チャプター5 飢餓
クローとエルシズを迎えて、マデッサ城の防衛力は飛躍的に向上した。
東の城門が破られたと聞けばクローが駆けつけ、西の城壁が危機とあればエルシズが出向いて、それぞれ魔術で敵を駆逐することができるようになったからである。
城を囲むカルガディアの陣はまだまだ分厚く、眼に見えて数が減っていくようなことはなかったが、今、戦況は一定の落ち着きを見せていた。
クローやエルシズのためにカルガディア軍の被害も甚大になっており、いかに猛将として知られるガルバリオであっても、それを無視して突撃を命じることができなくなっていたからだった。
一方で、マデッサには新たな、そして深刻な問題が持ち上がってきた。
兵糧の不足である。
開戦時、カルガディア軍は宣戦布告もなしに侵攻してきたため、ローウェルは迎撃の軍を発するのが精いっぱいで、兵糧を十分に用意するところまでは手が回らなかったのだ。
マデッサは小城ながら、街道が十字に伸びる交通の要衝にあたり、普段から多少は兵糧が貯えられていた。
だが、突如始まった籠城戦はすでに一か月半に及んでいる。普段の貯えは、そろそろ尽きようとしていたのだ。
城内では、食料配給の制限が強化された。
ほとんど不眠不休で戦い続けている兵士たちですら、十分な量の食事が取れていない。具もない薄いスープをすすり、小さなパンを戦友と分け合って食べている。
ましてや兵士よりも配給の量が少ない民衆はといえば。それぞれの家の貯えが尽きた後は、家畜を殺し、木の皮でも剥いで食べるしかない。
城内には川が流れており、飲み水には困らないのがせめてものことだが、カロリーゼロの水では、いくら飲んでも腹は膨れない。
ところで、その川にカルガディア軍が未だ毒を流さないでいるのは幸いだった。城内には井戸もあるとはいえ、命の水が失われれば、市民生活はとたんに脅かされる。敵将ガルバリオは、そのような手を使うのを好まない男なのかもしれない。
大魔術師のクローとエルシズは、いつでも自宅などよく知る場所へ一瞬で移動できる「空間転移」の魔術が使える。
そのため、王都との連絡や多少の物資の運搬には支障がなくなったが、彼らがザックに詰めて持ち運べる食料などたかが知れている。ピストン輸送という手もないではないが、「空間転移」で魔力を消費すれば、その分、防衛のための攻撃魔術が使えなくなるのだ。
北斗たちがマデッサに戻ってから、一週間が過ぎた。兵糧の不足はいよいよ抜き差しならない状況となっている。ついに軍馬までもが屠殺され、肉が供されることとなった。
北斗はもちろん、兵糧の不足をどうすることもできない。できるのは、家畜の牛や豚、そして軍馬を殺す時に、その血を無駄にしないよう活用を提案することくらいだった。
「馬や牛の血には、栄養が豊富に含まれています。無理をしてでも、飲むか食べるかしてください」と。
血液には、カリウムや鉄分などの栄養素がふんだんに含まれているからだ。
その血に塩を加えて蒸すと、豆腐のような塊ができる。中国の四川省や雲南省、タイやフィリピン、韓国など広い地域で今も食べられており、スペインでも似たようなものがあるという。
北斗は、羽柴(豊臣)秀吉が毛利方の鳥取城を兵糧攻めにした、いわゆる「鳥取の渇え殺し」のことを知っていた。鳥取城では、籠城中の飢餓もさることながら、ついに城主・吉川経家が責任を負って切腹し、残る兵士の命を助けた後に起きた出来事も悲惨である。牛馬の血を摂取することは、それを予防する意味があった。
それに、豆腐のようなものであっても、塊で食べれば多少は腹が膨れた気になる。
◇◇◇
「まだ動けるか?」
城中の人々のあいさつがそれになってから、また一週間が過ぎた。
ある時、レルグに呼ばれて執務室に赴いた北斗は、そのドアを開けて驚いた。
丸椅子に腰掛けたレルグが、従者に手伝わせて鎧――精霊は鉄のにおいを嫌うので、それを使役するレルグは皮でできた鎧しかまとうことができない――を着込み、どこかに出立する準備をしていたからだ。
「おお、北斗。呼びたててすまないな」
入ってきた北斗に向かって、レルグは弱々しく微笑んだ。
城代にして国家の重鎮であるレルグは、彼がそう望めば、優先して食料が確保できるはずである。しかし彼は、自分の分を減らして兵士や民衆に分けてやるような男だった。
