冷蔵庫の話
何も特別なことなどないような日常を過ごしているようで、実は我々の生活の中には常に不思議なことが起きているのだ。
たとえば、テレビのリモコンがいつの間にか消えてしまう現象や脚立を使い初めて掃除するはずのクーラーの上に髪の毛が落ちている現象。
バターを塗ったパンを落とすとバターの面から落ちることはもはや当然の事実として衆知されているようにさえ思われる。
今回は、そんな不思議な日常的な、様々な現象と戦う一人の青年についての話をしようと思う。
彼は大学の1年生で、大学から一人暮らしを始めた、仕送りが少ないからバイトしたいけどどうにもやる気が起きない。が口癖の、ラム酒と古びたスーツが好きな、なんの変哲もない青年である。
名前を、O氏とでもしておこう。
彼の通う大学は少々通常とは毛並みが違っており、多方似たような志の者達が集う、言わば専門学校に近い大学であった。
そんな大学生の物語である。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝にしてはすでに高く日が昇った頃に起床した。
毎度のことである。この水曜日という日は、大学の講義が昼からなのだ。
つまりこの日に限っては、私の朝は昼前ということになる。
大学に近い下宿とは、なんと便利なことか。
もちろん、私にとっての火曜日の夜とは、世界にとっての朝方のことであるのは言うまでもないであろう。
昨日の夜は盛り上がった。
久しぶりに将棋のネット対戦に潜り込み、なかなかの指し手と出会ったのだ。
終盤など、お互いが長考に次ぐ長考を繰り広げ、時間的にもこれは相手寝てるな、など何度思わされただろうか。
実際私も三十分程意識が遠のいていたが、夢うつつの頭で指した一手は偶然にも神の一手であった。
それまでの劣勢を一度で跳ね返し、王手までノンストップで駆け上がる……という夢を見たまでは良かったのだが、やはりぼんやりした頭で将棋など指すものではない。
ましてやラムを飲みながらなど……大敗であった。
相手に失礼であったことを認めよう。
そして、次は水も用意すると誓う。
学舎へ向かう準備をしながら机の上をちらりと見やる。
大敗による失意のまま何も片付けせずに睡眠へと入った私を物語るように、そこには昨日の戦いの後が分かりやすく残されていた。
スリープモードのノートパソコンと、ハバナ7年。このラムは実に良い。
最高ではないが、日本で買いやすいものとしては最高峰のラムだと自信を持って言える一品である。
香り高く、後味もしつこくなく、なにより甘い。
大学の友人でありセントルシア人の父を持つB氏が以前持ってきた現地のラム――チェアーマンズリザーブ――も素晴らしく良かったが、私としてはこの馴染み深いラムを推すところである。
そして、ラムに合わせたチョコクッキー。
ラムにはチョコが合うのだ。
まぁ、ウィスキーにもチョコは素晴らしく良いが。
箱から出したままにしてあったからな……湿気てしまっているだろうか。
一つ試してみよう。
………ん?
これは……あ、ダメだこれ。
カビてしまっている。
というより、ネチョっと……これは腐っているというべきなのだろうか。
なんにせよ、これはいかん。
お腹を壊してしまいそうである。
クッキーを箱ごと破棄し、そろそろ家を出るかと部屋を見回す。
ガスの元栓はもちろんのこと、各部屋の電気も確認し、重要なのが冷蔵庫である。
この冷蔵庫、どうやらドアが締まりにくいらしく、帰ってきた時に開いていることがある。
中のものが冷えないことや腐ってしまうことが多数報告されているのだ。
報告者はもちろん私である。
ガムテープでドアを貼り付けて外出した時にも中身が腐ったためもう半分あきらめているのだが、飲み物だけはきちんと冷える。ということで、飲み物専用冷却器として活躍してもらっているのである。
あと、氷も作れる!
さて、流石にこれ以上のんびりしているわけにもいかない。
昼からの講義は内容よりも出席が重要なのだ。
出席さえしてしまえばあとは寝ようが退出しようが、自由なのである。なんと意味のない講義であろう……。
愛用のスーツの上着に腕を通し、ネクタイを確認する。
よし、少々くたびれてはいるが、いつものスタイルだ。
時々私のこの身なりを見て、塾講師か家庭教師でもしてるのかと聞いてくる者がいるが、ただのスーツ好きである。
しかもくたびれた。
四角いビジネスバッグを持ち、準備は完了。
今日は昼前まで寝ることができたが、そもそも寝たのが朝方である。今日も眠たい。
つまり毎日と何も変わらない。
絶好調である。
学舎には3つのコースがあって、そのうち一つでは更に2つに分岐している。
その分岐の先の一つである教室に入り、いつもの席、最前席へと着席する。
真面目なわけではない。
目が悪いのだ。
わかりやすい文明の利器であるところのつまりスマホによる爆弾を敷き詰め追い込み敵を焼くという猟奇的なゲームに夢中になっていると、隣からガタ、という音。
珍しく最前席に誰か座るらしい。
最前席は教壇よりも少し低いところにあり、講師の位置加減では実は教壇から見えにくかったりする。
実力があるなら、隠れた睡眠スポットでもあるのだ。
このような場所をピンポイントで攻めてくるとは、よほどの睡眠不足なのか?
