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宗仲酒造/洞窟/魔封村/街へ

サンカ


戦前の話である。飛騨山脈南端に位置する乗鞍岳で登山をしていた男が、下山途中で不運にも道に迷い込んでしまった。迷った時点ですぐに引き返す決断が必要だったが、偶然沢を見つけた為に、それを下ればいいと安易に考えたのが間違いの元だった。

下り続けると滝が現れ、上から覗き込むととても下りられそうにない光景が眼下に広がっていた。そこで初めて来た道を戻ったのだが、もうどこを進んでいるのかも分からなくなってしまった。樹林帯深く入り込んだ男は水も食べ物も尽きてしまい、疲れ切ってブナの原生林の根元に座り込んだ。

日が落ちて眠り掛けた頃、男は草を踏む足音で目を覚ました。見ると、複数の人影が自分に向かって歩いて来る。恐怖の余り叫び声さえ出ない。男は数人に取り囲まれ、見下ろされていた。自分はこんな所で殺されるのだろうかと怯えた。だが人影をよく見ると、老若男女が入り混じり、それは家族のように見えた。子供までいるのを見て、男はほっとした。その中の成人男性と思われる一人が男に瓢箪の水筒と干し魚を渡し、指を差し乍ら丁寧に帰り道を教えると、集団はそのまま去って行った。

夜が明けて、元気を取り戻した男が教えられた道を進むと、登山道に出て無事に下山することが出来た。街まで辿り着いた男は蕎麦屋で蕎麦を待つ間、お茶を啜り乍ら思った。なぜあんな場所に彼らはいたのだろうと。そして思い付いた。森で会った彼らは『サンカ』だったのではないかと。

サンカとは、主に本州の山間部を移動し乍ら、竹細工作りや狩猟をして生活していたとされる民族だ。戸籍も持たず、人別帳にも載っていない幻の存在であり、その詳細は判明していない。日本列島の地形は起伏が多く、火山地帯や丘陵を含めた山地の面積は、国土の約七十五パーセントを占めている。サンカのように、山で人知れず暮らす民族がいても不思議ではない。広島県三篠町の三篠川には、夏になると川魚を取りにサンカが現れ、町民と物々交換などをして交流があったことが、昭和二十年代まで確認されている。

宗仲酒造



長野県大町市にあり、歴史を感じさせる佇まいを見せる日本酒の酒造所『宗仲酒造』。住居の一部が作業場になっている主屋の他、大きな酒蔵と二階建ての物置蔵を有する。主屋の作業場では精米や洗米の他、巨大な蒸し器で米を蒸し、製麹などが行われる。酒蔵には貯蔵用の巨大なホーロータンクや自動圧搾機などが置かれている。物置蔵の一階は集会などに使える大広間となっていて、二階はその名の通り、物で溢れ返っている物置だ。

今、その物置蔵の二階で、東慶大学教授である成田良平と助手の皆川敏行が故人の遺品を漁っている最中である。

成田はサンカの研究者である。実態の分からない『謎の民族』というフレーズが成田の研究者としての興味を引いた。そして皆川はその唯一の助手で大学院生だ。

先日、宗仲酒造当主であった宗仲勝造が肺癌で亡くなり、遺品整理が行われるという情報が成田に入った。それは勝造の一人娘である幸子からの情報であった。成田の研究を知った幸子が、遺品整理のついでに蔵を見せてくれるというのだ。蔵には古い文献が多数あり、今それらの中にサンカに関する記述がないか確認しているところだ。

一心不乱に書物や巻物などを読み漁る成田の姿を見て、皆川は少し辟易していた。卵の代わりに懐中時計を茹でたニュートンの如く、こういった際の成田は孤独の世界の住人となり、周りの世界が全て消滅してしまう。多分二十代の自分が、四十歳の成田をフォローしなければならない場面がやってくると皆川は考えていた。大学院の友人から成田教授とは関わらない方がいいと忠告されてはいたが、皆川はどうしてもこの生真面目で融通の利かない教授を放ってはおけなかった。

「どうぞ、粗茶ですが」と還暦を越えた幸子がお茶を持って来ても、成田は案の定気付かない。ご厚意で遺品を見せて頂いている上、お茶まで出して貰っているのに見向きもしない成田を横目で見乍ら「すみません、お構いなく」と少し大きめの声で皆川が返事したが、それでも成田が気付く様子はない。

皆川は堪らず成田の腕を突いた。

「あ、どうもありがとう」

やっと気付いた成田がそんな上からの物言いをするものだから、皆川も思わず溜め息を漏らしてしまうのだった。

「どうせ処分してしまう物ばかりですけど、こんな品物が何かの役に立つのでしょうか? 一体何をお調べなのですか?」

幸子がそう成田に問い掛けるが、もう次の巻物に夢中になっている成田から返事はない。

堪らず皆川が「すみません、教授は夢中になると周りが見えなくなる質で。我々はサンカの研究をしております」と返答すると、「サンカ?」と幸子が不思議そうに言う。

「昔、山に住んでいたとされる無戸籍の人々です」

「へえ。大学の先生が調べるのだから、きっと立派な研究なのでしょうね」

そう答えながら、幸子は皆川が手にしていた手紙を覗き込んだ。

「何か書いてあります?」

「あ、これは違いました。どうやらお父様の勝造さんからお母様へ宛てた手紙のようでして」と言い乍ら皆川は手紙を幸子に渡す。

「父から母へ?」

「あ、こちらの研究とは関係なさそうだったので読んではいません、ご安心下さい」

幸子は手紙を少し読むと、驚いた声を上げた。

「あら、嫌だ。これは父から母への恋文、ラブレターだわ」

「あ、ラブレターだったのですか。素敵だと思います」

「父がこの場に居たら、顔真っ赤にしているわね」

そんな皆川と幸子の微笑ましい会話の中、成田の怒鳴り声にも近い声が響き渡った。

「皆川くん!」

びくりとしながら「何か?」と皆川が反射的に答える。

成田は手にした巻物の一点を指差して見せている。

「この一文!」と成田は巻物を読み始めた。


「山奥の(むろ)の辺りで見知らぬ者たちと()()ふ(う)。身なりも独特で、魔障(ましょう)を封じ込めた(むら)より来たりと言う。我らが持ちて来し(じき)と、その者たちが持つ砂金を取り換えたり。()は、その(のち)も続く」


少年のように目を輝かせた成田が「理解出来たかい?」と皆川を見つめる。

皆川は顎に手を当て乍ら「山奥で見知らぬ人達と出会ったということですね。着ている物も独特だったと。室の近く……室というのは、食料保管庫か何かでしょうか?」と成田に問い掛けた。

「山奥とあるから、この場合の室とは洞窟だと思うよ。洞窟の辺りで会ったのだろう。魔障を封じ込めた村……魔障というのは、現代で言うところの悪魔かな」

「悪魔⁈ その人たちは、悪魔を封じ込めた村から来た、と言ったのですね」

「そしてこちらが持って来た食料と、相手が持っていた砂金を交換した。交流はその後も続いたと書かれている」

皆川の顔は見る見る歓喜の表情へと変わり、「これはもしかして、サンカに関する記述じゃないですか⁉」と興奮した声を出した。

「確かにそうかも知れない。しかしサンカは狩猟民族で定住しない筈なのだが…」

「悪魔を封じ込めなくてはいけないから、仕方なく定住したとか」

「それが理由かは分からないが、村があったなんて文献は初めて見た」と言ってから成田は幸子に質問する。

「宗仲さん、これはいつ頃書かれた物か、何か聞いたことはありませんか?」

「それは確か、この酒造所を建てた先祖、宗仲佐喜衛門が書いた物だと聞いたことがあります」

皆川も成田に続けて問い掛ける。

「ここはいつ作られたのですか?」

「江戸末期になります。その佐喜衛門が何でも砂金で財を成して、この酒造所を大きくしたのだとか」と記憶を辿るように幸子は語った。

皆川が「砂金⁈」と上擦った声を上げて成田を見乍ら言う。

「この記述と合致するじゃないですか!」

もうその先を考えていた成田が「この辺りに洞窟はありませんか? 観光客が寄り付かないような」と幸子に問い掛けた。

幸子は「うーん…」と唸った後、急にぽかんと口を開いた。

「あの…」と成田が声を掛けた途端、「そうだ、あの地図がそうかも知れない!」と幸子は言った。幸子は重ねていた書物の中から一冊の本を探し出し、そこに挟まれていた黄ばんだ紙を取り出す。折り畳まれた紙を広げると、それは山の地図のようだった。

「これ、何か関係がありますかね?」と言って幸子は紙を差し出す。

成田と皆川が紙を見ると、二つの尺度の違う山の地図が書かれていた。

「これは…槍ヶ岳かな…この辺りが北鎌尾根だから…」と成田が読んでいると、「あ、ここに印がありますね」と皆川が口を挟む。そこには縦長の黒丸印が書かれており、その印に向かって矢印が書かれている。

「穴に入れって感じだから、この場所が洞窟とは考えられませんか?」

「その下に何か文字が書いてある…よく見えないな」

「もう老眼ですか? 見せて下さい…『入口狭し』。やっぱり洞窟で間違いなさそうですね」

皆川がそう言うと、幸子が続く。

「私もずっとそれが何を意味しているのか分からなかったのですよ。今のお話を聞いていて、急に思い出しましてね」

「ここに行けば何かが見つかるかも知れない」

そう言った後、成田ははっと目を輝かせて皆川を見る。

「そうだろう、皆川くん」

成田の意図を察した皆川が「え? まさか嘘ですよねぇ?」と絶望的な声を上げた。

「行かないのか? 秘密の洞窟のその先に、村へと通じる道があるかも知れないなんて考えたら君、胸が高鳴らないか?」

「まさか教授、まだその村があるとでも?」

「それはないだろうが、可能性はゼロじゃないし、村の痕跡だけでも残っていればそれだって大きな収穫じゃないか」

「いや、でも…」

「君には浪漫がないのか?」

「浪漫も勿論大切ですが、あまり人が知らないような洞窟に入るのは流石に危険だと思うし、もしかしたら許可申請が通らなくて入れない可能性だってありますし、あと…あと何だろう…」

皆川は懸命に次の言葉を探した。



洞窟



北鎌尾根の樹林帯の中、登山服に身を包み、リュックを背負った成田と皆川が歩いている。

途中までは登山ルートを進んでいたが、地図に従って森に入り込んでからというもの、皆川は不安を募らせていた。もうどれ位茂みを歩き続けているだろう? もしや遭難しているのではないかと皆川が不安で一杯になり始めた頃、先を行く成田から「ここだ」と言う声が聞こえた。

それは誰もが思い浮かぶような洞窟ではなかった。大きな岩が重なる中、岩と岩の間に隙間のような入口があるのだ。

成田は手持ちの地図を見て、「これが洞窟の入口だ、間違いない」と確信している。

二人はリュックを下ろし、中からライト付きの登山用ヘルメットや膝サポーターを出して装着し始める。

準備し乍ら皆川が話し始めた。

「教授、残念なお知らせがあります」

「何だい?」

「もし辿り着けなかったら言わずにおこうと思ったのですが、ここは秘密の洞窟ではありません。以前にも人が入ったことがあるようです」

「ほう、そうなのか」

「はい。実はネットで調べました」

「なぜ辿り着けなかったら言わずにおこうと思った?」

「教授の夢を壊してはいけないと思って。洞窟の途中には石碑があるそうです。奥はただ突き当りになっているだけで目ぼしいものは特に…」と言う皆川の話を遮って「さあ、行こう」と成田が張り切り声を出した。

「聞いていませんね」と皆川が呟く。

二人が這いつくばって穴に入り込むと、「ネットが正解とは限らない。研究者ならば、自身の目で確かめるべきだろ」と成田が言う。

何だ、聞いていたのかと思い乍ら「そうですね」と皆川は答えた。

 狭くて立てない入口を、成田と皆川が匍匐前進で進む。

「しっかり付いて来いよ」

「了解です、隊長! いや、教授!」

時々励ますように成田が皆川に話し掛け乍ら進んで行くと、急に広い場所に出てやっと立ち上がることが出来た。

皆川が額の汗をぬぐう。

「ふぅ、広いとこに出ましたね」

「まだまだ。先を急ごう、皆川くん」

立って歩ける場所であっても、明かりはヘッドライトだけなので矢張り怖い。今コウモリなど飛ぼうものなら確実に絶叫するなと思い乍ら、皆川は意気揚々と進む成田に続いた。

時折道が狭くなっていたが、体を横にして何とか通り抜けることが出来た。入口以外、幸いにも這いつくばる箇所はなかった。そんな道のりを暫く進むと、『諏訪大明神』と刻まれた小さな石碑を発見する。