城代としての気苦労に飢餓が加わり、彼の頬は今、げっそりとこけている。もはや足にも力が入らないようで、鎧を着るにしても、立ったままではそれができない有様だった。
「いえ。それより、いかなる御用でしょう」
尋ねた北斗の顔は、レルグよりも多少は血色がよい。
それはローリスリアの人々との食文化の違いにある。日本人の北斗は、たたきや馬刺しなど、牛馬の肉を生やそれに近い状態で食べることに抵抗がない。焼けば失われるビタミンが、生ならば摂取できるのだ。
北斗は皆にも生食を進めてみたのだが、エリーサには「禽獣でもあるまいし、生でなど食べられるか!食べるくらいなら、飢えを選ぶ!」と怒られてしまった。日本に滞在したことのあるレルグは刺身も含めて経験があったが、それでも抵抗があるらしい。牛ステーキのレアはともかく、ローリスリア人にそれ以上のことは難しいようだった。
レルグは、デスクの上にある一通の書状を指差した。
「城外から矢文が射込まれてな。読んでみてくれ」
一礼して、北斗はそれを手に取った。
インクも鮮やかな書状の文字は達筆だった。それは、漢字かな交じり、時折カタカナで書かれた英語由来の言葉も混じった、すなわち北斗がよく知る日本語そのままで書かれている。しゃべっている言葉といい、北斗にはそれが不思議でならなかったが、おかげで、この世界に来てから困ったことは一度もない。
国王ジュノの名で発されているというその書状には、要約するとこう書かれていた。
兵糧補給の目途が立った。受け渡しの方法については最重要機密なので、その受取には城代レルグ自らが少数の兵とともに赴いて行うこと。以後の指示は城外において行う。
北斗は一読すると、いきなり、その書状をビリビリに引き裂いた。
「北斗、きさま!なにをする!」
叫ぶなり、レルグが幽鬼のような形相ながら、虎のごとき勢いで飛びかかってきた。その足はフラフラで、もう満足に立てないはずなのに。
胸倉を掴まれた北斗だったが、冷静な目で上官のことを見下ろした。あえて一語ずつ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「これは、偽書、です。絶対に、従っては、いけません。閣下が、城外に出ては、なりません」
レルグの手が少し緩んだのを確認して、北斗は理由の説明を始めた。
長期にわたって攻囲に耐えている城が落ちるのは、どういう時か。その一つは、城主が城を離れた時である。
日本の城と違って城壁が街をぐるりと取り囲むタイプの中国の城では、歴史上、長期間にわたる籠城戦が数多く発生した。フビライ・ハンの元軍に四年半もの間抵抗した南宋の襄陽城が有名だが、元と南宋の戦いでは、他にも揚州城や釣魚城など各地で籠城戦が行われている。
釣魚城に至っては、なんと三十六年間にもわたって包囲に耐えていたというから驚きだが、その釣魚城も揚州城も、やむを得ない事情で城主が城を離れた時に落城しているのである。揚州城では、留守を任されたはずの部将が降伏していた。一時的にでも精神的支柱である城主を失って、残された守備隊の気力が萎えてしまうのだろう。
「……だが、これはジュノ陛下の書状だ!勅命だぞ!」
説明を聞き終えてもまだ北斗の胸倉から手は離さず、レルグはそう怒鳴った。北斗が知る限り、レルグは部下に対して厳しく叱咤することはあっても、感情のままに怒鳴るような男ではなかったはずだが。
北斗はその手の中の切れ端を示しつつ、尋ねた。
「これは、本当にジュノ陛下の筆跡ですか。侍中である閣下なら、よくご存じでしょう」
「……っ!」
そう問われてレルグの顔色が変わったが、彼はまだあきらめなかった。
「……これが偽りでなどあるはずがない。本物であれば、我々は、マデッサの軍民を救う機会をみすみす逃すことになるのだぞ!その時に、おまえには命をもって償う覚悟があるのか!?」
いつも穏やかなレルグの顔が、今はまるで別人のように荒れている。魔王封印の勇者だけあって、やつれていてもその迫力は相当なものだが、北斗も引くわけにはいかない。
「北斗、おまえは言ったな!『私の献じた策が机上の空論だと思われた場合には、絶対に従ってはなりません』と!今がその時だ!」
北斗は言い返さなかった。