と、顔を上げればK氏であった。
K氏とは大学の合宿以来の友人であり、私のハバナ7年愛を真摯に受け止め、彼自身もラムに目覚め、そして彼のジブリに対する愛の話を肴に語り合ったこともある仲である。
こんな席になぜ? と聞けば、君がいたからだとの答え。
なんとも、泣かせるではないか。
なんの変哲もない、近況を報告し合う。
最近、どうやら留年の危機にあること、
気がついたら妹が高校3年生になっていたこと。
帰りの道に饅頭屋があり、毎日買っていたら店のおじいさんがひとつおまけでくれるようになったこと。
部屋においていたクッキーが一晩で腐ったこと。
少し前に洗濯物にポケットティッシュを混ぜてしまって、取り除くのに多大な苦労をしたこと。
冷蔵庫が何故か冷えないこと。
飲み物だけは冷えるので、飲み物クーラーとして使っていること。氷は作れること。
昨日将棋で神の一手の夢を見たこと。
などなど。
すべての話が私としては大きなニュースであったのだが、K氏が反応したのはクッキーと冷蔵庫であった。
曰く、昨日の晩には食べられていたクッキーが腐るのはありえなく無いか?
曰く、飲み物は冷えるのに他は冷えない? 腐るってのはどう考えてもおかしい。
曰く、氷は腐ら……ないよな?でも、なにか……怪しさを感じる。
基本的にK氏は人をあえて不安がらせるような人物ではない。
私は、今私の家で起きている現象に ''彼が興味を持った'' ということに興味を持った。
考えてみれば確かに、通常腐るようなものではないものが、一晩で腐る。というのはあまりにもおかしい。
それに冷蔵庫。飲み物が冷えることは確認済みだ。
ならば、他のものが冷えない理由は一体。
K氏の言うとおり、その状態で氷は順調に作られるというのはなんとも違和感がある。水だからか。だが氷は水じゃない……はず……。
こんがらがってきた……。
学部は理系だが、頭は文系なのだ。
こういう分子やら電子やらが出てくる話には弱いのだ。
……まだ小学生の理科の授業の範囲だという指摘は、甘んじて受けよう。
講義はつつが無く終わった。
K氏は結局、あの会話以降ひたすら惰眠を貪っていた。
その貪り具合たるやそれはもうバリバリむしゃむしゃと、こちらまで擬音が聞こえてくるほどであった。
私とは言うと、冷蔵庫の謎が頭から離れず、講義の内容は何も頭に入っては来なかったのである。
……今日も何も書かなかったな。
そろそろ前期も半分が過ぎるいうのにまっさらのノートをかばんにしまい、帰ったら冷蔵庫をよく調べようという決意とともに歩き出す。
帰ろうや!
いつの間に起きたのか。K氏が並んでくる。
さすが、なにも机に出さずただ寝ていただけの男は、ただ立つだけで帰り支度が整うのだ。
帰ったら冷蔵庫調べるんやろ?
そこはかとなく怪しいよな……。
買ったやつなん?
いや、下宿に備え付けのもの。
勝手に変えるわけにもいかないし、それで困ってるんだよ。
案外、電源抜けてるだけとかやったりして?w
まぁでも、それやと氷もできないもんな。
内部のスイッチかなぁ。
一応飲み物が冷えるから、電源をあえて確認したことはないかな。
裏にあるから見ることもできないと思う。
内部のスイッチなんてあるの?
あれ、知らない?
外国のホテルとか、部屋入ったらまず冷蔵庫の電源と内部のつまみの確認が大事なんやで?
