赤髪と嫌われる私が兄を探しに行って不思議な青年と出会った話
「誰か、誰か助けて!」
「げっへっへ、諦めなお嬢ちゃん」
「ぐっへっへ、誰も来やしねえよ」
森の奥に、軽やかな鈴のように響き渡る少女の声と、聞いているだけでお里が知れる下劣な男達のだみ声がこだまする。
頭巾を目深に被って黒服に身を包んだ少女は木を背にして、こちらを取り囲む二人の男達を睨みつける。しかし身体が震えていてはあまり威嚇の効果はなく、かえって相手を喜ばせているようだった。
「べっぴんさんが一人旅なんて悪い子だぞう、ふへっふへっ」
「そうだぞ、おじちゃん達と社会勉強しようや、ふひっふひっ」
逃げたとき、街道から山道に入り込んでしまい、さらに体力が尽きたのが運の尽きか。
いやいや、まだまだ信じる心でなんとかなる場面のはず。自分の日頃の行いに自信を持たねば。
そう心の中で己を前向きに鼓舞してみるものの、祈って劇的に劣勢が変わるわけではない。
少女はちらっと遠くに散らばってしまった荷物に目をやり、悔しそうにきゅっと顔をゆがめる。
「くうっ、こんなお手本みたいな三下台詞を吐く男達、頑張ればのせそうな気がしてくるのだけど、二対一だとちょっと厳しい気がするわ……」
「なんだとぉ!?」
「どうやら本格的にお仕置きが必要みたいだな」
「近寄らないでよ嫌らしいっ!」
じりじりと包囲網が狭められる中、少女は首にかけているロザリオを引っ張り出して突きつけた。
「っていうかね、見てわからないの、私は旅の修道女です! こんなことして許されると思ってるんですか!」
敬虔な聖職者なら、危ない人も若い女だとて手を出すまい。
いかにも世間知らずの安直な考えは、旅路の衣装に家の棚の奥から見つけ出してきた修道服――っぽいものを選ばせた。実際の効果の程は男達の反応を見ている限り、どうもいまいちのようだったが。
「無法者が信仰してるのはな、盗賊の神様と嘘つきの神様と悪魔様なんだよ、嬢ちゃん」
「悪いな嬢ちゃん、そういうことで管轄違いだ」
「りょっ、領分が違うのならこう、なおさら敬った方がいいと思うのですがっ……?」
「わかりやすく言ってやろうか。聖職者相手とかむしろ興奮するんだぜフヒヒ」
「シスターを俺色に染め直してやるデュフフ」
「変態! この変態――きゃあっ!」
いよいよ一番近くに迫った相手がぱっと彼女に手を伸ばす。
うまくかがみ込むことで男の手から逃れた彼女だったが、幸か不幸か頭巾だけが男の手の中に残ってしまい、その結果頭から取り払われる。
現れたのは、三つ編みにまとめられていてもわかる、どろりと鈍く赤みがかった色合いの髪だった。
はっとして頭を隠そうとする少女に向かって、ならずもの達はざわめき出す。
「何だこの女、変な頭しやがって。兄貴、こいつ気味が悪いでっせ。街道を一人で歩いていたことだって、修道女だって抜かしてることにもちょっと納得だぁ。誰もこんな奴、家に置いときたがらねえよ」
少女は一瞬傷ついたような顔をするが、自分の嫌いな身体特徴が自分を守るかもしれないと思うと複雑な心境になる。
どうかこのまま、怖じ気づいていなくなってくれますように。
しかし相方の方は徹底して不信心な男のようだった。
「馬鹿お前、構うこたねえよ、逆に好都合じゃねえか! 小娘の浅はかな家出にしろ、本職の尼さんにしろ、さらに珍しい魔女様とのご対面にしろ――こいつを助けてくれる奴なんか、誰もいないってこった。大体頭が気になるなら、さっきみたいに頭巾被せとけばいいだろ、ホレ」
「さっすが兄貴!」
少女はいよいよすくみ上がり、降りかかってくる不幸に耐える強い心を持とうとする。
さっき避けたときについでに腰が抜けたのかへたり込んだままもう立ち上がれない。
万事休すだ。
やはり箱入り娘の一人旅は無謀すぎたか。
じいやの言うことを大人しく聞いておくべきだったのか。
けれど、どうしても、危険を冒してでも、確かめたい真実があったのに。
「お兄様……」
観念した彼女が目を閉じて呟いた瞬間、奇跡は起こった。
「ごべぼうっ」
ニヤニヤ下品な微笑みを浮かべながらお楽しみを始めようとしていた山賊Aから、空気が汚く抜けていったような音がした。ついでに打撃音というか、後頭部を思いっきり殴打されたような、鈍くて痛そうな音も聞こえる。
「誰だテメー――ぶべらびゅっ!」
すぐに山賊Bの、これまた顎の辺りをしこたま下から上にかち上げられたら、こんな断末魔を上げても仕方ない気がするような汚い悲鳴と、Aと同じようなとても痛そうな音が辺りに響き渡った。
思わず閉じていた目を少女が開けると、男達二人は森の中に伸びており、「ふう、いい仕事をしたぜ」とでも言いそうにパンパンと両手を払っている青年が目の前に立っていた。
彼女がまず目を惹かれるのは、その頭である。
赤。
少女も自分の髪が赤いことには自信があるというか、散々生まれた頃から言われてきていたのだが、青年の髪の色はさらに色鮮やかで目に染みるほど。
炎だ。頭が燃え上がってる。
思わずそんな風に思ってしまうほど、見事な赤髪だった。
呆気に取られている彼女に向かって振り向くと、山賊二人をあっという間に沈めた通りすがりの誰かさんは手をさしのべてくる。
少女はその手を取るか迷った。ついでに何を言うべきかも割と迷った。
「あー……えっと、こういう場合、やっぱりまずはこう言うのが正しいのかしら。助けてくれて、ありがとう?」
語尾に疑問符がついてしまうのは、ご恩を受けた箱入り娘の身分でいてあれだが、若干話ができすぎている気もしたからだ。
街道はずれた山道である。山賊相手である。こちらはいかにもわけありそうな若い娘である。それをなんか結構身なりのよさそうなイケメン(そう、頭の第一印象に埋もれたが、よく顔を見てみると尋常でないほど鮮やかな赤髪の欠点を十分補える程度の美形である)が助けてくれる。
うーん、他人事なら容赦なく萌えるが、当事者はポーッとしてばかりでもいられない。
ついさっきだって、前の町で親切そうな女の人に道を案内してあげると言われ、人を信じる心で抑えてホイホイついていった結果、いつの間にか山賊にバトンタッチされてご覧の有様になったわけで。
普段ならお人好しやミーハーの方が上回る脳天気にも、社会勉強の賜だろうか、警戒心が首をもたげてきている。
――よいですかな、男はみーんな狼ですぞ! 油断したらぺろりと食べられてしまうんですぞい! 気を許してはなりませぬ!
――えっ、じゃあシアン兄様も?
――シアン様はそのような低俗な輩共より数ランク上にいらっしゃるお方ですじゃ、一緒にしてはなりませぬ。
――よかったあ。ねえねえ、だったらじいやは?
――わしゃ分別のあるよいジジイですので悪い男にはカウントされませぬ、安心してくだされ。わしら以外の男がみーんな悪者なのですじゃ。
――わかった!
