婚約者に追い込まれた伯爵令嬢は、自殺を決意する
私は断崖絶壁にいる。ここから飛び降りれば確実に死ねる。ここは自殺の名所なのだ。一歩足を前に出せばつらい日々と永遠に決別できる。私はその一歩を今踏み出そうとしていた。
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私は17歳の伯爵家の娘で、厳格すぎる父と夫の顔色ばかりを窺っている母のもとで育った。父の教育はすこぶる厳しく、それはしつけを通り越してもはや虐待だった。食べ物を少しこぼしただけであざができるほど棒で殴られたし、少し口答えしただけで、真冬に裸同然の格好で何時間も外に放置されたこともある。
17歳になった私は父の命令である公爵と婚約した。結婚すれば実家から離れられると私は喜んだ。だがすぐに喜びは絶望へ変わった。
婚約者のルイは40歳を超えた太った醜い男で、生粋のサディストだったのだ。前妻は病死していて、私とは再婚である。
ルイは私が反抗できないのを利用して、嫌がらせや虐待を日々繰り返した。私を意のままに操ろうとし、私がそれに少しでも逆らうと執拗に攻め立てて、肉体的にも精神的にも完膚なきまでに痛めつけてきた。それはもう拷問といってもいいような熾烈極まるものだった。
当然私は精神を病み、吐き気、眩暈、頭痛はもちろんのこと、幻覚や幻聴まで起こる始末。
このままではいじめ殺されてしまうと思い、父にルイとの婚約を解消したいと訴えた。すると父は娘である私を守るどころか、烈火のごとく怒り、私をぶん殴った上、5時間にわたって延々と説教をした。
伯爵家の自分たちが公爵家と婚姻を結べるというのは破格の僥倖なのだそうだ。それを破棄するというのは神への冒涜だとまで言われた。
このまま18歳になれば私はサディストのルイと結婚し、おそらく彼の前妻と同じように病気になって死ぬしかないだろう。
ここにきて私に残された道は自殺一択になった。
頼れる人はいない。母は父の顔色をうかがうばかりで私をかばうことすらしないのだ。
×××
そういうわけで私は今断崖絶壁に立って死への一歩を踏み出そうとしているのだ。来世では幸せになりたいな。
胸の前で手を組み、目を閉じて、足を前に踏み出した。そのとき、強い力で私の腕をつかむものがあった。
「おい、何してるんだ! 危ないだろ!」
誰かに腕を引っ張られて引き戻された。私は絶望した。自殺することさえ許されないのか。
私を引っ張ったのは青い服を着たイケメンの青年だった。金髪でとても端正な顔立ちをしている。年齢は20歳ぐらい。彼は私を助けたつもりなのだろうが、実際は真逆である。死ぬことだけが私の唯一の救いだったのだ。
私は彼を恨んだ。
「なぜ死なせてくれなかったの?」と泣きながら尋ねる。
「どんなつらいことがあったのかは知らないが、自殺なんてしちゃだめだ。どんな状況にあっても、人は強く生きなくてはいけないんだ。必ず打開策はあるはずだ」
「私の置かれた状況に打開策なんてない。この地獄から抜け出すには、死ぬことが唯一の方法なのよ」
「よかったら僕に話してくれないか? もしかしたら力になれるかもしれない。僕の名はエリオットだ」
死ぬことすら失敗した私は、もうすべてがどうでもよくなっていた。
私はエリオットに手を引かれるままカフェに入り、彼と向かい合って座って、自分の身の上を話しだした。話しながら、あとからあとから涙があふれ出てきた。
エリオットはそんな私の話を熱心に聞いてくれた。そして言った。
「それはあまりにもひどいな。君の両親も、君の婚約者も人間の屑だ。そんな婚約は破棄して、家からも出るべきだ」
「それができたら苦労しないわ。この厳しい世界で私なんかが一人で生きていけるわけがないもの」
「それは大きな間違いだよアリス。世の中はそんなに厳しくない。君は父親からそう言い聞かせられて洗脳されているだけだ。世界はもっと楽しくて自由で素晴らしいものなんだ。心優しい人だっていっぱいいる。渡る世間に鬼はないって言うじゃないか」
「でも・・・」
