000:静寂の裂け目
扉を押す。カラン、と澄んだ音。
店内は、ごく普通の喫茶店。木のカウンターにテーブル席が三つ。コーヒーの香りとバロック音楽。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声がした。中年の男が一人。おそらく店主だろう。エプロン姿で、無愛想だが不快ではない。私は適当な席に腰を下ろした。
私の名前は朝比奈朔也。還暦を目前に控えた、ごく平凡な男だ。歳を重ねるほど、静かな場所を好むようになった。
「ブレンドで」
「はい」
それだけのやり取り。
しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。見た目は普通だが、香りが強い。
一口飲み、思わず口に出た。
「こりゃ、うまいな」
無表情だった店主の顔が、一瞬だけ緩んだように見えた。コーヒーとバロック音楽特有の対位法と通奏低音。とても心地よい空間。私は再びコーヒーを口に含む。
つい癖でスマホを見たが、すぐに机に置いた。昼下がりの静かな時間を邪魔されたくなかったのだ。私は再び、この雰囲気に身をゆだね、心地よい余韻に浸っていた。
◇◇◇
店内を見回し、トイレの位置を確認する。店内に他の客の姿はなく、店主の姿も見えない。私は静かに席を立ち、トイレへ向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間、異変に気づく。
店内が白い霧に覆われ、流れているはずの音楽が聞こえない。耳の奥まで静まり返り、世界が一瞬止まったように感じる。
窓の外に視線を向ける。
外はまだ明るいはずなのに、日が落ちた夜のように真っ暗闇。そのうえ、人影も、建物の輪郭すらない。ただ、白黒のノイズのような空間が、窓の向こうに揺れている。
不安を抑え、私は素早く店内全体を見渡した。すると喫茶店の面影が薄れ、灰色の空間がどこまでも続く、広い空間へと変貌していった。
私は目を閉じ、深呼吸を何度か繰り返した。
こういうとき、昔から同じことをする癖がある。夢の中にいると、なぜか途中で「これは夢だ」と分かってしまうのだ。理由は分からない。子どもの頃からずっとそうだった。
だからだろうか。周囲の景色が崩れたり、ありえない光景に変わったりしても、どこか落ち着いていられる。夢の中では、たいていの場合、そのまま成り行きに任せて歩き回ることにしている。
今回も、その類だ。そう思うことにした。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「おい。さっきからトイレの前で何してんだ?」
その声に、私は反射的に視線を向けた。そこに立っていたのは、喫茶店の店主――の“はず”だった。
だが、違う。エプロン姿も、顔立ちも似ている。しかし、何かが決定的に違う。
まるで、同じ設計図から別の素材で作られたような、微妙な“ずれ”がある。
「まだ、トイレの前?」
私は思わずつぶやいた。
男は怪訝そうに、薄い眉をひそめた。
「そうだよ。何分も前から、ずっと扉を掴んだまま固まってたぞ。とにかく掃除の邪魔なんだよ。入るなら入る、去るなら去る。どっちかにしてくれ」
私は自分の手を見る。確かに木製の扉に触れている。だが――その扉は、喫茶店のものではない。色も、質感も、取っ手の形も違う。そもそも、周囲にはガラス窓がない。
「ここは、どこだ?」
思わず漏れた言葉に、男は鼻で笑った。
「どこって、“江戸東街区中央公園”だろ。とにかく掃除の邪魔だ。悪いが出て行ってくれ」
男はモップを私の前にかざし、私をトイレの外へ追い払うような仕草をした。
「もう俺に話しかけるなよ」
男は私に背を向け、鼻歌交じりに掃除を始めた。私の存在など、最初から取るに足らない出来事だったかのように。
私はトイレを離れ、この夢を続けることにした。
江戸東街区中央公園――現実には存在しない公園の名前。夢の中の世界は、想定外の面白さがある。
「試しにスマホで地図検索したら、どうなるかな?」
コートや上着のポケットを探しても、スマホが見つからない。
「カバンの中?」
そもそも持っていたはずのカバンも、今は持っていない。
「どこへ置いてきたのか?」
話の流れからすれば、スマホもカバンも喫茶店に置いてきたに違いない。しかし、ここは夢の中。何も気にすることはない。夢ならいつか覚めるのだから。
◇◇◇
長い……長すぎる。まるで夢が、私を手放そうとしていないかのようだ。