いつかどこかでじいやとかわし合った会話が頭にリフレインする。
しかしこちらから声をかけても相手の反応がいまいち薄い。
そして一番大事なことだが、どんなに警戒したところで彼女は今腰を抜かしているのである。無駄な抵抗という文字が一瞬頭をよぎる。
しばらくじっと少女に向かって手を出していた男だったが、彼女が立ち上がれないとわかったからだろうか。
大股で歩み寄ってきたかと思うと、ずぼっと落ちていた頭巾を雑に彼女の頭に被せた後、身体に手を差し入れ、自分の肩に担ぎ上げてしまった。
「ちょ、ちょっと何よ、もしかしてあなた新手の痴漢!? 一対一なら私にも考えがあるわよ。何のために重い思いをして鍋をかついできたと思ってるの、あんたなんかこれでこう、カーンなんだから! ちっとも怖くないわよ! ……でも、せっかく人間同士なんだし、できればやっぱりこう、文明的なお話し合いをしない?」
脅してからなだめる、ちょっとした飴と鞭戦術である。
ただしそれが効くのは、自分が相手と対等以上の関係にある場合だ。
青年は少女の言葉を全面的に無視し、親切にもその辺に転がっていた鍋や荷物まで一緒に拾い上げてから、至って平然と歩き出した。
「おーろーしーてー! 何よあなたもやっぱりただのスケベだったのね狼に変わる人だったのね、一瞬の激しいときめきを返して! いーやー、絶対に、いーやー!」
肩の上でもがく少女だが、下の人はびくともしない。
そのうち慣れた足取りで山道を街道まで出た彼が、自分が来た道に向かって戻ろうとするのを見て、彼女はさらに悲鳴を上げた。
「待って、そっちは違う――そっちじゃないわ、私はあちらに行くの! 何があってもお兄様を連れ戻すんだから、絶対に、絶対によ――うわっ!?」
じたばたしていた彼女は、急な浮遊感に間抜けな声を出してしまった。
幸いにも尻から落ちたので、痛みはあるが酷い怪我には至らなかったようだ。
「ちょっと、急に、何――?」
腰をさすりながらうめいている彼女に、男がかがみ込んでくる。
緊張して肩をすくませていると、彼はじっと彼女をのぞき込む。青い空のような、澄み切った瞳。
はっと息を呑んだ彼女に向かって、青年が頭を垂れ、ちょうど曲げていた膝に額をちょんと押しつける。色々展開が予想外でかたまっているばかりの少女に、しばらくそうして騎士のように跪いていた。やがて急に立ち上がると、どさどさと彼女の周りに持ってきていた荷物を置き、一礼して街道から山奥に去っていってしまう。
止める間もなかった。いや間はあったのだが、なんかこう精神的な隙がなかった。
一人取り残され、あんぐり口を開けて尻餅をついたままだった少女だが、鳥の鳴き声が聞こえてくると自分を取り戻した。慌てて荷物をかき集め、手で軽く自分の身なりを整えてから目的の方に歩き出す。
「……あの人、一体なんだったのかしら」
一生忘れられないような不思議な体験をした。帰ってからの土産話が増えたけど、じいやは信じてくれるかしら。
少女は化かされた気になりつつも、すぐにきりりと澄ました顔つきに戻り、街道を勇ましい足取りで歩み出した。
いつの間にかなくなっていたおしりの痛みも、すっかりてきぱき問題なく動くようになっていた両足にも、このときの彼女が気がつくことはなかった。
* * *
奇妙な体験はそれきりかと思ったら、余韻に浸っている間にあちらからぶちこわしにやってきた。
似非修道服に身を包んだ訳あり少女が、なんとか日が暮れる頃、次の町までたどり着いて宿を取ろうとした時のことである。
「お客さん、一人かね」
宿の主である割腹のよい中年女性は、若い娘を上から下まで見回して、じろりと睨みつける。
まあ、常識的に考えて独身娘の一人旅なんか、トラブルの元である。
宿の主人として目に見える面倒は避けておきたいに違いない。
しかしどれほど怪しかろうが訳あり感モロ見えなのだろうが、こっちだって引けない理由があるのだからゴリ押すしかない。
昨日のように見知らぬ人の親切に浸ると後で痛い目を見るかもしれないので、少女は今回は一人で乗り切ってみせると威勢よく息を吸い込んだ。
「あ、はいその、巡礼の旅でして、その、お金はちゃんとこの通り払いますしけしてご迷惑もおかけしませんから――きゃー!?」
一気にまくし立てようとした彼女の言葉が途中から悲鳴に変わったのは、後ろからぬっと腕が出てきたかと思うと、フレンドリーに自分の肩をポンポン叩いたからだった。
振り向くとそこに、見覚えのある赤髪の青年が突っ立っている。
相変わらず美形だが、無表情で愛想のかけらもない。
思わず彼女は指を突きつけてしまう。
「ちょっとちょっといきなり何するのよびっくりしたじゃない、っていうかどこに行ってたのよ別にどこでもいいけど、しかも帰ってくるなんてどういうつもりなの、私を死ぬほど驚かせてそんなに楽しいの――」
「なんだ、よかった。お連れさんがいたのかい」
「つ、連れ!?」
しれっとした顔の青年に食ってかかる少女だったが、宿のおかみの思わぬ言葉にぐりんと首を捻る。
おかみはいかにも警戒してますという険のあるものから、やれやれと肩をすくめる表情に変わりつつカウンターをあさっている。
「えっえっ、ちょっと違います、誤解です、これはその」
「違うもんかい。あんたらそっくりちんちくりんな髪してるし親しげだし、顔は似てないが兄妹……いや親戚ってところかねえ」
「ちんちくりん!? お兄様!? どこをどうすればそんな……あっ、頭巾!」
いつの間にか青年は頭巾を取り上げて、自分と彼女の赤い頭をおかみに交互に指さして示している。
ひったくるように奪い返した少女だったが、口を開く前におかみが鍵を出しながら優しい声で言ってくる。
「元気なのは素晴らしいがね、あんまりお兄さんに気苦労かけちゃいけないよ、お嬢ちゃん。さすがに若い娘さんの一人旅をほっとくわけにもいかないが、保護者がついてるならまあ、いいことにしましょう」
誤解を解こうと出しかけていた言葉が喉でとどまって奥に戻っていく。
「お兄さんもお兄さんだよ、こんな危なっかしい子一瞬だって一人にしちゃ駄目じゃないか。あんたがしっかり見てやらないと、この子何するかわからないよ――」
鍵を渡しながらされる説教に、見知らぬ青年はいかにも反省してますという感じの神妙な面持ちをしてうなずいていた。
「……で、聞かせてもらいましょうか。あなた一体、どういうつもりなの?」
部屋に荷物を置いた後、彼女は腰に手を当てて男に食ってかかった。
当然のように二人一部屋である。
まあ確かに女一人部屋にしたら色々危ないことが起こるのかもしれないが、これはこれで別のことを心配しないといけないのではないか。
少女は目の前の脅威(暫定)とここで決着をつけておこうと決意した。
「宿を貸してもらえることになったのはもちろんありがたいけど、私、何がなんだかさっぱりよ。私達初対面よね? あの後私をつけていたの? どうしてこんなことするの? ――ねえ、無視しないで、ちゃんと話して答えて!」
青年は立ちつくしたまま微動だにせず、聞いてるんだか聞いてないんだが微妙な態度を続けていたが、彼女が言葉での応答を求めるとぴくりと反応し、どこか申し訳なさそうに目を伏せる。
きっとまなこをつり上げていた少女だったが、青年の態度にはたと止まり、困惑した表情を経てからはっと思い立つ。
「もしかして……喋れない?」