「ほら、皆川くん」

「あ、これですね、ネットに出ていた石碑。やっぱり先客がいましたね」

更に少し進むと小学校の教室ほどの広い空間に出たが、その先に道はなかった。

「行き止まりか…」

「ここまでですね、教授。ほら、ネットに書いてあった通りだ。でも、自分の目で実際に確かめることも大切ですよね」

勝ち誇ったように話す皆川だが、成田は周りを慎重に観察している。

「まあ、待てよ。ここまで来たんだ、じっくり見ようじゃないか」と成田は岩肌を電灯で照らし、時折手で触り乍ら眺めている。

皆川は携帯で写真を撮ったら戻る気満々でいたが、撮り終わっても成田の観察が終わらないので、仕方なく観察する振りをしていた。

「皆川くん、あの岩を見てくれ」

「何ですか?」

皆川は成田が照らす方向を見たが、岩が煉瓦のように積み重なっているだけだった。岩の壁といったところだろうか。

「不自然じゃないか?」

「どこが?」

「大体同じような大きさの岩が揃っている」

「そうかなぁ?」

「人が積んだようにも見えないか?」

「うーん…」

成田はその場所に行って、岩を一つ掴んだ。力を込めて壁から引き出すように引っ張ると、岩を壁から抜くことが出来た。岩は本当に煉瓦のような形をしていた。

更に別の岩を抜き出す成田を見て、仕方なく皆川も手伝い始める。岩を幾つか取るとぽっかりと五十センチほどの穴が出来た。成田がライトで向こう側を照らす。二人で覗き込むと、何と向こう側に道が続いているようだ。

「教授!」

「道がある。まだ進めるぞ」

突然の発見に皆川も興奮していた。二人は疲れを忘れ、夢中で残りの岩を取り始めた。暫く続けると、人が通れるほどの穴が出来上がった。

「この先はネットに載っていないだろ」

どや顔で言う成田が先に進んで行く。その背中に皆川は続いた。

胸を躍らせ乍らも、二人は慎重に進んだ。ネットに載っていないのだから、この先がどうなっているのかは分からない。十分ほど歩いたその先に大きな空間が広がり、ライトで照らすと、水面が光った。


―――そこには地底湖があった。


「これは!」と皆川が興奮した声を上げる。

「…地底湖か」成田は意外に冷静な反応だ。

丸い水面の直径は十五メートルほどあるだろうか。

皆川は「凄い、凄い」と言い乍ら携帯写真を撮りまくった。成田は相変わらず辺りを念入りに観察している。

一頻り写真を撮り終えた皆川が「これ以上進めませんが、新しい発見が出来ましたね」と言うと、成田は納得していない表情で「まだだろ」と言った。

「…え?」

「君、この前スキューバダイビングの免許を取ったって言っていたよね?」

「取りましたけど…」

「私の唯一の趣味でもある」

「ちょっと待って下さい。嫌な予感が…」

「よく考えてみてくれ。サンカは定住せず、獲物を求めて移動する放浪民というのが通説

になっている。そのサンカが悪魔を封じ込める為に村を作ったとするなら、そんなに簡単

に見つかる場所にあると思うか?」

「ご高説は理解しました。一応確認しますが…まさか…潜る気ですか?」

「勿論だ」

「いや…でも」

「私達だけの大発見になるかも知れないぞ」と言う成田の満面の笑顔が不気味にライトに照らされている。

「…教授が悪魔に見えます」と皆川が諦めの声を上げた。


大学に戻ってすぐ、成田と皆川は地底湖へのダイビングの準備を進めた。その危険性や体験談をネット記事や動画で調べる傍ら、道具類を揃える。自治体への許可申請は成田に任された。

天気予報で最良の日を決めたので決行当日は快晴となったが、皆川の気分は重かった。確かに中学校から付き合っている彼女の希望もあり、二人でスキューバダイビングの免許は取得した。受講中には楽しい場面もあり、一緒に受講した仲間で最後は飲みに行ったりもしたのだが、自ら進んで取得した資格ではなかった。でも折角取ったのだから、彼女と海にでも潜りに行こうと考えていた矢先、このダイビングが決まったのだ。まさか最初に潜るのが地底湖とは思いもしなかった。何が待ち受けているかも分からない真っ暗な水の中に潜るなんて恐怖でしかない。

気分が重いと荷物も重く、皆川にとって洞窟までの道のりはかなり辛いものとなった。ボンベも運んでいるのだから無理もない。

洞窟の入口まで来た成田と皆川はヘルメットを被ると、荷物にロープを結ぶ。入口を含め、狭い場所は人が入ってから荷物をロープで引っ張り寄せる作戦で、何とか地底湖まで辿り着くことが出来た。慣れもあってか地底湖までの道のりで恐怖を感じることはなかったが、その先を考えると矢張り皆川は憂鬱だった。

バッテリーライトできらきらと光る湖面を眺め乍ら食事休憩を取る間、成田は言った。

「怖いかい?」

「ええ、まぁ…」

「大丈夫だ、僕はダイビング歴二十年のベテランだから」

「…………」

「それに今日は無理するつもりもない。場所が場所だから今回標準より小さめのボンベにしたけど、それでも四十分は潜っていられる筈だ。でも、今回は大事を取って三十分を限度としよう。往復で三十分だから、片道十五分ということだ。僕が先頭で潜るが、十五分経ってその先に出られそうな場所がなかったらすぐに引き返す。いい?」

小さく頷く皆川に、成田はロープを見せ乍ら言う。

「それにこのロープだ。これで僕の体と君の体を結んでおく。そうすれば君が遅れたり、非常事態が起こった時、すぐに気付く筈だ」

皆川は笑顔を浮かべ乍ら「何だか、少し気が楽になって来ました」と答えた。

「君が緊張するのも無理はないけど、極度に緊張する必要はないよ」

「時間で考えたら、あっという間ですよね」

「多分拍子抜けするくらいね。向こう側へ出られなかったら、その時はその時だ。一度大学へ戻って作戦を練り直そう」

「はい」

「無理させて済まないと思っている。だけど君も知っての通り、うちの研究室は年々縮小されて、今では僕と君だけになってしまった。林くんも戸塚くんも辞めてしまっただろ? ここで何か発見出来れば、潮目も変わって来ると思うんだ」

大学での成田の立ち位置を知っているだけに、その気持ちは皆川にもよく分かっていた。海に潜るのも湖に潜るもの、水に潜ることに変わりはないと皆川は思い始めていた。開き直ったことで、潜ることが少し楽しみになっていた。

食事を終え、二人は静かに水に入る。厚手のウェットスーツを選んだのが功を奏したのか、水に入った際も皆川は大して冷たさを感じずに済んだ。これが冷たかったら緊張感と共に体が震え上がっていたかも知れない。

潜り始めた時、成田は進むべき方向を探って右や左に方向を変え乍ら進んだが、体がロープで繋がっていたので、皆川は落ち着いていた。外から見ると、底無しの深淵のように見えた地底湖だったが、潜ってみると底は意外と浅かった。その代わり横に長く続く湖だった。成田が進むべき方向を定め、二人が順調に進み出して五分ほど経過した時、それは起こった。


―――黒く大きな物体が皆川の前を横切る。

―――あれは何だ!


途端に皆川の息が荒くなる。心拍数がどんどん上がってくるのが自分でも分かった。皆川は慌ててヘッドライトで周りを照らした。確かに何かが横切ったような気がしたが、何も見えない。前を泳ぐ成田に知らせるべきかと考えた時、皆川はもう一つの一大事に気付く。前を泳いでいた成田の姿が見えない。そして、


―――結んでいた筈のロープが消えていた。



 魔封村



魔封村は飛騨山脈の奥深い山林の中に、まるで人目を避けるように存在している。

この村は幕府によって作られ、その名の通り悪魔を封じ込める役割を担っている。その役割の為、存在を公には出来ない村だ。

事の始まりは徳川家に仕える、とある大名家に秘蔵されていた『首』の存在が明らかになったことからだった。その大名家には代々受け継がれてきた、欅の木目も鮮やかな漆塗りの木箱があったのだが、それがいつから秘蔵され、中に何が入っているのかも定かではなかった。当時の大名の命により中身を確認すると、人のような河童のような、真っ黒に干からびた首が出て来たのだから大名や家臣が驚いたことは言うまでもない。ただ意外だったのは、気味の悪い首であるにも関わらず、大名は神物としてこの首を自身の寝所に祀ったというのである。それを祀って暫くした夜、首が大名に話し掛けて来たという。言葉巧みに大名を操った首はこの大名家を破滅の道へと追いやり、その話は世間へと広まって行った。話が人々に伝わる中、この首はいつしか『悪魔首』と呼ばれるようになった。

話を聞き付けた幕府は、この不吉な悪魔首を封じ込めようとした。ただ相手が悪魔であった為、幕府はまず特別な刀剣を作った。鍛刀は当時名匠と言われた黒田兼近が担い、出来上がった刀剣に、神職が三日三晩祈祷を行って完成した。


―――この刀剣が『光明(こうみょう)(つるぎ)』である。


徳川家で剣術指南役であった剣客が、悪魔首の左こめかみから右こめかみへと剣を貫いたことで、悪魔は動きを封じ込められたという。

幕府はこの首を飛騨山脈の山奥に封印し、それを見張る者達を配した。それが魔封村の村人達なのである。

村には『光神家』、『黒田家』、『山並家』という三つの家系があり、それが一つとなって村が形成されている。

黒田家の住居は村の東側の山林の中にあり、山並家の住居は西側の山林の中にある。どちらも各家族の丸太小屋が十数軒存在している。

それに対し、光神家の住居は日当たりの良い南側にあり、同じ丸太作りでもひと際大きな屋敷で、一族全員がそこに住んでいる。

この違いには、この村独自の身分制度が影響している。一番高い身分が光神家であり、次が黒田家、一番低い身分が山並家という序列が村の掟で定められているのである。但し、血が濃くなることを恐れて、結婚は通常他の一族との間で取り行われる。身分は男を中心として変わるので、光神家の女が黒田家に嫁げば女は黒田家の身分となり、山並家の女が光神家に嫁げば、女の身分は光神家となる。結婚相手は本人の意思とは関係なく、光神家が決めている。

一族にはそれぞれ役割がある。光神家は村を導く指導者の立ち位置であり、全ての掟は光神家によって定められる。村で揉め事が起きた場合は、光神家の屋敷の中庭で裁判が行われ、判決を下すのは光神家の人々だ。光神家にはもう一つ大きな役割がある、それが松代藩藩主との謁見である。村の代表として藩を訪れ、現状報告をし、拝命を受ける。砂金を納める代わりに褒美の品を持ち帰ることも度々あった。光神家の長は、もうじき六十歳になる光神源治である。

黒田家は村を守る兵隊役を担っている。武芸の修行に日々勤しむ他、鍛錬を兼ねて畑仕事や家畜の世話などもしている。黒田家は嘗て光明の剣を作った黒田兼近の末裔でもあるので、武器や武具の製作も行う。黒田家の長が黒田ゴウであり、その長男がテツである。

山並家は川での砂金取りが主な役割で、その他に機織りや雑務をこなしている。序列では黒田家の下が山並家となるのだが、実際両家の生活振りには大差がなかった。つまりこの村は光神家が君臨する村と言っていい。

一族の住居の他に、山林のない開けた場所を集会広場と定め、時折そこに集まっては祭りや様々な行事を行う。村の子供が共同で使う寺子屋も建てられている。

そして最も重要とも言える建物が、悪魔首が置かれている魔人牢だ。それは村の北側に位置する石造りの小さな建物で、特に施錠されている訳でもなく、入るのは容易であった。悪魔首は石台の上に無造作に置かれており、その左こめかみから右こめかみを光明の剣が貫いたままになっている。

なぜ施錠もしていないのか? それはここを訪れる者が誰もいなかったからであった。一応見張り役として、黒田家の若い男が交代で牢の前に立つのが決まりではあったが、誰もそこを訪れたことはない。特に女は近づいてはいけないと周知されていた。悪魔首に近づいただけで、妊娠させられてしまうと言われていたからだ。

しかしある日の夕刻、遂に見張り役以外で魔人牢を訪れる者が現れた。しかもそれは女であった。その日、魔人牢の前に立っていたのは源治の娘で、七歳になったばかりの光神ネネだった。牡丹柄の小綺麗な着物に白い草履姿のネネは牢をじっと見つめ、意を決したように中へと入って行く。

牢内はねっとりと湿度が高く、蝋燭の火がゆらゆらと燃えていた。ネネは恐る恐る歩を進め、石台の前までやって来た。蝋燭の火が不気味に揺れ乍ら石台の上の悪魔首を照らし出している。


―――真っ黒だとネネは思った。


石台の上で剣に貫かれたままの悪魔首の顔は真っ黒で、目を凝らすとその目が閉じられているのが漸く分かった。

大して怖くもないなと、七歳だが勝気な性格のネネが思った途端だった。


―――閉じていた悪魔首の目がカッと見開いた!