――――他愛のない会話。
何も考えずこういった会話ができるってことは、きっと平和なんだろうと、時々、思う。
でも、ラムを飲んだ時の自分はとても感傷的になるので、つまり毎日思っているのだ。
じゃあ、俺こっちやから。
駅の近くで別れる。
彼は実家からだ。
家が大学に近いと、それだけで金銭的には余裕が出る。
K氏ならきっと、冷蔵庫の買い替えも、きっと迷わないだろうなぁ。
海沿いの道を東へ歩く。
この街は南に海があり、北に山がある。
どんな素人でも顔を上げれば方角が分かる便利な街なのだ。
街の中心は西側で、ほぼ全てをそこに集めているせいなのか知らないが地元民であるK氏はよく、他の場所は田舎だと自虐する。
歩いてみればよくわかる。
なるほどこれは、田舎であろう。
途中、線路沿いに出る。
なんとこの街では、海岸に平行に、海側、山側、その真ん中の三本も電車が通っているのだ。
目的地や駅の位置はほとんど変わらない。
私鉄とは自由なのである。
部屋についた私を待っていたのは、妙な沈黙であった。
普段は線路を走る電車の音が常にと言っていいほど聞こえてくるのだが、今はそれがないからであろう。
時刻は1500付近。
水曜日はいつもこうである。
昼前に起き、大学から帰ってくれば1500。
そして、あまりの学生生活の刺激のなさか、いつもこの数時間の記憶がほとんどないのだ。
無意識と習慣とは恐ろしいものである。
しかし、今日に限っては確かな記憶がある。
冷蔵庫だ。
前に立ち、腕を組み考える。
私はあまり何事も疑わない主義だ。
この冷蔵庫も、原因がどうかなどと深く考えず、そういうものなのだという認識でやってきていたが、今日第三者からの疑惑の視点を得たことにより先に進めそうである。
まずは……3時なんだ。お茶にしよう。
そういえば、飲み物に関する私の興味の8割はラム酒に注がれているのだが、残り2割はというと、まさかの紅茶なのである。
今日は何にしようか。
無難に馴染みのものを飲んでも良いが、こんな日だ。
新しいことに挑戦する意味でも、普段飲まない紅茶にしよう。
マカイバリ フェアトレードダージリン
日本ではあまり売っていない紅茶だ。
冷えても全く劣化しない。
んでもかんでも無責任に批評する、紅茶歴たった数年の私が、責任をもって完全に美味しいといえる珍しい紅茶なのだ。
あまりに特別すぎて飲む機会がなくただ劣化していくだけの寂しい状況であったのだ。
今日のように日が来たことに、おそらく私以上にこのお茶の葉が喜んでいるに違いない。
ティーパックを破り茶葉を取り出す、3gだ。
そこに沸騰したてのお湯を160cc注ぎ、3分蒸らす。
ゴールデンルールである。
もし、ミルクを入れるときは先にカップに入れておくのがルールだ。
イギリスの紅茶といえばミルクティーである。
つまり、イングリッシュの紅茶を完璧に楽しむのなら、ミルクティーで飲むべきなのかもしれない。
などとイングリッシュガーデンでユニオンジャック柄の軍服を着ながらロイヤルファミリーっぽい人とミルクティーを嗜む紳士に思いを馳せる。……ちょっとイメージ混ぜすぎてる。
イングリッシュティーのお茶菓子と言えばスコーンだが、当然腐ってしまうので無しだ。
ここがこの部屋の一番の欠点かもしれないな……。
熱い紅茶が、私の心に落ち着きを与える。
よく考えれば、K氏に指摘されたからといって焦りすぎていたのではなかろうか。
あの現象はこれまでずっと起きてきた。
しかし、私はうまく付き合ってきたではないか。
たしかに困ってはいるが、すぐにどうこうという話ではないはずだ。
落ち着こう。
視点を広く取ることは、落ち着くことにつながる。
焦っているときは目の前しか見えないが、一歩引いて大きく視野を広げてみれば、また違うものが見えてくるものである。
冷蔵庫から目を離し、部屋を見回す。
一言で言うならば、ボロい。
色が茶色と白しか見当たらない。
良く言えば落ち着きのある部屋だろう。
悪く言うならば……いや、これはいいだろう。
窓の向こうに、山が見える。
あの山は夜行くととても良い。
この街の夜景は、なかなかの絶景なのだ。
毎年、あの夜景を見るためだけに他県から来ている人もいるという。
私も一度登ったことがあるのだが、空に輝く小さな、それでいて大きな星と、地上に伸びる大きく、ただ小さな建物の光の対比は素晴らしかったものだ。