問いかけに、青年は喉を押さえてゆっくりとうなずいた。
「そう、それはごめんなさい、無神経だったわ。ちょっと不便だけど……ううん、やめるわ。言っても仕方ないことを責めるのは、駄目よね」
すっかり勢いをなくしてしょんぼりとする少女だが、青年が気にするなとでも言うように横に首を振ると、気を取り直してまた口を開く。
「あ、でも私が言っていることはちゃんと通じているのよね? だったら、忘れていたけど自己紹介しなくちゃ。私はスカーレット。赤毛のスカーレット、覚えやすいでしょう? 髪はご覧の通り、そこまで明るい色じゃないけど。元は商人の娘で、今はシアン兄様を探すために旅をしているのよ。改めて、今日は助けてくれてありがとう。ご恩は忘れないわ、お礼は必ず後でするわね」
スカーレットが歯を見せて喋り終えると、青年は備え付けのテーブルまで歩いていった。何かしている彼の手元をのぞき込んでみると、青年の指が描いた箇所が淡い光を放っている。
「まあ、なあにそれ、手品? 私見たことないわ、その模様」
青年はひとしきり何かを机の上に描いていたが、指を止めると彼女の方を振り返る。
どこか期待しているように見える目の輝きは、スカーレットの無邪気な答えによって消えてしまった。
もう片方の手でさっと机を一撫ですると、机上に浮かんだ謎の落書きはあっという間に見る影もなくなる。
スカーレットは首をかしげた後、気を取り直すようにパンと両手を叩いた。
「あなたのことは何もわからないし、喋れないなら尋ねることもできないのだけど……私を二回も助けてくれたんだもの、悪い人じゃないって信じるわ。あ、そうそう、名前がないと不便よね。そうねえ、カーマインって呼んでもいい?」
青年はしばらくぼんやりした顔のままでいたが、スカーレットが何度か呼びかけると、了解したと応じるようにうなずく。
「カーマインとスカーレット。いいじゃない、お揃いみたいで。私ちょっと、ううん、大分嬉しいわ。赤毛は嫌われることが多いけど、あなたは気にしないはずだもの」
スカーレットが彼の両手を取ってはしゃぐと、カーマインは驚いたように目を丸くしていたが、やがて穏やかに、少々ぎこちない微笑みを浮かべてみせた。
* * *
スカーレットはあっという間に見知らぬ男カーマインに打ち解けていた。
元々彼女が馬鹿と表現して差し支えないほどのお人好しで、すぐに人を信じ込む性質だったこともある。
カーマインが無害なオーラを醸しているおかげもあるだろう。
彼は普段、追い剥ぎ二人を一瞬で蹴散らしたとは思えないほど、穏やかで問題を起こしそうにない男だった。
というかもうちょっと容赦なく言うと、大体ぼーっとしている男だった。
しかし真面目な気質なのか、スカーレットが話を始めると、船を漕いでいる状態からでもちゃんと起き出してきて、傾聴の姿勢に入る。お喋り好きな彼女が気に入らないはずがなかった。
「昨日も言ったけどね、私は兄を探しているの。シアン兄様。私と違って髪は黒で、目は青よ。そうね、目の色はあなたと大分似てるかもしれない。なんだろう、たぶん、だからだわ。あなたのことがちょっと他人に思えないのは」
翌朝スカーレットは早速自分の事情を語り出した。
昨晩、警戒するようなことは何もなかった。カーマインがお休みの挨拶と共に、部屋を出て行ってしまったからである。
ふらっといなくなった彼にまたしても呆気に取られ、少しの間は行儀よく帰りを待っていたスカーレットだったが、非常に育ちよく健康で脳天気な娘のこと、あっという間に睡魔に屈して次の朝になっていた。
カーマインは朝になると戻ってきていて、どこからか調達してきたらしい掌一杯の果実をスカーレットに差し出してきた。
それを二人で並んでつつき、朝ご飯にしているのである。
「ねえ、私のこと、どう見える? やっぱり世間知らずな小娘の家出? そうね、そうよね、あながち間違ってもいないわ。でもね、これには理由があるのよ。のっぴきならない理由。聞いてくれる?」
神妙な面持ちでベリーを頬張りつつ語り出した彼女を、カーマインは喋らないが真面目な目で見つめていた。
「小さい頃にお父様とお母様が死んでしまって、それからずっとお兄様が育ててくれたの。今はもう唯一の家族よ。でも彼、三年前に出て行ってそれっきりで、家はみるみるうちに寂れていって……私も手は尽くしたけれど、やっぱりちゃんとした男主人じゃないと駄目みたい。変な赤毛で痣持ちの世間知らずの言うことなんか、話半分にしか聞いてくれなかったわ」
深刻そうに、それでいて明るく話す彼女だが、自虐の部分に入ってくるとさすがに表情がゆがむ。
カーマインがすっとベリーを差し出した。甘さがほんのりと、彼女のこわばりを解きほぐしてくれる。
「だから、お兄様を見たって噂を聞いて、飛び出してきたの。絶対に、連れ戻さなくちゃ。せめてどうなってるか確認しないと、私の気が済まない――だって、お兄様がいなくなってしまったのは私のせいなんだもの」
カーマインがどういうこと? と問いかけるように首をかしげた。
スカーレットは迷う仕草を見せてから、ゆっくりと自分の長い前髪をかき上げる。
すると隠されていた彼女の額には青紫の模様のようなものが浮かんでいた。
「びっくりした? 生まれつきあるの。この赤い髪のこともあるし、ご近所付き合いだって、それはそれはもう昔からうまくいったわよ。友達ゼロ人。笑えるわよね。お兄様は私のことを可愛がってくれたけど、これだけはやっぱり心配だったみたいで。それである日、この痣を消す秘薬の噂とやらを聞きつけて、家を飛び出してそれっきり……私、このままじゃ帰れないわ」
そこまで話し終えると、ちょうどベリーもなくなった。
彼女は勢いよく立ち上がったかと思うと、カーマインに駆け寄り、ぎゅっと拳を握りしめて宣言する。
「さあっ、話も聞いてもらったし甘いものは食べたし、元気が出たわよ。お兄様はね、東の森に、秘薬とやらを探しに行ったんですって。私、だからそこに向かおうとしているの。本当の本当に、今までありがとう。ベリーも美味しくて、あなたって私が会った中で一番いい人よ。あっ、お兄様の方が一番かもしれないから二番かも。ともかく、お兄様が見つかったら是非お礼をさせていただくわ。じいやと私で料理を作ってもてなすの、こう見えてそこそこ上手なのよ」
握った手をブンブン振られたカーマインは相変わらず無抵抗にされるがままだったが、じゃっ、と未練なくスカーレットが立ち去ろうとすると、自然な流れで後ろを追っかけていく。部屋まで一緒に帰ってくると、彼女の旅の荷物をひょいと、当たり前のような顔をして抱え上げた。
「……ひょっとしてついてくるつもり?」
カーマインは真顔で、しっかりこっくりうなずいた。
スカーレットは目を見張っていたが、すぐに明るい笑みになる。
「あなたってわからない人。でもいい人ね。なんだか本当に、お兄様が帰ってきたみたいよ」
スカーレットが笑い声を上げながら走っていく。
カーマインは音もなくその後を追った。
二人の旅はけして楽なものではなかった。
何せ珍しい赤毛揃いで、スカーレットは生粋の箱入り、カーマインは喋れないと来ている。
宿を断られて結局野宿せざるを得ないこともあったし、怪しい奴らめと衛兵を呼ばれそうになったことすらある。
カーマインは人との交渉、町での振る舞いになるとスカーレットと大差ないようだったが、危機察知や野生での過ごし方については優秀だった。