「君は心優しく純粋で美しい魂を持った女性だ。しかも今までのつらい人生を耐え抜いてきた強靭な心も持っている。僕と一緒に今の状況を打開しよう。そうすれば君は、さなぎがチョウになるように新しい自分に生まれ変わり、素晴らしい人生を手に入れることができるはずだ」
「ほ、本当にそんなことができるの?」
「本当さ。僕が保証する」
絶望の淵にいた私に一縷の希望が見えた。今目の前にいるエリオットという青年は天使なのではないだろうかと私は思った。
しかし、次の瞬間にこの希望がもろくも崩れ去ることになるとは、この時の私には知る由もなかったのだ。
「おいアリス、いったい何をしているんだ!」とカフェの中に怒号が鳴り響いた。
私はびくりと肩を痙攣させて声の主を見る。そこに立っていたのは私の婚約者であるルイだった。彼は目を吊り上げて般若のごとき形相をし、怒りで唇をプルプル震わせていた。
私が見ず知らずの青年とふたりでカフェにいるという状況が彼の逆鱗に触れたのだ。
「ル、ルイ、これは違うの」
「なにが違うって言うんだ!? お前は俺というものがありながらほかの男とイチャイチャしやがって!」
おろおろする私をしり目に、エリオットは冷静な態度を崩さないままでルイに向かって言った。
「お前がアリスの言っていた最低な婚約者のルイだな」
「なんだと! てめえ、俺の女に手を出してただで済むと思っているのか! 表に出ろ! ぶん殴ってやる!」
「やめてルイ! 悪いのは私なの。エリオットはただ私の話を聞いてくれただけなんだから」
「うるせえ、お前はすっこんでろ! 後でお前にはきついお仕置きをしてやるからな」
「アリス、僕なら大丈夫だ。ここは僕に任せてくれ」
エリオットとルイはカフェから出て通りの真ん中で向かい合った。私もついていく。
ルイは今は太っているものの、以前はボクシングをやっていたとかで、腕っぷしにはかなりの自信を持っている。対するエリオットは長身でスラリとしていて、あまり喧嘩が強そうには見えない。
喧嘩が始まるとみて野次馬たちが集まってきた。
「おい優男、謝るなら今のうちだぞ。土下座したら2・3発ぶん殴るだけで勘弁してやる」とルイはエリオットに指を突き付ける。
「謝る気はない。お前はアリスを虐待し追い詰めたくず野郎だ。そんな奴に僕は決して負けない」
「ふん、いい度胸だ。半殺しにしてやるぜ」
「望むところだ」
ふたりの目の間に火花がばちばちと散る。私はもちろんエリオットを応援している。この堂々とした自信たっぷりの態度からして、彼は実はすごい武術の達人なのかもしれない。ルイをコテンパンにぶちのめして私を悪魔の手から救い出してくれるに違いない。
しかし現実はそんなに甘くなかった。
コテンパンにぶちのめされたのはエリオットの方だったのだ。彼は見た目通りの優男で喧嘩はからっきしだった。ほとんど一方的にルイからぶちのめされて気絶し、往来で大の字にぶっ倒れた。野次馬たちは歓声を上げて喜んだ。
私は「エリオット!」と叫んで彼に走り寄ろうとしたが、その腕をルイにつかまれ、そのまま家に連れ去られてしまった。
ルイの家で私はいつもよりもさらに激しいせっかんを受けた。顔面がはれ上がって、両目はふさがり、全裸にされて体じゅうがあざだらけになるまで鞭で打たれた。
まさにこの世の地獄だ。一縷の希望さえない。
私はもう自殺する気力さえ失って、生ける屍と化した。
ただ泣くことしかできなかった。
×××
次の日、王家から私とルイに出頭命令が来た。
「国王が呼んでいるみたいだな。この時期に何の用だ?」とルイは訝しんだ。
しかし王家からの出頭命令を無視することはできないので、私とルイは王宮へおもむいた。
謁見の間に入って行くと、そこにはすでに私の両親も来ていた。どうやら両親にも出頭命令が出されていたようだ。
いったい何の用で私や両親が国王様に呼ばれたのかわからないまま、私はかしこまって国王様にお辞儀をした。
国王様は髭を生やした温厚そうなおじさんだった。頭には王冠が載っている。
「お前たち両家の全財産および領地を没収する」と国王様は唐突に言った。
両親とルイはハトが豆鉄砲を食ったみたいに目を見開いて驚愕する。私もとても驚いた。急に呼び出されたと思ったら全財産と領地の没収を言い渡されたのだ。驚いて当然である。国王様は国民たちから慕われている名君であり、理にかなわないことは決してしないはずである。
