妹が望んでいるから婚約者を譲れと言われました。ところが妹は「私、そんなこと一度も言ってません」と言いました
「クラリス。エマに婚約者を譲りなさい」
夕食を終えたばかりの居間で、クラリスの父は、世間話でもするような口調でそう言った。
何を言われたのか分からず、クラリスは父の顔を見る。
隣に座る母は、困ったように眉を下げていた。
「急な話なのであなたが驚くのも無理はないわよね。でも、エマがヴィクトル様を望んでいるのよ」
母の言葉に、クラリスは驚きのあまり息をすることも忘れる。
息をのんだ後でクラリスは母に聞くことにした。
「エマが?」
「ええ。あの子は昔から身体が弱いでしょう。欲しいものがあっても、あなたに遠慮して言い出せないのですって」
クラリスは母の返答を聞き、にわかには信じられなかった。
自分とエマは姉妹仲が良く、父や母に言えないことも打ち明けあい、支えあって生きてきたと信じているからだ。
何かおかしいと感じ、クラリスはさらに質問をする。
「誰から、その話を聞いたのですか」
「ヴィクトル様だ」
母に代わって父が答えた。
ヴィクトルとは、三年前からのクラリスの婚約者である。
婚約者のことをすべて知っているわけではない。
それでもエマが自分を飛び越えて、お父様やお母様、ましてやヴィクトル様に言うなんてありえない。
クラリスは心に掛かる雲を振り払い、再度父に尋ねた。
「エマ本人から聞いたわけではないのですね」
父は先ほどと違い、即答せずに少し困ったように眉を寄せる。
この反応からして、何か隠しているのは分かった。
「本人には聞かないでくれと頼まれている。姉に申し訳なくて言えないのだろう」
クラリスが不信に思ったことに気付いたのか、否定するようにまくしたてる。
父も母も埒が明かないと理解し、クラリスは席を立つ。
「でしたら、今ここで本人に聞きます」
「クラリス」
母が止めるように名前を呼んだ。
「婚約者を変えるほどの話なのでしょう。確認くらいは必要です」
クラリスは侍女へエマを呼ぶよう頼んだ。
ほどなくして、薄い肩掛けを羽織ったエマが居間へ入ってくる。
相変わらず体調が良くない彼女に、無理をさせたことに対して申し訳なく思った。
「お父様、お母様、それにお姉さままで集まって、一体どうしたの?」
場の空気がおかしいと感じたのか、エマは笑顔で声のトーンを少し上げながら言う。
自分よりも他人を優先する子。
普段体が弱く迷惑をかけているから、せめて笑顔でいたい。
そう常日頃から心掛ける妹を、クラリスは誇りに思っていた。
彼女に問うまでもないことだが、それで済む話ではない。
クラリスは妹に向き直った。
「エマ、突然呼び出してごめんなさいね。確認したいことがあるの」
「なに?」
「あなたがヴィクトル様との結婚を望んでいる、そうお父様とお母様から聞いたわ」
エマは目を見開いた。
「私、そんなこと一度も言ってません」
「そうなの?」
「ないよ。どうして私がお姉さまの婚約者を欲しがるの?」
問われたことに心底驚いたのか、エマは空笑いをし、父と母は押し黙る。
少し経つとエマは薄い肩掛けの両端を、左右それぞれの手でつかみながら、
「むしろ私、ヴィクトル様から聞いたの。お姉さまが、私とヴィクトル様を結婚させたがっているって」
エマの言葉を聞いた瞬間、クラリスは自分の血が勢いよく駆け巡るのを感じる。
両親がそう差し向けたのかと思ったが、エマに話したのはヴィクトルだったのだ。
父と母に確認するように視線を向け、
「私が?」
と声を低くして聞き返した。
「うん。でも、お姉さまに直接聞いたら気まずくなるから、まだ何も言わないでほしいって」
体が弱く健気な妹の性格を利用し、丸め込もうとしたのかと考え、憤りを禁じえなかった。
「私は、そんな話を一度もしていないわ」
「え……?」
「お父様。ヴィクトル様は、何と?」
「エマが自分を慕っている、と。だが姉の婚約者だから口にできないのだと……」
父も母も家族には厳しいが、他人には甘い。
それでこれまでも、ほかの貴族に何度も騙されている。
ヴィクトルとの縁談も、相手が同じ格の貴族だからと、何も調べず私にも相談せずに決めていた。
懲りない両親に対し、クラリスは呆れ果て、天井を見上げる。
「私は、お姉さまが望んでいると聞きました」
エマは迷いなく、力強くはっきりとクラリスに伝える。
それを聞いてクラリスは確信した。
同じ男が、違う相手に違う話をしている。
問うべきは今この場にいない人だ、と。
「では、ヴィクトル様は――」