騒動が起こりそうになるとちょんちょんとスカーレットのことをつついて注意を惹いて合図し、相手の気をさっとそらしてから手を引いて二人で逃げ出してしまう。
不思議なことに、二人で逃げていると自然や通りすがりの動物がよく味方になってくれて、追っ手に追いつかれたことはなかった。
それにカーマインと手をつないでいる時のスカーレットは疲れを感じない。
自分が風にでもなったような気分だった。
野山に入れば食べられるものをすぐ見つけてくるし、安全で雨風をしのげ、それなりに快適に過ごせそうな寝床も探してきてくれる。水場だってすぐにわかるようだし、どれほど山奥森奥に入っても、街道の位置を間違えることがない。
カーマインと一緒にいると、赤毛のことを言われても以前ほどは気にしなくなった。
自分よりさらに色鮮やかな髪の彼が何を言われてもしれっとしているのを見ていると、卑屈な感情になるのが馬鹿らしくなってくる。元々スカーレットは楽観的な方だった。
髪を長くして隠していた痣のことも、少し変わった。
カーマインは度々彼女の前髪をかき上げて、痣の辺りを優しくなぞってくる。
最初はさすがの彼女もやめてと言いかけたが、彼があまりに真剣な顔で何かを訴えかけてくるので次第に任せるようになる。
何よりカーマインの掌は快い感触をもたらした。
触られているだけで痣が消えていくような、そんな錯覚すら覚えそうになるほどに。
一体どれほど旅で力になってもらったかわからない。
彼がいなければきっとスカーレットはとっくに旅の途中で挫折していたことだろう。
彼女はとても感謝していた。
一方で、何も語らぬ彼の正体についてますます疑問が膨らむ。
「ねえ、あなたって本当に何者なの? 妖精さんだったりする?」
冗談まじりにスカーレットが聞いてみると、彼は困ったような顔をした。
何かを言いたそうに口を開くが、そこから言葉はいつまで経っても出てこない。
スカーレットには彼が本当のところ何を考えているのかはさっぱりわからない。
けれど見知らぬ彼に、自分でも不思議なほど不審よりも好意の方が高まっていくのを感じていた。
「案外それも本当かもね。お兄様を探すために手伝いに来てくれたのよ。私の日頃の行いがよいおかげね。寝る前に毎日お祈りを欠かさない甲斐があったわ」
スカーレットは娘らしい空想を楽しそうに膨らませてカーマインに語って聞かせる。
青年は少々居心地が悪そうに、地面に何かを書いていた。
「またあの模様?」
のぞき込んで尋ねると、そのままじっと彼女の顔を見つめているが、しばらくすると足で消してしまう。
スカーレットはふと真面目な顔になった。
「あなたが話せれば、もっと色々なことが聞けるのに。それとも何も聞けないから、こうして一緒にいられるのかしら」
カーマインは目を伏せ、落書きに使っていた枝を折った。
彼は立ち上がり、どこか遠くの方を眺めている。
なんだかその横顔は、寂しそうに思えた。
旅は悪いことばかりでもない。二人でわけあって食べたり、町並みを歩いて歓声を上げたり、色々な話をしたり。道連れがいると、思い出はずっと華やかに、体験はずっと明るいものに変わった。
目的地まであと少しというところ、泊まった宿に吟遊詩人が来ていて、スカーレットは歌を歌ってもらうことにした。
カーマインの野生術のおかげで節約もできているため、路銀には多少余裕がある。
スカーレットは大いに楽しんでいたが、カーマインの方はいつも通り眠そうだ。
彼女がうっとり聞き入っている横で、こちらはうとうとしかけている。
――名前を呼んで、愛しい人。
けれど吟遊詩人がふとそう歌い上げた瞬間、彼ははっと青い目を見開き、姿勢を正した。
――あなたの言葉が、私の呪いを解くための鍵。
流れているのは流行の恋の歌だ。
恋の呪いにかかってしまった。どうか自分の名前を呼んで治してほしい。
そんなコテコテでありきたりな甘い歌詞を、吟遊詩人の美声が紡ぐ。
「カーマイン、どうかした?」
スカーレットがささやきかわしてみると、カーマインはぎこちなく、なんでもないとでも言うように首を横に振ってみる。
そわそわと落ち着かない彼の様子が気にかかっても、言葉を話さない、文字も書けない彼から聞き出す手段はない。
少し、歯がゆい。
(あなたの言葉が聞けたなら……)
スカーレットは胸の奥に切なく広がる思いを感じながら、感傷的な詩人の歌声に目を閉じた。
* * *
「しまった、なんか油断しちゃったのかなあ。風邪なんか引いたことなかったのに」
スカーレットはベッドの中でうめき声を上げている。
昨日珍しい体験に興奮して寒い場所で夜更かししていたせいか、それともここに来て慣れない旅の疲れが一気に出てしまったのか。
昨夜までピンピンしていたはずなのに、起きてみたらなんだか身体がだるく、熱が出ているようだった。
とにかくだるくて熱くて汗をかく。
重たい頭を動かしてぼんやり部屋を眺めると、カーマインがせっせと水を持ってきたり額のぬれタオルを変えたりと、甲斐甲斐しく世話をしてくれている。
時折朦朧とする中で起きると、食事が用意されていたり水が換えられていたりする。
今は何時だろう。
少しは気分がよくなってきたようだと起き上がろうとすると、カーマインがすっ飛んできてベッドの中に押し戻されてしまう。
ちょっぴり抗議しかけたスカーレットだったが、いつもぼっーっとしている彼に自分がしているようなことを、カーマインが見よう見まねで真似しているのを見ると、何か言う気なんて失せて温かい気持ちが広がる。
二人旅で本当によかった、とスカーレットは感じた。一人だったら心細くて仕方なかっただろう。
と同時にすっかりカーマインありきで行動している自分に、ほだされすぎているぞと一抹の危機感も覚える。既に十分手遅れな気はするが。
「カーマイン、うつしちゃうと悪いから、程々でいいからね」
咳き込みながら弱々しく声をかけると、彼はこっくりとうなずいた。
うなずいておいて、思いっきり接近し、ベッドサイドに椅子を持ってきて腰掛ける。
じーっと見られていると気恥ずかしい。
スカーレットは布団の中に潜り込もうとする。
「ほかのこと、してればいいのに……」
いつもなら威勢のよい明るい声も、今はすっかりしぼんでしおらしい。
カーマインはぷいっと横に顔をそらしてから、再びじっとスカーレットのことを見つめている。
彼女に従順なようで妙なところでたまに反抗心を見せてくるのだ。
いじわる、と彼女が呟くと、無表情がわずかにゆるんだ。
スカーレットの意識はそのままぼんやり流れていきそうになるが、ふと眠りに落ちていく直前、椅子がきしんだ音で注意が向く。
(どこか行くのかな)
心細いような、ほっとするような、少し矛盾した思いを抱きながらまどろんでいると、気配が近づいてくる。
(あれ、タオルさっき変えたばかりなのに)
心の中で首を捻っているスカーレットの額に、なにかひんやりしたものが当てられた。
熱のこもった身体に心地良い。
(……手?)
それは彼女の長い前髪をかき上げるように優しく動いたかと思うと、そのまま止まる。
ぎしりとベッドがきしんだ。
スカーレットと別の何かの体重を乗せた分、マットレスが沈み込む感触が伝わる。
また別の柔らかいものが、額に――ちょうど彼女が気にしている、痣の辺りに触れたのを感じた。
(カーマイン?)