「言っている意味がよくわかりません。財産と領地の没収とはどういうことですか?」と父が国王様に尋ねる。
国王様は平然とした態度で、
「言葉のままじゃ。お前たちの全財産および領地を没収する。速やかに必要書類を提出し、今住んでいる屋敷から退去してくれ」
「納得がいきません」とルイが言う。「それじゃあまるで暴君じゃないですか。賢明なる国王陛下、あなたはきっと何か勘違いをしておられるのです。私には財産を没収されるようなことをした覚えはありません」
国王様は目を細めてルイを見た。
「いや、お前は全財産を没収される以上のことをした。死罪になってもおかしくないようなことをな。それを、この程度の罰で済ませてやると言っておるのじゃ」
「はあ? まったく意味が分かりません。私には身に覚えがないことです」
「それでは聞くが、お前の隣にいる婚約者のアリスは顔じゅうあざだらけになっておるな。その傷はなぜできたのじゃ?」
「こ、これは・・・えっと・・・そうだ、こ、転んだのです。うっかりバナナの皮を踏んですっころんで、そのまま階段を転げ落ちて顔面から着地したんです。こいつはおっちょこちょいな奴なんですよ」とルイは言った。
「本当かアリス」
「いえ、あのう・・・」と私は言いよどむ。ここで事実を言ってしまえば、私は後でルイからさらにひどいせっかんを受けるだろう。
ルイは横にいる私に、余計なことは絶対に言うなよ、と目で訴えてくる。
やっぱり言えない。
「これは、転んだ傷です。バナナの皮で転んで階段を転がり落ちたのです」
「ね、私の言ったとおりでしょ」と冷や汗をかきながらルイが国王様を見る。
「それでは質問を変えよう」と国王様は言う。「この男に見覚えはないか?」
すると、これまで部屋の外で待機していたらしい人物が謁見の間に入ってきた。
その人物を見て私とルイは、あっと声を上げた。
「エリオット」と私は言った。
その人物は昨日私の自殺を止め、話を聞いてくれて、そのあとでルイからボコボコにされたエリオットだったのだ。彼はルイに殴られた傷で顔じゅうをあざだらけにしていた。
「見覚えがあるようじゃな。お前はこの男を昨日ボコボコにした。その事実に間違いはないか?」と国王様がルイに尋ねる。
「いや、あの・・・その・・・き、昨日はついカッとなって、思わず・・・けど、それはこの男が私の婚約者とイチャイチャしていたからであって・・・ごにょごにょ」
「きちんと質問に答えろ。お前はこの男を殴ったのか、殴ってないのか? たくさんの目撃者の証言もあるのだぞ」
ルイは言い逃れはできないと悟って、仕方なく殴った事実を認めた。
「確かに、私はその男を殴りました。しかし、たかが喧嘩ぐらいで全財産の没収は横暴です」
「お前はここにいるエリオットが何者かを知らんのだな。おいエリオット、教えてやれ」と国王様は言った。
エリオットはこくりとうなずいてルイに指を突き付けた。
「僕は国王の息子、王太子のエリオット・ブランドーだ!」
「え! お、王太子!?」とルイは絶句し、顔面蒼白になる。
私もエリオットがまさか王太子だなんて夢にも思ってなかったから唖然となった。
ルイは恐怖でぶるぶると震えだす。ここに来て初めて自分の犯した大きすぎる過ちに気づいたのだ。彼はこともあろうに次期国王である王太子をぶん殴ってボコボコにしたのである。これは本来ならば極刑はまぬがれない重い罪だ。
「し、しししし、知らなかったんだ! だって、知らなかったんだからしょうがないじゃないか! 俺ははめられたんだ。謀略だ!」と取り乱したルイが国王様の御前であるにもかかわらず喚き散らす。
するとこれまで黙って事の成り行きを見守っていた父がおずおずと口をはさんだ。
「あ、あのう、私どもはその暴行事件には一切関与しておりません。そんなことがあったことすら今聞いて初めて知ったぐらいです。なのになぜ私まで罰を受けなければいけないのでしょう」
その質問に答えたのは国王様ではなく、エリオットだった。
