欠測の輪郭
欠測は、何も起きなかった時間ではない。
何かが起きていたのに、それを数える者がいなかった時間である。
佐原千尋は、その違いを仕事にしていた。
気象資料再解析センターの地下二階には、百年分の空が保存されている。紙の原簿、退色した自記紙、船舶から打電された電文、空港の観測記録、人工衛星がまだ粗い目で地球を眺めていた時代の画像。そうした無数の断片を数値予報モデルに与え、過去の大気を計算機のなかにもう一度立ち上げる。
再現された風は森を揺らさない。雨は地面を濡らさず、気圧の谷に船は沈まない。それでも、過去の台風がどこを通り、海面をどれほど持ち上げたかを知るために、かつて存在した空をできるだけ正確に作り直す必要があった。
画面上では、観測値は黒い点で示される。推定値は淡い青だった。
黒い点と黒い点のあいだを、青い線が滑らかにつないでいく。
千尋は、滑らかなものを信用しすぎないようにしていた。計算機は空白を嫌う。人間が不在だった時間にも、もっともらしい風を吹かせ、もっともらしい雨を降らせる。線が美しくつながっているほど、その下に何が欠けているのか見えにくくなる。
その日、品質確認画面に上がってきたのは、白瀬岬測候所の記録だった。
一九九四年十月十四日
午前二時十分から、三時二十八分まで
気圧、風向、風速、視程、すべて欠測
最後の観測は午前二時十分。海面気圧九四六・一ヘクトパスカル、東南東の風、毎秒三一・四メートル。次の記録では、風は西北西に変わり、気圧はすでに上昇へ転じている。
その七十八分のあいだに、台風の眼が岬を通過した可能性が高かった。
再解析モデルは最接近時刻を午前二時五十分前後と推定していたが、誤差は大きい。台風の進路を数十キロずらせば、沿岸の高潮計算が変わる。品質判定欄には赤字で、原資料確認要、と表示されていた。
千尋は日付を見たまま、しばらく手を動かさなかった。
十月十四日は、彼女の誕生日だった。
白瀬岬測候所の当直者名には、佐原修一とあった。
父の名だった。
◇ ◇ ◇
白瀬岬測候所は、千尋が八歳まで暮らした場所だった。
岬の町からさらに路線バスで四十分。終点からは、海沿いの坂道を歩く。かつては職員官舎が三棟あり、発電機小屋と無線塔と、白く塗られた百葉箱が並んでいた。二十年前に無人化され、その後、観測機能そのものが沖合のブイと衛星へ移された。
来月には建物が取り壊される。
センターの上司は、現地確認の申請書を見て言った。
「親族の記録なら、別の者に回してもいいですよ」
「いえ」
千尋は答えた。
「局地モデルの調整も必要です。地形を知っている人間が行ったほうが早いです」
嘘ではなかった。
だが、それが理由のすべてでもなかった。
父は前年の冬に死んでいた。葬儀は岬から遠く離れた市内の斎場で行われ、白瀬の元職員が二人参列した。父は晩年まで、測候所がなくなったあとの岬へ、ときどき一人で出かけていたらしい。
何をしに行くのかと尋ねても、「見に行く」としか言わなかった。
何を見るの、と千尋が訊けば、父は少し考えてから、「変わったものを」と答えた。
変わらなかったものについては、口にしなかった。
十月の岬には、まだ夏の名残があった。すすきは海側へ伏せ、白い穂の裏を見せていた。坂道のアスファルトには細かな亀裂が走り、その隙間から、名を知らない草が伸びている。
測候所の外壁は灰色にくすみ、潮に削られた窓枠は、指で触れれば崩れそうだった。
管理会社から預かった鍵を回すと、扉は一度抵抗し、それから長い息を吐くように開いた。
室内には、油と紙と塩の匂いが残っていた。
千尋は、その匂いを知っていた。
廊下の突き当たりに観測室がある。幼いころ、彼女は入口の黄色い線から先へ入ることを許されなかった。父が水銀気圧計を読むあいだ、線の手前にしゃがみ、磨かれた床に映る父の靴を見ていた。
父は、数値を読むときだけ、小さく唇を動かした。
九八三・二
北北東
五百メートル
世界には、父の声で呼ばれると輪郭を得るものがあるように思えた。
反対に、父が名前を呼ばないものは、そこにあっても存在が薄かった。
夕食に出た魚が何かと尋ねれば、父は魚の名前を答えた。今日の海はどうだった、と訊けば、波高と視程を答えた。
千尋が学校から泣いて帰っても、父は「どうした」とは訊かなかった。
「何時から泣いている」
そう訊いた。
父にとって時刻は、ものごとを理解するための入口だった。千尋はそれを、長いあいだ、冷たさだと思っていた。