随分と落ち着いてきた。
紅茶が美味い。すでに4杯目である。
ラムも良いが、昼はやはり紅茶だな。
……といってもどうやらのんびりしすぎたようだ。
日が陰ってきている。
冷蔵庫などもはやどうでもよく……いや、せめて電源ぐらいは確認しておくか。
まぁ……その前に夕食の買い出しだな。
決して、先延ばしにしているわけではない。
ただあの無駄に重そうな冷蔵庫を、ただ電源の確認のためだけに動かすのかと思うと気が滅入るだけである。
体を動かすのは苦手なのだ。
…………さて、シャワーを浴びて、夕食も食べた。
残すところ睡眠のみという幸せな状況である。
冷蔵庫を見やる。
何も変わったことはない。
当然だ、今日はまだ一度も触っていないのだから。
夕食は結局、買い出しのついでに食べてきてしまった。
ふと見やったラーメン屋がどうにも美味しそうに見えたのだ。
味の問題ではない。
我が胃が選んだのだ。
まぁつまり、なんの意味もない買い出しをしてしまったわけである。
冷蔵庫に手をかける。
軽く動かそうとするが、やはりびくともしない。もしかして固定されてるんじゃないか。
私の胸の高さほどの中途半端な大きさの冷蔵庫だ。
抱きかかえる形で、冷蔵庫の背と壁の間に指をかけ、思いっきり引く。
ほぼピッチリ壁についているため指をかける隙間が無く、指先に力がかかる。
とても痛い。
なぜ私がこんなことを……という思いが頭をかすめるが、この家には私しかいないのである。
私以外は、このようなこと、する必要はないのであった。
全力で引いた。僅かに動いた。
固定されていないことに安心感。しかし、これは長期戦になりそうである。
その後数度全力を出した結果、どうにか覗き込む程度の隙間ができた。
早速のぞき込んで見る。が、暗くてよく見えない。
それでも壁を凝視するが、どうやら壁に何かが付いている様子はない。
私としては、冷蔵庫から壁までコードが伸びているべきだと思ったのだが……。
これはつまり………電源が、刺さっていなかった?
脳裏に、私の姿が映る。
電源の入っていない冷蔵庫から氷を取り出す自分の姿。
背筋が、ゾワッと冷えた。
私はこれまで、電源が入っていない冷蔵庫を使っていたのか?
ではあの氷はどこから出てきていたのだ……。
K氏が言っていたとおり、この冷蔵庫は何かおかしいのかもしれない。
……いや、よく見れば冷蔵庫からコードが伸びているようにも見えない。
ということはそもそも、この冷蔵庫の裏側にはコードもコンセントもなかったのだ。
なるほど、それならあれだけ壁と冷蔵庫が接近していたのも頷ける。
……だが、それでは電源はどこから来ているのだろうか。
この部屋に元々備え付られていたものであるし、底から?
それかもしかすると……冷蔵庫では聞いたことがないが、バッテリー式なのかもしれない。
なんにせよ、コードが刺さっていないのに飲み物が冷え、氷が作られるなどというホラーな現象は無かったのだ。
まったく、嫌な汗をかいてしまった。
おそらく、私は何だかんだK氏の言葉を強く受け止めすぎていたのであろう。
だからあのような変な想像をしてしまった。
ところで、K氏といえば、確か冷蔵庫内部のスイッチのことも話していたことを思い出す。
ついでである。
調べてみるか。
一度ひやりとしたものを感じた後にホッとしたとき、人はきっと普段以上にリラックスするのだ。
おかげで普段は、やらない、ついでの仕事などというものをやる気になってしまった。
冷蔵庫を開け、内部のスイッチとやらを探す。
上部の、右側奥。
円形のツマミがある。
おそらく、内部の冷蔵レベルを変更するツマミであろう。
レベルは、10段階で5。
これがどの程度冷えるものなのかは知らないが、問題はなさそうに見える。
少なくとも、全く冷えないなどということはないだろう。
飲み物以外が冷えない理由はこれではなさそうだ。
まぁ……冷蔵庫自体古いものだろうし、ツマミが壊れている可能性もゼロではないだろうが。
コードと内部のつまみ、私ではどちらにも異常を見つけることはできなかった。
確かに、飲み物以外が冷えないという異常があり、その原因は冷蔵庫にあるのだろう。
だが、どうやら素人が思いつく部分では無かったようだ。
もし、今以上に不便を感じるようになれば、その時は業者に――
――――ゴトン
びくんっ!
