第9話 迫る現実
夜、風が強かった。
雨の匂いを含んだ風が、窓を叩くたびに揺れる。
机の上のノートには、びっしりと数字の列。
そこにあるのは、兄・和也の“日々の記録”だった。
【残り 310日】
【残り 307日】
【残り 303日】
【残り 299日】
数字が減るスピードが、明らかに速くなっていた。
最初は一日ずつだった。
けれど今は、日に二つ、三つと消えていく。
「……嘘だろ……」
指先が震える。
息が詰まる。
ノートを握る手の力が強くなり、紙がくしゃりと音を立てた。
――止まらない。
昨日、和也は元気そうに笑っていた。
母とテレビを見ながら他愛のない話をしていた。
なのに、数字は冷たく、容赦なく減っていく。
「俺が見てるこの数字……なんなんだよ……」
誰も知らない真実。
そして、誰にも話せない恐怖。
そのとき、階下から母の声がした。
「直哉! ちょっと来て!」
慌ててリビングへ駆け下りると、母が携帯を耳に当てていた。
表情が固く、声がかすかに震えている。
「……はい、すぐ向かいます」
通話を切った母の手が、小さく震えていた。
「和也が……病院で倒れたって」
時間が止まった。
耳の奥で血の音が鳴る。
思考が追いつかないまま、身体だけが動いた。
車のエンジン音。
街の明かりが、雨の中で滲んでいく。
病院の廊下に着いたときには、胸の奥が焼けるように痛んでいた。
ベッドの上の兄は、顔色が悪い。
それでも、かすかに笑って見せた。
「直哉……来てくれたんだな」
「兄ちゃん……どうしたの?」
「ちょっと、貧血だってさ。大したことないよ」
そう言う兄の頭上に、淡い光が揺れている。
直哉は思わず息を飲んだ。
【残り 281日】
――一気に、二十日分も消えていた。
全身が凍りつく。
足元の感覚が消える。
目の前の兄の笑顔が、どこか遠くに見えた。
「……なあ兄ちゃん」
震える声で、ようやく言葉を絞り出す。
「何か……怖い夢とか、見てない?」
和也は少し考えてから、笑って首を振った。
「夢? いや、今朝は変な夢見なかったな。
でもな、昨日の夜、絵を描いてたんだ。
“みんなで海に行く絵”。
それが完成した時、不思議と胸が軽くなったんだ」
直哉はハッとした。
――絵を描いたとき、兄は“数字を減らす”何かをしているのか?
それとも“命を削って描いている”のか?
わからない。
けれど、確実に何かが動いている。
母が戻り、医師が入ってくる。
「しばらく入院になります。検査も続けましょう」
直哉はベッドの脇に座り、兄の手を握った。
その手は少し冷たかった。
けれど、そのぬくもりが、確かに“生きている証”だった。
――失わせたくない。
何があっても。
廊下に出た瞬間、直哉は強く拳を握った。
涙がにじむ視界の中で、決意だけがくっきりと見えた。
「俺が……兄ちゃんを守る」
その言葉が、夜の病院の静けさに吸い込まれていった。




