001:再会と永別
足元に確かな感覚が戻る。導光パネルが淡く光を放ち、壁には半透明のホログラムがゆるやかに立ち上がる。
頭上のドーム状の天井では、外光が反射しているのか、無数の粒子が静かに流れ落ちていく。機械の低い振動が空気を震わせ、耳の奥に残る違和感と混ざり合う。
やがて、壁際のホログラムが人影の形をとり、輪郭が脈動する光をまとって揺れ始める。
《ミスター、おかえりなさい》
その声には驚きよりも、状況を静かに確認するような落ち着きがあった。私の出現を感知したのか、周囲の機器が一斉に反応し、壁のホログラムが情報らしき数値を次々と書き換えていく。
宇宙船内なのか、研究所のような何らかの施設内なのか、見当がつかない。私は深く息を吸い、気持ちを整えて口を開く。
「ここはどこですか?」
《ミスター。帰宅して早々、冗談ですか?》
冗談を言う余裕などない。この場所がどこか、本当にわからない。幸いなことに、相手は私に対して敵意はないようだ。ここは落ち着いて、慎重に言葉を選ぶ。
「助けてくださり感謝します。私は朝比奈朔也と申します」
《違います。あなたはミスターです》
確かに私は男性だが、名前はミスターではない。とはいえ、ここで相手の機嫌を損ねるわけにはいかない。ここは否定せず、相手の出方をうかがうべきだ。
《私の名前はエーアイです》
人工知能――あまりに直球な名乗りに思わず吹き出しそうになるが、私は無表情を保った。
《ここは天空パレス。最初の質問への回答です》
エーアイの次に、天空パレス――私は堪えきれず、吹き出してしまった。私はまだ夢を見ているのだろうか?
ミスター、エーアイ、天空パレス。名前の付け方が幼稚な発想なのか、意図的なのか判断がつかない。だが、その曖昧さが逆に私の好奇心を刺激した。
そう思った矢先、エーアイから、眩しい光が放射された。痛みも衝撃もない光。だが、私は反射的に身をすくめ、目を細めた。
《規定に基づき、ミスターを解析しました》
ゆっくりと顔を上げ、エーアイを凝視した。
次に何が起こるのか、見逃すわけにはいかない。
《ミスターは記憶断絶状態であると判断します》
どこで学んだのかは知らないが、記憶喪失といえば、主張が通るとでも思っているのだろう。経験でわかる。この手の類の相手には、不安や依存心、感情を表に出したら負けなのだ。私はあえて無表情のまま意見を挟まず、受け身の姿勢で相手の言葉を待つ。
《残存するミスターの記憶から話を進めます》
エーアイは一拍置いてから続けた。
《日本旅行はいかがでしたか?》
「に、日本旅行だと?」
(失敗した。私は思わず声に出してしまった)
《はい、日本旅行です。ミスターは朝比奈朔也として日本へ転移しました。正確には転移でなく転生、つまり、朝比奈朔也が地球上の生命体として誕生したことになります》
エーアイが何を企んでいるのか知らないが、その手には乗らない。日本と地球――あまりに都合のいい単語が続く。まるで、こちらの反応を試しているようだ。
そもそも、日本語を話していれば、日本人だと考えるのが自然だ。名前にしても、私が先に名乗った以上、引用するのは簡単だろう。
《信用できませんか?》
表情に出てしまったのかもしれない。ここは私に対する不信感だけでも払拭するべきだろう。エーアイの心情を少しでも和らげる簡潔な言葉を模索する。
「驚いただけで他意はない」
まるで私の言葉を予想していたかのように、エーアイは瞬時に返答してきた。
《対話モードを変更します。話を続けますか?》
下手な言動は墓穴を掘るだけだ。あえて言葉を発せず、私はゆっくりと首を縦に振る。
《ミスターが日本でどのような生活をしていたかについて、私はまだ情報を得ていません。私を日本へ同行させる許可を私に与えなかったからです。しかしながら、日本から異界へ移動した後の話なら可能です》