ネネの絶叫が山々に響き渡る。


その夜の光神家。

狩衣を身に纏った源治が慌てた様子で部屋に入って来た時、布団に寝かされたネネは高熱でうなされていた。遠目からでも、その顔の火照りが見て取れる。

母である光神トキとネネの世話役の女中達がネネを見守っているが、頭を冷やしたり手を握ったりで、ただ見守るしか手立てがない様子だ。

十二単を纏い、髪を大垂髪にしたトキはただ狼狽えている。

「ネネ! どうした、何事じゃ!」と源治の声が響く。

トキは「どうやら魔人牢に入ってしまったようで」と泣き乍ら答えた。

「なんじゃと、悪魔首を見たのか」

「おそらく」

「女人は決して近づいてはならんと、あれほど言うていたのに。悪魔首は見つめただけで、女人に子種を宿せるのだぞ!」

「申し訳ありません。目を離した隙に姿が見えなくなってしまいました」と取り乱し乍らトキは答える。

「門番は何をしておった! 今夜の門番は誰じゃ!」と源治が叫ぶと「私でございます!」と言うテツの返事が返って来た。

屋敷の中庭で地面に膝を突き、頭を下げた十歳の黒田テツがいる。質素な着物姿で腰には脇差を差している。テツはやがて黒田家の長になる身である。

「テツ、お前は何をしておった!」

「どうやら用を足しに行った隙にネネ様が牢内に入られたようで、誠に申し訳ございません!」

源治の目が怒りで見開かれた瞬間、突然夜の闇を切り裂くようなネネの絶叫が響いた。

トキと女中達が暴れるネネを押さえるが、それらを跳ね除けるほどの力でネネが暴れている。

「ネネ、どうしたのです!」

トキがそう叫び乍ら振り返ると、ネネの兄で十歳のミツルが呆然とネネを見つめていた。

「お母様…ネネはどうしたのですか?」

「ミツルは向こうへ行きなさい!」

トキの剣幕に、ミツルは屋敷の奥へと去って行く。

ネネの腹は見る見るうちに大きく膨らみ始める。女達はネネから離れ、息を飲んで見つめるしかなかった。腹は異常な大きさに膨らみ続けている。

「ネネーっ!」

源治の叫びとほぼ同時にネネの腹は破裂し、周囲に大量の血が飛び散った。


―――トキの絶叫。

―――目を見開いたまま絶命するネネ。

―――赤ん坊の泣き声。

―――愕然とその光景を見つめる源治。

―――黒ずんだ肌の赤ん坊の姿。


源治はへなへなと座り込み、屋敷に赤ん坊の産声だけが響いた…。


それから十五年後の現在。

快晴の空の下、村の集会広場には黒田家と山波家の人々が集まっていた。質素な着物姿で、全員が木の葉のマントを羽織っている。

皆、晴れやかな笑顔で会話を交わしているが、その中心には今日五十歳の誕生日を迎えた黒田ゴウがいる。

これから始まる『昇天の儀式』。その主役がゴウで、村人達から抱えきれないほどの花束を渡されている。ゴウの傍には妻のムツと次男のタクが誇らしげな顔で立っている。

『おめでとう』、『良かったね』などの声が人々の中から聞こえ、笑顔でお礼を言うゴウの姿を、テツが少し離れた場所から見つめている。その目はどこか冷めていた。

テツは今年で二十五歳になる。黒田家の長であるゴウがいなくなれば、長男のテツがその地位を継ぐことになる。幼い頃から己の立場を意識して、テツは剣術の修行に励んだ。その甲斐あって今では村一番の剣豪だ。

そして今日は、


―――テツがゴウの斬殺人を務める。


腰に差した日本刀の柄を今一度握り、テツはその感触を確かめる。

そこへ光神家の人々がやって来ると、村人達は私語を止めて次々と膝を突き、頭を下げ始めた。

光神家は長の源治を筆頭に、トキやミツルが続く。ミツルはテツとは同い年だ。全員が束帯など貴族の正装を着込み、重々しさを醸し出している。

「ゴウ、おめでとう」源治が声を掛けた。

「この様な晴天の空の下で魂を昇天出来ること、嬉しく存じます」ゴウが答える。

「ワシももうじき節目年、すぐにお前の後を追う。待っておれ」

「源治様より少し先に旅立ち、涅槃でお待ちしております。テツ!」

ゴウはテツの眼前まで歩み寄り、「黒田家の舵取り、頼んだぞ」とテツにだけ聞こえる声で囁いた。

しかしテツの顔は曇ったままだ。


―――その時、上空に轟音が鳴り響く。


「伏せろ、魔鳥が来る!」

源治がそう叫ぶと、人々は一斉に木の葉のマントで自身を覆い、身を丸めた。

「決して空を見るな、目が潰れるぞ!」

源治の声の後、上空の音は次第に遠ざかり、やがて消えて行った。

「もういいだろう」と言う源治の言葉を合図に、人々はほっとして顔を上げる。

「魔鳥もゴウの祝いに来たのかのぅ」と源治が言うと、人々から笑いが漏れた。

「さあ、始めよう!」という源治の号令で、丸腰のゴウと日本刀を持ったテツが向かい合った。テツがゆっくりと刀を抜く。

「いつでも来い」

ゴウの言葉にテツは反応しない。

「…………」

「どうした、テツ」

焦っているゴウに対し、テツは背を向けてしまう。

「…何をしている、テツ。源治様の前だぞ」

「…………」

テツは振り向かない。

「テツ!」

ゴウがそう叫んだ途端、素早い回転動作で刀を振り回すテツ。

一瞬時が止まった後、ゴウの首元の四方八方から血しぶきが噴き出し、首が胴体から転げ落ちた。

それを見て人々の歓声と拍手が沸き上がる。

笑顔のムツとタクは二人でゴウの首を板に乗せ、源治に向けて掲げた。

物言わぬゴウの首が源治を見つめている。

「源治様。無事昇天致しました」と喜ぶムツに「うむ、見事であった」と答えた源治は、

テツに鋭い眼差しを向ける。

「テツ、後でワシの元へ参れ」

「…………」

テツは黙って頭を下げた。


ムツやタクや村人らが共同墓地で布に包まれたゴウの遺体を穴に埋めている間、テツは光神家の中庭で膝を突いていた。先程から縁側に立ち、テツをじっと見下ろしていた源治がやっと口を開く。

「なぜゴウに背を向けた?」

「…………」

「よもや昇天の儀式に、疑問を抱いたのではあるまいな」

「恐れながら申し上げます。父の晴れ舞台に疑問など持つ筈もございません」

「迷いがあったのではないか?」

「あれは…新しい剣技にございます」

「なるほど」とは答えたが、源治は鵜吞みにはしていない様子で続ける。

「テツ、お前達黒田家の役割とは何じゃ?」

「黒田家は我が魔封村の武力の要。日々武芸の修行に勤しみ、光神家の方々の護衛及び外部からの侵入者の抹殺を役割としております。また、各種武具の制作も我らの役割。悪魔首の頭を貫いて封じ込めた光明の剣も我が先祖、黒田兼近が造りし名刀にございます」

「黒田家が武術を極め、山波家は砂金取りに励む。我が光神家は村の神事や政治を司り、砂金を土産に幕府との謁見も役割としている。光神家は言わば村の指導者であり支配者」

「その均衡は決して崩してはならない」

「それがこの村の掟じゃ。全ては悪魔を封じ続けるため」

「幕府から…」と言ってテツは言葉を詰まらせる。

「何じゃ、テツ。はっきり申せ」

「幕府からは何かお言葉を授かっているのでしょうか?」

「貴様ら黒田の知るところではない」

「しかし、昔は幕府からの使者がこちらに参っていたこともあったそうですが、父の代では姿さえ見たことがないと聞きました」

「ワシらが何か隠し事でもしておると言うのか、身分を弁えろ!」

「…………」

「やはり疑問を持っておったようじゃの。良かろう、お前に新たな任を与える」

「…………」

「呪郎の目付け役を命ずる。勿論殺しても構わんぞ、今のお前に殺せるものならば」

「…………」


村の寺子屋は集会広場から少し離れた場所にある。矢張り丸太小屋なのだが、住居よりは大きく、中は十人ほどが一度に勉学することが出来る大きさがある。今日も寺子屋には八歳から十二歳の子供が八人来ている。子供達は黒田家と山並家の子供で、先生であるタクの話を熱心に聞いている。

「皆も知っての通り、この村には悪魔が封じ込められている。行ったことはないと思うが、悪魔首が置かれた魔人牢がこの村の北側にある。皆、くれぐれも牢に近づかないように」

タクの忠告に子供達が一斉に「はい!」と返事をする。

「我らの使命は、この魔人牢から悪魔が世に放たれないよう守り続けることだ。但し、悪魔を侮ってはいけない。特に女は魔人牢に近づいてはいけないという話を聞いたことはあるか?」

何人かの子供が手を上げる。

「悪魔は女が近づいただけで、その腹に子供を宿すことが出来る。悲しいことに、嘗て光神家のネネ様が魔人牢に入った為に悪魔の子を宿し、命を落とされた。そして醜いあれが産まれたのだ!」

タクが子供達の後方を指差すと、


―――そこに『呪郎』はいた。


呪郎は部屋の隅に首輪と鎖で繋がれ、膝を抱えて座っている。汚れた着物、黒ずんだ肌、小柄な上に痩せていて頭だけが大きい。髪は殆ど生えていない。首をすくめ乍ら、ぎょろりとした目で呪郎はタクを見た。

タクは不愉快そうに「見ろ、あの邪悪な姿を」と吐き捨てた。

子供達も呪郎を睨んでいる。

タクは呪郎に話し掛けた。

「呪郎、この前山波家が砂金取りに行った時、サナが崖から落ちて足に怪我をしたそうだ。一体誰のせいだ?」

呪郎は大きな目を目一杯広げ、「へい、ワシのせいです」と卑屈な態度で答えた。

タクが続ける。

「なら、鉄砲水で家畜が流されたのは誰のせいだ?」

「ワシのせいです」

「長雨で作物が腐ったのは?」

「勿論ワシのせいです」

「そうだ、この世に起こる悪しき出来事は、全てお前のせいだ! お前が生きているから悪いことが起きる」

「はい…申し訳ございません」と上目遣いで呪郎が謝る。

十歳の山波ソラが割って入る。

「タク様」

「何だ、ソラ」

「ならば呪郎を殺せばいいのでは?」

「ああ見えてあれは悪魔の子。容易には殺せんのだ。何人もの剣士があいつを殺そうとしたが叶わなかった」

十二歳の黒田マサが前へ出る。

「タク様、この間家が火事になって半分燃えてしまいました。それも呪郎のせいですか?」

「そうだ」

「なら仕置きしたいです」

タクが部屋の隅に置かれた木刀を取り、マサに差し出した。

「よし、やれ」

マサが木刀で思い切り呪郎を殴り付けると、呪郎から「ぎゃっ!」と言う声が聞こえた。容赦のないマサが何度も呪郎を殴ると、子供達の声援が湧き起こる。

呪郎が泣き乍ら許しを請う。

「お許しを! お許しを!」

その時、テツが寺子屋に入って来て全員の視線がテツに向いた。

タクが「兄上、何か御用ですか?」と驚いた顔で尋ねる。普段寺子屋にテツが来ることなどないからだ。

「源治様から命を受けた、呪郎の目付け役だ。連れて行くぞ」

テツはそう言うと呪郎の鎖を外して手に持ち、出て行こうとする。

タクがテツに近づき、小声で言った。

「兄上、こいつへの甘い態度はご法度。こいつは人か悪魔か分からぬ故、決して悪魔として目覚めさせてはならないというのが、源治様からのお言葉です」

「元より承知している」

テツはそう答えると、やる気のない態度で犬の散歩のように呪郎を引いて出て行く、

寺子屋から呪郎の鎖を引いて出て来たテツはだらだらと歩き始める。暫く歩くと、呪郎が話し掛けて来た。

「テツ様」

「気安く話し掛けるな」テツが冷たく言い放つ。

「ワシはテツ様が好きでございます」

「そうか、俺はお前が死ぬほど嫌いだ。お前ほど醜い生き物は見たことがない」

「皆、ワシを嫌っております。そりゃそうだ、ワシがいるから悪いことが起きるのだから。でもワシ、テツ様には他の方とは何か違うものを感じるのです」

テツが立ち止まって呪郎を振り返る。

「違うものとは?」

その問いに即答出来ず、呪郎は困った様子だ。

テツは呪郎に魂胆があることを見抜いている。

「適当なことを言うな。望みは何だ?」

「…………」

「早く言え!」

「…暫く何も食わせて貰ってないのです」

「…………」


豚小屋の中は臭くて暑かった。餌やり人が餌を与えて出て行ったばかりのようで、必死に餌を食らう豚が数頭いる。餌は村人の家から出た生ごみだ。

呪郎を連れて来たテツは木製の柄杓で豚の餌を掬うと、柄杓ごと呪郎に投げ付けた。当然地面に餌は落ちるが、その餌を拾って呪郎は必死の形相で食べている。

呪郎の醜い姿を眺め乍ら、テツは十五年前の出来事を思い出していた。


―――破裂するネネの腹。

―――産声を上げている黒い赤ん坊。

―――唖然と赤ん坊を見つめる十歳のテツ。


その時、食べ終わって口元を汚した呪郎が再び話し掛けて来た。

「適当なことなんてとんでもねえ。ワシはテツ様に特別なものを感じているのです」

「また、その話か」

テツは辟易し乍ら呪郎の鎖を引いて外へ出るが、呪郎は話を止めなかった。

「食べさせてくれたお礼に申し上げます。ワシ最近見たのです、獣人を」

「獣人? 獣人とはあの黒牛の頭を持つ化け物のことか?」

「はい」

「馬鹿を言え、獣人がいたというのは大昔の伝説だ」

「本当です」

「ほう、ならお前は見つけて何をした?」

「ワシは…怖くて逃げました」

「逃げた?」

「はい、こちらに向かって来たので」

「呪郎、お前は生きていていい存在か?」

「ワシは…そう…死んだ方がいい。この世に存在してはいけないと、小さい頃からそう教わっています」

「なら、なぜ逃げる? もし獣人が本当にいるのなら、お前を殺すことが出来たかも知れないのに」

「…………」

「どうせ、また出任せだろう」

「いいえ、違います!」

「呪郎、なぜ俺がお前を連れ出したか分かるか?」

「…へ?」

テツはいきなり抜刀すると、呪郎の右腕を肘の辺りから切り落とした!