思いもよらぬ音に肩が跳ねる。
驚いた……だが、何も変な音ではない。
氷ができた音だ。
内部の製氷機で氷が作られ、トレイへと落ちたのだ。
と、思い出した。
K氏は製氷機のことも言っていた。
なぜ忘れていたのか。
すでに良い時間だ。
今できた氷でハバナ7年をロックにでもしながら、製氷機でも調べてみるとするか。
さっきのゴトンという音には驚いた。
だが、常に冷静沈着な私はあの音がたまたまタイミングよく氷が作られただけであり、別に何かの意志が介在したわけではないことをよく理解しているのだ。
つまり、今のところK氏が言ったような不気味なことは起きてなどいないのである。
………いくつか疑問が沸くことがあるかもしれないが、それはあえて目をつむっていることなので、今は見逃して欲しい所存である。
さて、私は、ハバナ7年というラムが本当に良いものであることは誰にも否定できるものではないと考えている。
その黄金色の液体は、グラスにほんの数ミリの量だとしても我々を魅了する。
おそらく、あらゆる国や文化をこの味は超えるであろう。
あらゆる日本人は当然として、アジアオセアニア、アメリカヨーロッパ!
あらゆる国でこの味は認められ、親しまれているのだ。
なんと素晴らしいことか。
そしてその味をこの一介の学生までもが楽しめる。なんと幸せなことか。
…え……中東……?
……イスラムは……アルコールを排除しているので、残念ながら彼らはこの幸せを知らない。
勿論ラムの伝道師たる私は、いつか中東のイスラム文化を根こそぎにし、ラム文化を植え付けるつもりである……ある。
だがまだ早い。命がいくつあっても足りない事が明白な以上、もう少し命のストックを溜めてからでも遅くはないだろう。
……つまりまぁ、それは、いつか……いつかである。
ところで由々しき事に、その大事なラムがもうボトルに残っていない。
買ってこなければ……確か、近所の酒屋には今在庫がないはずだから……思いつく限り、流石に遠いようだ。明日にしよう…。
製氷機のチェックはラム無しで当たることになりそうである。
まぁ、すでに40%強というアルコールはそれなりに回ってきている。
一日の適正摂取量としてはかなりオーバーしていることだろう。
やめ時である。
真のラムラーとは、適度な飲酒でやめることができるのだ!
さて、冷蔵庫を開ける前にボウルを用意せねば。
製氷機を調べるに当たり、氷をすべて取り出すのである。
確かボウルは……キッチンの下側の収納に……。
……あった。
手にとって見て違和感。
ステンレス製のボウルなのだが……手にとって見ると、妙に温かい。
もしかすると収納スペースはいろいろあって暖房が効いているのかもしれない。
冬場は重宝しそうである。
冷蔵庫を開け、まずトレイにある氷をすべてボウルへ移す。
そして、製氷機のチェックである。
氷へと変化する水は都度補充する。
この部分に特に違和感はない。
水は綺麗だし、そのためのトレイも見たところ悪くなってはいないだろう。
透明なプラスチック製である。
次に内部。
こちらは分解せねば見れないのではなかろうか。
つい先ほど新しい氷ができたことを考えるに、何も問題はなさそうである。
と、なると、何も問題などないのではないか。
……いや、氷を受けるトレイがあるのか。
しかしこれもまた、見た感じでは何もない。
先ほど氷を写した時にも特に違和感はなかった。
なんの変哲もないプラスチック製で、側面が透明で下部が白い。
今は大きい氷はないが、隅の方に細かい破片が散らばっている。
ん………?
何か、おかしい。
何かが違う。
………普通ではない?
いや、違和感は………。
もう一度トレイを見直す。
透明のプラスチックで、底が……白い?
もう一度、氷になる前の水を入れるトレイを見てみる。
側面も……底も、透明。
なぜ、氷の受け皿はそこが白い?
これは、霜だろうか?
指でこすってみる。
いや、何も変わらない。
霜では無いなら、トレイ自体が白くなっているのか。
メガネをかけ直し、至近で見てみる。
なるほど、これは、傷だ。
細い、密集した傷がそこ全体を覆っている。
パッと見では、いや、少しよく見たぐらいでは気づかないほどの細かさだ。
氷があたって傷がついたのだろうか。
だが、先ほど触ってみた感じでは底は滑らかであった。
では、裏か。
先ほどまでどうせ何もないであろうと思っていた心が、急激に冷えてくる。
ラムの醉いが、醒めてくる。
トレイを外すべきだ。
軽く引っ張ってみるが、どうにも非常に固い。
小さな爪に引っかかっているだけなのだが、何故か動かないのだ。
少し強めに引っ張ってみるが、やはり固い。
しかし、ここでやめる訳にはいかないであろう。
指をかけ、むりやり外す勢いで引っ張ってみる。
しかし、固い。
むしろ冷蔵庫の扉のほうが少し動いてしまった。
では………。
ドライバーを使う。
一般家庭にはあるものなのだ。
隙間に差し込み、てこの要領で持ち上げる。
扉が少しうく。
そのうえで、体重をかける……。
―――――バギンッ!!