冷たさという言葉で括れば、父のことをわかった気になれた。
観測室の奥には、記録庫へ下りる狭い階段があった。
棚には年度ごとの原簿が並んでいる。背表紙を指で追うと、埃の下から一九九四年の文字が現れた。
十月分の原簿は、黒い布張りだった。
ページを開く。
午前一時
午前一時十分
午前一時二十分
数値は父の字で記されていた。細く、傾きがなく、一つ一つの数字が隣の数字と同じ距離を保っている。
二時十分の次は、白かった。
罫線だけが七段、空欄のまま続いている。
三時二十八分、観測再開。
欄外に短い注記があった。
――停電および観測者離席により欠測。
それだけだった。
離席理由は書かれていない。
千尋はページをめくった。
翌日の欄も、その翌日の欄も、いつもどおり埋められている。父の字には乱れがなかった。台風が去ったあとの空も、前日と同じ幅の数字で記されていた。
記録棚の最下段に、薄い灰色の箱があった。
表には赤鉛筆で、業務事故関係、と書かれている。
中には停電報告、非常用発電機の点検票、電話回線の不通記録、そのほか数枚の書類が入っていた。
最後の一枚は、観測中断に関する顛末書だった。
当直者、佐原修一。
台風接近に伴う商用電源喪失後、自動観測装置が停止。規程に基づき、十分間隔の手動観測へ移行。
午前二時十三分、隣接官舎より家族の急病を知らせる連絡を受ける
午前二時十五分、観測室を離れる
午前三時二十五分、復帰
中断時間中の補助当直者への引継ぎは、電話および無線不通のため実施できず。
理由欄には、こうあった。
――妻の急産に伴う分娩介助。
千尋は、そこを二度読んだ。三度目には、文字の意味がわからなくなった。
父が自分を取り上げたことを、彼女は知らなかった。
◇ ◇ ◇
母は、千尋が十一歳のときに病気で死んだ。
生前、出産の話をほとんどしなかった。台風の夜だったこと。窓ガラスが割れそうなほど鳴ったこと。停電して、廊下に蝋燭を並べたこと。そうした断片だけは聞いていた。
「お父さんもいたの」
幼い千尋が訊いたとき、母は笑って答えた。
「いたわよ。ずっと忙しそうだったけど」
千尋は、父が観測室と官舎を行き来していたのだと思っていた。
顛末書には、父が最後まで官舎にいたことが記されていた。
気象台からの処分通知も残っていた。
厳重注意。
単独勤務時の緊急事態に関する手順不備。
備考欄には、上司と思われる人物の手書きがあった。
――人命上やむを得ない事情を認める。
父の署名欄の下には、弁明事項、という空欄がある。
何も書かれていなかった。
千尋は書類を箱へ戻し、もう一度取り出した。空欄を透かして見た。消した跡も、書きかけた跡もない。
父は、自分の選択を説明しなかった。
娘が生まれたと書けば、処分は軽くなったかもしれない。それでも父は、弁明欄を白いまま残した。
なぜ、と千尋は思った。
なぜ、あなたはいつも、必要なことだけを書かなかったのだろう。
記録庫の机には、引き出しが三つあった。一番下は錆びつき、半分までしか開かない。力をかけると、奥で何かが倒れた。
手を入れると、小さな野帳が出てきた。
表紙に名前はない。雨水を吸ったらしく、ページの端が波打っている。最初の数ページには、発電機の燃料残量と、電圧の推移が書かれていた。
十月十四日
午前零時四十七分、陣痛、約七分間隔
一時二十三分、約五分
一時五十八分、停電
二時八分、破水
二時十三分、真知子より呼ばれる
二時十五分、観測室離脱
二時二十一分、診療所へ無線。不通
そこから先は、字が少しだけ大きくなっていた。
二時三十八分、児頭確認
二時四十六分、娩出
二時四十七分、啼泣なし
二時四十八分、背部刺激
二時四十九分、啼泣
二時五十二分、外風ほぼ止む
三時二分、母体出血、少
三時十九分、風向、西へ変化
三時二十五分、観測室へ戻る
千尋は、二時四十九分の行に指を置いた。
啼泣
父の野帳のなかで、彼女は声として記録されていた。名前ではなく、体重でもなく、ただ、泣いたという事実だった。
次のページには、欠測時間中の気圧と風速を推定した計算が残っていた。直前直後の変化率。隣接観測所との気圧差。台風の移動速度。海上保安庁の船舶電文。
父は、欠けた七十八分を埋めようとしていた。
二時二十分、九四二・八
二時三十分、九三九・一
二時四十分、九三六・七
鉛筆で書かれた数字は、すべて一本の線で消されていた。