かつてレルグにそう言明したのは確かだったが、北斗には今、自分が間違っているとは思えなかった。だが、これ以上何かを言うと、レルグを貶めることになってしまう。彼はこの若い上官を敬愛していたので、さすがにそれは気が引けた。
互いに黙ったまま、至近距離で二人が視線をぶつけあったその時、執務室のドアが叩かれた。
入ってきたのは、通信のために王都に行っていたクローだった。
「二人とも、なにをやっているんですか!?」
北斗の胸倉をつかんだレルグを見て、クローは驚きの声を上げた。あわてて、二人の間に割って入る。
やがて二人の話を聞き終えたクローは、そのアクアマリンのように澄んだ瞳を、哀れむようにレルグに向けた。
「……レルグくん。残念ながら、これはホクトくんが言う通り、偽書です。ジュノ陛下は、このような書状を出しておりません」
それを聞いたレルグはがっくりと肩を落とした。椅子にへたり込んで、背を向ける。
悪かったな、北斗……。そう力なく漏らした小さな背中に向かって深く頭を下げると、北斗は執務室を後にした。それに一歩遅れて出てきたクローが、こうつぶやく。
「まずいですね」
「はい。そう思います」
北斗はうなずいた。レルグのことである。
こんな見え透いた偽書に、彼は引っかかった。栄養失調のため、もはや正常な判断ができなくなっているのだ。
「ぼくやエルシズがいる時はいいですが、そうでない時が心配です。ホクトくん、その時は彼のことをお願いしますよ」
「はい。できる限りのことはいたします」
ジュノをはじめ様々な人によく似た、この顔に頼まれては逆らえない。もっとも、断るつもりもなかったので、北斗は力強くうなずいた。
安堵して微笑んだクローだったが、教育者でもある彼は、北斗にこう釘を差すことも忘れなかった。
「ですが、ホクトくん。偽書とは言え、いきなり引き裂くというのはやりすぎです。相手が温厚なレルグくんだからよかったものの、斬り捨てにされていてもおかしくない行為ですよ。自分の立場をきちんとわきまえるように」
レルグくんにはっきりわからせるために、わざとやったのですね?と、クローは北斗の意図を理解してくれたが、この顔に叱られると弱いのである。
北斗は素直に謝った。
「おっしゃるとおりで、大変申し訳ありませんでした。以後、心いたします」
この件は、これでひとまずカタがついた。
しかし、戦史に詳しい北斗には、次に持ち上がる問題がわかっている。
それは、二つあった。
◇◇◇
城内の飢餓はもはや末期だった。
植物という植物は葉っぱも木の皮もすべて食べ尽くされ、城内を流れる川からは生き物の気配が消えた。
家畜の牛豚はもはや一頭も残っていない。軍馬も急使を出す場合に備えてわずかな数が残るだけである。その軍馬が食べる物ももうないので、早晩、倒れる運命にあった。
クローとエルシズが時折、「空間転移」の魔術でわずかながら食料を運んでくれるが、焼け石に水である。彼ら二人は王都に戻った時に食事が取れるので、まだ肌ツヤがよいが、それに文句をつける者はさすがにいない。
彼らが宋襄の仁――つまらない公平感にこだわり、栄養失調で動けなくなれば、残されたか細い糸まで切れてしまうからである。
そのころ兵士たちの間では、一つの噂が広まっていた。
猿を捕まえて、食っている者がいるらしい――
それを耳にした北斗は、ついに来るべき時が来たか、と思った。そして彼は、こうレルグに進言したのである。
「将軍、噂の出所を徹底的に調査してください。噂を流した者、そして実際に猿の肉を食べたという者がいれば、厳しく取り締まりをお願いします」
猿の肉。
というが、それは、人肉のことに他ならない。
人類社会で最大のタブーの一つが、人間が同じ人間の肉を喰らうカニバリズムであることに疑いはないだろう。
しかし、古代から現代に至る人類の歴史上、極限状態に置かれた人々がそのタブーを冒した例は少なくなかった。
先に紹介した羽柴秀吉の「鳥取の渇え殺し」にしてもそうだ。食べられる物をすべて食べ尽くした鳥取城の人々は、ついに同じ城内に暮らす人間の肉を口にしたのである。
長期間の籠城戦が多かった中国では特にその例が多いが、十字軍の兵士たちが飢えに苦しみながらも陥落させたマアッラの住民の肉を喰らったという記録もある。人肉食は、洋の東西、人種の如何を問わず発生しているのだ。
