第1章 再会の春
春の昼下がり。研究棟の廊下はひっそりと静まり返っていた。
遼は、いつものように研究室にこもり、パソコンの画面と向き合っている。銀河の形成を追うシミュレーションの数値が無機質に並び、指先が無言でキーボードを叩く。単調で、正確で、そして孤独な時間。それが彼の日常だった。
真面目で、不器用で、あまり人に心を開かない。そんな自分を、遼はどこか受け入れてしまっていた。
コンコン、と扉を叩く音がした。
珍しい。研究室を訪ねてくる人間など滅多にいない。遼は小さく息を吸って「どうぞ」と答える。
「こんにちは」
ドアが開いた瞬間、遼は息をのんだ。
そこに立っていたのは、柔らかく結んだ長い髪を揺らす女性。懐かしい顔。
「……美咲?」
名前が自然と口をついた。
「やっぱり、遼くんだ!」
美咲はぱっと笑みを浮かべる。その笑顔は十数年の時を超え、子どもの頃と同じ明るさを放っていた。けれど今は、大人びた輝きも宿している。
「久しぶりだね。大学で研究してるって聞いたから、ちょっと寄ってみたんだ」
「……ああ、本当に久しぶりだ」
緊張が走ったのか、遼の肘が机のコーヒーカップに触れた。
「あっ……!」
黒い液体が机に広がり、美咲は慌ててハンカチを取り出し、すぐに押さえた。
「ご、ごめん!」
遼は慌ててティッシュを取るが、美咲のハンカチはすでに濡れて茶色に染まっている。
「本当にすまない……。ハンカチまで汚してしまって」
「大丈夫。洗えば落ちるよ」
気にした様子もなく笑う彼女の声に、遼の肩の力が少し抜ける。
「遼くんって、昔から変わらないね。真面目で不器用」
その一言に、遼の胸はかすかに熱を帯びた。
気を取り直し、彼は研究のことを話し始めた。
「今は……銀河の形成過程を数値シミュレーションで再現している。星間ガスの分布を解析して、時間の経過に伴う……」
自分でも堅苦しいと思う説明。言葉は学会発表そのままで、美咲には難解だろう。
しかし彼女は首をかしげながらも、目を輝かせて言った。
「なんだかよくわからないけど、すごいね。宇宙のことを解き明かしてるんでしょ? 遼くんらしいな」
無邪気な反応に、遼の胸の奥が不思議と温かくなる。
ふと、美咲が窓の外を見た。
「ここからは、星が見えないんだね」
その言葉に、遼の心に幼い日の情景がよみがえる。
あの丘の上、二人で流星群を見上げた夜。
――また、一緒に星を見ようね。
幼い声が鮮やかに蘇る。
言葉が喉まで上がった。「覚えてるか?」と。
だが十数年の空白が、遼の口を閉ざした。彼女がどう思っているのか分からない恐れが、声を奪った。
沈黙に気づかないのか、美咲は明るく話を続ける。
「私ね、今プラネタリウムでバイトしてるんだ。子どもたちに星の話をするの。こないだ操作を間違えて昼空にしちゃったら、みんな笑ってくれてさ。大失敗だけど、ちょっと楽しかった」
屈託なく語る姿は、変わらない無邪気さと、新しい強さを感じさせる。
――覚えているのは、俺だけなのかもしれない。
遼の胸に、不安と切なさが芽生える。だがその笑顔を壊したくなくて、彼は何も言えなかった。
「また、一緒に星を見られたらいいね」
美咲の言葉に、遼は胸を強く揺さぶられる。
しかし答えは曖昧な頷きだけだった。
「じゃあ、今度プラネタリウムに来て。私が星を見せてあげる」
そう告げて美咲は立ち上がる。
扉が閉じ、研究室に再び静けさが戻る。
机にはコーヒーの染みと、まだ温もりを残した空気。
モニターの数値は虚ろに流れているが、遼の目にはもう入らない。
胸に残るのは、再会の余韻と、言えなかった「約束」の言葉だけだった。