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
家令が顔をのぞかせる。
「旦那様。ノア様がお見えです。領地会計の件で」
「ああ……そうだったな」
父が額を押さえた。
間もなく入ってきた青年は、居間の空気に気づいて足を止めた。
幼い頃から隣の領地で育ち、今は父の仕事を手伝っているノアだった。
「取り込み中でしたか。出直しましょうか」
「いえ」
クラリスは反射的に彼を引き止めた。
以前から家同士の付き合いもあり、ノアなら事情を聞かせても問題はない。
「ノア。少しだけ、話を聞いてもらえますか」
「構いませんよ。お力になれるといいのですが」
クラリスは、先ほど分かったことを順番に説明した。
両親は、エマがヴィクトルを望んでいると聞いていた。
エマは逆に、クラリスが二人の結婚を望んでいると聞かされていた。
どちらの話も、最初に口にしたのはヴィクトルだ。
説明を聞き終えたノアは、父に尋ねた。
「他に、ヴィクトル様から何か届いていませんか」
「他に?」
「婚約者をクラリスからエマ様へ変えるつもりなら、いずれ書類が必要になるでしょう」
父が眉を寄せる。
「そういえば、今日の昼に一通届いている」
机の引き出しから封筒を取り出す。
中身は、婚約相手をクラリスからエマへ変更するための文書案だった。
クラリスは途中の一文で指を止めた。
――クラリス・ハーグレイヴ嬢より妹エマ・ハーグレイヴ嬢への婚約者変更について、ハーグレイヴ伯爵家からの申し出を受け――
「お父様。私たちが申し出たことになっています」
父は書類を受け取り読んだ後で、
「そんな申し出はしていない」
驚きの表情を浮かべながら、両手を広げた。
母も書面をのぞき込み読み終えると、
「私も今日初めて見ました」
ため息をつきながらそう言って、首を横に振る。
エマも両親の傍に行き読んだ後、
「私もです」
と同じ反応をした。
ノアは父へ視線を向ける。
「元の婚約契約書はありますか」
「もちろんだ」
父は書棚から契約書を取り出した。
一方の家から婚約解消を申し出た場合、正当な理由がなければ申し出た側が補償する。
さらに、同じ家の別人へ婚約相手を変更する場合は、変更を希望した側の申し出として扱う。
「……だからなの?」
エマが小さく呟く。
こちらから婚約者変更を申し出たことにできれば、ヴィクトル側は婚約を破棄したことにならない。
クラリスは文書案を見つめた。
「私との婚約は終わらせたい。でも、自分から終わらせたことにはしたくない」
「そして、お姉さまが望んだからってことにして、私と婚約する?」
エマは心底嫌そうな顔をした。
「こんなの酷いわ……」
「エマ」
「だって私、お姉さまの婚約者だから、礼儀として話していただけだよ。なのにどうして結婚を望んだなんて言われてるの?」
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
けれど、笑って済ませられる話ではない。
ヴィクトルは、姉妹が直接話さないことを前提にしていた。
両親には、エマが姉に遠慮しているから本人へ確認しないでほしい。
エマには、クラリスが望んでいるが直接聞かないでほしい。
その裏で、すでにこちらの申し出として文書まで準備している。
「ヴィクトル様本人にも確認します」
クラリスは二枚の書類を重ねた。
ノアが静かに尋ねる。
「僕も同席しましょうか」
「大丈夫です。父も同席してくれますから」
「分かりました」
ノアはそれ以上口を挟まなかった。
翌日の午後、ヴィクトルはハーグレイヴ伯爵家を訪れた。
応接室にはクラリスと父がいる。
エマは同席すると言ったが、クラリスが断った。
妹まで彼の言い訳を聞けば、男性を必要以上に恐れてしまうかもしれない。
それは困るので必要ない、と判断してのことである。
扉が開くと、ヴィクトルは普段と変わらない穏やかな笑みを浮かべて入ってきた。
「クラリス。急に呼び出すから驚いたよ」
「お座りください」
「ずいぶん他人行儀だね」
自分から変更の書類を送ってきたにもかかわらず、この期に及んでも余裕なヴィクトル。
何食わぬ顔をしながら向かいの椅子に腰を下ろした。
クラリスは文書案をテーブルへ置く。
「これは何ですか」
「婚約者変更の書類だよ」
「ハーグレイヴ伯爵家から変更を申し出たことになっています」
「エマ嬢が望んでいるのだから、そうするのが一番穏便だと思ったんだ」
「エマは望んでいません」
「……何?」
「昨日、本人に確認しました」
