ひろがるせかい
きっかけは、とある占い師のもとに立ち寄ったことだった。彼は怪しい雰囲気こそなかったものの、言うことは不可思議なことばかりだった。
「気付いていませんか。あなたが身に纏っているものは、とても汚れていますよ」
僕は反射的に自分の体を見やった。どこも汚れてなんかいない。確かに着ていたのは、お洒落だけど安さが売りのブランドの服で、しかもこの間のセールで買ったものだけれど、どこにも汚れは付いていない。僕はいやな顔をしていただろうが、彼は続けてこう言った。
「知るというだけで、世界は変わるものです。あなたはきっと、自分で気付けると思います」
「それと僕の悩みと、何の関係があるのですか」
「あなたは今、その服と同じような繋がりの中にいます。それが何か分かれば、どうするべきかについても自ずと分かるでしょう」
知り合いがいいアドバイスをくれると教えてくれたから行った占い師だったのに、余計悩みを増やされてしまった気分だった。ようやく取れた休暇を棒に振ってしまった。家に帰って、姿見の前で全身を見た。やっぱり汚れてなんかいない。だけれどその服を見ているとあの占い師の気味の悪い言葉が染み付いているようで、急いで脱いでそのままゴミ箱に投げ入れてしまった。安い服だ。また同じものを買えばいい。
それから僕は晩ごはんをかきこみ、掛けられた言葉を流したくてせかせかと風呂を済ませると、会社から持ち帰った仕事に取り掛かった。いつもサービス残業で済ませている仕事だが、ここ最近は異様に忙しくて、休日だろうが家でもやる羽目になっている。休みなんて会社がそう言っているだけで、実際ちゃんと休めた試しはない。就活をしていた頃には、こんな社会人生活を想像していなかった。ブラック企業にだけは入りたくなくて、でも内定を貰えたのがこの一社しかなくて、就活し続けるのも苦しいからとそのまま入社してみたらこの有り様だ。だけど仕方ない。悪いのはこの会社にしか入れなかった僕なのだから。
仕事はまだまだ残っている。だけどもこの日の僕はあの占い師に毒されていたのだろう。書きかけの資料を保存して、なんとなく、思い付きで、「汚れている」と形容されたあの服のブランドをインターネットで検索してみた。すると、その予測候補に、スウェットショップ、という聞き慣れない言葉が並んでいた。きっといつもの僕ならば、そんなものには目もくれなかっただろう。しかしこの日に限っては、やけにそれが気になって、この予測候補をクリックしていた。その先にあったのは、とても現代に行われているとは思えないものだった。
それから、何時間がたっただろう。あまりに一度に多くのことを知りすぎた気がした。頭の中がごちゃごちゃする。パソコンを閉じたとき、背筋に嫌な寒さが走った。クローゼットを開けて、中に雑多に並んでいる服たちを見た。駄目だ、もう見ていられない。僕は静かにそれを閉めて、布団の中に逃げ込むしかなかった。僕は、あのスウェットショップとやらのお世話になっているメーカーたちが大好きだった。こんなことを知らなければ、これからも大好きなはずだった。けれど、それも今日までだ。僕にも見えるようになってしまったのだ、あの服たちが纏っている「汚れ」が。もうあの服たちは、着られない。僕は布団を頭からかぶって、瞼で現実を遮った。
気が付くと、僕はやけにごちゃごちゃした場所を見つめていた。狭くて、埃っぽくて、建物自体がもうがたついているようで、そして手前には息苦しいぐらいに隣の人とくっついて座らせられている子どもたちがいた。何かを縫っていた。その布についているタグのようなものには、僕もよく見知ったマークが印字されていた。その奥には、今度はとんでもない人数の女の人が――僕と同じ歳ぐらいの人もいればもっとおばさんもいる――とんでもない数のミシンを動かしていた。ミシンの構造は古く、僕も身の回りの家電量販店で売っているような最新鋭のものではないとすぐに分かった。窓ガラスはあるけど閉めきられていて、外から入ってくる光が室内の埃をきらきらとさせていた。しばらくすると、唯一ある扉が開いた。入ってきた人はよく肥えていて、一見して上等と分かる格好をしていた。女の人が、子どもが、彼のもとに集っていった。みんなすぐに渡されたものを持って、元いた場所に帰っていった。僕は子どもたちの手元を見た。一握りの貨幣と、悲しいくらいに貧相な食事だった。僕は、あの一握りの貨幣には、大した価値がないことを知っていた。そして次の瞬間、僕らのいた場所の底が抜けた。悲鳴、悲鳴、悲鳴。子どもたちの、女の人たちの、甲高い声が、衣服のように僕を纏った。宙を舞っている間に、子どもも女の人も、みんなの姿がお金に変わった。