取り締まりを進言した北斗も、追い詰められた兵士たちがやむにやまれず、秘かに人肉を口にするのは仕方がないと思っている。まさに「生きてこそ」だ。
一方で、レルグ以下の司令部がそれを認めたり、自らが人肉を口にしたりすることは絶対にあってはならなかった。
一度でもそれを認めてしまえば、例えこの籠城戦に勝ち、生き残ったとしても、激しい非難にさらされるのが必定だからだ。
中国は唐の時代にその例がある。
天下を揺るがした安禄山・史思明の乱に際し、交通の要衝・睢陽の城は敵の大軍に囲まれたが、主将の張巡と太守の許遠は固く守って九か月もの間持ちこたえた。
やがて食料が尽きたが、張巡は愛妾を、許遠は従僕を犠牲にしてその肉を兵士にふるまい、抵抗を続けたという。味方にも見捨てられた睢陽はついに落城し、張巡と許遠もそれぞれ時を置いて処刑された。しかし彼らの奮戦により、反乱軍は長期にわたって釘付けにされ、唐の軍は反攻の準備を整えることができたのである。
張巡と許遠の功績は多大だったので、乱が終息した後に彼らを顕彰しようという動きがあったが、反対意見も多かった。
それは、彼らが人肉を食べたからである。
十字軍のマアッラにおいても同様に非難の声が大きく、攻略の功績が認められなかったと伝わる。だからこそ、いかにやむを得ない事情があったとしても、司令部がそれを認めてはならないのだ。
北斗はレルグに、「例え餓死寸前であっても、レルグ将軍だけは人肉を食べてはなりません。そのときは、潔く死んでください」とまで言ったのである。
一方で北斗は、クローとエルシズに、彼らが運んできた食物を無理やりにでもレルグに食べさせるようにと依頼した。彼らの言うことであれば、レルグも聞くだろう。二人もまた、黙ってうなずいたのだった。
レルグの布告で取り締まりが強化され、城内の噂は影をひそめた。
ただ、兵士たちの北斗を見る目は冷たくなった。彼がそれを進言したことは、兵士たちの間ですぐに伝わったのである。
北斗は、人肉食に関わったと思われる者を見つけても、取り締まって独房に入れる程度で、処刑や降格などの処分をするようにとまでは言っていない。それでも極限状態の兵士たちにとっては、北斗が彼らの生きる糧を奪うようにしか見えないのだろう。
兵士たちの視線は北斗にとって恐ろしかったが、城代たるレルグに非難の目を向けさせないためにも、それはやむを得ない処置であった。
◇◇◇
城内がますます殺伐としていく中、北斗は病床にあるエリーサを見舞った。
飢餓は、女子どもなど体力のない者からその命を奪う。騎士であるエリーサはもちろん体を鍛えてはいるが、男に比べれば体格は華奢だ。その性格上、もっとも戦いの激しい場所に身を置きたがることもあって、真っ先に消耗してしまったのである。
ちなみに、兵糧の不足が明らかになってから、レルグは城内に残る女子どもの退去を敵将ガルバリオに申し出ていた。それには人道的な理由と、兵糧の消費を抑える口減らしの両方の意味がある。
拒絶されるだろうと思われた交渉だったが、意外にもガルバリオは、「奴隷になる覚悟があるのだな?」の一言だけであっさりと了承した。
カルガディアには奴隷制度がある。城を出た女や子どもたちを待ち受ける運命は明らかでないが、少なくとも今、この城にいないことだけはよかったに違いない。
自室に北斗を迎えたエリーサは、ベッドの上で、弱々しく微笑んだ。
「情けないが、この有様だ。笑ってくれ」
その顔は、栄養の不足ですっかり黒ずんでいる。陶器人形のようだった美しさは見る影もなかった。
凛々しい女騎士「だった」彼女に、北斗にはかけてやれる言葉がない。できたのは、首を横に振ることだけだった。
「もう剣をとることも、動くこともかなわん。そこでだ……」
そう自嘲気味につぶやくと、エリーサはベッドの中からそろそろと手を伸ばした。
「ホクト、頼みがある。万が一……万が一の話だが、この城が落ちることがあるなら、その時は……」
北斗の手を取った彼女は、こう言った。
「その時は、私を殺してくれ。カルガディアでは、『生きて虜囚の辱めを受けず』という軍紀があるそうだ。私も、ヤツらに侮られたくない」
エリーサ自身は、北斗の手をぎゅっと握りしめたつもりだったかもしれない。だが、その力はあまりにも弱々し過ぎた。