痛みに絶叫して転げ回る呪郎を、テツは冷たい目で見下ろしている。

「今の俺にお前が殺せるか確かめるためだ」とテツは呟いた。

すると呪郎の切られた腕から、小枝のように腕が生えてくる。


―――呪郎の体は再生する。


「…この剣では無理か」

見る見る再生していく呪郎の腕を見乍らテツはそう呟いた。

切り落とした方の呪郎の腕は黒い煙を出し乍ら消えて行く。

半分ほど腕が戻った呪郎が立ち上がる。

「テツ様。ワシは…どうしたら死ぬでしょう」

「魔人牢の悪魔を封じ込めた光明の剣…あれならきっと殺せる。しかし、それを抜けば悪魔を世に放つことになる」

「或いは獣人なら…」

「そんなものはおらん」

「おります」

「どこに?」

呪郎がテツの後方を指差した。テツがゆっくり振り返ると、そこには一本の大きな木があるだけだ。

テツが「どこだ?」ともう一度呪郎に問い掛けるが、呪郎は指を差したまま。

ここでテツは気配を感じ取った。

「…………」

草を踏む音がする。テツが見つめる中、木の陰からゆっくりと獣人が現れた。頭が黒毛の牛で、人のように直立し、毛だらけのぶ厚い胸板を突き出している。テツより頭二つは大きい。

「化け物!」

テツは素早く刀を抜き、自分より遥かに大きい獣人に向けて構えた。そしてじりじりと獣人ににじり寄るのだが、荒い息でよだれを垂らす獣人は、目の前にテツが来ても全く動かない。

テツはわざと獣人の目の前で刀を振って見せるのだが、獣人が動く様子はない。

「どうした化け物、掛かって来い!」

テツがそう叫んでも状況は変わらない。

「…こいつ、俺が見えていないのか」

その時、呪郎が叫んだ。

「この化け物!」

するとその声に獣人はびくりと反応し、呪郎に向けてゆっくりと歩き出した。

呪郎は向かって来る獣人に慄いている。

呪郎と獣人を交互に見ているテツ。

「来るな!」

呪郎が叫ぶと獣人の足が止まる。

「テツ様、こいつはこの前もワシを追い掛けて来たのです」

呪郎の言葉は耳に入らない。テツには思い付いたことがあった。

「呪郎、こいつに殺して貰え」

「へ?」

「お前は死んだ方がいい、そうだろ?」

「ワシは…小さい頃からそう言われて…」

「ならばこいつに言え、自分を殺せと」

「でもワシ…もう少しテツ様とお話がしたい」

「早く言え!」

呪郎は獣人を見つめ、決心して叫んだ。

「ワシを殺せー!」

途端に獣人が呪郎に襲い掛かる。呪郎の体を掴むと、牙の生えた大きな口を広げ、左肩ごと腕を食い千切る。

甲高い呪郎の悲鳴が上がる。

獣人が鋭い爪で腹を切り裂くと、呪郎の臓器が飛び出す。そのまま右足を嚙みちぎると、丈夫な顎で嚙み砕いている。骨が砕かれる気色の悪い音が続く。獣人は下半身を大方食い尽くし、続けて上半身の肉を食らう。呪郎の体は遂に頭以外食い尽くされてしまった。

頭だけになった呪郎が泣き叫んでいる。

獣人が呪郎の顔に噛み付き、呪郎が断末魔の悲鳴を上げたところで、テツはその場を去って行った。醜い光景に吐き気を催し、早くその場を去りたかった。呪郎が死のうが生きようがどうでもいい、どうせ人だか悪魔だか分からない存在だとテツは思った。ただ、あまりの醜さに頭がくらくらしていた。

どこをどう歩いたかは覚えていなかったが、テツは山並家の集落に辿り着いた。

テツの気配を感じ取ったのか、丸太小屋から山波サナが出て来た。サナは二十歳になる山並家の女でミツルの許嫁である。怪我をした右足を少し引き摺っている。

「テツ。どうしたの、顔色が悪い」

「サナか。ちょっと…おぞましいものを見た」

「おぞましいもの?」

テツはもうその話題に触れたくなかった。

「山波の皆は?」

「砂金取りに出ている」

「お前は留守番か?」

サナは着物の裾を上げ、足首に巻いた布を見せる。

「そうか、足をくじいたって言っていたな。大丈夫か?」

「大丈夫かどうか見て」

テツがしゃがみ込んでサナの足の具合を見ていると、サナは更に着物の裾を太腿上まで捲り上げ、白い太ももが露になっていく。

テツはサナの手を押さえた。

「やめろ」

立ち上がったテツに縋り付くサナ。

「ここには二人しかおらん」

「サナ」

幼いサナの姿がテツの脳裏を一瞬よぎった。お嫁さんにして欲しいと何度も言われたが、その気持ちは今でも変わっていないのだろうか。

サナはテツの手を自身の胸元に入れようとするが、テツは手を引いた。

「お前はミツル様の許嫁、もうじき光神家の人間になるのだ」

「私は小さい頃からずっと…」

「言うな!」と言った後、テツは気配を感じて後ろを振り返る。

そこにはミツルが立っていた。

「テツ!」

怒声を上げてミツルが向かって来る。

テツとサナは膝を付いて頭を下げる。

「何をしておった?」

「ミツル様、私はただ話を…」

「サナはもうじき俺の嫁になる女、嫁になるということは光神家の人間になるということ。気安く話などするな」

「申し訳ございません」

「サナ、立て」

サナの手を引いてミツルは丸太小屋に入る。戸は開いたままなので、テツの位置からも中が見える。

「後ろを向け」と言うミツルの命令でサナが後ろを向くと、ミツルはサナの体を壁に押し付け、着物を捲り上げた。

「ミツル様!」と叫ぶサナ。

「構わんだろ、どうせ嫁になるのだ」

「やめて下さい!」

「お前、光神家に逆らうつもりか!」と自身の着物も解き、サナに腰を当てる。

サナは着物を脱がされ、悲鳴を上げているが、テツは頭を下げたまま。

「テツ、頭を上げよ! ちゃんとこちらを見るのじゃ!」と言うミツルの言葉で、テツは二人の姿を見つめた。

「…………」

「見ていろ、テツ! 早く子が欲しいと思っていたのじゃ、早いに越したことはなかろう」

勝利の高笑いをするミツルがテツの後方を見ると、その目が見開かれる。

ミツルは突然叫び声を上げ、腰を抜かした。

テツが後ろを振り返ると、


―――呪郎の頭が歩いて来る。


実際は体が生えて来る途中で手足が細く、その細い手足を何とか動かして前に進んでいるものだから頭だけが歩いて来るように見える。半分食われた顔も戻り掛けて膿のように見えるから尚更気味が悪い。

「テツ様、ワシはどうしたら死ぬでしょう」

ミツルが唖然とした表情で呪郎を見乍ら呟く。

「お前…呪郎か?」

「ミツル様」

「何て醜い」

「そんな。どうか憐れんで下さい。だってワシは半分光神家の人間でしょ」

「戯言を抜かすな、化け物!」

「ネネ様からワシは産まれた、あなたとは血が繋がっている」

「黙れ! お前は妹の体を使ってこの世に出て来ただけのこと。断じて光神家の人間ではない!」

そう言い残してミツルは逃げるように去って行った。

その間も呪郎の体は再生されていく。

サナは丸太小屋の戸口に座り込み、声を殺して泣いている。

「サナ」とテツが近寄ると、サナはぴしゃりと戸を閉めてしまった。

「…………」

テツはただ立ち尽くし、小屋からはサナの泣き声が漏れている。


それから数日後。

晴天のその日、集会広場に光神家の面々が正装で集まっていた。その中央で大きな杖を持って立つ源治の姿がある。

そこへ黒田家と山波家の人々が集まって来る。日本刀を腰に差したテツは、歩き乍らサナの様子を気にして振り返った。サナは少し後ろの山並家の集団にいたが、ずっと俯いたままだ。

村人達は、全員が揃うと源治に一礼して一斉に膝を付いた。

呪郎は少し離れた木に鎖で繋がれているが、すっかり元の姿に戻っている。

今日は掟により定められた、源治の昇天の儀式の日である。

テツが一歩前に出て挨拶を始めた。

「源治様。この日を迎えられたこと、誠におめでとうございます。源治様の魂が無事昇天されますよう、本日はこのテツが斬殺人を務めさせて頂きます」

そう言った後、テツはゆっくり刀を抜く。

「さあ、こちらへ」とテツが言ったその時、「お待ちなさい!」とトキがテツを制した。

驚くテツを尻目にトキは村人達に向かって話し始める。

「本日、源治様の昇天の儀式は取り止めとする」

トキの言葉にどよめく村人達。

テツは納得出来ない様子でトキに詰め寄った。

「どういうことでしょうか?」

「今、申した通りじゃ」トキは冷たく返した。

「いや、しかし…」

「この村の決め事は全て光神家に任されている。お前はそれに異を唱えるというのか!」

「しかし我が村の人数を抑えるため、我ら黒田と山波は五十、光神家は六十歳で儀式を行う掟となっております。源治様は本日六十を迎えた筈」

「今は平時ではない、お前は獣人を見たと言うではないか」

「見ました」

「ならばこの先、源治様のお力が必要となる時が来る」

「お力…とは?」

「今ここに獣人が現れないのも、源治様のお力のお陰。お前達は知らぬ間に源治様のご加護を受けておるのじゃ」

不服そうな表情のテツを横目で見てトキは続ける。

「信じておらんようじゃの。ならば皆見るがいい、源治様のお姿を!」

村人が注目する中、源治はゆっくりと目を閉じた。源治の両足が宙に浮くと、村人達は感嘆の声を上げる。源治は宙に浮いたまま座禅を組む。片手は杖を持ったままだ。

「源治様!」と声を張り上げ、拝み始める村人達。感動で言葉を失っている者や泣いている者もいる。

その時、疑惑の眼差しで源治を見ていたのはテツだけだった。

源治は暫くすると地に足を着き、それを見届けたトキは村人達に解散を言い渡すとすぐにその場を去るよう命じた。

テツは去って行く間に後ろを振り返ったが、いつもは一番後に来て真っ先に帰る筈の光神家一族がいつまでも村人達を見送っている様子に違和感を覚えていた。


丸太小屋の中、囲炉裏に鍋が掛けられ、肉や野菜がぐつぐつと煮込まれている。

ゴウが居なくなった小屋で食事中をしているテツ、タク、ムツだが、テツの箸だけが進んでいない。

タクとムツは黙々と食事し乍らテツの様子を気にしている。

「兄上、顔色が悪いようですが」

「…………」

ムツが口を開く。

「昇天の儀式が取り止めになったことを残念に思っているのかい?」

「…………」

「そうなのか、兄上?」

「あなたより源治様の方が余程残念に思われているのですよ。源治様だって儀式を行いたかった筈。でも村の為を思い、敢えてこの世に残るという辛い道を選ばれた。何と尊いお方でしょう」とムツは心から言った。

「…………」

食事の後、テツが小屋の外で待っていると、中からタクが出て来る。

「兄上、話とは何ですか? 母上には聞かれたくない話ですか?」

「明日稽古を抜けて付き合ってくれないか、一緒に確かめたいことがある」

「まぁ、兄上がそう言われるならご一緒します」


次の日。

テツとタクは森を歩いている。散々歩かされてタクは疲れていた。タクにとっては歩いたことのない場所である上、テツに行き先を聞いても全く答えてもくれないので余計に疲れを感じる。

「兄上、こんな遠くまで足を運んだことはありません。もうそろそろ一体何が目的か、教えて貰えませんか?」と訴えるが、矢張りテツからの返答はない。

岩場がある場所に辿り着いた時、突然テツが岩に身を隠すように座り込んだ。

「疲れましたか?」とタク。

「あれを見ろ」

タクがテツの指す方向を見ると、洞窟が見える。

「洞窟…ですね」

「お前は知らないと思うが、光神家の人間が大名家と謁見する際、あの洞窟を通って行くのだ。この村の近況は大名家から幕府へと伝達される」

「そうなのですか」

「俺は黒田家の長男として光神家に同行し、何度もここへ来ている。ただ洞窟の中には入ったことがない。洞窟前で待ち、光神家が持ち帰った土産の品を運ばされていた」

「土産とは?」

「箱に入っていたので中身は分からん。そして今日はミツル様が謁見の為に出掛ける日だ。もうすぐ来る筈だ」

「来たらどうするのですか?」

「光神家の行いを確かめたい」

「そんなこと光神家が許しますか?」

「問題はない、確かめるだけだ。何もなければそれで終わりだ」

「母上が心配しています、兄上の様子がおかしいと。こんなことして何になる…」

「しっ」

テツがタクを岩陰に座らせると、背中に風呂敷袋を背負ったミツルがやって来る。

二人が声を殺して見守る中、ミツルは風呂敷袋から出したヘルメットを被り、洞

窟内へと消えて行った。

「…あの被り物は何ですか」

「行くぞ」テツが洞窟へ向かう。

「駄目です」とタクがテツの袖を引っ張り、「こんなことが許される訳がない」と引き留めようとする。

「放せ」テツはタクの手を振り解いて歩いて行く。

「兄上…」

仕方なくタクは後に続いた。


洞窟内。

一人、慣れた様子でミツルは洞窟を進む。ミツルのヘルメットライトが周囲を明るく照らしている。

足音を立てないように後からテツとタクが続く。

「あの明かりを見逃すな」テツが小声で言った。

二人はミツルからはぐれないように、且つ見つからぬように後を追った。暫く歩くと、ミツルは歩みを止め、岩場に設置されたライトを点けた。テツ達が見守る中、そこに照らし出されたのは、


