010:居住区
気配はなかった。
目の前に人が立っていた。
紺色のスーツ。
この地下街の空気に馴染んでいない装い。
彼女は私を見て、少しだけ首を傾げた。
「あなた、この世界の人間じゃないわね?」
私は無言のまま、相手の目を凝視する。
「詮索するつもりはないわ。
わたしも、同じようなものだから。
ただし、私の仕事の邪魔はしないでね」
彼女も視線を外さなかった。
「名乗っておくわ。
わたしはリリスよ」
次の瞬間、そこには誰もいなかった。
◇◇◇
探索を再開するため、エスト広場を後にした。
地下街は、いつもと変わらず活気に満ちている。
だが、一か所だけ空気が異様だった。
人だかりができ、ざわめきが広がっている。
まるで事件や事故の現場に群がる群衆のようだ。
その輪の中から、ひときわ大きな声が上がった。
「おい、誰か医者を呼んで来い!」
呼びかけに、周囲の数人がすぐさま応じた。
「医者は神田川先生だけだよ!」
「今、先生は別の患者で動けないって!」
私は騒がしい人だかりに近づいた。
ただの好奇心ではない。
何が起きているのか。まずは観察する。
そう直感した。
群衆の肩越しに覗き込むと、床に横たわる男性が目に入った。
顔色は灰のように薄く、汗で髪が額に張りついている。
呼吸は浅く、胸がかすかに上下しているだけだ。
「……これ、神田川先生のところの患者と同じじゃないか」
別の誰かがすぐに反応した。
「やめろよ、縁起でもない」
「でも、症状が似てるだろ。顔色とか、息の荒さとか……」
重低音のような恐怖が、静かに広がっていく。
人々が一歩、また一歩と後ずさる。
私は微動だにせず、ただ男性を観察する。
ただし、これ以上近づくことはしない。
私にできることは、何もないのだから。
しばらくすると、担架を抱えた一人の青年が現れた。
「誰か医務室に運ぶのを手伝ってくれ!」
気づけば、私の周りから人影が消えていた。
「頼む、手伝ってくれないか!」
青年の視線が私に向けられている。
私は一歩前に出た。
その時、後ろから肩を叩かれる。
掃除のオジサンだ。
「アンタ、やめときな。俺ら、居住区へ入れねぇ」
青年にもその声が届いたのだろう。
彼は私以外の人々へ視線を向けた。
あれだけ集まっていた群衆が、ひとり去る。
さらにひとりが視線を落とし、静かに去っていく。
その時、再び、掃除のオジサンが叫んだ。
「門番に手伝ってもらえばいいじゃないか!」
青年も切れたように返す。
「門番がやるなら、僕一人でここにいるわけないだろ!」
私はオジサンの肩にそっと手を置いた。
「ありがとう」
一言伝えると、オジサンは黙った。
私は青年のもとへ足早に向かう。
「私が手伝おう」
青年は何か言いかけた。だが、私は掌で制した。
「何をすればいい?」
青年の指示どおりに、男を担架へ乗せた。
そのまま居住区の門まで運ぶ。
いつもならいるはずの門番がいない。
門番も苦渋の選択をしたのだろう。
臆する必要はない。
私は居住区内へと足を踏み入れた。
◇◇◇
青年とともに、担架を押して居住区の奥へと進んだ。
医務室が近づくにつれ、静けさが増していく。
地下街の騒がしさは、ここには一切届かない。
医務室の前に着くと、白衣の女性がこちらへ駆け寄ってきた。
患者の顔を見た瞬間、彼女の表情が固まる。
「そ、それ以上、近づかないでください」
青年が戸惑いの声を上げる。
「どうしてですか。早く診てもらわないと!」
女性は一歩、後ずさった。
その動きは、恐怖を隠しきれていない。
「すぐ先生を呼んできます。ここで待っていてください」
そう言い残し、彼女は医務室の奥へと消えた。
青年は不安げに患者を見下ろす。
私は黙って、その反応を観察した。
ほどなくして、神田川医師が現れた。
息を整えながら、担架の上の男性を診る。
腕を組み、しばらく考え込んだ。
そして、医師は小さく息を吐いた。
「隔離室はひとつしかない」
医師は看護師たちに、持ち場へ戻るよう伝えた。
即座に医師の視線が私だけに向いた。
「居住区への立入許可を持っていませんね?」
私は何も言わず、医師の視線を外さなかった。
「二人とも、すぐに外へ出てください」
穏やかな声だった。
拒絶ではない。むしろ心遣いがあった。
私と青年は無言で医務室を後にした。
青年は私に何か言おうとしていたが、話す言葉が見つからないようだ。
「何も言わなくていい」
その言葉だけを青年に言い残し、居住区の出口へと向かう。
青年は私に深く頭を下げ、居住区に残った。
◇◇◇
居住区から出て、地下街を数歩歩く。
何事もなかったかのように、地下街の景色が広がっている。
その瞬間、背後で居住区の門が閉まる音がした。
振り返ると、いなかったはずの門番が二人、門の前に立っている。
門番は私と視線を合わせようとはしない。
それでいい。
いつまでも、地下街にいる必要はない。
中央公園に戻り、旅を進めよう。
そう思いながら、座標ビューアを眺めていた。
座標ビューア上に、ひとつ気になる点がある。
地下街の外周線が、一部、途中で途切れている。
まだ確認していない区画があると判断した。
最後にその区画を経由して、中央公園へ向かうことにした。
◇◇◇
地下街の外周線が途切れている場所。
壁は確かに続いているが、様子が違う。
壁面の一部が、宿の正面として使われていた。
建物が張り出しているわけではない。
地下街の外壁を、そのまま流用しているように見える。
宿の脇には、太い配管が壁に沿って走っていた。
古いものと、新しいものが混在している。
装飾でも補強でもない。
給水か、空調か、あるいは別の用途か。
屋台で聞いた、“育てている食べ物”という言葉を思い出す。
生活のために使われている設備には違いない。
だが、表から見えるほど単純ではない。
「……よぉ、ここにいたのかよ」
振り返ると、掃除のオジサンがこちらを向いて立っている。
「この街を離れるんだろ?」
私は頷いた。
「アンタが居住区に入ったことを密告する奴はいねぇと信じたい。だが、世間は甘くねぇからな」
オジサンは、斜め上に視線をずらした。
そして再び、私のほうへ視線を向ける。
「ま、そのうち、みんな忘れるさ。
気が向いたら、また来いよ。じゃあな」
私は地下街を後にした。