柔らかな感触が額に何度も押し当てられ、そのたびに身体が軽く震えた。
けれど不快なものではなく、むしろどんどん楽になっていく。
スカーレットが夢うつつに手を伸ばすと、しっかりと受け止めるものがある。
彼女より大きくてがっしりした手が、安心させるように握り返してくる。
ほっ、と口から安堵のため息が漏れ出した。
うつろな彼女の視界に、赤と青が映り込んでいる。
それは空だった。昼の青空が徐々に徐々に暮れていき、やがて静かな夜がやってくる。
森が広がっていて、風が吹いていて、草原がさらさらと揺れていた。
地平線を何かがかけていく。
燃えるような赤に、スカーレットは待ってと呼びかけた。
一瞬立ち止まったそれは、振り返る。
遠いからか、夕暮れの逆光のせいか、姿は判然としない。
風が強く吹き始めて、身体が流される。
仰いだ夜空の星々が輝く。
何度も見た模様がそこに広がっていた。
(呼んで――)
誰かの声がする。
(名前を呼んで、スカーレット)
見知らぬ誰かの、よく知っている声がする。
目が覚めると、朝の日差しがカーテンの隙間から差し、小鳥の機嫌のよさそうな声が聞こえる。
スカーレットはぱっちり目を開いて、むくりと起き上がった。
身体はもうすっかり元の調子だ。
むしろ元より良くなっているぐらいかもしれない。
とりあえず顔を洗おう、と桶に水を溜めてのぞき込んだ彼女は、自分の喉がひゅっと鳴るのを感じた。
震える手で、前髪をかき上げる。
何度も何度もそこを触る。
水鏡には、多少見慣れた自分の顔が映っていて。
けれど額から、慣れ親しんでいたはずの痣がすっかり消え去っていたのだった。
「……カーマイン?」
異変を感じて呼びかけてみるが、部屋の中はしんとしていて何の動きもない。
「カーマイン! どこ!?」
夜中に出かけていくことはあっても、朝には必ずそこにいた者の気配が、今日だけは見当たらない。
唖然としたまま、ふとテーブルの上を見る。
二人で食べたベリー、特にスカーレットが美味しい美味しいと喜んだそれが、山盛りになっていた。
ふらふらと近づき、一つを口に運んで呟く。
「馬鹿、私一人じゃ、この量を食べきれないじゃない……」
ぽつりと机の上に、水滴がひとしずく落っこちていった。
* * *
いよいよ求めていた目的地に着いたはずなのに、気分が上がらないのは旅路が一人になってしまったからだろう。
スカーレットはとぼとぼ歩きながら、何度目かの重たい重たい息を吐き出してしまう。
「まあ、確かに私は、彼のことを知らなすぎたわね。なーんにも知らなかったわよね。ええ、そうですとも」
でも話せないし文字も書けない人からどうやって聞き出せってのよ、大体酷いじゃない、あそこまでしておいて急にいなくなるなんて……。
ぶつぶつ呟いて下ばかり見つめていた彼女だったが、おおい、と呼びかけられて一度足を止める。
ぐるりと不機嫌な顔を向けると、そこにいたのは見知らぬ農夫のようだった。
……なんだかこれだけのことなのに、浮き足立ってからがっかりしてしまう自分が憎い。
あんなちょっと出会ってちょっと別れただけ、ただの通りすがりのお友達的な関係、それだけだったはずなのに。
「こんにちは、よい天気ですね。どうかなさいました?」
頬をひっぱたきたくなる衝動を抑えつつスカーレットが朗らかに応じると、彼女の行く先を見て、男は眉をひそめる。
「あんた、森に入りなさるのかね? やめておきなさい。昔は優しい精霊が住んでいて、訪れた人を癒やしてくれていたが、ある日を境に様子が変わって、皆戻ってこなくなってしまった。今じゃ地元の人間だって、気味悪がって寄りつこうとしない」
彼女は行く先に広がっている森を見つめる。
遠くのこの丘からでも、なんだか鬱蒼としていてあまりよい雰囲気でないことが伝わってくる。
「あの。三年前ぐらいに、この辺りに男の人が来ませんでしたか。青い目で、黒髪で、背はこのぐらいの。私、その人を探しに来たんです。その人を見つけるまでは帰れないんです」
彼女を止められないと悟ったからだろうか、男は徒労を覚えた顔で首を振った。
「さあねえ、どうだったか。……ああそう、確かにいたぞ。忠告を聞かないで森に入っていって、案の定戻ってこなかった奴が。妹の身体を治すんだとか言ってたかな」
スカーレットはもう迷わなかった。
勢いよく両頬を叩いて活を入れてから、大股で森の中に入っていった。
「そういえばしばらく忘れていたけど、森って結構危ない場所だったんだわ……」
数時間後、脳天気娘は青ざめながらそんなことを口にしていた。
森に多少怒りを込め鼻息を荒くしながら足を踏み入れたはいいが、徐々に深まっていく闇や暗がりから聞こえてくる見知らぬ何かの気配は、彼女の些細な強気をすぐにくじいてしまった。
おまけに、ちょっと怖じ気づいて引き返そうとしたところ、まっすぐ進んでいただけのはずなのに、いつまで経っても元の出口に戻れない。
それどころかさらに奥地、より暗くよどんだ空気の方に近づいている気がする。
「沼とか木の枝とか、虫とか……ううっ、カーマイン、どうしてここで一緒にいてくれないのよぉ。出て行くにしても、タイミングに悪意がありすぎるでしょっ……」
最初の頃は毅然とひき結ばれていた唇も、明らかに迷子になっている状況をごまかせなくなってきてからゆるみ出し、今では弱音が垂れ流しだ。
明るく強気に振る舞ってみたところで生粋の箱入り娘である。仕方ないと言えば仕方ない。
もはや半べそをかきながら両手で寒気の絶えない腕をさすり、おそるおそる重たい足を前に出していたスカーレットだったが、急に進路から大きな物音がしてついに甲高い悲鳴を上げてしまう。
「くっ、来るなら来なさいよ! 今度こそ鍋を有効利用してやるんだから!」
腰こそ抜かさなかったが震えは止まらない。
それでもなんとか鍋をかざしてがるるると唸っている彼女の前に、ランタンを片手に持った人が姿を現した。
「あら、まあ。若い娘さんがこんな場所にお一人でどうなさったの? 危ないわよ?」
スカーレット同様、黒くてあまり身体のラインが出ないような服に身を包み、フードを被った妙齢の美しい女性だった。
思わぬ出現者に高まった緊張がぷしゅーと抜けていく音がするが、スカーレットは気を取り直して答えた。
「ええと、その、あの、人を探していたんですけど、私も迷ってしまったようで……」
「それは大変。ひとまず家に寄ってらっしゃいな。もうすぐ日も暮れるし、暗くなるとさらに危なくなりますよ。若い娘さんなんてひとたまりもないわ」
赤い唇が印象的な、妖しげな微笑みを浮かべる美女は、スカーレットがじっくり考える間もなく、くるりと身を翻してそのまま立ち去ってしまいそうになる。
「ま、待ってください!」
とにもかくにも不案内な場所で迷子なのだ、一人にされるのはまずい。
それに兄の行方を知るための貴重な証人になってくれるかもしれない相手、見失うのだけは絶対に避けたい。
スカーレットは転ばないように注意しながら、必死に女性の後を追った。
彼女は平然としているが、追いかけるこっちはあっちこっちにひっかかりそうになって災難だらけだ。
ちょっとぐらい待ってくれてもいいのにと思うが、こっちはいきなり転がり込んできた身、文句を言える立場ではない。
ぜーはー息を荒らげ、大変な思いをしながら女性を追いかけていくと、たどり着いたのは小さな木の小屋だった。その周辺だけほんのりと明るくて、開けている。
「入って頂戴。わざわざご足労いただいたんですもの、ささやかだけどおもてなしさせていただくわ」
促されるままスカーレットは家にお邪魔し、勧められた椅子に腰掛ける。
瞬間、ギャーッと叫び声が上がって心臓が止まるかと思った。
バタバタバタ、とせわしない音のする方に反射的に首を向けると、部屋の隅で鮮やかな青色の鳥が羽ばたいている。鳥籠の中で、スカーレットに向かって突進しようとしているらしかった。
「あらごめんなさい、失礼しちゃったわね。いつもは静かなんだけど。もう、駄目じゃない。お客様の前でしょ、大人しくしてて」
女性は苦笑し、籠ごと鳥を家の奥へ連れて行ってしまう。
しばらくは叫び声のような鳴き声が聞こえ続けていたが、そのうちふつっと途切れる。
まだ早まっている心臓をなんとかなだめようと、スカーレットは大きく呼吸を繰り返しながら家の中を見回した。
いかにも隠居所というか隠れ家というか、そんな雰囲気が漂い、こぢんまりとしている。
奇妙に明るい室内なのだが、さっきの鳥のことといい、どこか薄暗さが拭いきれない。
それはスカーレットが見たこともないような本らしきものや、何やらよくわからない素材らしい物が棚に陳列されているせいもあるのかもしれない。
「なあに、びっくりさせちゃった? そんな怖がることはないわよ、なんならちょっと見てみる?」
スカーレットが怯えて縮こまっているのを察してか、女性は笑い、本の一つを彼女の前に出してきた。
あまり気乗りせずおそるおそるのぞき込んだスカーレットだったが、カラフルな中身に思わずそのまま目を奪われる。
「これは何の絵なんですか?」
「絵じゃないわ、古代文字の一覧よ。でも半分は絵みたいなものかもね。規則性がわかれば、文字の形から意味が推測できるようになるの」
「わああ……」
「興味がある? なら教えてあげる」