―――地底湖だった。


ミツルは予め岩陰に置かれていたバックのジッパーを開け、取り出したウェットスーツに着替え始めている。

岩陰に驚いた表情でそれを見守るテツとタクがいる。

ミツルは酸素ボンベを背負って水に入るとレギュレーターを口にくわえ、ぶくぶくという泡と共に水中に消えて行った。

テツとタクはそれを見送った後、地底湖へと歩み寄った。壁に設置されたライトが水面をきらきらと照らし、足元にはミツルが残した道具類が置いてある。数人分のウェットスーツ、ボンベ、マスク、フィン、レギュレーター、水中ライトなどがあった。

タクは恐る恐るマスクを触っている。

テツが水中ライトをいじっていると、タクに向けてライトが点灯する。

「うわっ!」と驚くタク。

「落ち着けタク、一旦出よう」

「兄上…」言葉が続かないタク。

「分かっている。話は後だ」テツは動揺するタクに優しく言った。

テツは持って来た水中ライトで洞窟を照らし乍ら出口へと向かい、タクがそれに続いた。洞窟から出て来るまでの間、二人に会話はなかったが、洞窟を出るとタクが口を開いた。

「それを見せて下さい」

テツから水中ライトを貰ったタクは、興味深くそれを触っている。

「おかしいと思わないか?」テツが問い掛けた。

「おかしいとは?」

「そんな道具、村で見たこともないだろ」

「別に…不思議はないですよ。だって光神家はここを通って大名家と会っているのですよね、向こう側へ行く為の道具があって当然です」

「なるほど、お前はそう受け取るのか」

「兄上はどう思っているのですか?」

「俺は前から光神家の動きが気になっていた。あの湖の向こうで、本当に大名家と会っているのかどうか…」

「光神家を疑うのですか?」

「疑いたくはない。だから確かめるのだ」

「…………」

それから暫くの間、二人は口も聞かず岩陰で時を過ごした。

日が沈み掛けた頃、洞窟から大きな荷物を担いだミツルが出て来た。

「何を持って来たのでしょう」タクがテツに問い掛ける。

「ああやって行く度に何かを持って来る。大荷物の時は荷車を使って運んだこともある」

二人は遠ざかって行くミツルの背中を見送った。

「タク、明日も稽古を抜けてくれるか」

 

次の日の昼間。

木陰から光神家の様子を窺うテツとタクの姿があった。

「今日、光神家に人はいない。泳法の稽古で川に出掛けている。全員参加が光神家の習わしだ」

テツがそう言うと、タクが口を開く。

「それは知っておりますが、どうするつもりですか? まさか屋敷の中へ?」

「確かめたいと言っただろ」

「兄上、見つかれば処罰されます。どこまでの処罰になるか分かりませんが、下手をすれば死罪もあり得る」

「構わん。来たくなければ、お前はここで待て」

光神家の屋敷へと向かうテツの背中を見て、タクも覚悟を決めて後に続いた。

屋敷は平屋建てではあるが、屋根の上に四角い板塀で囲われた物干し場が作られている。実際物干し場かどうかは分からないが、テツはそう思っていた。一階から中に入れる場所を探したテツだが、どこも施錠されていると分かるとその物干し場を見上げた。

「上から入れるかも知れない」

そう言うとテツは置いてあった梯子を立て掛け、屋根へと上がって行く。

「もう、どうなっても知りませんよ」と言い乍らタクも梯子を上った。

屋根から物干し場へ行くと、二人は板塀をよじ登り始める。やっとの思いで乗り越えて中へ入ると、そこは物干し場ではなかった。その場所一面に設置されていたのは、


―――太陽光パネルだった。


二人は電波受信用アンテナが立っていることにも気付くが、勿論それが何であるかは分からない。

「兄上…一体何ですか、これは?」

「…………」

テツが入口を探すと、床板が開く場所があり、開けると下へと階段が伸びていた。二人は中へと下りて行った。

階段から廊下に下りると、テツは迷わず奥の部屋へと進む。大空をうねる龍の水墨画が描かれた襖の前へ来たテツはタクを振り返る。

「ここには何度か来たことがあるが、この部屋には近づくなと言われた」

そう言ってテツは龍の襖を開ける。テツとタクが中へ入ると、そこにあった物は二人が見たこともない代物ばかりだった。


―――薄型テレビ。

―――洋式のテーブルとソファー。

―――コーヒーメーカー。

―――コードレス掃除機。

―――シャンデリア。


見慣れない品々に開いた口が塞がらないテツとタクがいる。テツがリモコンを手に取り、ボタンを押すとテレビが点いた。画面の中、街を歩くレポーターが店を訪れ、食レポをする番組が映し出されると、突然現れた人物にタクが腰を抜かして叫ぶ。

「な、中に人が!」

テツは完全に言葉を失っていた。

その時、「誰!」と言うサナの声が響いた。

部屋にサナが入って来て、二人と向き合う。

「二人とも…どうしてここに?」

「サナこそどうして?」テツが聞き返した。

「留守を頼まれたの、私はもうじき光神家の人間だから」とサナはテレビ画面を見て愕然とする。

「それは何? 中に人が!」

「分からない、俺達にも」と同じく混乱するタクが答えた。

テツはテレビの厚さを確認し、「中に人が入っている訳ではなさそうだ」と言った。

「私もこの部屋には近づかないように言われていたの」とサナ。

タクは落ち着きなく部屋を歩き回っている。

「目にしたことのない物ばかり。ここは一体どうなっているのだ、兄上!」

その言葉を無視するようにテツは部屋の隅に置かれた物体に近づく。大きな杖に鉄骨が付いた奇妙な物体だ。杖の下部は鉄板に溶接されていて、更にその杖の持ち手の辺りから枝分かれした鉄骨が伸びている。その鉄骨は一旦斜め上に伸びてから今度は急角度で斜め下に折れ曲がり、更にもう一度折れ曲がった先端部分が椅子のような形状となっている。

テツが杖を掴み、椅子の部分に座ってみる。伸びた鉄骨は丁度杖を掴んだテツの腕と脇の角度と重なる。テツがそのままゆっくりと両足を上げて座禅を組むと、まるで宙に浮いたような形になり、それはあの日の源治の姿と重なった。

唖然とテツの姿を見ているタクとサナ。

「それはあの時の…」とサナが呟き、「源治様のようだ」とタクが続いた。

「そういうことだ。もしこの杖を支える下の板を土に隠し、杖から枝分かれした部分を源治様の着物の下に隠したなら、どのように見える? まるで宙に浮いているように見えないか?」テツは何かを悟ったように言った。

タクとサナは言葉を失っている。

物体から降りたテツにタクが話し掛ける。

「兄上…い、一体何が言いたいのですか?」

「言わずとも分かるだろう。源治様は我々を欺いたということだ」

「なぜ欺くのです」タクは引き下がらない。

「特別な力があるように見せ掛ける為だ。源治様には獣人を抑える力など始めからないのだ」

「でも何で…訳が分からない」タクは狼狽えている。

「死にたくなかったのだ」

「…………」

タクにはまだ理解が及ばない。

「いいか、タク。あの日は昇天の儀式で源治様の首は切り落とされる筈だった。浅ましくも自分だけは生き残ろうと画策したのだ」

「そんな筈はない、だって儀式は神聖で名誉なことではありませんか」

「そう教え込まれたのだ、俺達は。本来、人であるならば生きたいと思うのが自然であろう」

「自分だけ生き残る……源治様はそんな卑怯なお方ではない……」

「あれを見ろ、タク!」

テツがテレビを指差すと、テレビの中でレポーターが街を散策している。

「あの世界は何だ?」

「あれは……村」

「タク、あんな村を見たことがあるか?」

「…いえ」

「あの村がきっとあるのだ」

「…どこに?」

「洞窟の、あの湖の向こう側に」

「…そんな馬鹿な」

「なら、どう説明する。ここにある見たこともない道具は一体何だ? 全て向こうの世界から運んで来たに違いない。別世界の存在を我々には知らせず、自分達だけがいい思いをして来たとは思わないか? そんなことがあっていいのか?」

「…………」

その時、ずっと二人を見守っていたサナが言葉を発した。

「そんなのおかしい…光神家だけが全てを知っていて、私達に隠し続けてきたってことでしょ。ね、タクだっておかしいと思うよね?」

タクは二人に背を向け、暫く考えた後に振り返って言った。

「なるほど。じゃあ兄上が言ったことが全て正しいとしましょう。源治様は命が惜しくて嘘の力を見せ付けた。光神家は別世界の存在を隠して、自分達だけがその恩恵を受けていた。でもそれが何だというのですか?」

テツとサナは驚いたままタクを見ている。

「我々は掟に従って生きるだけのこと」とタクは自身に言い聞かせるように言った。

「よく考えろ、タク。その掟を作ったのは光神家なのだ。自分達に都合のいいように作り変えることだって出来…」

「黙れ!」とタクがテツの言葉を遮って叫び、「光神家は神に等しい存在だ。ただ物珍しい物があったというだけで大騒ぎしやがって。光神家や源治様を侮辱することは、例え兄上でも許さん!」と捲し立てた。

「許さないとは…俺を切るということか?」というテツの問いに、「必要なら切る」とタクは即答する。

二人が暫し睨み合った後、タクだけが部屋を出て行った。

残された二人は暫く押し黙っていたが、テツが重い口を開いた。

「…無理もない、いきなり得心が行くものではないだろう」

「ねぇ、テツ。私達のこの世界は、光神家が作り上げた偽りの世界ってことにはならない?」

「そうとも言える」

「もしこの世界が偽りなら…私はミツル様の嫁にならずに済む?」

「済むかも知れん」

サナがテツに縋り付く。

「なら私はテツと一緒に居たい」

「早まるな、サナ。暫くこのことは見なかったものとして振る舞うのだ。村の人間に話しても信じる者はまずいないだろう。これからのことはじっくり考えよう」

「…………」


その日の夕刻。

自宅の丸太小屋の前でタクは一心に木刀を振っていた。そこへテツが帰って来ると、二人は一瞬睨み合った。テツが再びどこかへ行こうとすると、タクが声を掛ける。

「どこへ行くのですか? まさか光神家に何かするおつもりか」と木刀をテツに突き出した。

「…呪郎の様子を見て来るだけだ。目付け役だからな」

そう言い残して去って行くテツの背中を、タクは敵意を持って見送った。


呪郎は豚小屋に繋がれている筈だった。だがテツが来て中を覗くと、その姿は消えていた。柱に繋がれた鎖はあったが、その先に呪郎がいない。鎖の先の首輪が外されている。鉄製の首輪が何か強い力で引きちぎられたように転がっているのだ。

テツは慌てて外へ出て辺りを見回したが、呪郎の姿は見えない。そのまま小屋の裏へと回り込むと、林の中に呪郎が立っていて、夕焼け空を見上げていた。

「呪郎、お前…」と言い掛けて言葉が詰まるテツ。


―――呪郎の姿が変わっている。


小柄で細かったその体には筋肉が増え、逞しい肉体となっている。テツよりずっと低かった身長が、今は同じくらいに見える。その肌は更に黒ずみ、手の指が伸びて鋭い爪が尖っている。

それを見たテツは魔人牢の悪魔首に近づいていると思った。

「呪郎…お前なのか」

呪郎はゆっくりと振り返った。その動作には今までの卑屈さは感じられない。

「来ましたか」

呪郎は声までも変わった。低く落ち着ている。

「何だ…その姿は? お前ここで何をしている?」

その言葉が聞こえていないかのように呪郎が話し出す。

「テツ様、ワシは頭が悪いから、沢山考えないといかんです」

「何の話だ? 何を考える必要がある。それより、なぜ首輪を外した。どうやってあの首輪を…」と言い乍らテツは木陰からこちらに向かって歩いて来る獣人の姿を確認した。

「くそっ!」テツは素早い動作で抜刀し、刀を構える。しかし予想外に獣人はテツの前を通り過ぎ、そのままゆっくりと呪郎の後ろに控えるように立った。

「首輪は、この獣人が外しました」

呪郎ははっきりとした口調でそう言った。

「ワシがこの獣人に食われた時、なぜ戻れたか分かりますか? 食われた時、ワシが思わず止めろと叫んだらこいつは止めたのです。下がれと言ったら下がった。こいつはなぜだかワシの言うことを聞く。テツ様はあの時、それに気付いたのですね。だから自分を殺せと言えと、ワシに命じたのでしょう?」