ちょっと致命的かな……と思うような音を鳴らしてトレイが外れた。
慌ててトレイを確認してみるが、割れてはいないよう。
ただ、トレイの底の隅になにやら透明なものが付いている。
これは………接着剤?
もしや固かった理由はこれか。
確認してみると、トレイのふた隅に、接着剤で固定されていた後があった。
なぜこんなことを………。
しかし、今するべきは推理ではなくトレイの底の確認であろう。
白い傷は何なのか。
見たところ、本当に細かい傷だ。
細めの針のようなもので執拗に擦ったのだろう。
あまりに細かく見にくいが、その向きには規則性があり、ほとんどが上から下への線があるように見える。
時々少し太い横方向の傷があるようにも見えるが……これも規則正しい間隔で付いているように思える。
これは、少々気味が悪いな……。
どうやらこれは、誰かが……前のこの部屋の住人かもしれないが、恐ろしく細かい針でトレイの底に規則正しく、パッと見では真っ白に見えるほど細かく傷をつけた後、接着剤まで使って冷蔵庫に固定したということになる。
意味がわからない。
だが、その狂気はなんとなく感じられる……。
誰が、何のためにこのようなことをしたのか。
冷蔵庫の不調はこれが原因なのだろうか……?
とりあえず、今日はここまでにしておこう。
明日、K氏に言ってみるのがいいかもしれない。
冷蔵庫の不調にあれほど興味を持った彼だ、何かしら身のある話ができるだろう。
拭いきれぬ気持ち悪さを心にへばりつかせながらも、やはり人間日常を繰り返すもので、意外とあっさり寝ることが出来た。
朝起きれば、当然、大学へ行く。
だがこの時間は、その簡単な行動すら難しい。
一つ油断すれば、もう少し寝ようという気持ちに負けてしまうのだ。
いや……気持ちは負けているのかもしれない。
ただ、留年はまずいという現実だけが私の体を動かしている。
つまり私はある種、常識というものに取り憑かれた妖怪なのだ。
そう、我は妖怪「留年回避マン」
最近、妖怪ウォッチなるものが人気らしい。
おそらく世の小さな子供を持つ父親母親は年末、クリスマスプレゼントゲットの戦いに大忙しであったのだろう。
講義室では、当然最前列である。
座る前に周りを見回してみる。
K氏はいないだろうか……。
まだ早い時間だ。
教室には、学生もまばらで、まだ数人の女性グループと私のようなぼっちが数人しか来ていないようだ。
彼は単位の管理はしているが成績をあげようという気はさらさらないようなので、おそらく来るのはギリギリであろう。
私は、前後2つある教室の入り口をチラチラと見張っていたが、結局、講義開始まで彼は現れなかった。
しかし、講師が出席を取り始め彼の順番が来た時には
はい
と返事があった。
講師は手元の出席表を見たまま顔を上げることもない。
それなら確かに、K氏と似ても似つかない友人が返事をしたところで気づきもしないであろう。
彼は、黒板は見ていないが講師の出席確認のスタイルはよくチェックしているらしい……。
講義が終わり次の講義に向かう途中、後ろから呼び止められた。
K氏だ。
いつの間に現れたのか。
というか、一応講義に出る意志はあったのか。
おはよ。冷蔵庫、どやった?
気になっていたのだろう内容を簡潔に聞いてくる。
調べてみたよ。
確かに、気になるところがあった。
四面全てにコードはなくて、壁にコンセントもなかった。
それに、製氷機のトレイなんだけど……。
例の、細かい傷のことを話す。
強く興味を持ったようで、彼は大きく目を見開いて、ニヤッと笑った。
…………人の気も知らないで、なんとも楽しそうだ。
だがなんとなく、あの冷蔵庫に一人で向かい合うのは心細かったのだ。
K氏を巻き込めるならその方が良い。精神的に。
それは気になるなぁ!
自然にそうなることはないやろし……やっぱ、人為的なもんじゃない?
…………呪いやな。
ニヤニヤしている。
嬉しそうだ。
どうだろうね。
もし暇だったら放課後くる?