「愚か者!」
北斗もフラフラだったが、彼にはまだ、怒鳴るくらいの元気はあった。
「騎郎エリーサ・サイトともあろう者が、情けない。おまえも騎士なら、敵の肉を噛みちぎってでも喰らい、生きろ!生きて、戦え!」
今まで彼女に対して声を荒らげたことのない北斗――彼女自身は、北斗に対して「頭が悪い」と連呼していたにも関わらず――が突然大声で叫んだので、エリーサはびっくりしたらしい。眼をパチクリとさせていた。
「……って、きみなら言うだろ。他人に言うなら、まず自分がそうしないと。それに、オレにはきみを殺すなんてできないよ」
そう言って微笑んだ北斗だったが、エリーサは眼を伏せると、「どうしてだ……」と力なくつぶやいた。
北斗は目蓋の裏に、彼女に似た別の顔を思い浮かべた。
そして、それまでエリーサには言っていなかったことを告げたのである。
「きみは、オレの大事な人に似ているんだ」
エリーサはハッとして顔を上げた。
「そういえば……おまえ、初めて会った時、私を誰かと間違えていたな。そう、サイトーとか言う……」
そして彼女は、恐る恐るという感じで尋ねてきた。
「……それは、ひょっとして、おまえの恋人か……?」
「ああ、違う違う!」
北斗は、あわてて手と首を同時に振った。
彼女にまでマザコンと思われるかもしれないと思うと今まで言えなかったのだが、ここで変に誤解をされてもよくないので、正直に答える。
「きみは、オレの母さん……母親に顔が似ているんだ。もちろん、年齢は全然違うんだけど」
「そうだったのか……」
エリーサは、少し驚いたように眼を見開いた。そして、何かに気づいたようである。
「ん?すると、そのサイトーとやらいう女も?」
「うん、そう。彼女も母さんに似ている……」
問われた北斗は、ハァ……とため息をついた。
「そして、ティンシア陛下も。さらには、男性のジュノ陛下、クロー卿まで!みんな、うちの母さんに似すぎなんだよ。この国は、いったいなんなのさ!」
それは、北斗がエリーサに初めて会った時から今日まで、だんだんと積みあがってきたモヤモヤだった。
彼は今、それをすべてエリーサにぶちまけた。
答えのあるものでないことはわかっていたが、まもなく訪れるだろう最後の時を前にして、ようやく、北斗は心の中をすっきりさせることができたのである。
言われたエリーサは、呆れたようにつぶやいた。
「私に言われてもな……。それに、それを言ったら、おまえ自身だって私たちに顔が似ているじゃないか」
そう言われて、北斗はうなずいた。
「ああ、そうだ。だからオレは、きみのことを妹みたいに思っている」
必ずしもそれだけではなかったが、レルグにも「妹と思って守ってやってくれ」などと言われた彼は、以来、その頼みを忠実に守ってきたつもりだった。
「なに?」
エリーサは驚いたように眼を見開いた。
「妹だと?おまえ、そんな風に私を見ていたのか!?」
「だって、きみの方が年下だろ」
確かに、北斗とエリーサは兄弟と言っていいほどに顔が似ている。
だが、その答えに、エリーサはため息をついた。
「妹……。そうか、妹か……」
エリーサはなぜだか肩を落として何度もつぶやいていたが、北斗にはその理由がわからない。
「きみだって以前、『兄がいればこんな感じかもしれないな』なんて言っていたじゃないか」
「言った。確かに言ったがな……」
北斗はとにかく「残念なイケメン」だった。彼が鋭いのは、あくまでも自分が関係しない時に限るのである。
「よくわからないけど、まあ、とにかく、そういうことだから。きみには、最後の最後まで生きることをあきらめないでほしいんだ」
黙ってしまったエリーサに向かって、北斗は言葉を続けた。
「オレは、異世界人だ。本来オレには、このローリスリア世界でなすべき何物もない。参軍に任じてくださったレルグ将軍の恩やジュノ陛下の知遇には応えたいと思っているが、せいぜい、それだけだ」
「だから、エリーサ。きみがいてくれてよかった。『妹のようなきみを守る』。その理由があるから、剣をとったことがないオレでも、勇気を出して戦うことができるんだ」
「きみがいなくなって、オレが弓を引けなくなったら、この城の人々も困るだろう?」
そう言葉を結んだ北斗に向かって、エリーサは微笑んだ。