「…………」

「テツ様に特別なものを感じると言ったのは本当だったのですよ。ワシはあなたが好きでした」

「ありがた迷惑だ」

「そうですか、そうですよね。ところで確かあなたは村一番の剣の達人でしたね。本当かどうか試していいですか?」

「…………」

呪郎は獣人を振り返った。

「おい、あの男を襲え!」

途端に獣人が猛然とテツに向かって突進して来た。獣の咆哮が腹の底から噴出する。

「来い!」と叫ぶテツに向かって、獣人は丸太のような左右の腕を振り回し、鋭い爪で襲い掛かる。その腕をテツは必死に刀で薙ぎ払う。相手の隙を突いて何度か獣人に切り付けるテツだが、致命傷は与えられない。遂にはテツの刀を叩き落とした獣人がテツの左腕に噛み付き、テツの絶叫が山々に木霊した。

その時、「止めろ!」と言う呪郎の声で獣人の動きが止まる。更に「戻れ」と言う指示で獣人は呪郎の後ろへと戻るのだった。

テツは苦痛の表情で流血した左腕を押さえている。

「テツ様、一つ聞きます。光明の剣とは何ですか?」

「我ら黒田家の先祖が作った名刀だ。念が込められている」

「それならワシを殺すことが出来ますか?」

「この場にあれば、お前らなど一太刀で葬ってくれるわ!」

「…そうですか」

呪郎は何か考えた様子を見せ、獣人と共に去って行った。


今夜の魔人牢の門番はタクと同い年で十八歳になる黒田カイであった。カイが立ったまま眠りそうになっていた時、獣人を連れた呪郎が近づいて来た。

「何者だ、貴様ら!」とカイは抜刀して構えるが、その途端猛然と突進して来た獣人に叩き飛ばされてしまう。すぐに立ち上がるが、獣人に恐れをなしたカイは背中を向けて逃げ去って行った。

「源治様!」と叫び乍ら去って行くカイの背中を呪郎と獣人は見送った。源治達を呼びに行くのだろうと呪郎は思ったが、それでも構わなかった。獣人を従えた呪郎は悠然と牢内に入って行く。

魔人牢に入った時、呪郎は拍子抜けした。呪郎もここに入るのは初めてだったが、厳重な檻がある訳でもなく、ただ石台の上に刀の刺さった黒い首が置いてあるだけだったからだ。

ほぼ真っ黒な首の前に呪郎が立った時、悪魔首の目がゆっくりと開かれた。

「お前はもしやあの時の小娘の…そうか、息子だ。我が息子が来た!」と言ってから悪魔首は力のない乾いた声で笑った。

呪郎は首を見下ろし乍ら「こいつ、喋りやがるのか」と呟いた。

「よく来たな、息子よ。さあ、この頭の剣を抜いてくれ。我を解放するのだ!」と悪魔首は命じた。

呪郎は暫く腕を組んで沈黙した後、悪魔首の頭から剣を抜こうと柄を握った。力を籠めると、ずるずると嫌な感触を残し乍ら剣は抜けた。抜けた途端、悪魔首の周囲から黒い煙が立ち昇った。干からびていた顔に張りが出て来ている。悪魔首が歓喜の声を上げる。

「ああ…自由だ、やっと自由になれる。おのれ人間ども! 息子よ、長い間封じられていたから再生に時間が掛かる。その獣人の頭を切り落とせ。その体をワシのものにするのだ!」

「…………」

「聞いているのか、息子よ」

悪魔首がそこまで言った時、呪郎はいきなり悪魔首目掛けて光明の剣を振り下ろした。悪魔首は一瞬で真っ二つに切り裂かれた。だが切り裂かれても尚、断末魔の叫び声を上げている。

「食え!」

呪郎がそう言うと、獣人は悪魔首を鷲掴みにして食べ始めた。

がりがりという不気味な咀嚼音の中、呪郎は呟く。

「お前の息子などではない」


呪郎と獣人が魔人牢から出て来た時、追い掛けて来たテツと鉢合わせになった。止血していたらしく、テツの左腕には布が巻かれている。

テツは呪郎が手にした日本刀を見て、「それは光明の剣…悪魔は? 悪魔首はどうしたのだ!」と叫んだ。

「ご安心下さい、こいつに食わせました」呪郎は冷静に答える。

「なぜだ? 悪魔同士で殺し合いか?」

「もしワシが悪魔だと言うなら、悪魔はワシだけでいい」

「…………」

「テツ様の言う通り、こりゃあ見事な剣だ。確かにワシらにとってはどうにも居心地悪い念とやらを感じます」

呪郎は日本刀を眺めたかと思うと、大きく上段に振りかぶった。

「やめろ!」と叫ぶテツの声も虚しく、呪郎は日本刀を足元にあった石に叩き付け、刀身は柄の少し上の部分から折れて撥ね飛んだ。

「…………」

テツが呆然としたその時、源治を含めた光神家の面々が駆け付ける。

「何の騒ぎじゃ!」と源治が叫んでいる。

別方向からタクやサナを含めた村人達も集まって来る。

「兄上、何事か!」とタクが叫んでいる。

集まった面々は皆、呪郎と獣人を見て慄き、刀を持った男は抜刀して身構えた。

「呪郎が、悪魔を葬り去ったようです」

テツがそう言うと、源治が驚きの表情で呪郎を見つめる。

「呪郎じゃと? 貴様、呪郎か? 何じゃ、そのおぞましい姿は」

呪郎は恨みの目で源治を睨み付けている。

「おぞましい、醜い、薄汚い、臭い、ずっと言われてきました。あなた方全員から、毎日の挨拶のように言われ続けました。ワシを殺そうと何人もの人が切り掛かって来て、痛くて泣き叫びました。源治様、ワシは本当に生きていてはいけない存在ですか?」

「無論じゃ、お前などこの世の害悪でしかない」

「確かにそう言われて育ちました。でもワシ、足りない頭で考えてみました」

呪郎は村人達に語り掛ける。

「ワシは皆に何か悪いことしましたか? 生まれてから一度でも、誰かを傷付けるようなことしましたか?」

その言葉に村人達が静まり返っていると、源治が割って入る。

「直接してはおらん。だがそれはどうでもよい、お前の存在自体が害悪なのだから。生きていれば、必ずや災いを起こす筈じゃ」

「そうだ、この蛆虫!」とカイが叫び、「お前など蛆虫以下だ!」とタクが続く。

「災いを起こす筈?」と呪郎が源治を見つめ、「…なぜ源治様にそれが分かるのですか?」と問い掛けた。

「ワシには特別な力がある。ワシの言うことは絶対じゃ!」

源治の言葉を受けて呪郎は再び村人達に語り掛ける。

「皆さんは考えたことありますか? ワシは悪魔と人の間に生まれた子。この村の人達は、ワシを殺すことが出来ないと分かるとゴミのようにワシを扱った。でも、もし人として扱われたなら人にもなれたかも知れない。そう思った者は一人もおらんか?」

人々が沈黙する。

その沈黙に耐え切れず、タクが叫ぶ。

「お前は悪の根源、我らは幼き頃からそう教えられてきた! 源治様の教えに偽りなどあろうものか!」

呪郎が呆れた調子でタクに言う。

「お前には自分で考える頭がないのか」

「何だと! 黙れ、化け物!」と叫ぶタクの声も、今や堂々とした態度の呪郎の前では虚しく響く。

「悪魔がワシを生み出した意味をよく考えてみろ。悪魔はワシを生み出すことで、この村に選択を与えたとは思わんか? 選択次第ではこんなことにならずに済んだのに…」

そう言い終わった呪郎の顔が怒りの表情に変わるのを見て、テツは叫んだ。

「呪郎、やめろ!」

呪郎は爆発しそうな怒りを押し殺し、「お前らは馬鹿だ」と絞り出すように言った。

テツが「皆、逃げろ!」と叫ぶと、「何を言う、テツ! 皆の者、化け物を葬り去れ!」と源治が真逆の指示を出す。

「奴らを殺せ!」

呪郎がそう叫ぶと、獣人は男達に飛び掛かって行った。

その予想以上に素早い動きに驚き、男達は蜘蛛の子を散らすように逃げる。一人、また一人と男達は獣人に挑むのだが、鋭い爪に体を無残に裂かれ、血しぶきを上げ乍ら次々と殺されていく。獣人は自身も刀で切られ乍らも相手の首を噛み千切り、腕をもぎ取り、足を持って大木に叩き付けて暴れている。

子供を庇って叫ぶ母親がいる。

恐怖で腰を抜かす男がいる。

獣人が蹴り上げた男が宙に舞う。

逃げて行くミツルの後ろ姿。

やがて獣人は方向を変え、源治に迫った。

「黒田、山波、ワシを守れ! 我が光神家に指一本触れさせるな!」と必死に叫ぶ源治とは対照的に、「引け、逃げても恥ではない!」と叫んでいるテツがいる。

タクとカイが源治の前に立ち、獣人を迎え討つ。

「源治様、我らがお守り致します!」タクの勇ましい言葉。

血だらけの獣人が向かって来る。

「奴は弱っている。もう少しじゃ、とどめを刺せ!」と源治が喝を入れる。

その声を背に「死ね!」と叫び乍らカイが果敢にも獣人に突進して行く。獣人は両手でカイを捕まえ、タクの目の前でその頭を引きちぎった。カイの血を浴びたタクは恐怖で足が竦んでしまう。

「タク、何をしている、行け!」

源治は怖気付くタクの尻を蹴って前へ押し出した。

獣人の目前でタクはただ立ち竦んでいる。獣人が丸太の右腕を思い切り横に振ると、タクの頭だけが千切れて飛んで行った。

「タク!」それを見たテツが絶望の声を上げる。

獣人が源治ににじり寄ると、呪郎が言う。

「源治様、いや源治。選択を与えてやる。降伏するか死ぬか、どちらか選べ」

「ふざけるな!」と言って源治は必死に周りに向かって叫ぶ。

「ワシを守れ! 死んでも守るのじゃ! こいつらを殺せ!」

呪郎は獣人に吐き捨てるように言った。

「食え」

獣人は源治の左腕に噛み付き、そのまま噛み千切る。源治の絶叫がその場に響き渡った。

ごりごりと音を立て、左腕を食らっている獣人。

それを見た呪郎が、「源治、それがお前の選択だ!」と笑っている。

その時テツが動いた。折れた光明の剣に走り寄ると、懐から出した手拭いで刀身を包み、それを柄として獣人に向かって行く。

テツを振り返る獣人。

獣人の懐に足から滑り込んだテツは、素早く立ち上がると同時に獣人の顎目掛けて刀身を思い切り突き上げた。

顎から頭頂まで刀身で貫かれた獣人は、呻き声を上げて倒れる。そして、そのまま息絶えた。

テツはもがき苦しむ源治に声を掛ける。

「源治様!」

「遅いわ、テツ! この馬鹿者め! 早く呪郎も仕留めろ!」

テツは獣人から刀身を抜き取ると、呪郎ににじり寄る。

呪郎は後退りしている。

「テツ様…どうかお許しを」

テツは俊敏な動作で刀身を振るい、呪郎の首を一太刀で切り落とした。

切り落とされて尚、痛みに叫ぶ呪郎の首。

テツは呪郎の右こめかみから左こめかみを刀身で貫いた。

その瞬間呪郎の首は動きを止め、ゆっくりと目を閉じる。

「…………」

テツがその首を荒い息で見つめた。


その日の夜。

魔人牢の石台の上には、光明の剣の刀身が刺さったままの呪郎の首が置かれた。

首が無事に置かれた頃、光神家の中庭にテツはいた。中庭の左右にある庭木から綱が張られ、二本の綱はテツの左右の腕にそれぞれ繋がれている。テツに対する鞭打ちの刑が行われているのである。テツの上半身は既に血まみれになっていて、男達が振るう鞭が更にテツの体を裂く。鞭打つ度に汗と血にまみれたテツの絶叫が響いている。

傷の治療を終えた源治が縁側から怒りの表情でそれを見下ろしていた。

「吐くのじゃ、テツ! なぜもっと早く仕留めなかった!」

「俺は…精一杯…」と消えそうな意識の中、テツが呟く。

「お前は戦わずに逃げろと村人達を先導し、ワシが襲われるまで故意に手出しをしなかった。そうだな?」

テツは力なく首を横に振る。

「嘘を吐け! やりおったな、テツ! 気を失うまで打て!」

源治の言葉に男達の鞭の勢いが増す。

どれだけ打たれただろうか…綱を切られ、倒れ込んだテツには人々が去って行く気配だけが感じられた。薄っすらと目を開けると、一人取り残された惨めな自分がいた。


それから二週間が過ぎた。

黒田家の集落の広場では、男達が木刀で剣術の稽古に励んでいる。

その様子をテツは少し離れた木陰に座って眺めていた。着物から見える肌に痛々しい鞭打ちの傷跡が見える。少し前に動ける体に戻ってはいたのだが、まだ万全でないと仲間に告げて稽古を見物している。正直やる気が起きない。呪郎と獣人を仕留めたのはテツなのだが、源治から罰を受けたことでその信頼が村の中で揺らぎ始めていた。