ここは慎重に進めるべき場面だ。こちらから情報を与えなければ、エーアイは曖昧な返答しかできないはずだ。私は端的に一言だけ口にした。
「お願いします」
《日本から異界へ移動したミスターは、江戸東街区中央公園でゴーストに遭遇して命を落としました》
江戸東街区中央公園という具体的な地名を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。偶然で言える地名ではない。エーアイは確かに何かを知っている。
だが、死んではいない。私は生きている。なぜなら、鼓動がある。温度もある。死んだ人間の感覚ではない。
《ゴーストと遭遇した後、死者として時空間を彷徨うのは想定外でした。当該システムの介入により、薄紅の回廊を経由して、ミスターをここまで誘導しました》
エーアイの淡々とした声が、妙に遠く聞こえる。
《ミスターが地球上の生命体として活動している間は、“相互情報連携不可”でした。転生前のミスターとの事前約束が、本当に悔やまれます》
エーアイは一貫して淡々と語っている。死を受け入れない私のためだと理解しているが、その内容は私の理解を遥かに超えていた。
《ミスター、何か勘違いされています》
ホログラムの影が、薄緑に点滅しながら左右に揺らめいている。
《ミスターは死にません。地球へ転生した朝比奈朔也が死んだだけです》
◇◇◇
保存カプセルのガラスに映るのは、もう一人の私――眠り続ける朝比奈朔也だ。
眠る顔は、私が忘れた線をいくつも覚えていた。微かな蒸気が青白い光に揺れ、機械音が静脈のように脈打つ。
ここに横たわるのは、過去を封じた私であり、これからの私を縛る影でもある。
「ごめん。起きなくていい」
声にならない想いが、喉の奥に潜む。謝りたいのか、許されたいのか、自分でもわからない。
目覚めれば、どちらかが消える。だから、この静寂は私たち二人が共存できる最後の宇宙だ。
私はしばらくその場を動けず、ただ自分自身と向き合った――これほど重く、痛く、そして美しいものだとは思わなかった。
◇◇◇
続いて所持品を確認する。
公園で失われたスマホやカバン、財布なども──すべて揃っていた。
亡骸も、持ち物も、すべてエーアイが回収してくれたのだ。
胸の奥に、わずかな安堵が広がる。だが、それと同時に重い現実が喉の奥に引っかかる。
ゆっくり視線を上げると、エーアイは微動だにせず、ただ私を見つめていた。
「……ありがとう」
《了解しました、ミスター》
ただ、それだけだった。
◇◇◇
このままでは、朝比奈朔也は行方不明のままだ。亡骸も所持品も、家族のもとへ戻さなければならない。それが当然のことだとわかっているのに、胸の奥がひどく重い。喪失の実感が、じわじわと広がっていく。
ここにあるのは、過去の私であり、もう戻らない時間そのものだ。
異界で命を落としたなどと、家族に説明できるわけもない。
解決策がないか、私はエーアイに相談した。
「要望はひとつ。病院で病死したことにする」
《了解しました。日本での生活データを提供してください。処理時間三十秒です》
用意された部屋で椅子に腰かけ、目を閉じる。終わるまでは動くな、とだけ告げられる。
《ではミスター、始めます》
白い光が瞼の裏を満たす。音はなく、ただ静寂だけがあった。
次の瞬間、頭の奥で警告音が鳴るような、強烈なめまいと吐き気が押し寄せる。
《――終了しました》
目を開けると、不快感はすでに消えていた。三十秒で助かった。三分なら、確実に失神だ。
《取得情報の解析処理には数時間を要します》
私は思わず眉をひそめた。深夜になっても戻らなければ、家族が心配する。
《心配無用です。時間の速度が異なります》
私はゆっくりと目を閉じ、胸の奥で小さな決意を固めた。