女性は小さなティーカップに注いだクリーム色の飲み物をスカーレットに勧めながら、彼女が開いている本のページを指さす。
「たとえばこれは、太陽。こちらが月。これが星。こっちは色。これが赤。これは青」
「わああ……これは、ひょっとして鳥ですか?」
「そうよ。こっちが犬。猫……」
「こっちは川、こっちは山……」
文字当てに夢中になっているうちに、スカーレットは徐々に自分の瞼が重たくなってくるのを感じる。
「これは草原……これは木……」
「これが森……」
ページをめくりながら一緒に唱える女性の声がどこか歌うような抑揚に満ちている。
「おやすみなさい、お馬鹿さん……」
ささやき声を遠くに、スカーレットの意識は一度完全に闇に落ちた。
* * *
目が覚めた場所は牢だった。
無慈悲な鉄格子が自分を閉じ込めているのに気がつくと、スカーレットははっと飛び起きた。
「えっ、ちょっと、何が一体――どういうこと!?」
服は着たままだったが、手荷物の類いはすべてなくなっている。
混乱する彼女の前に、鉄格子から見える階段から女が高笑いして降りてくる。
「お目覚めになった? 気分はどう、野ウサギちゃん? それともニンジンちゃん?」
髪のことを言われているのだと悟り、スカーレットはきっと表情を硬くする。
「あの、私確か森で迷っていたところを助けていただいて、それはとっても感謝しているんですけど、こんな仕打ちを受けることをした覚えはないんですけれど」
抗議すると、女はフードを下ろし、顔を明らかにする。
彼女の髪はまるで老人のように真っ白で、彼女の目はまるで血のように赤かった。
「助けたと言うより誘い込んだのよ、わからない? あたくし、この森の支配者ですの。地元の人のありがたい忠告を無視して入ってきたお馬鹿さんをどう料理しようとあたくしの勝手。おわかりいただけるかしら?」
「……はっ! さては、私が森から出られなかったのも、飲み物に薬を盛ったのもっ――」
「そうよ、あたくしの仕業。魔女にはそのぐらいのことたやすいのよ。まんまとひっかかるなんて、あなたって本当にかわいこちゃんねえ!」
思いっきり小馬鹿にされたことに怒るスカーレットだが、いかんせんこっちは牢の中、持ち物はすべて没収済み、しかも勢いよく火に飛び込んだ羽虫のごとき我が所行はあちら様のおっしゃる通り、箱入り娘にこれ以上できる抵抗はない。
ぐぬぬ、と悔しさに震えていると、魔女はひとしきり笑い転げてからすっと真顔になる。
「さて、そうは言ってもあたくしにもできないことがあるの。野ウサギちゃんにはあたくしのために、これから朝晩毎日、働いてもらおうじゃないの、うふふふふふふふ……」
両手をわきわきさせながらにじりよってくる魔女に、本能的に危険を覚えたスカーレットはかじりついていた格子から離れ、めいっぱい牢の奥に退散しようとする。
「わ、私に何をするつもり!?」
「別に大したことではないのよ。ま、端的に言うと操り人形になって頂戴ってところね」
「私にとっては大したことだわ、嫌よそんなの、無理に決まってるでしょう! 大体私はここにシアン兄様を探しに来たんだから――」
「……シアンですって?」
スカーレットの言葉に、魔女の足がつかの間止まる。
次の瞬間、彼女は先ほどにも増して大声で腹を抱え、狂ったように笑い出す。
スカーレットはひるみそうになる自分を励まして魔女に怒鳴り返した。
「何がおかしいのよっ!」
「なるほどね、どうして若い娘がこんな森の奥までやってきたのかと思えば、あっははは、揃ってアホな兄妹だこと! ……でもそう、お前がスカーレット。確かに、反抗的なところがそっくり。ふふふ、調教し甲斐があるじゃない、当分退屈しなくてすみそうだわ」
魔女の赤い唇が半月のような弧を描き、すっと細められた目が鋭い刃のようなラインを描く。
スカーレットはぞっと背筋があわ立つのを感じた。
「あなたね、あなたが私のお兄様に何かしたのね! この――変態魔女!」
魔女は怪しく笑ったまま答えない。
スカーレットは牢の中を逃げようとしたが、いつの間にか彼女の周りに絡みついていた蔦のような物が自由を奪う。
もがいてふりほどこうとしてもびくともしない。
魔女は微笑みを浮かべ、一歩一歩と距離を詰めてくる。
どんなにスカーレットが暴れても形勢は変わらない。
じわりじわりと彼女をなぶるための糸が絞められていく。
もう駄目だ……。
心が折れそうになる寸前、最後の望みにすがるように、自然と一つの名前が胸に灯り、唇からふっと漏れ出した。
ずっと一緒だった。二人なら何も怖くなかった。兄とじいや、家族以外で初めて赤毛を嫌がらないでくれた、痣を気味悪がらないでくれた、優しくしてくれた、少し抜けているけど、頼りになって、温かい見知らぬ人。
――あの時、街道はずれた山奥で、突然現れて山賊達から救ってくれたときのように。
(カーマイン……)
そのごくごく小さい呼び声に応えるように、バーンと壁を破壊する大きな音が響き渡った。
スカーレットの右後ろの辺りの壁が外側から破られ、崩れたのだ。
スカーレットは身体が投げ出され、硬い床に打ち付けられる。
土煙に咳き込みながら間近で響いた轟音にくらつく頭を押さえ、ゆっくり顔を上げた。
ぼやけた視界には、見覚えのある鮮やかな赤色が映っている。
「カーマイン、来てくれたの――!」
嬉しくて上がった声はすぐに悲鳴へ変わり、スカーレットは息を呑む。
怪力や不思議な力を誇ったカーマインは、最初は魔女を押さえ込んで馬乗りになっていたが、腹の辺りを蹴っ飛ばされて吹っ飛んでしまう。無表情な彼がぐっとこらえるように眉に力を入れたのが見えた。
「カーマイン!」
かっ、と素早く魔女が何かを掲げ、白い光が走った。
すると立ち上がって次の攻撃をしようとしていたカーマインが突如白目を剥いてひっくり返り、胸を押さえて激しく苦しみ出す。
「お前にまでまた会えるとは、なんていい日だろう! しかし馬鹿な子だね、逃げたんならそのままにしとけばよかったのに、のこのことあたくしの前まで戻ってくるとは!」
乱れた白髪をくしけずり、血のにじんだ唇をびっと指で乱暴に拭ってから、魔女はらんらんと光るまなざしを青年に向ける。
その片手には淡く白い光を放つ丸い水晶玉が握られていた。
「わかっているだろう? お前はこれがある限り、あたくしに逆らえない。不意打ちして先に壊してしまえばとも思ったようだが、残念だったねえ。もっとも、その状態で水晶を破壊すれば、お前は永遠に元の姿に戻れない。本当に馬鹿な子だこと!」
あざ笑う魔女を、胸を押さえ、額に脂汗を浮かべながら青年が睨みつける。
「カーマイン、しっかりして! どうして――」
スカーレットが駆け寄ると、彼はもがき、まるで許しを請うように彼女に向かって頭を垂れ、額を掌に押し当てる。それから胸を押さえているのと逆の手で、離れろとでも言うような、制する仕草をした。
(自分がこんなにボロボロなのに、魔女から庇おうとしてくれている――)
スカーレットは胸の奥がかっと熱くなった。
「せっかくだから野ウサギちゃんにも教えてあげようかねえ。その男は元々あたくしのペットだった。この地下牢で飼っていてあげたの。それなのにある日やってきた旅の男――あんたのお兄様、シアンが外に逃がしてしまったの。あいつには優しくしてやったのに、恩を仇で返すなんて本当に業腹だわ。でもあたくし、ちゃんと彼を罰してあげたし、手元に戻ってきたどころかお土産まで盛ってきてくれたんだから、あなたのことも許してあげる。どうせお前、あのシスコンに自分の代わりに妹を守ってくれとでも言われて、律儀に約束を果たしたつもりだったんでしょう? 本当に、馬鹿な奴!」
体勢をすっかり立て直し、己の勝利を確信したらしい魔女が、余裕たっぷりに二人を見比べると邪悪な微笑みを深め、聞いてもいないことを饒舌に語り出す。
けれどこれでようやく、まったくわからなかった青年の事情が明らかになった。
スカーレットはカーマインの横顔をまじまじと見る。
(そう……だったの? あなたが私をずっと守ってくれたのは、お兄様に頼まれたから――)
カーマインは静かに魔女をにらみ続けているが、相変わらず胸に手を当てたまま、眉間から皺が取る様子がない。
魔女は聞き苦しい笑い声を漏らしながら、高らかに水晶玉を掲げた。
「諦めな、お前の正体を知っているのはあたくしだけ! お前はあたくしに従うしかない! さあ、娘を取り押さえるのです――お前のその手で、あたくしにささげるがよい!」
カーマインの顔がより一層苦悶にゆがむ。
しかし彼の両手はゆっくりと動いてスカーレットの腕をつかみ、魔女から遠ざけようとしていた動きは差し出すものになる。
「カーマイン、しっかりして……!」
「さあスカーレット、お前もあたくしのものになるんだよ! 水晶玉をじっくり見るんだ。あたくしの操り人形になれ――!」
「いやー!」
今度こそ、今度こそ、本当にもう駄目だ。
スカーレットは涙目になりながら叫ぶ。
ここまでそれなりに苦労して長旅をしてきたのに、お兄様は変態魔女の餌食になってたらしく、頼みのカーマインもこんな有様、しかも私自身魔女から怪しげな秘術をかけられそうになって――こんなのもうどうあがいても屈するしかないじゃない! やるわよ、やってやるわよ!