ページの下に、小さな字で記されている。
――推定可能。ただし、観測値としては提出せず。
千尋は目を閉じた。
父との最後の口論を思い出した。
再解析センターへの転職が決まった年だった。千尋は実家の台所で、過去の観測を数値モデルへ同化する仕事だと説明した。
父は湯呑みを持ったまま言った。
「計算機で、昔の空を作るのか」
「作るんじゃない。残っている記録から推定するの」
「推定したなら、推定と書け」
その言い方が、千尋には侮辱に聞こえた。
「そんなことは当然でしょう」
「なら、いい」
「私の仕事を馬鹿にしているの」
「逆だ」
父はそう言ったきり、黙った。千尋は腹を立てて、その日のうちに帰った。
父が脳梗塞で倒れたのは、その三か月後だった。言葉は戻らなかった。
父は、人の表情から気持ちを推し量ることをしなかった。
千尋が「平気」と言えば、平気として扱った。寂しくないと言えば、寂しくないものとした。推測で相手を決めつけることは不誠実だと、父は考えていたのかもしれない。
だからといって、それで救われたわけではなかった。
子どもには、自分でも観測できない感情がある。
言葉にできないものを、誰かに推定してほしい夜がある。
千尋は父を理解したと思いかけ、やめた。
理解は、ときに相手を滑らかな一本の線にしてしまう。
父の不器用さと父の誠実さは、同じものではなかった。ただ、同じ場所から生じていただけだ。
◇ ◇ ◇
センターの同僚から電話がかかってきた。
「原簿、ありましたか」
「ありました」
「欠測理由は」
千尋は野帳を見た。
「観測者の緊急離席。自動装置は停電で停止」
「モデル側は、最低気圧九三六前後で安定しています。風向反転も二時五十分くらい。周辺の船舶記録と合います」
「二時五十二分に、風がほぼ止んだという記述がある」
「現地観測ですか」
「非公式の野帳。目視というより体感記録」
「使えそうですね」
同僚は軽い声で言った。
「主観記録でも、眼の通過時刻の制約にはなります。写真、送れますか」
千尋はページを撮影した。時刻だけを書き写し、出生に関する記述を伏せて送った。
「助かります。これなら不確実幅をかなり狭められる」
電話が切れたあと、千尋は観測室へ戻った。
窓の外に海が見えた。
空は晴れていたが、沖には低い雲があった。光を受けた海面の一部だけが銀色に白く、そこから先は鉛のように暗い。
父はあの夜、この窓の前に立っていた。
毎秒三十メートルを超える風のなか、停電した機械を手動観測へ切り替え、十分ごとに数値を書き続けていた。
そして二時十五分、席を立った。
気圧計を見なかった。
風速計を読まなかった。
観測者として知るべきだった空を捨てて、官舎へ走った。
その選択が愛だった、と千尋は考えた。
考えてから、それもまた推定だと思った。
父はもう訂正しない。
故人にもっともらしい感情を与えることは、空白を埋めるのに似ている。理由のない行為に理由を置けば、話は滑らかになる。人は納得し、安心して先へ進める。
だが、父が本当は何を恐れ、何を選んだのか、千尋は観測していない。
確かなのは、父が離席したことだけだった。
そして、戻ってきたこと。
七十八分のあいだに、風が反転し、気圧が底を打ち、一人の子どもが呼吸を始めた。
◇ ◇ ◇
千尋はセンターの端末を開き、現地から再解析計算を走らせた。
野帳の時刻情報を補助条件として加える。台風の眼が白瀬岬を通過した時刻は、午前二時五十一分。推定最低気圧、九三六・四ヘクトパスカル。不確実幅、プラスマイナス一・二。
風速は眼の直前に最大へ達し、その後、急激に弱まる。二時五十分前後には、岬の上だけに一時的な静けさができていた。
そこには波の音も、割れかけた窓の震えも、母の息も、父の手もない。ただ風速の数字がゼロへ近づき、また立ち上がっていく。
端末に確認画面が表示された。
原観測系列を補完値で上書きしますか。
千尋は「いいえ」を選んだ。
派生系列として追加しますか。
「はい」
送信ボタンを押す。
処理完了。
画面上で、黒い点と黒い点のあいだに、淡い青の曲線が現れた。
線は滑らかだった。
千尋は拡大表示を切り替えた。
派生系列では、気圧は途切れず変化している。風は弱まり、向きを変え、再び強くなる。台風は一つの完全な運動として岬を通過した。
原観測系列には、白い空欄が残っていた。
その白さを見て、千尋はようやく息を吐いた。
空白は欠けているのではなかった
(終)