一度、見てほしい。
彼は来ることになった。
私と彼は性格が大きく違う。
おそらく、見る点も変わってくるだろう。
新たな発見につながるはずだ。
講義はだいたい寝てる。
いつもK氏はそう言っているが、それは謙遜でも冗談でもなく、ただの真実である。
だが彼は常に留年ギリギリとはいえ、なんとか単位を取り続ける。
合法非合法、あらゆる手段を使って……。
その思い切りは私には真似のできないものだ。
なんといっても、リスキーなのである。
だが私とて、寝たりもする。
特に昨日など無駄に疲れてしまった。
少々講義の記憶が欠落来ていても、それは許されるべきである。
と、K氏に話したところ、そのとおりだと太鼓判をもらってしまった。
彼は講義中の睡眠に関してのみ、とても寛容である……当然か。
全ての講義が終わったのは夕方になってからだった。
私の家につく頃には、おそらく、日は暮れているだろう。
彼と共に家に向かって歩きながら、彼の意見を聞く。
K氏はそれなりに人見知りだが、見知った人間に対してはお喋りだ。
昔ジブリについて話した時など、ひたすら話し続けていた。
私はいい具合に出来上がっており半分寝ていたが、彼は少しも気にしてはいなかったらしい。
曰く、聞いて欲しいのではなく単に話したいだけ。らしい。
冷蔵庫について、K氏は、無責任にも霊的なものだと断定しているようだ。
理由はそのほうがワクワクするから………この怖い話好きめ。
だが、そんなK氏もやはり冷蔵庫内のものが腐るというのは初めて聞いたらしいし、バッテリー又はコードが底から伸びているかもしれない冷蔵庫も、床にコンセントがあるのかもしれない部屋の構造も、聞いたことはないという。
当然だろう。そんなもの、不便すぎる。
私なら、もっとまともなものを購入する。
例えば、コードが裏面から出ていて、中のモノも腐らなくて、トレイに傷がないものだ。
家につく頃には、予想通りあたりは暗くなっていた。
消えかけの外灯がチカチカ光っている道を二人、無言で歩く。
妙に静かな中、足音が響く。
近所の踏切が鳴り、電車が来る。
しかし、こんなに静かなのにどこか遠いところのように聞こえる。
静かな所なんやね。
K氏が言う。
違う。
普段はもっと賑やかなのだ。
今日は何故か……きっと緊張しているからであろう。
耳が遠いように思う。
私の部屋に入り、彼は靴を脱ぎ一直線に奥へと向かい、冷蔵庫を開けた。
私は彼の2歩後ろで、それを見ている。
そして、飲み物意外なにも入っていない事を確認し、冷蔵庫の外側、どの面からもコードが出ていないことを確認し、一言。
気持ち悪いな……トレイはこの段?
私に場所を確認し、彼は躊躇いなくドアを開けた。
昨日水を出していたから、トレイに氷はない。
昨日と同じ、底だけが白いトレイがそこにあった。
―――――たしかに、白い。
彼はそう言いながら、トレイに手をかける。
引っ掛かりがあるから、気をつけて。
私の言葉に軽く頷き、そして
固いな……。
と言いながら彼が力を入れ、トレイごと引き出しが持ち上げられたのを見て、私は自分の背筋が凍ったのを感じた。
彼は何度も角度を変え持ち上げてみるが、トレイは動かない。
まるで、
接着されたかのように。
表情がこわばるのを感じながら、K氏にドライバーを渡す。
これで。無理矢理やってもいい。
ありがと。
彼は短くそう言い、ガギンッ! という音と共に、トレイを外すことに成功した。
なにこれ……くっつけてたん?