私が夢の中で活動している時間は、数分程度で、夢の終わりが近づくと五感が薄れていくはず。だが今は違う。五感は強く鋭くなっていく一方なのだ。
現実へ戻れないかもしれないという不安が、心と体をじわりと重くする。
私は即座に目を閉じ、深く呼吸する。意識を少し高い位置に置くようにイメージし、自分の心を外側から眺め、心を落ち着ける。
「夢ならいつものやつを試すか」
私はゆっくりと目を開いた。
いつもの感覚で体を軽くしてみる。
「……変だ。浮かない」
風を押す、あの感じ。それも、反応がない。
(ここは夢ではないのかもしれない)
胸の奥に冷たいものが広がり、同時に、現世から切り離されたような孤独感が押し寄せる。
スマホとカバンがないことはすでに確認済みだが、それ以外の所持品はポケットに入っている。私はそれらを一つずつ確かめた。
誰かに助けを求めるように、私は周囲を見渡す。
公園と呼ぶにはあまりに静かすぎた。遊具もない。ベンチもない。街灯もない。灰色の地面と等間隔に並ぶ木々。そして、遠くにぼんやりと浮かぶ黒い建物の影。夢の中なら雑音がある。誰かの声、車の音、風のざわめき。何かしらの気配が漂うものだ。
だが、ここは違う。夜のはずなのに、空には星も雲もない。ただ、深い墨を流したような黒が広がっている。
「夢でも、現実世界でもないということか?」
自分で言っておきながら、荒唐無稽だと思う。だが、今の状況はそれ以外に説明がつかない。
私は歩き出した。どこへ向かうべきか分からない。だが、立ち止まっていても何も変わらない。遠くに見える黒い影。輪郭はぼやけているが、建物らしきものがある。
「まずは、あの建物の影を目指すか」
根拠はない。ただ、直感がそう告げていた。
建物の影が、少しずつ近づいてくる。そのとき、視界の端で、何かが動いた。私は反射的に立ち止まり、凝視する。木々の間。黒い影が、ゆっくりと揺れている。人影のように見える。影は、こちらを見ているようだった。
私は一歩、後ずさる。影が、ゆっくりと近づいてくる。輪郭は徐々に人の形を帯びていく。だが、顔がない。のっぺりとした黒い面。目も鼻も口もない。ただ、こちらを見ている、としか思えない気配だけがある。
私は反射的に臨戦態勢を取るが、反応が遅かった。戦わず逃げるべきだと頭では分かっていたのに、“負ける気がしない”という、いつもの癖が出てしまった。
影の手が私の眉間に軽く触れた瞬間、私の視界が白く弾け、眩しい白光を放つ。
やがて、白光はゆっくりと赤へと変わり、現実では見たことのない、不穏で温度のない赤に包まれていく。
◇◇◇
気がつくと、薄紅の光が満ちる回廊にいた。
天井も壁も床も、半透明の膜がほのかに輝き、その向こう側は霞のようにぼやけている。
回廊全体が、空気そのものが脈動するかのように微かに揺らぎ、空間がゆっくりと流れているような奇妙な震えがあった。
壁と床にそっと触れる。柔らかそうに見えるが、指先に返ってくるのは冷たく硬い感触。その奥で、時間が擦れ合うような細かな震え。
天井は薄紅のモヤと溶け合い、どこまで続いているのか見当もつかない。
夢か、幻か。それとも私は命を落としたのか、今の私には判断がつかない。
ここに来るのは初めてではない気がする。だが、明確な記憶はない。ただひとつ、“長く留まってはいけない”という感覚だけが、確かな輪郭を持っていた。
背後を振り返ると、いつの間にか薄紅の壁が静かに波打ちながら立ちはだかり、戻る道を完全に塞いでいた。戻ることはできない。前へ進むしかない。
しばらく歩くと、前方に影が浮かび上がる。薄紅の光の中で、そこだけ色が抜け落ちたように暗い。
近づくと、それは扉の形をしていた。金属でも木でもない。空間が無理に形を保とうとしているだけの、不安定な境界。
手を伸ばすと、扉は音もなく空間に吸い込まれ、跡形もなく消えた。最初から存在しなかったかのように。
戸惑いながら先へ進むと、再び扉の影が現れた。だが今度は消えない。ただ、薄紅の揺らぎの中で静かに立っている。自分で開けろ、ということか。
回廊は沈黙したまま、答えをくれない。薄紅の光だけが、呼吸するようにゆるやかに脈打っていた。
迷っている暇はない。私は扉に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、世界が一瞬で歪んだ。空間がねじれ、星々の狭間を引き裂くように、目の前の風景が消え去っていく。
反射的に言葉が漏れた。
「テレポートか……懐かしいな」
身体が無重力に浮かぶ感覚。周囲の空気が渦を巻くように変わり、次の瞬間、時間と空間を駆け抜けた余韻が頭頂部に残った。