「それはお前がこれまでにアリスにしてきたひどい仕打ちの罰だ。お前は娘であるアリスに長年虐待を続けてきた。その報いを受けるのだ」とエリオットは言った。
「お言葉ですが王太子殿下。私は娘を心から愛しております。娘を一人前のレディに育て上げるため、心を鬼にして厳しいしつけをしてきました。それを虐待などと・・・。あなたはまだお若くて子供を育てるということがわかってないのです。子育てと言うのはとても大変なことで責任も重大で、一筋縄ではいかないことです。私は娘のためを思って厳しく接してきたのであって、娘への愛は一瞬たりとも忘れたことはありません」
「今の言葉を聞いて何か言いたいことはないか? アリス」とエリオットは私に質問した。「思っていることを正直に言うんだ。ここで本心を言わなければ君はさなぎのまま、永遠にチョウになることはかなわないだろう」
私は目をとして葛藤した。今までの私は自分の心を押し殺して、親や婚約者の言いなりになっていた。けどこのままではエリオットの言う通り一生さなぎのままだ。それは負け犬の人生と言ってもいい。私は変わらなくてはいけない。今がその時なのだ。
「アリス、お前からも殿下に説明してくれ。わしはお前を大切に育ててきたよな。そうだろ? たまには厳しいことも言ったが、それはすべてお前のためだったんだ。お前にもそれはわかっているだろ? 誤解を解いてくれ」と父が私を見る。私が父の意に沿うことを言うと思って安心している。今まで私は父の言いなりになってきた。しかし、今回は違う。
私は決然と首を振った。
「いえ、父は私を愛してなどいませんでした。自分のことが最優先で、私のことは、自分の心を満足させる道具としか思ってません。父は私をコントロールし、いじめ、嫌がらせをして、自分の心を満たしてきました。父は最低最悪のくそ野郎です! 私はこんなやつを親とは思いません。死ねばいいと思います!」
「なにい! 貴様! 親に向かってなんて口をきくんだ! いままで育ててきた恩を忘れたのか! 恩を仇で返すとはこのことだぞ! 国王陛下、王太子殿下、娘はいま錯乱状態なのです。心にもないことを口走っているだけです。こんなやつの言うことに耳を貸さないでください。娘の言っていることは全てうそのでたらめです!」
父がどんなに言葉を尽くしてもそれは無駄だった。
私は国王様とエリオットに対して、自分がこれまでされてきたひどい仕打ちを洗いざらいぶちまけた。
ルイと私の両親は全財産と領地を没収され、無一文のホームレスになった。
これまでぜいたくな暮らしをしてきた両親にホームレス生活などできるわけはなく、ふたりは夫婦そろって首をつって死んだ。
ルイは自分の権力を利用してこれまで多くの人々を苦しめてきたのだが、そのつけが回ってきた。
ホームレスと化したルイは今まで自分が迫害してきた人たちの手によって集団リンチの末に撲殺され、その死体は往来に放置されたのだ。
私は両親と婚約者を一度に失い、文字通り天涯孤独になった。住むところさえ失った。しかし全然悲しくはなかった。それどころかとても晴れ晴れとした気持ちだった。重い荷物を肩から降ろしたみたいな、空も飛べそうなぐらいの軽やかな心持ちだ。
これまでつらい人生を乗り越えてきた私なのだから、この先どんなことがあったって生きていける。
自分の中から活力がみなぎってくるのを感じた。
「なあアリス」とエリオットが言った。
「なんでしょうかエリオット殿下」
「かしこまるのはやめてくれ。これから君はどうするんだい?」
「なにも考えてないわ。けど、なんとかなるような気がするの」
「ははは」と彼は笑った。「崖から飛び降りようとしていた時の君とはまるで別人みたいに見えるよ。どうだろう? 僕の侍女として王宮で働く気はないか? 王宮で住み込みで働けば、住むところに困らないぞ」
もちろん私はその申し出を受けた。
空を見上げるととても青くてきれいだった。今までの私は、空の美しさに気づくことさえできないぐらい心に余裕がなかったのだ。空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
私の新しい人生が、今幕を開けようとしている。