目を開けるとそこは、数多の洋服の上だった。カラフルで、いろんな形をしていて、でも結局はどれも洋服でしかなかった。僕はその洋服の上を歩いていた。とても気分が悪かった。足場は途中で、洋服からコーヒー豆にかわっていた。スニーカーにもなった。有名なネズミのキャラクターの上も歩いた。目線の先には、さっきの上等な格好をした人がいた。その人が立っているのは、お金の上だった。お金は限界を超えて積み上げられ、ぐらぐらとしていたが、その人は気づかぬふりをしているようだった。その人は僕に気付くと、笑みを浮かべてこう言った。
「君も、私になろうとしていたのだね」
「それとも、もうなっているのかな?」
朝だ。時計を見る。もう出勤には間に合わない。一つ咳払いをして、上司に休ませてもらえるよう電話を掛けた。僕はどんな声をしていたのだろう、いつもならば急の休みなんて許されないのに、今回に限っては小言だけで済ませてくれた。寝たはずなのに疲れていた。逃げたはずなのに、逃げ切れなかった。僕は、夢で、現実を見たのだ。
昨晩クローゼットを開けたとき、僕はそれまで感じたことのなかった違和感を覚えたのだった。洗濯されてもう綺麗になっているはずなのに、その服が通ってきたであろう工場の埃のにおいや、涙と汗の跡や、異国の女の人の爪痕や、幼い子どもの手垢がまだそこにあるようだった。その生地の向こう側に、不当な搾取で苦しむ人たちの顔が、不平等に奪い取ってせせら笑う顔が、透けて見えてしまった。そしてなによりこの僕自身も、見知らぬ誰かの絞首に加担していたと気付かされてしまったのである。安さに笑顔をこぼしながら、張り巡らされた蜘蛛の糸を引っ張ることで。夢の中で、昨晩スウェットショップの単語と共にインターネットが見せてくれた商品たちの上を闊歩していたとき、まるで人々の遺体でも踏みつけているようだった。いや違う、どれもこれもその下にあったのは、死にもの狂いで生きることを余儀なくされた、生身の人間だ。僕と同じように――
のそりと布団を這い出た。ゴミ箱から昨日捨てた服の袖がこちらを見ている。それをそっと摘み上げて、洗濯かごに放ってやった。汚れが見えなくなったわけじゃない。でも、嫌な感じがするからといって、捨てて良いものではないと思うようになっていた。ふと、占い師の言葉を思い出す。
『あなたは今、その服と同じような繋がりの中にいます』
そう、そうだった。僕だって、誰かの首を絞めているだけではない。違う形で、誰とも分からない人たちに、この首を絞められているじゃないか。どんなに頑張って働いても給料は上がらない。頑張った分は上層部の懐に吸い込まれていく。これを支えているのは安くて良いサービスを求める、僕のような人たちじゃないのか。
きっと僕はもう、夢に見た品物たちを買えないだろう。それは、不平等を許せない、とか、このやり方に抗議してやる、とか、そんな気持ちだってあるけれど、何よりも今まで首を絞められるばかりだと思っていた自分が、実は誰かの首を絞める一人でもあったと実感してしまったからだ。会社の幹部の贅沢のために生贄となって苦しんでいる僕が、遠くの誰かを生贄にした商品で楽しむなんておかしいじゃないか。あれだけ恨んだ上層部のやり方と同じようなやり方で働き手を苦しめているブランドの、片棒を担ぎたくない。僕は彼らを助けられないけれど、彼らの首を絞める糸を手放すことはできる。そうすることで、あなた方は間違っていると、上等な服のあの人に気付かせたいのだ。僕は、スウェットショップを使うメーカーにも、僕を雇っている会社にも、面と向かって抗議する勇気はない。それでも、僕にだってできることはあるはずじゃないのか。買わないことで、あの汚いやり方に疑問を投げかけられるように。
僕の首にはまだ、糸がかかっている。この糸は誰の首にもかかっていて、同時に誰もが引っ張れる。糸を外すのは難しくても、引っ張る人が減るだけで、その先の首にかかっている人は少し助かる。僕が糸を引かなくしたのと同じように、誰かも糸を引く手を緩めてくれたなら――そんなことを考えながら、僕はパソコンを立ち上げて、書きかけの資料を開いた。