ヴィクトルの目が動いた。
「エマは、あなたから別の話を聞いていました。私が、あなたとエマとの結婚を望んでいると」
「それは――」
「父と母には、エマがあなたを望んでいると話した。そして私たちには、お互いに確認しないよう頼んだ」
ヴィクトルの笑みが消える。
「何か誤解がある」
「では説明してください」
「僕はただ、皆が傷つかないように――」
「誰が、何を望んでいるのですか」
「それは」
「私は望んでいません。エマも望んでいません」
ヴィクトルは答えなかった。
クラリスは婚約契約書も置く。
「あなたの家から婚約を解消すると補償が必要になる。だから、こちらが婚約者変更を申し出たことにしたかったのですね」
「待ってくれ。それは違う」
「どこが違うのですか」
「君との婚約に不満があったわけじゃない。ただ……エマ嬢の方が僕には合っていると思ったんだ」
一瞬、場の空気が止まり、鳥のさえずりがよく聞こえた。
しばらくして、クラリスは彼の言葉の意味を考える。
だが、三年前に婚約した自分ではなく、話した回数も少ない妹のほうが合っている、という彼の言葉は理解できなかった。
クラリスは目の前の婚約者が、物語に出てくる化け物のように見え始める。
「そうですか」
そう返すのが精いっぱいだった。
クラリスの言葉を聞いて、許されたと思ったのか、ヴィクトルは続ける。
「君は何でも一人でできるだろう。でも彼女は身体も弱いし、誰かが支えてやらなければ!」
笑顔で声のトーンをあげながら彼は口早に言う。
正義の味方気取りなのか、はたまた自分に酔っているのか。
頭痛がしてきたクラリスは、右手を額に当てながらため息を一つ吐いた後で、
「エマは、あなたに支えてほしいとは言っていません」
そうはっきり告げると、ヴィクトルは笑顔から真顔になる。
「それに、エマと結婚したいのなら、なぜ最初からそう話さなかったのですか」
「だから、できるだけ穏便に済ませようとしたんだ」
「私の家が望んだことにするのが、穏便なのですか」
「君だって婚約を破棄されたとなれば体面が悪いだろう。結果として、その方が皆にとって――」
「よくありません」
クラリスは自分でも驚くほど、冷静にはっきりと言えた。
「私にも、エマにも、両親にも、それぞれ違うことを言った。それだけでもう穏便には済まされないのです。少なくとも私たちは、家族同士で疑い合うところでした。それがどういうことかおわかりにならないのですか?」
「クラリス」
「このままあなたと結婚しても、何を信じればいいのか分かりません」
ヴィクトルの顔が強張った。
「婚約は家同士の話だ。君一人で決めることじゃない」
「その家同士の話を勝手に書き換えようとしたのはあなたでしょう」
それまで黙っていた父が口を開いた。
「昨日、君の父上にも確認した。この文書は君が準備を進めていたものだと認めている」
「父上に?」
初めて、ヴィクトルに明確な焦りが浮かんだ。
父は文書を畳んだ。
「この件は両家で改めて話す。少なくとも、こちらから婚約者変更を申し出ることはない」
「お待ちください」
「ヴィクトル様」
クラリスは彼を見る。
「婚約を解消してください」
「クラリス、話し合えば――」
「もう十分話しました」
部屋が静かになった。
「三年も婚約してきたのに?」
「ええ」
「本当に、それでいいのか」
「今のまま結婚する方が嫌です」
ヴィクトルはしばらくクラリスを見ていた。
やがて立ち上がる。
扉へ向かい、一度だけ振り返った。
「後悔するよ」
「そうならないことを願います」
ヴィクトルは何も言わず出ていった。
扉が閉じる。
三年間の婚約が終わる音としては、拍子抜けするほど静かだった。
悲しくないわけではない。
楽しく話した日もあった。
贈り物を嬉しいと思ったこともある。
だからこそ、最初から何もなかったことにはできない。
ただ、今日ヴィクトルが口にした言葉を聞いて、婚約を続ける気持ちは残っていなかった。
「クラリス」
父に呼ばれ、クラリスは振り返った。
「すまなかった」
「お父様……」
「エマに確かめもせず、あの男の話だけでお前に婚約者を譲れなどと言った。軽率だった」
「私も、最初に聞いたときはエマが本当にそう思っているのかもしれない、と考えていました」
「それでも、私より先に本人へ確かめようとした」
父は苦い顔をした。
「親として情けない話だ」
「もう分かりましたから」
自戒の念から謝罪しているのだろうけど、直ることはないと知っている。
なので執拗に謝罪を求める気も、クラリスにはなかった。
