに、が?」
「いいや。さっちゃんについて話すには、もう少し時間が欲しい。体は問題ない。食は細いが、健康体だ。社は…………俺が帰ってきた、理由だ」
今度はさっちゃんが気まずそうに顔を逸らした。
「…………やっぱり、そうなんだ」
どうして死んだのか。その女性は誰なのか。何のために帰って来たのか。兄さんは重要なことは何も言わない。生きていた時も、今も。
分からないことだらけのなか、唯一分かったことがある。
再会して、また益体のない話をしたのは僅かで、すぐに死んだ場所ではなくあの社へと赴いた。
何かしらの目的があって、それは、兄さん一人ではできないことで、きっと兄さんの仕事のことで、その仕事が心残りであって。
つまり。
「兄さんの心残りに、僕はいなかった」
うざったい時もあった、煩わしい時もあった、嫌いになった時もあったけれど、大好きな兄さん。
死んだ時は、死ぬほど悲しかった。あの日は、いつものように、適当にあしらって学校に行った。それを心から悔やんで、だけど兄さんが僕のことを想ってくれていたことは知っていたから、僕は後悔と生きていこうと思ったんだ。
でも、帰ってきてくれた。
兄さんともう一度話せたことが、純粋に嬉しかった。
そして、考えてしまう。帰ってきた訳を。
成仏できない理由があるのだと、残しては逝けない理由があるのだと、それは、たった一人の家族である自分だと、信じたかった。
でも、違った。僕の望みだった。
ただ、僕だけがもう一度、会いたかった。それだけのこと。
「俺は、譲のこと、信じているから」
微笑むさっちゃんに、否定は、なかった。
「…………そんなの、体のいい言い訳じゃないか」
僕は憤っていた。
勝手に期待した僕の身勝手な言葉に。
叶うはずのない奇跡を、理不尽に思う我儘に。