プロローグ:穏やかな悲しみ
「ハルベルクの戦いを覚えているか?」
「はい、しっかりと。ひどい負け戦でございましたね」
陛下の問いに、私はかつての敗戦を思い出して笑う。
「陛下の愛馬が矢に倒れたので、私の馬に乗っていただきました。逃げるのに必死で私の馬も潰してしまい、そこから一晩中、味方の陣地まで山の中を歩きました」
「俺はあれ以来、山が嫌いになった」
陛下も笑っておられた。公式の場では『余』と自分を呼ぶ陛下も、この部屋の中では昔と変わらず『俺』と仰ってくださる。横たわった姿は弱々しいが、表情は穏やかだ。
「セルトラインは良い馬だった。メイヒも負けていないが、やはり一番はあれだ。共に駆けた時間が長いゆえの贔屓かもしれないが」
そう言うと、こふっ、と陛下は咳をする。私はもう慌てない。落ちついて水差しを寝台の横に置く。だが陛下は口にせず、言葉を続けられた。
「だからこそ、あれが死んだときは悲しかった。置き去りにされたセルトラインの姿は今でも焼き付いている。楽にしてやる時間もなかった。ただジッといななきもせず、暗闇に消えていく俺たちを見ていた」
「わかっていたのですよ。賢い馬ですから」
そうだな、と陛下は小さく頷く。
「かつての仲間たちには悪いが、どの別れよりも悲しかったかもしれん。なぜかな……」
どこか遠くを見つめるような目だった。私は何も言えなかった。きっと沢山の別れを思い出しているのだろう。
「でもな。昨晩、夢にセルトラインが出たのだよ。ああ、迎えに来てくれたのだな、と思った」
そして突然、どきり、とすることを仰る。私の動揺が分かったのだろう、陛下はニヤリと悪戯が成功した子供のように笑った。しかし、すぐに疲れたようにため息をつく。
「だが背に乗せてくれんのだ。怒っているのだと思った。置いていったことを」
「まだ早い、ということだったのでしょう」
そう言って励ますのだが、陛下は首をふる。
「そうではない。きっと告げに来たのだろう。迎えは自分だと。ボルセトでも、ハルフォンでも、コビでもなく、子供時代の名前を思い出せない馬たちでもなく。俺を運ぶのは私だと」
そう言うと、陛下は心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「そのせいかな。終わりを迎えることが少し楽しみになった」
嘘のない笑みだった。
覚悟をされているのだ。それが分かると目頭が熱くなるのが我慢できない。
いつもは退出するまで堪えているのに。
「セルダンの子、テオよ。余の一番の忠臣よ。お前に最後の命令だ」
『余』と陛下は仰った。『俺』ではなく。
私はハッ、と応えて頭を下げる。いかん、涙が陛下のベッドに落ちてしまう。刺繍がされた美しい布地に丸い染みができる。
「すまんな。友人としての頼みでは断られてしまったからな」
顔を見ることはできない。陛下は申し訳無さそうな顔をしているのだろうか。それとも微笑んでいるのだろうか。視界には細くなってしまった左手があるだけだ。
ああ、この方は本当にこの世界を去ろうとしている。それを実感してしまう。
「あらためて言おう。余が死んだあとの自害を禁ずる」
静かで穏やかな声だった。
なんと残酷な命令だろう。許されないと知りながら私は逆らおうとする。
「わ、私は、あなた以外の方にお仕えしたくないのです」
声がひどく震えてしまう。情けない。
「認めよう。妻と息子には伝えておく」
「向こうでも、あなっ、あなたに仕えたいのです!」
「ぜひ頼む。だが、すこし後から来てくれ」
「は、離れたくなっ、ないのです」
情けない。本当に情けない。
わがままを言う幼子のようだ。
「テオよ。俺の目となり、耳となってくれ。俺がしたことは正しかったのか。意味があったのか。俺が去ったあとの世界を生きて、それを向こうで聞かせてくれ」
ひどい。ずるい。卑怯だ。本当に子供のような文句が出てきてしまう。
どれだけ陛下が苦しみ、悩み、血だらけの道を歩んで来たかを知っているからこそ、それが私を止めるための建前ではなく、心からの言葉だと分かってしまう。王妃からでもなく、王子からでもなく。始まりを知り、共に道を歩んだ私から聞きたいのだ、と。
それだけの信頼をよせていただけることが喜びでありながらも、ひどく悲しい。
私の心の中はぐちゃぐちゃだ。
「大丈夫だ。セルトラインが来てくれた。天上の世界は真にあるのだろう。そして俺はそこに行けるのだ。きっとお前もだ。お前のときは俺が迎えに来てやろう」
細くなってしまった左手が視界から消える。私の肩に軽い重みが乗せられた。
何百回、何千回、この言葉を聞いただろう。
いつも陛下は私の右肩に手を置いて、言うのだ。
そして私は絶対に、絶対にその言葉を裏切ることはできないのだ。
この言葉を聞けるのも、きっと最後なのだろう。
私はもはや嗚咽を止めることができなかった。
陛下はただ一言。いつものように力強く仰った。
「頼んだぞ」