ただ、それでも何度も同じことをされるのは困る。
父が顔を上げたのを見て、
「では、次に同じような話があったら、もう少しだけ疑うと約束してください」
無駄だとは思いつつも、そう一応頼んでおくことにした。
「肝に銘じる」
すまなさそうに父は言う。
クラリスは小さく笑って一礼し、部屋を出ると廊下にエマがいた。
「聞いていたの?」
「途中から」
「同席しない約束でしょう」
「部屋には入ってないよ」
悪びれない妹に、クラリスはため息をつく。
妹は姉である私にこうしてたまに、悪戯っ子のようなことをしてくる。
反抗期というものだろうか。
そう思うと、クラリスはそんな妹をとても愛おしく感じた。
「お姉さま、怒ってる?」
「少しだけ」
「私に?」
違うと言おうとしたが、ここは妹のように意地悪をして返そうと考え、
「盗み聞きに」
とにやりとしながら言ってみる。
「そこなんだ」
エマが笑う。
少しして、その表情が真面目になった。
「ごめんなさい」
「何が?」
「ヴィクトル様から、お姉さまが私との結婚を望んでるって聞いたとき。変だなとは思ったの。でも、そのままにしてた」
「私も最初、一瞬だけあなたを疑ったわ」
「お互い様?」
「そういうことにしておきましょう」
エマはほっとしたように微笑む。
「でも、本当によかった」
「婚約がなくなったことが?」
「違うよ。お姉さまと喧嘩にならなくて」
「私もよ」
そう言ってクラリスはエマを優しく抱きしめる。
昨日、婚約者を取り合う姉妹にされかけた。
たった一人の可愛い自分の妹と、憎みあう世界など必要としていないのに。
「ねえ、お姉さま」
「何?」
しばらくしてからエマから腕をほどくと、
「ノア様、昨日ずっと心配そうだったよ」
彼女は突然そう言った。
「そう?」
クラリスは意図が分からず困惑する。
「そうだよ。帰るときも何度もこっち見てた」
「あなた、よく見ているのね」
「暇だったから」
エマは何でもないことのように答えた。
暇でそんなことに気付くのだろうか、とクラリスは首をかしげる。
「そんなことより、ノア様にはちゃんと報告した方がいいんじゃない?」
「そうね、今度会ったらしておくわ」
ヴィクトルとの話し合いが終わると、すぐに婚約解消の手続きが始まった。
それから数日後。
クラリスは父に頼まれ、領地関係の帳簿を整理していた。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのはノアだった。
手には別の帳簿を抱えている。
「ああ、それですね」
「はい。伯爵から、こちらも一緒に確認してほしいと」
「ありがとうございます」
ノアが向かいの椅子へ座る。
二人でしばらく帳簿を確認した。
数字の照合が一段落したところで、ノアがペンを置く。
「ヴィクトル様との件、その後は?」
「……ああ、その件に関してですか。それなら両家で正式に婚約解消の手続きを進めています」
両家で話し合いの場がすぐに持たれ、ヴィクトル側が補償金を払い、婚約を解消することになった。
「そうですか」
それだけ言って、ノアは少し安心したように息を吐いた。
「心配していたのですか?」
「していましたよ」
「エマにも言われました」
「エマ様に?」
「あなたが帰るとき、何度もこちらを見ていた、と」
ノアが目をそらした。
「見られていたんですね」
「否定しないのですか」
「できません」
クラリスは思わず笑った。
ヴィクトルと違い、ノアは素直だなと思ったからだ。
「この前は、ありがとうございました」
「僕はほとんど何もしていません」
「書類のことに気づいてくれたでしょう」
「それくらいです」
「それくらいが助かりました」
ノアはしばらく黙っていた。
「本当は、もっと口を出したかったんです」
「そうなのですか?」
「かなり」
意外な答えだった。
クラリスから見たノアは、誰かと議論することを好む人物にはみえなかったからだ。
「でも、僕が怒る話ではありませんから」
「怒っていたのですか」
「……いました」
ノアは困ったように笑った。
「ヴィクトル様が何を考えていたのか聞いて、かなり腹が立ちました」
「全然そう見えませんでした」
「見せないようにしていたので」
クラリスは少し驚いた。
自分なら、腹が立てばすぐ態度に出てしまう。
エマにもそれでからかわれることがよくある。
それをおくびにも出さないなんて、凄いことだと感心した。
「凄いですね。ですが、なぜそんなに怒ったのでしょうか」
「それを聞きますか?」
「聞いてはいけませんか?」