そこへサナがやって来ると、黙ってテツの横に座った。サナもまた落ち込んだ様子である。

二人は暫く稽古を見つめた。

「…馬鹿げている、何の為の剣術か。偽りの村、偽りの掟…」

稽古を見乍らテツがそう呟く。

「昨日…ミツル様に呼び出されて犯された」とサナ。

「…………」サナの突然の告白に、テツは返す言葉も出て来ない。

「両親にそのことを話したの。そしたら二人とも喜んでいた、光神家の跡取りが出来るぞって」

「…………」

「テツ…この村、狂っているよね」

「…サナ」

「もう死にたい」

テツは暫く考えてから言った。

「死ぬ覚悟があるなら、出来ることがあるじゃないか」

「…何?」

「抜け出そう、村を」

「本当に?」

「ああ」

「連れて行ってくれる?」

「ああ、すぐに支度をしよう」


その日の夕刻。

丸太小屋の中では、夕食の支度でムツがキノコを切っていた。そこへ思い詰めた様子のテツが入って来る。テツは腰に日本刀を差している。

「お帰り。タクの墓参りに行ったかい?」とムツ。

「行ったよ、最後の墓参り」

「源治様のお役に立てて死んだのだから、あの子もきっとあの世で喜んでいるに違いない…ん? 最後の?」

「母上」

ムツは手を止めてテツと向き合う。

「最後ってどういう意味だい?」

「それはですね…」とテツは真っ直ぐにムツを見ている。

返事を待つムツだが、言葉の代わりに刃が返って来た。抜刀したテツは、一瞬でムツの喉を切り裂いたのだ。

喉から大量の血が噴き出し、ムツは直立のまま後ろ向きに倒れた。後頭部を陥没するほど床に強く打ち付けたが、既に意識はなかった。目を見開いたまま絶命したムツを、テツは暫し見つめた。返り血を浴びたテツはとぼとぼと放心したように小屋の外へ出ると、一人咽び泣いた。


その日の夜。

マサが魔人牢の門番で立っていると、暗闇からテツが歩いて来た。真新しい着物に着替えたテツは風呂敷袋を背負っている。

「テツ様…」

マサの目の前まで来ると、テツは刀の頭でマサの腹部に一撃を入れて一瞬で気絶させ、そのまま牢内へと入って行く。

中に入ったテツは、悪魔首の代わりに置かれた呪郎の首を見つめた。

「…………」

呪郎の目がゆっくりと開いた。

「…テツ…様」呪郎の声は弱々しい。

「呪郎、苦しいか?」

「苦しい…」

テツは懐から手拭いを出し、呪郎に刺さった刀身を包んだ。そしてゆっくりと頭から刀身を抜き出す。

「テツ様…」

刀身がすっかり抜けると、呪郎は大きく口を開けて歓喜の声を上げる。干からびた肌に潤いが戻り、首から下の体が徐々に再生されていく。

「…何度見ても気味が悪い」テツは再生する呪郎を見乍ら呟いた。

「テツ様…なぜです…なぜワシを開放するのですか?」

「何もかも…どうでもよくなった」

呪郎がふっと笑ったかと思うと笑いは次第に大きくなり、やがて大笑いし始める。

「…何がおかしい?」

「あなたに特別なものを感じると言ったでしょ。思った通りだ」

「…………」

「黒田家の長が裏切り行為ですか? 昔から気付いていました、あなたは心に大きな闇を抱えている」

「…………」

テツが話題を変える。

「ところで獣人はどうした?」

「あれはあなたが殺しました」

「獣人はお前が創り出したのだ、また創り出せる」

そう言って出て行こうとするテツを呪郎が呼び止めた。

「どういうおつもりですか…どこへ行くのです?」

「俺は村を出る」とテツは振り返って言った。

「村はどうするのですか? ワシは村をどうすればいいでしょう」

「ここにはもう俺の家族はいない。残っているのは自分本位な独裁者と、盲目的に従う無能な奴隷どもだけだ。俺にはもう関係ない村だから、どうしようとお前の勝手にすればいい」

そう言い残してテツは出て行く。

魔人牢からテツが出て来ると、待ち合わせたサナが駆け寄って来た。

「テツ」

「行こう」

二人が手を取り合って走り出した途端、向かい側から三人の男が走って来るのが分かった。月明りに照らされると、それはミツルと二人の従者であった。

「テツ、何事だ!」とミツルが叫ぶ。

「…………」

「父からお前の様子を見て来いと言われた。今、お前の家に行ったらムツが死んでおったぞ」

そこまで言ってミツルはテツの陰に隠れたサナに気付く。

「サナ。何でお前が一緒にいるのだ」

その時、傍らで気を失っていたマサが起き上がる。

「ミツル様…」

ミツルが「マサ? どうしたんだ、誰かにやられたのか?」と問うと、「テ、テツ様が急に」とマサがテツを指差した。

ミツルは疑惑の目でテツを睨み付ける。

「お前…まさか自分の母親を殺したのではあるまいな」

「昇天の儀式を早めたまでのこと。一人残すは不憫だ」

「掟に背く親殺しなど許されると思うか? 一人残すは不憫だと? お前ら二人で村抜けするつもりか。サナは俺の嫁だ!」

その途端、サナが叫ぶ。

「あなたの嫁にはなりません!」

「お前ら正気か? 村抜けは死罪、知っておろう。それともこの場で切り捨てるか!」

テツはサナに「下がっていろ」と囁く。

サナが下がると、テツは抜刀して二人の従者と睨み合った。二人と交互に刀を交わした後、一瞬のうちに一人目の右腕を切り落としたテツは、続けてもう一人に駆け寄り、その左足を切り落とした。痛みに絶叫する従者達を見たミツルは、懐から拳銃を取り出して構えた。

それを見て木陰に飛び込むテツ。

ミツルの放った弾丸が木に当たる。

その時、魔人牢からまだ体が再生中の呪郎が出て来ると、思い切り叫んだ。

「甦れ、獣人!」

獣人の咆哮が聞こえて草むらからその姿を現す。

突然の獣人の登場にミツルは怯んでいる。

「そいつを殺せ!」

呪郎がミツルを指差すと、獣人がミツルに突進して行く。

「殺せ!」と更に呪郎が叫ぶ。

ミツルが発砲するも獣人は倒れない。

獣人はいきなりミツルの喉に噛み付いた。そのまま人形のように持ち上げられ、口から大量の血を吐き出しているミツルは痙攣し乍ら絶命した。

その姿を見て、サナを呼ぶテツ。

「サナ!」

テツはサナの手を取ると、二人は森の中へと消えて行った。

獣人は不味い物を食べた時のようにミツルの遺体を吐き捨てた。



街へ



月明りに照らされた夜の森をテツとサナは必死な思いで歩き続けた。夜中であってもテツは洞窟までの道のりを熟知している。しかしサナの体力も考え、二人で少し眠ることにした。夜にここまで追って来られる者はいないだろうとテツは推測している。木の幹に寄り掛かり、二人は凭れ合うように眠った。

夜が明ける頃、どちらともなく目を覚ますと、二人は黙って歩き始めた。洞窟に辿り着く頃には、すっかり日が昇っていた。

洞窟前に来た時、テツが持って来た風呂敷袋から水中ライトを取り出すと、「それは?」とサナが不思議そうに尋ねる。

「前に盗んだ物だ」と言ってテツはライトを点け、二人で洞窟内へと入って行く。

「ここは光神家が大名と謁見する時に通る道だ」暗い洞窟の中、サナを落ち着かせるように優しい声でテツは話した。

「ここの話は源治様から聞いた。私が光神家に嫁に入るからって話してくれた、湖があるって」とサナ。

「潜らなければ向こうへは行けないのだ。サナは昔から泳ぎが得意だったな」

「ここまで来たら火の中だろうが水の中だろうが、どこへでも行ってやる」と威勢の良いことを言ってはいるが、サナはずっとテツの着物を硬く掴んでいる。

そして二人は地底湖へと辿り着いた。

テツは以前のミツルを真似て、設置されたライトを点灯させる。驚くサナを横目に、置かれたバックの中からウェットスーツやボンベを取り出す。

サナはただ驚いて見ていたが、やっと「それは何?」と言葉を発した。

「これは潜る為の道具だ。ミツルが使っているのを見た。さあ、これを着るのだ」とテツはウェットスーツをサナに差し出す。

その場で着物を脱ぎ始めたテツにサナは驚いたが、自身も覚悟して着物を全て脱いだ。

「着物はこれに包んで体に結び付けるのだ」と風呂敷をサナに手渡すテツ。二人は着物を包み終わると、ウェットスーツに着替え始める。テツが着るのを真似て、サナも何とかウェットスーツを着終えることが出来た。二人は腰に風呂敷袋を巻き付ける。テツがサナに水中マスクを付け、更にヘッドライトを装着する。

「いいか、明かりを点けるぞ」と言い乍らテツはサナのヘッドライトを点灯させ、自身もマスクとライトを装着し始めた。

「テツ、怖い」と思わず言葉が出るサナ。

「俺も同じだ、でも後戻りは出来ない。戻れば殺されるし、ぐずぐずしていると追手がやって来る」

そう言い乍らテツはサナにボンベを背負わせ、ボンベのバルブを回す。レギュレーターを銜えさせると、「これで息を吸うのだ 吸ってみろ」と言った。

サナは大きく息を吸い込むと、テツに向かって大丈夫と頷く。

テツは自身も同じ準備を済ませると、「いいか、絶対に俺から離れるな」と少し強い口調でサナに言った。

二人は手を取り合って、ゆっくりと水中に入って行く。肩まで入った二人は、頷き合うとその姿が水中へと消えて行った。

水中に潜ると、地底湖の水はさほど冷たくはなかったのだが、サナの体は緊張で震えていた。前を行くテツから離れまいと必死で足のフィンを動かしていた。暫く進むと少し余裕が出て来たのかそれとも慣れたのか、フィンの動きが滑らかになって、力を籠めずともぐんぐん前へと進み始めた。テツもサナを気遣ってゆっくり進んでくれているし、時折後ろを振り向いてくれる。そんな状況に少し気持ちが楽になって来た時、サナは背後に気配を感じて振り返った。


―――何かが追って来ている?

―――黒い物体。

―――呪郎?


ヘッドライトの明かりが一瞬泳ぐ呪郎の姿を照らしたように見えたが、サナにそれを確かめる余裕はなかった。

更に暫く進むとテツがサナの方を向き、水面へと上がろうと指を差した。水中からテツとサナが顔を出す。

「サナ、無事か!」

「生きているよ!」

二人は安堵して笑い合った。水から這い上がった二人はすぐにウェットスーツを脱ぐと、着物を出して着替え始めた。濡れているがどうでもいい。

着替え乍らサナが「水の中で呪郎を見た気がした」と言う。

「呪郎?」

その言葉にはっとしたテツはライトで水面を照らしてみるが、水面は静まり返ったままだ。

「そんな訳ないよね、見間違いかも」と言うサナに「そうだな」とテツは答えた。

先に着替え終わったテツが辺りをライトで照らし乍ら歩くと、岩陰に置かれた木箱を見つける。中を開けると、その手が止まった。

「…………」

「どうしたの?」サナが来て木箱を覗くと、中にはビニール袋に詰められた砂金が入っていた。

「これは…山並家が集めた砂金?」

「ここに置いて、少しずつ持ち出していたのだろう」

テツは一緒に中にあったリュックに砂金袋を詰めて背負い、「行くぞ」とサナに声を掛けた。

二人が出口へ向かって歩き出すと背後で水音がして、テツははっと振り返った。再び水面を照らすが、矢張り何もいない。

「…………」

「行こう、テツ」

再び二人は歩き出す。途中狭苦しい場所もあり、最後は這って進まなければならなかったが、何とか二人は洞窟から抜け出すことが出来た。そのまま森の茂みの中を歩き、運よく獣道を見つけたことで小川に辿り着き、水分を補給することも出来た。魔封村では見ることが出来ない場所に出たのは、太陽が真上に来た頃だった。森を歩いていて、突然草木が無くなって開けた場所に出た。


―――そこにはアスファルト舗装された真っ直ぐな車道が延びていた。


テツとサナは暫し道路を見つめ、手で触り、その臭いを嗅いだ。サナはどこまでも続く道路を見渡し、「…綺麗」と呟く。

その時、気配を感じたテツが「何か来る」と言ってサナの手を引き、二人は草むらへと身を隠した。獣の唸り声のような音が聞こえ、それは次第に大きくなって二人に迫って来る。二人が道路を見ていると、四角い箱のような物体が近づいて来たかと思うと凄まじい速さで通り過ぎて行った。


