第5話 声にならない祈り
夜、家の中は不自然なほど静かだった。
時計の針が刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。
和也の部屋からは、かすかな寝息。
母は仕事の書類を片付けながら、時折その音に耳を傾けている。
その横顔を見つめながら、直哉は胸の奥で小さく呟いた。
――どうして、こんな力があるんだろう。
兄の頭上に浮かぶ数字は、今も淡く光っている。
【残り 311日】
ほんの一晩で、また減っていた。
昨日よりも一日分、確実に消えていく命。
その現実を、誰も知らない。
知っているのは、世界で自分ひとりだけ。
「神様が教えてるわけでもない。じゃあ、何のために……」
口に出しても、答えは返ってこない。
胸の奥に溜まっていくのは、静かな恐怖と、どうしようもない無力感だった。
机の上のノートを開く。
そこには直哉がこっそり書き溜めた“数字の記録”が並んでいた。
・母:残り 12,873日
・父:残り 9,005日
・和也:残り 311日
・自分:残り 19,412日
最初はただの興味だった。
けれど今では、書く手が震える。
数字が、未来を形作る呪いのように見えて仕方がなかった。
ノートを閉じた瞬間、胸の奥がずきんと痛んだ。
涙がこぼれそうになるのを、ぐっとこらえる。
そのとき、ふと気づいた。
――母の数字が、昨日より少しだけ増えている。
「え……?」
確かに昨日は、12,871だったはずだ。
間違いじゃない。
減る一方のはずの数字が、“2日分”だけ増えている。
まるで、何かが変わったように。
頭の中で思考が回る。
寿命は絶対的なものじゃない。
行動や心の変化で、数字が動く――そんな可能性が浮かんだ。
「……なら、俺にもできるのか」
誰にも見えない世界のルール。
それを解き明かせば、兄を救えるかもしれない。
窓の外では、冬の夜風が木々を揺らしていた。
見えない星のように、希望はまだ遠い。
それでも、直哉は小さく祈る。
“どうか、兄を生かしてほしい。
この命が減ってもいいから――”
声にならない祈りは、夜の静寂に溶けていった。