ノアが額を押さえた。
クラリスはそれを見て、そんなに困ることを聞いたのかと思い、自分の発言を振り返るも、何も思いつかなくて困惑する。
「こうなると思っていたので、言いたくなかったんです」
「何がです?」
「僕は、ずっとあなたが好きでした」
クラリスは驚きのあまり言葉を失い、動きまで止まる。
しばらくしてどこかで何かが落ちる音がし、我に返って彼の言葉を思い出す。
ノアは「ずっと」と言っていたが、どういうことだろうか。
彼女は返答をすべきだろうと思ったものの、その前にそこが引っ掛かってしまい、
「……ずっと?」
そう口をついて出てしまった。
「はい」
迷いなく放たれた言葉にクラリスは押し黙る。
私はヴィクトル様にも言われたことはないし、自分から言ったこともない。
縁談を持ち込まれ、親が決めて結婚することになった。
好きという言葉を口にしようと思ったこともない。
まさかノアから聞くことになるとは思わず、クラリスは戸惑った。
「……い、いつからですか」
「子どもの頃からです」
「そんなに!?」
クラリスはあまりにも意外な言葉に、驚きの声をあげてしまい、慌てて口を手で押さえた。
ノアはそれを見てますます困った顔になる。
「だから言いたくなかったんです」
「どうして今まで何も?」
「あなたには婚約者がいましたから」
それはあまりにも簡単な答えだった。
彼は出しゃばるような人物ではない。
とても実直で仕事も丁寧な人物である。
そのおかげでクラリスたちの領地は、彼が協力する前より格段に安定していた。
「それに、こんなタイミングで言うつもりもなかったんです」
「では、どうして今?」
「聞かれたからです」
クラリスは一瞬黙り、それから笑ってしまった。
聞かれたから答えた、という回答はとても彼らしいと思ったからだ。
「確かに私が聞きましたね」
「はい」
ノアも少し笑う。
「ちなみに、どこを好きになったのですか」
「そこまで聞くんですか?」
「ここまで聞いたのですから」
しばらく迷ったあと、ノアは観念したように口を開いた。
「十歳の冬、僕が馬から落ちたのを覚えていますか」
「ええ。領地の祭りの日でしょう?」
「皆は先へ行ったのに、あなただけ残ってくれた」
「けが人を置いていけなかっただけです」
「そう言うと思いました」
ノアは少し照れたように笑った。
「僕には、あの日からずっと大事なことでした」
クラリスは返事に困った。
自分には何でもないと思っていた出来事を、誰かがそんなに長く覚えている。
それが、思った以上に嬉しかった。
「でも」
ノアが続ける。
「今すぐ何か返事をしてほしいわけではありません」
「そうなのですか?」
「婚約を解消することになったばかりでしょう」
「ええ」
「そんなときに返事を迫ったら、僕まで嫌われそうなので」
「嫌いにはならないと思いますけど」
「本当ですか?」
「たぶん」
ノアが笑う。
その顔を見ていると、クラリスも少し気持ちが軽くなった。
「ノア」
「はい」
「一つだけ、お願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「今度の休日、時間はありますか?」
「あります」
「街へ付き合ってもらえませんか」
ノアが少し驚いた顔をした。
「僕でいいんですか?」
「あなたに聞いているのですから」
「……それなら、喜んで」
それだけだった。
婚約の話も。
結婚の話も。
その先の約束もない。
ただ次の休日に、一緒に街へ出かける。
今のクラリスには、そのくらいがちょうどよかった。
休日の朝。
玄関へ向かうと、エマが壁にもたれて待っていた。
「お出かけ?」
「ええ」
「ノア様と?」
「どうして分かったの」
「お姉さま、分かりやすすぎるよ」
「そんなことはありません」
「あります」
エマは楽しそうに笑う。
「それで、ノア様とはどうなったの?」
「どうもなっていません」
「本当に?」
「今日は一緒に街へ行くだけ」
「ふうん」
明らかに信じていない顔だった。
「何ですか、その顔は」
「別に」
「エマ」
「行ってらっしゃい、お姉さま」
追及する前に、エマは逃げるように居間の方へ歩いていった。
「まったく……」
玄関の扉を開ける。
外ではノアが待っていた。
クラリスを見つけると、いつものように笑う。
「おはようございます」
「おはようございます。待たせましたか?」
「いいえ。僕も着いたばかりです」
本当かどうかは分からなかったが、クラリスはそれ以上聞かなかった。
ノアの隣へ並び、一緒に街へ向かった。