それは弱々しくはあったが、さきほどの、生きることをあきらめたような微笑みではなかった。
「騎郎エリーサ・サイトともあろうものが、剣を手にしたこともないような男に守られるとは落ちぶれたものだ……」
エリーサは、わざとらしくため息をつくと下を向いた。
しかし、やがてその顔を上げた彼女は、北斗の眼を正面から見据えつつ、はっきりとこう言ったのである。
「わかったよ、ホクト。おまえの妹というのには納得がいかんが、私は、もうあきらめない。だから、おまえも最後の最後、その時までは、けっして死ぬな」
ギュッと北斗のそれを握ったエリーサの手は、さきほどよりも多少は力強かった。
「万が一、その時が来たら……その時は、必ずここに戻ってこい。そして、私の手に剣を握らせてくれ。敵の一人や二人でも道連れにして、ともに死のう」
◇◇◇
「軍候のなにがしが昨夜、ロープを伝って城壁を降り、敵に下った」
北斗に向かってそう告げたレルグは、また肩を落とした。
「軍候」とはローウェル軍における階級の一つだ。百名程度の兵士を率いる部隊長のことで、その一人が城を脱出して敵に降伏したというのである。
人肉食と並んで北斗が想起していた、もう一つの起こりえる問題。
それこそが内通、寝返り、裏切りの類だった。
一兵卒が命惜しさで敵に下るのはやむを得ない。だが、軍候ほどの地位にある者が寝返るとなれば話は別だ。
彼らは城内の状況についてある程度の情報を持っており、それが敵に漏洩すれば一大事だからである。また、上官が降伏したとなれば部下たちも動揺するだろう。この城はもうダメだと感じるに違いない。
例えば、豊臣秀吉の天下統一に際し最後の障壁となった、北条氏が籠る小田原城。
「石垣山の一夜城」でも有名なこの戦いは、言うまでもなく、大阪冬・夏の陣と並ぶ日本史上最大級の籠城戦だ。
開戦に先立ち、北条氏が家臣たちとともに、籠城して戦うか、秀吉に降伏するかを協議した「小田原評定」でのこと。松田憲秀という重臣が徹底抗戦を主張した。結局、その主張が通って籠城と決したのだが、戦が進み、やがて北条氏の敗北が決定的となった時に、あろうことかその憲秀が豊臣方に内通しようとしたと伝わる。
しかもそれを、憲秀自身の子どもが主君に通報したというから救いがないが、この件がきっかけで、北条氏はついに降伏を決意したとも言われている。重臣の内通とは、それくらいのインパクトがある出来事なのだ。
「日ごろから、勇ましい言動の多い者がいれば教えてください」
北斗は参軍に任じられ、この城の防衛に関わることになるとすぐに、レルグに対してそう注文をつけていた。それは徹底抗戦を主張したという松田憲秀のことを思い出したからだが、果たして敵に下ったのは。
兵士たちを常日頃「死ぬまで戦え!」と鼓舞していたパワハラ気質の男だったのだ。
自分に厳しい者が他人にも厳しいのは、まだ理解できる。しかし、えてしてパワハラ気質の者ほど、他人には厳しいくせに自分には甘いものだ。
「おまえにも事前に警告されていたのに、防ぎきれなかった。残念だ……」
唇を噛んだレルグだったが、北斗にも忸怩たる思いがある。
それが起こる可能性は想定できたものの、防ぐ手立てまでは思いつかなかったのだ。組織のマネジメントに優れた者なら、事前に寝返りの兆候を察知したり、なんらかの対策を取ったりできたかもしれない。
しかし、北斗は所詮、社会経験のない大学生である。
結果的に、北斗の進言はなんの役にも立たなかった。マデッサの惨状は、今頃、軍侯の口からカルガディア軍に伝わっているだろう。
もはやローウェルの兵士たちは飢えで満足に動けず、カルガディア軍が以前のように攻城塔や破城槌を押し立てて猛攻を仕掛けてくれば、どこまで防げるか疑問だった。
しかし、幸いにもこのところ、カルガディア軍の動きは鈍い。
理由はわからないが、以前のようななりふりかまわない攻撃は影を潜めている。おかげで、もはや生ける屍のような兵士たちでもなんとか防衛できているのだった。この日もカルガディア軍の攻め方には大きな変化がなかった。
猛攻が始まるのは今か今かと戦々恐々としていたレルグや北斗は拍子抜けしたものの、カルガディア軍はもはや、力攻めをする必要もないと見ているのかもしれない。
果実が熟して落ちるのを、ただ待っているのかもしれなかった。