前向きなんだか後ろ向きなんだかわからない覚悟を決め、そのときを待つスカーレットだったが、自分の心や身体が変化する様子はいつまで経ってもやってこない。
(……あ、あれっ?)
操り人形とか言われたから自分の意識がなくなったり、魔女様万歳方向に目覚めたり、果ては意識は保たれたまま身体だけ好きにされてしまう展開も妄想してみたが、どの状態にも変わる気配がない。
と、困惑している最中に突然魔女が不気味に笑ったので、思わずびくっとしてしまった。
「フッフッフッフッフ……さあ、もういいでしょう。スカーレット。まずあたくしのお人形になった証しに、くるっと可愛く回ってごらん」
(くるっと? え、くるっ!?)
カーマインの拘束がゆるみ、スカーレットはふらふらと立ち上がった。
混乱した頭のまま、ひとまず言われた通りにその場で一回転してみる。
「オーッホッホッホ! 魔法は成功したみたいね、これでこの若い娘もあたくしのものよ!」
(……うーん?)
彼女は全力で真顔を保ちながら、必死に思考を整理する。
(つまりこれはたぶん……効いてないんだよね、魔法が)
こんなに自信満々に浸っている本人の前で逆に申し訳なさすら感じてくるが、スカーレットは相変わらず自分の意思で動けるし、そこに何の妨げもない。
(一体どういう――何が起きて――)
はしゃいで何やら歌まで歌い出している魔女に気がつかれないよう、慎重に状況を探ろうとするスカーレットは、目の端でカーマインがじっとこちらを眺めているのを察知する。
彼の何か、言いたそうなまなざし。
ものすごくこう、何か語りかけている目。
気がつけよ馬鹿! とでも言いたそうなあの感じ。
(……あっ!?)
その瞬間、スカーレットの頭の中にひらめいたものがあった。
彼女は思わず声を上げそうになるが、すんでのところでとどまる。
脳裏に浮かぶのは、旅の出来事。
(最初は、そう――お尻が痛くなくなった。尻餅をついたのだけど)
カーマインが跪くように彼女の足に額を押し当てた時から。
(次は……カーマインと手をつないでいると、どれだけ走っていても疲れない)
そうやって何度も追っ手をまいた。
最初は自分の脚力やテンションが上がった結果起きた奇跡だと思っていたが、冷静に考えるとちょっとその理屈は強引すぎる。
(極めつけが、一晩で消えた熱と、なくなった額の痣)
熱でうなされてはいたものの、確かに触れ合った感触を覚えている。
カーマインはあの時、まるで逃げるように姿を消した。
乙女の矜持が傷つく非情な行いだったが、今ならなんとなく理由がわかる。
彼は魔女に見つかることを恐れたのだろう。自分自身も、スカーレットのことも。
(私のために力を使ったから。そして……)
ついさっき。
魔女に突き飛ばされた彼を心配して駆け寄ったスカーレットの差し出した手に、カーマインは額を押しつけてきた。
その瞬間から、胸が熱くなって……。
(そうか。カーマインが、私を守ってくれたんだ! また……)
胸の奥は熱を保ったまま、頭が急速に冷えていく。
ようやく魔女の歌声がやんだ。
カーマインは彫像のように動かない。
スカーレットは魔女に呼ばれると、慌ててうつろな表情を取り繕い、顔を上げた。
「さあ、スカーレット。ついていらっしゃい。あたくしは祝杯を上げたいの。ワインでも買ってきてもらおうじゃない。……返事は?」
「……あ、はいっ、ご主人様!」
冷や汗を垂らしながらスカーレットは答えた。
幸いにも魔女は悪の成功と勝利の余韻に未だ浸りきっており、細かいことにはまったく目が届いていない様子だ。
(隙だらけのアホな魔女様でよかった……!)
心の中で歓声を上げながら、しかしスカーレットは調子に乗りそうになる自分を全力でとどめる。
「よろしい、上出来だわ。さて、上に行かないと……その前にちょっとこの辺を片付けないといけないかしらね」
油断しきった魔女は、たぶんカーマインに殴られた傷が気に入らないのだろう。手鏡を取り出してせっせと顔を治している。
スカーレットはその背中にじりじりとにじりよっていった。
カーマインが身を削って作ってくれた、たぶん一度きりのチャンス。
彼女は今までの記憶をたぐる。
(もしかして……喋れない?)
(なあにそれ、手品? 何を描いたの? 私見たことないわ、その模様)
(またあの模様?)
(これは何の絵なんですか?)
(絵じゃないわ、古代文字の一覧よ。でも半分は絵みたいなものかもね。規則性がわかれば、文字の形から意味が推測できるようになるの)
(わかっているだろう? お前はこれがある限り、あたくしに逆らえない)
(諦めな、お前の正体を知っているのはあたくしだけ!)
――名前を呼んで、愛しい人。
――あなたの言葉が、私の呪いを解くための鍵。
スカーレットは息を吸う。
さすがに何か感じ取ったかもしれない、魔女が振り返るその瞬間。
飛びかかって、懐の水晶玉をつかみ取って、魔女が何かを言う前に、何よりも素早く、唱える!