私は、彼にトレイの接着については話していない。
底が白いことのみである。
だから彼は分かっていない。
私は昨日、トレイを戻すときに接着剤など使っていない。
それをくっつけたのは、
――――私ではない。
彼は返事を求めていたわけではなかったようだ。
手にとったトレイを裏返し、傷を見ている。
顔を近づけ、私が話した傷の細かさと、その規則性を確認しているようだ。
彼の2歩ほど後ろから私もトレイを眺める。
昨日は思わなかったのだが、この距離、角度からだとあの横線。
規則正しくあった横や斜めのラインが繋がって見えるようだ。
右に半歩、後ろに1歩……。
その繋がりが、綺麗に見える場所へ調整し、
私は、今日一番の後悔をした。
死ね。
小さく、細かく、隙間なく、大小様々な、死ね。
トレイの裏にびっしりと隠された、死ねという言葉が、ここからは見えた。
同時に、違和感。
背中だろうか。
誰かに見られているような……視線を感じる。
K氏は何も感じていないようでまだじっとトレイを睨んでいる。
後ろが、気になる。
ゆっくりと、何かが近づいてきているような、そんな気配。
だが、振り向いてはいけない。自分の中の何処かから、そんな声がする。
振り向けば、終わる、と。
助けを求めて、K氏へと視線を送る。
トレイを眺めていた彼はそれに気づいたのかどうか、だがこちらに視線を向け――――
ニヤリと、笑った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
気がつけば、私は布団に寝かされていた。
どうやら朝になっているらしい。
気分は悪くない。
眠気もあまりない。
記憶も………ある。
彼は、K氏はどこだろうか。
顔を上げ見渡せば、部屋の端、壁に背中をつけ座っているK氏を発見できた。
帰らなかったらしい。
あの後どうなったのか。
K氏はあのような態勢だが、よく眠っているらしい。
それならと私は、二度寝を選択するのだった。
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体がほわほわと軽い。
時間は夜か。
周りは暗い。
よく見れば、私の部屋だ。
なぜ電気をつけていないのだろうか。
いや……これは夢か。
明晰夢というやつだろう。
そういえば二度寝したのだった。
目の前に、冷蔵庫がある。
その前にはK氏。
昨日の夜の再現だろうか?
手元のトレイから視線を外し、彼はゆっくりとこっちを向き、いや、私の後ろを見て、ニヤリと、笑い。
手招き、した。
―――――目が覚める。
少し頭痛がする。
二度寝から30分も立っていないようだが、
何か、変な夢を見たような気がする。
なんだったか……何か……そう、確かその夢では誰かが私にこう言ったのだ。
ドウシテ、クサラナイノ
と。
何度も、何度も、何度も。
K氏が起きた。
彼には聞きたいことがある。
あの後、私はどうなったのか。
あのあと…、って言っても何もなかったで?
でもO氏、あの時立ちながら寝てたやろ?
ちょっと面白かった。
フラフラしてるからちゃちゃっと寝かせたんよ。
元気そうでよかったわ。
………あの場面で、立ちながら寝てた?
そんなはずは……ないと思うのだが。
K氏、冷蔵庫なんだが………やっぱり変だよな?
そうか?
見た感じ普通やで?
電源も問題なくコンセントから取れてるみたいだし、氷もできるんでしょ?
そんな筈はない。
四面どこからもコードなど伸びて………無かったはずだ。
眉をひそめながら冷蔵庫の裏を覗きこむ。
だが、壁との数センチの隙間では確かに、コードが伸びて、壁のコンセントに刺さっている。
………どういう事だ?
じゃあK氏、氷受けのトレイなんだが……
視線を冷蔵庫から外し、K氏を見て―――――
ひゅう、と音のない悲鳴が出た。
またあの顔をしている。
ニヤリと、笑っている。
大丈夫でしょ。
俺、帰るわ!
私には、彼の背中を視線で追うのが精一杯だった。
あの表情以外、来た時の何も変わらない様子でK氏は帰っていった。
私が知らない時間に彼はなにか見たのだろうか。
何かあったのだろうか。
それとも、彼の言うとおり何もなかったのだろうか。
その場で立ち尽くしながら目線だけで彼を見送り、彼が視界から消えた後、私は冷蔵庫の電源を引き抜いた。
冷蔵庫の扉をガムテープで幾重にも固定する。
怖かった。
冷蔵庫の中身が腐ることではない。
部屋においているものが腐る事でもない。
あれだけ興味を持っていたK氏が、一切の未練も残さず帰ったことが、不気味だった。
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私は、新しく冷蔵庫を買った。
それは何も問題なく動き、ものを冷やすことができる。
あの冷蔵庫は、あの場所に、そのままおいてある。
私にはもう、手を触れることが出来なかった。
あれ以来、時々夢を見る。
ガムテープで固定した冷蔵庫のドアがうめき声とともに中から叩かれるのだ。
そしてその力はだんだん弱くなり、ついには無くなる。
私は、息を潜め、それを黙って見ている。
最後には、うめき声がなくなった扉の隙間から腐った異臭とともに液体が漏れ出してくるのだ。
私には、そのうめき声がK氏のものに思えて仕方がない。
おわり。
初投稿となります。
いかがでしたでしょうか。
ある日唐突に友人から ホラー書いて と言われ、昔の誰かのホラー体験をちょちょっと小説風にアレンジしたものになります。
この話が少しでも評価されるようならまた書いてみたいなと思っています。
面白いな。なんて思ってくださる方がいましたら、是非評価してみてください。
短編にしては少し長い話にお時間を割いてくださり、ありがとうございました。