―――それはワンボックスワゴンの軽自動車だった。


車が通り過ぎると、二人は唖然としたまま言葉を探したが、見つめ合うだけで言葉が出て来ない。

「あれは…何?」とサナがやっと言葉を発するとテツが続いた。

「中に人がいるのが見えた」

「あんな速い生き物初めて見た」

「生き物ではない。恐らく道具だろう」

二人が話しているうちにまた音が近づいて来ると、今度は二人の前を大型トラックが通り過ぎる。

「あんなに大きな道具が…」と言葉を続けられないサナ。

草陰から二人が出て来る。

「とにかく、ここを歩いてみよう」と言うテツの言葉で二人は車道を歩き始めた。暫く歩いているうちにサナは希望を持ち始めたらしく、笑顔で話し出す。

「この先に村があるかも」

「かも知れん」

「きっと大きい村だよ、あんな大きな物が走っているから」

「何だか楽しそうだな」

「良いことが起こる気がして来た。人が大勢いて、皆が私達を歓迎してくれるの」

「サナ、少し落ち着こう」

「早く行こう、テツ!」サナが走り出す。

「ちょっと待て」

テツが後を追い始めた時、振り返ると背後からSUV車が迫って来るのが見えた。テツは草陰に隠れ乍ら叫ぶ。

「サナ、隠れろ!」

その声に立ち止まり、振り返ったサナが車に気付く。SUV車はスピードを落とし、呆然として動けないサナの横に止まった。ウィンドーが開くと、運転席から夫と思われる男が声を掛けて来た。

「大丈夫ですか? 歩き? この辺バスとか来ないけど」

答えられないサナが車内に目をやると、助手席には妻と思われる女が座り、後部座席にいる男女の子供がサナを不思議そうに見ている。

「気分でも悪いの?」夫がまた話し掛けて来るが、サナは答えない。

妻が不審そうにサナの着物を見乍ら「その格好は何かのイベント? どこから来たの?」と言った。

サナが後退りし始めると、後方からテツが駆けて来る。

「サナ!」と叫び乍らテツは懐から短刀を出す。

「パパ見て、刃物持っている!」と妻が叫ぶ。

「え! 刃物⁈」と夫が後ろを見ている。

「出してパパ、早く!」

夫はアクセルを強く踏み込み、タイヤのスリップ音を上げてSUV車は走り去って行った。

テツは車を見送ってから「…森を歩こう」とサナの肩を抱き、二人は再び森の中へと消えて行く。

テツとサナは森を歩き続けた。休憩を挟み乍ら森を進んで行くと、目の前に岩場が現れた。テツは岩場を避けようとするサナの腕を掴んで、「登ろう」と言う。二人は岩場を登ることにした。テツは辺りを一望出来るかも知れないと考えたのだ。そしてテツの予想通り、岩場の頂上まで上がると周りの景色が一望出来て、そこには街が広がっていた。

その景色を見たテツとサナは絶句する。


―――大勢の人を乗せた列車が駅に入って行く。

―――大型スーパーに出入りしている人々。

―――公園を走り回る子供達。

―――数え切れないほどのマンションと住宅群。

―――道路を行き交う車、トラック、バス。


眼下に広がる巨大な街は二人の想像を遥かに超えていた。光神家のテレビ映像からある程度想像はしていたが、現実はそれ以上だった。

「…こんなに大きいのか」テツが口を開いた。

「あんなに大勢の人がいる」とサナが指差す先、駅前に沢山の人が行き交う様子が見えている。

「とにかく今は見るのだ、奴らの動きを。この先上手く紛れ込まないと何をされるか分からん」

「ねぇ、テツ。あの着物を見て。この着物と随分違う。この身なりじゃ怪しまれるかも知れない」

「分かっている。とにかく今は見て学ぼう、動くのは暗くなってからだ」


その夜。

繫華街の薄暗い路地裏、飲食店のゴミ箱の陰から行き交う人々を見つめるテツとサナの姿があった。森から抜け出た二人は、暗闇を選んで移動し乍らここまで辿り着いていた。物陰から物陰へ警戒しながら移動しているので、誰も二人に気付く者はいなかった。繁華街から住宅街へと移ってアパートの前まで辿り着いた時、人影がないことに気付いたテツはサナに話し掛ける。

「ここにいろ」

テツはアパートの入口から裏手に回り込み、機敏な動作でベランダに侵入する。干された洗濯物を取ろうとしたが取れない。色々探って洗濯バサミの意味を理解したテツは、服や下着を持てるだけ抱えて逃げ去った。公園の木陰に移った二人は洗濯物を広げる。各々服を手に取って着替えようとするが、何をどう着ていいのかどうにも要領を得ない。ブラジャーを手に取ったサナは不思議そうに言う。

「これはどう着るの?」

それでも何とか着替え終えた二人は、コンビニを見つけると駐車場の陰から店内で買い物をする人々を観察し始めた。

「見てみろ、恐らくここは食料を蓄える倉のような場所だ」とテツ。

「お腹が減って来たね」

「あいつらの動きを真似て、食料を持って来よう」とテツが言うと、二人は覚悟して店に向かった。

テツとサナが入口から入って来た時、カウンターにいた若い男性店員は二人の姿に違和感を覚え乍ら「いらっしゃいませ」と声を掛けた。よく見ると二人の服装はどこかおかしい。テツは裾の短いパンツに草鞋を履き、多分女物と思われるシャツを着ている。サナはスカートだが足元は矢張りテツと同じような草鞋で、男物と思われるシャツを着ているのだが、下着を着けていない上にボタンの閉め方も雑なので胸が見えそうになっている。

テツがサナに目配せをすると、二人は別々に店を歩き回って商品を物色し始める。たまたま電池を探しに来た客の男は、横に来たサナの胸元を見て目を丸くした。

テツとサナがそれぞれ飲食品を抱えて出入り口で合流した時、二人を注視していた店員と目が合った。二人はじっと店員を見ている。

「…え?」と声を漏らした店員に嫌な予感がよぎる。

二人が店員の動きを見乍らゆっくり外へ出ようとするのを見て、店員は「え…え?」と声を出した。

二人は急に走り出し、その背中が遠ざかって行く。

「おい、ちょっと!」と叫んだ店員がカウンターを飛び越えると、勢い余って商品棚に突っ込み、カップラーメンが崩れ落ちた。立ち上がって店内から外へ出た時、既に二人の姿は暗闇へと消えていた。


飲食品を手に入れた後、街中では落ち着く場所のないテツとサナは再び森に戻っていた。盗んだ飲食品の初めての味には驚きを隠せなかった。

「何だ、この水は? とんでもなく美味い」とペットボトルのジュースを飲んだテツが言うと、「こんな美味しい物初めて食べた」とサンドイッチを食べるサナが感嘆の声をあげる。その美味しさを堪能すればするほど村との差を感じずにはいられなかった。食事を済ますと、疲れた二人は木の幹に凭れて眠った。

朝になってテツが目を覚ました時、サナの姿が見えなかった。いつものテツなら気付かない筈もないのだが、慣れない環境が思った以上に疲労を蓄積させたのかも知れない。辺りを探し歩くと、岩場の頂上にサナの姿が見えた。テツは岩場を登り、街を見下ろしているサナの横に黙ったまま座った。

「…どうしたらいいの?」とサナが呟く。

「どうした?」

「この大きな村。何をしたら仲間にして貰えるのかな? 魔封村と違い過ぎて、どうやって入り込めばいいのか分からない」

「…………」

テツは答えられなかった。

昼になると二人は残った食料を食べ、小川の水で顔や体を洗った。そして夕日が沈む頃、また岩場の頂上に登って街を見下ろした。ただ見下ろすことしか出来なかった。

「分かった!」とサナが何かを思い付き、「村長、この大きな村にも村長がいる筈。村長を探して話をすればいい。助けてくれるかも知れない」と言った。

「居場所が分からない」とテツ。

「そんなの誰かに聞けばいいでしょ」

「落ち着こう。ここの掟が分からないのだ。俺達はもう刃物で人を脅しているし、盗みを働いている。掟によっては死罪だってあり得る」

テツの言葉を聞くと、サナは怒ったように去って行く。

「サナ」テツは後を追った。

岩場を下りて森の中を歩いて行くサナを、テツは少し離れ乍ら後を追う。

「待てよ、サナ」

「もう、どうしたらいいか分からない」

「分かった、誰かに話し掛けてみよう」

「もういい、村に帰りたい」

「それが無理なのは分かっているだろう」

「帰りたい、父上や母上に会いたい」サナは泣いている。

「いい加減にしてくれ」

テツがそう言った時、サナは車道に出ていた。

「ついて来なければ良かった、テツが一緒に逃げようなんて言うから!」

そう言い放ってサナが道を横切った時、聞いたことのない衝突音と共にサナの姿が一瞬で消えた。サナは車に撥ねられ、ゴム人形のように飛ばされたのだ。十メートルほど飛んだ体は地面に叩き付けられた。

「…………」

テツは唖然としたまま動けない。

衝突した車は急ブレーキで止まった。黒塗りのワンボックスカーで、カスタム車らしく

青いホイールが光っている。二人の若者が頭を掻き乍ら車から降りて来ると、倒れたサナに近づいた。

サナの四肢は不自然な方向に曲がり、目を見開いたまま口から血を流して絶命している。

「うわ、グロ!」サナの死体を目の当たりにし、運転していた茶髪の男が言った。

「キモいから行こうぜ、早く」

もう一人の短髪黒髪の男がそう言うと、二人は車に乗り込み、何事もなかったかのように走り去って行った。

森から車道に出て来たテツはサナに歩み寄った。

「…………」

大勢の人を切り捨ててきたテツには、サナの命の灯が既に消えていることは一目で分かる。テツは膝を付いて項垂れたが、その目に涙はなかった。この子には悪いことをしたなと思うだけだった。テツが村抜けを考え始めたのは最近のことではない。頭の隅には常にあるものの一歩踏み出す勇気が持てずにいたのだが、今回の村での騒動が後押しとなって村抜けの決心がついた。それでも不安が残ったテツは、こちらの世界を目指すには連れがいた方が心強いと思い、幼い頃より自分を慕ってくれたサナを連れて行こうと決めた。それだけだったのだ。サナはテツを慕っていたが、テツがサナを愛おしいと思ったことは一度もない。遺体を目にしても残念だと思うだけで悲しみはなかった。

テツがサナを見つめている時、何かがこちらに近づいて来る気配を感じた。テツが振り返ると、


―――そこには呪郎がいた。


更に悪魔化が進んだのか、体がまた一回り大きくなって背丈はテツを超えている。黒い肌には鱗のような模様があり、薄気味悪さが増していた。顔は干からびていない悪魔首と言っていい。

「呪郎…」テツから声が漏れた。

呪郎はサナの遺体の周りを歩き乍ら、サナを覗き込んでいる。

「誰だっけ? …誰だったかな」

そう呟き乍ら腕を組み、何かを思い出そうとしている。

「サナ…そう、サナだ」呪郎は嬉しそうにテツに顔を向け、「こいつ、サナだったよな。どうやら死んでいるようだけど、お前が魂を昇天させてやったのか?」と面白そうにそう言った。すっかり悪魔化した呪郎は態度も横柄だ。

「お前…ついて来たのか」とテツ。

「ワシを置いてきぼりなんて水臭い。お目付け役だろ、テツ」と呪郎がテツの顔を覗き込んでいる。

「おや? 泣かないのか、テツ? なぜだ、お前の女じゃないのか?」

「…………」

「お前のそういうところが大好きだよ。正義の味方面して実はクズみたいな男、それがお前だ」呪郎が心底おかしそうに笑っている。

「お前のクズっぷりを証明してやろうか」と笑い終わった呪郎が言う。

「…何を言っている」

「お前はワシを牢から出してくれた、だから選択を与えてやろう。こちらの世界に馴染めなくて苦労しているようだな。この女を甦らせるか、こちらの世界の知識を手に入れるか。好きな方を選べ。どちらか叶えてやる」

「…………」

「サナにまた会いたいよなぁ。でもここで生きて行くには知識が必要だ。さあ、どちらにする?」

テツはサナをじっと見つめ、呪郎は楽しそうにテツを見ている。

「お前にそれが可能だと言うなら…」と話を切り出すテツ。

「言うなら?」

「知識が欲しい。こちらの世界がまるで分からない」

「なら、こいつはもう不要だな」呪郎がサナに掌を向け、腕を横にスライドさせると、手品のようにサナの姿が猫の死骸へと変わる。

「…………」テツは言葉も出ない。

放心するテツを見て大笑いする呪郎。

「いいぞ、テツ。そう来なくちゃ。見事なクズっぷりだ!」

呪郎は唸り声を上げて両拳に力を加えると、その体が更に一回り大きくなっていく。背中の皮を突き破って大きな翼が飛び出し、肌は一層黒みを帯びたように感じられた。

「…………」呆然と呪郎を見ているテツ。

「お前の闇はワシに力を与えてくれる」と満足げな呪郎はテツの額に人差し指を当て、「約束だ」と言った。呪郎の指先が光り、テツの頭に知識が植え付けられていく。

それが終わると呪郎は翼をばたつかせて宙に浮き、五メートルほど上空から「じゃあな、達者でなぁ」とテツに声を掛けた。

「待ってくれ、村は…村はどうなった」とテツ。

「村って何だ?」

「魔封村だよ、俺達の村だ」

「そう言われれば、そんな村があったような気がするな…。そうだ、お前何か言っていたな、好きにしろとか何とか」

「村をどうしたのだ?」

「さあ、どうしたか…思い出せねえ、さっぱりだ。喉が渇いた。槍ヶ岳の美味い水でも飲みに行くか」

そう言い残し、呪郎は空高く飛び去って行く。

「呪郎…呪郎!」テツの叫びも虚しく、呪郎の姿は夕暮れの空に消えて行った。


三分作の②へ続く。

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