「元に戻れ、『夜明けの深紅』!」
スカーレットが叫んだ瞬間、二つの音が響き渡る。
一つは前方から金切り声。魔女の悲鳴。
もう一つは後ろから。蹄が鳴り響く音と、たくましい、いななきの声。
スカーレットが振り返る。
牢の中にうずくまっていたはずの赤髪の青年の姿は消え、代わりにその場所には一頭の馬が立っていた。
燃えるような色のたてがみに、澄んだ青い目、体躯は白く――そして、頭から一本の角が生えていた。
ユニコーンは二度ほど前足の感触を確かめるようにかいてから、地を蹴る。
勇ましくありつつも優雅なその動きは、反射的に身をかがめたスカーレットを越え、彼女か、ユニコーンか、どちらに向かって対処するか迷った結果反応が遅れた魔女に向かって飛びかかる。
ユニコーンのまっすぐ頭から伸びた角が、ずぶりと魔女の胸に深く突き刺さった。
「おのれえっ、魔獣ごときに、あたくしが、このあたくしがぁっ――!」
呪詛の言葉を吐きながら、魔法を破られた魔女の姿が消えていく。
美しい女性は、あっという間にしわがれた老婆へと変じ、不自然にしぼんだかと思うと膨張し――そして、破裂音と共に煙となって跡形もなく霧散した。
「……や、やったの?」
緊張で力が入っているのだろうか、カチカチと歯が当たる音をさせてしまうスカーレットを励ますように、一角獣は優美な鼻面を押しつけてくる。
彼女は少し迷ってから、おずおずとその大きな顔に手を当てた。
「カーマイン……じゃなくて、『夜明けの深紅』?」
獣は応じるようにぶるると鼻を鳴らした。
何度も額をこすりつけてくる動き……それにようやく、スカーレットは目の前の獣とかつて一緒に旅をしていた青年の姿を結びつける。
喜びを全身で表そうとした彼女だが、ふと部屋のとびらの向こうから聞こえてきた不穏な音に、抱きつこうとしていた動きを止める。
「スカーレット、スカーレット! どこにいるんだい!?」
「……おかしいわ、あの声にはとても聞き覚えがあるのだけど。シアン兄様の声よ」
一角獣に向かって首をかしげながらスカーレットが話しかけていると、どたどた家の中を走り回る音がして、勢いよく扉が開かれる。
「スカーレット、無事か!」
「シアン兄様!?」
探していた行方不明の兄を見つけ、スカーレットは今度こそ躊躇なく飛び込んでいく。
シアンの方も両手を広げて妹をしっかり受け止め、何度も何度も頬ずりした。
「無事だったのね、よかった!」
「それはこっちの台詞だ! まったくあの魔女め、人のことを小鳥に変えるなんてとんでもない奴だ。お前がどんな酷い目に遭わされるかと、お兄ちゃんは心配で心配で――」
スカーレットはそれでようやく気がついた。
魔女の家に入ってきたときに大騒ぎしていたあの鳥こそ、シアンその人だったということを。
「でも元に戻れてよかったわ」
「まったくだ、一体全体どうして――いてっ、おっと、なんだ!?」
シアンは唐突にうめくと脇腹辺りを押さえて顔をしかめ、振り返る。
なんだか不満そうな顔の一角獣がシアンのことをどついており、彼の注意がようやく自分に向くと鼻を鳴らした。
少しだけいぶかしげに眉をひそめていたシアンだったが、赤い髪と青い目を見比べて歓声を上げる。
「やあ、ひょっとして、お前はあの時の! なるほど、本当はそういう格好をしていたんだなあ。魔女に酷い目に遭わされてたみたいだから逃がしたけど、その後どうなったか心配してたんだ、何せこっちはすぐ捕まっちゃったから。もしかして、約束通りずっと妹を守っていてくれたのかい?」
ぶるる、と誇らしげに一角獣が鼻を鳴らした。
くしゃくしゃと顔をゆがめるシアンに、スカーレットも言葉を重ねる。
「そうよ、お兄様。カーマインがいなかったら私、今頃どうなっていたか。見て、痣もなくなったの。全部彼のおかげよ。本当に、全部……」
「カーマイン……ありがとう。本当に、ありがとう」
シアンは妹にしたように一角獣に抱擁しようとしたが、するりとかわされてしまう。
しれっとした顔で兄を無視したカーマインは妹のようにすり寄っていって、撫でてくれと言うように頭を何度も振っている。
魔女がいなくなったおかげか、すっかりと明るくなった森にさまよい出た、二人の笑い声が響き渡る――。
楽しいだけの時はいつまでも続かない。
兄妹が家に帰る話をし始めると、とたんに一角獣はしょんぼりした顔になった。
「お兄様、カーマインを一緒には連れて行けない?」
「人間の時の姿なら……でも今のまま連れて行ったら、彼は見世物にされてしまうよ。一角獣の角は、不老不死や万病治癒の薬として名高い。……お互いにとって、不幸な結果になってしまうと思う」
せっかく再会できたのに。
肩を落とすスカーレットに、カーマインはしばし表情をくるくる変化させた後、優しく呼びかけた。
「僕からこの提案をするのは実に腹立たしいが――その。どうしても離れたくないと言うなら、スカーレット、君が残る手もある。彼には恩があるし……大切な人なんだろう」
スカーレットは兄と一角獣を見比べて、思い詰めたような顔をしている。
カーマインもまたしばらく彼女を見つめていたが、一歩、二歩と下がったかと思うと、森の中に行ってしまおうとする。
「カーマイン、待って!」
スカーレットが呼びかけると、一度だけ足を止める。
けれどすぐに、未練を断ち切るように頭を振ってから、赤いたてがみの一角獣は森の中に走り去っていく。
手を伸ばしたまま呆然とするスカーレットに、シアンが声をかけた。
「さあ、スカーレット……僕達も、帰ろう」
森の中を疾走していたユニコーンは、そのうちに速度を落とし、とぼとぼ歩き、やがて完全に立ち止まる。
すると彼の周りにみるみるうちに白い霧が立ちこめ、あの水晶玉がふわふわと飛んできて顔の前で止まる。
「まったく、えらい災難だったな、息子よ」
どろんと水晶玉から音を立てて現れたのは、小人のような姿をしている森の精霊である。
水晶に力ごと封じられていた小さな老人は、うーんと伸びをしてから腰を叩く。
「わしも今回は反省したぞ、さすがに。しばらくは森を閉ざして人が入ってこられないようにしよう。またあの女のような輩にだまされて、力を悪用されんとも限らんからな。しかし魔女め、わしがお返しに森から出られなくしてやったせいで随分と楽しい思いをしとったようじゃないか、ひょーっひょっひょ……いやすまん、息子よすまん。ふがいない父でホントすまん、許せ許せ」
水晶玉に閉じ込められてたあんたはともかく、人間にされてこき使われてたこっちは大変だったんだぞ! とぐいぐい鋭い角の切っ先を押しつけて主張する息子に、森の精霊はごくごく軽い調子で謝った。
すぐ息子から元気がなくなるのを見て取ると、老人は豊かなあごひげを撫でつつ独り言のように言う。
「しかし、あの兄妹のように、驚くほど優しく親切な者もいるから人間は見捨てきれぬ。特にあのお嬢さんはの、ハラハラもさせられたが、ちゃんとお前の声なき言葉を理解してくれよったわ。のう、せがれや。お前が望むのなら、まあ長い間苦労をかけてしまったことだし、わしはもう一肌ぐらい脱いでもよいのだがのう。魔女の力では不完全な変化でも、わしならもっとちゃんと人の姿に変えることができる。お前はどうしたいんじゃ。このままでいいのかの。ド真面目なのは構わんが、たまにはわがままを言ってくれてもいいんじゃよ――」
森を後に、どこか浮かない顔で家路を歩く兄妹が、ふと足を止める。
気のせいかと最初は思っていたが、すぐに声は明瞭に、くっきりと二人の耳に届くようになる。
「スカーレット!」
聞こえてくるのは青年の声だ。
聞き覚えがないはずのそれに、兄はピンと眉を跳ね上げると、呆然とたたずむ妹の背中をちょんと押して自分は数歩後ろに下がり、ついでにくるっとまったく明後日の方向に身体ごと向き直ってしまった。
ふらふらと力なく前に進んだスカーレットに、森から出てきた赤髪の青年が追いついてくる。
無表情が普通の顔だったはずの彼は、今や喜色を満面に浮かべ、ぴょんぴょんと跳ね飛びそうな勢いでスカーレットに抱きついた。
「スカーレット、俺だ、カーマインだ! ……それとも、その。声とか、何か変かな?」
いまいち鈍い彼女の反応に、浮き立つ心が沈みかける。
スカーレットは信じられない、という顔でカーマインの頬をぺちぺちやっていたが、彼が優しく彼女の元痣のあった辺りに口付けると、身体のこわばりがあっという間に解けた。
「ああ……カーマイン! 夢じゃないのね!」
今度こそ、もう離さないとでも言うように熱烈に抱き合った二人は、やがてわざとらしいシアンの咳払いが邪魔しに来るまで、お互いを堪能し尽くしたのだった。